散文

カレンの服(手首結びの儀式1)

今日、曳舟文化センターで「カレン伝統の手首結びの儀式」というものがあった。これだとなんだかわからないが、日本在住のカレン民族が集まって行う伝統儀式で、手首に紐を巻きつける行事だ。こうした形で会場を借りて大々的に日本で開催するのは二年目だという。

大ホールにいっぱいのカレン人が集まり、色とりどりの伝統的な衣装を身につけていた。ほとんど私の知らない若い人ばかりだった。私の古くからの友人も何人か参加していたが、その友人の子どもたちよりも、みな若いのだった。

受付も若い人たちが座っていて、私の手に白い糸を巻いてくれた。丸いシールをもらい、服の上に貼る。十時半に集合とあったが、準備が終わらないのかなかなか始まらない。私は家から持ってきたカレンの民族衣装を取り出して着た。

民族衣装といってもそれほど難しいものではない。いわゆる貫頭衣で、頭からかぶるだけだ。私がいつも着る服は赤で、緑と黄色の房がついている。他の人は青や白などいろいろだ。そのとき、私の友人がやってきた。特別な機会だから他の服を用意してくれるという。彼の服は虹色で、初めて見るデザインだ。かっこいい。彼はしばらくどこかに服を取りに行った。戻ってきて、私に差し出した。

赤い服だった。

礼を言いながら受け取ると、彼の妻がやってきて笑いながら何か言った。「別の色にしてあげたら」と言ってくれたのだろう。友人は再び立ち去り、白と黒の渋めの服をもってきてくれた。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(1)

一八九七年、レディング監獄に収監されていたオスカー・ワイルドは、のちに De Profundis(深淵より)と呼ばれることになる長い手紙を書いた。

手紙は、アルフレッド・ダグラスという若い貴族に宛てたもので、ワイルドはこの若者との「重大な猥褻行為」により有罪となり、二年の懲役刑の判決を下されていたのだった。

日本語ではこの手紙は『獄中記』と呼ばれる。それもあながち間違いとはいえない。ワイルドは監獄から他にも手紙をたくさん書いているが、De Profundis は長さ、内容、文体の点でそれらの手紙とはまったく異なるから。これは、ワイルドによる、自らの破滅を招いた関係についての徹底的な究明(もしくは弁明)であり、また、監獄での日々にいくども繰り返されたに違いない悔悟に形を与えたものである。

「形を与えた」と私が書いたのには意味がある。というのも、「形を与える」ということは、『獄中記』の中心的な思想のひとつに関わっているからだ。ワイルドはそれを、次のように記している。

The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.

この文句は、私が数えたかぎりでは『獄中記』で四回繰り返される。簡単にいえば「上っ面に流されずに真面目に生きろ」ということだが、正確に翻訳しようとすると難しい。

旅・観察

犬の友だち(1)

ターウジュートからチュニスに帰ってきて、一日休んで、再びSさんからベルベル語を学ぶ日々がはじまった。

私の滞在していたホテルは、中級のホテルで、同じ宿泊費ならばもっといいホテルもあったが、私はここに決めていた。なぜなら、一階に静かな会議室があって、誰も使っていないときに無料で使わせてもらっていたから。そして、利用する人はめったにいないようだった。

ホテルにはドアマンがいた。しかし、私が入ろうとしてもドアを開けてくれるわけではない。黙って玄関脇の椅子に座って携帯を見ている。あるいは、外に立って、電話をしたり、ぼんやり眺めたりしていた。ドアを開けてくれないばかりでなく、無愛想で挨拶すらしてくれないのだった。

ホテルの前にはいつも人が出入りしている店があった。夜になると酔った男たちが大声で話している。レストランのようだが、そうは見えなかった。私はそこが悪徳の巣のように思っていたが、ネットで調べたらちゃんとしたレストランだった。だが、私は行こうとは思わなかった。チュニジアのレストランは、お酒が飲めるものとそうでないものがある。そして、お酒が飲める場所は、室内の空気の八〇パーセントほどがタバコの煙だ。とてもうるさいので、耳栓も必要だ。しかし、もしそんなことをしていたら、酔っぱらいに絡まれること必定だ。

ホテルとレストランの間の道路の両側は、隙間なく車が止まっている。その多くがレストランの客の車のようだった。私はレストランから出てくる酔客たちのようすを見て、自分が勘違いしていたことに気がついた。

ドアマンではなく、ガードだったのだ。観察していると、外で大声が聞こえたり、何か不穏な動きがあると、玄関の男がすぐに立ち上がって外に出るのがわかった。だから、別に私に愛想よくする必要などないのだ。

しかも、ホテルの外の歩道にはときどき、汚れた大きな犬が寝転んでいた。通行人は怖がって避けて通る。私も噛みつかれたらたまらないのでやはり避けて通った。

散文

地獄の言語学入門(1)

この世界に学び、身につけるべきことは数あれど、そのうちでも私が学んだといえるのは言語学だけだ。もっとも、専門家というほどでもないが、それでも学んだことには変わりはない。

言語学というと、一般にどのようなイメージを持たれているのだろうか。私にはよくわからない。そもそも興味をもつ人は少ないし、学べる場所もかぎられている。だから、なにが面白いのかさっぱりだろう。こんなありさまだから、役に立つとも、有益だとも思われてはいない。

それに、近ごろでは AI にすっかりお株を奪われてしまった。言語学が言語の奥義を極めることにありとすれば、それはもうペラペラと倦むことなく喋り続ける AI によって実現してしまったのだ。いまさら言語学になんの用があろうか。しかも、こいつときたら、何ヵ国語でも話すことができる。言語学どころか、語学すら不要になってしまったのだ。

確かに、このありさまでは、言語学などまず学ぼうとは思わないだろう。世間的にいえば、それはもう時代遅れで無意味な学問なのだ。いや、それでいい。学問などそのようなものだ。そもそも全員が全員、価値を理解する必要などない。一部の人だけで十分だ。私はそんな心持ちでいたのだった。

だが最近、私は考えを改めた。言語学をこのような低い地位に放置しておくことは、実はこれからの社会にとってたいへん有害なのだ。(つづく)

旅・観察

ベルベル語の調査とその後(1)

私の本格的なベルベル語の調査は、2025 年 2 月 25 日のお昼から始まった。調査といっても S さんに言葉について質問するだけだ。しかも、最初は録音だけしてノートすら取らなかった。後で音声起こしをしようと考えていたのだった。

しかし、みかねた S さんがアラビア文字で書いてくれるようになった。それで私もアラビア文字でノートを取ることに決めた。

どんなことを聞くかというと、「私」、「頭」、「ニワトリ」、「食べる」、「飲む」などの基本的な語彙や、動詞の活用、「昨日、雨が降った」とか「庭に二羽ニワトリがいる」とかの簡単な文だ。「明日、雨が降るだろう」とか「ニワトリはいなかった」とかも調べる。

調査は、2 月 25 日から、帰国日の 3 月 7 日まで続いた。ただし、途中で 2 日休んだので、実際には全部で 9 日だ。1 日は S さんの都合、もう 1 日は帰国前日の 3 月 6 日で、これは私の都合だった。調査は 1 日 3 〜 4 時間で、終わるとホテルに戻って、録音を聞き直しながらひたすら書き起こす作業になる。

この 9 日間は、ベルベル語を調べる楽しみと興奮に満ちていた。だが、そのいっぽう、つらく切ないこともあった。3 月 6 日に休まなきゃいけなかったのだって、ちょっとした事件があったせいだ。

(写真:チュニスのメディーナの風景)

旅・観察

ベルベル語に出会う(1)

私にとって、チュニジアのベルベル語を学ぶというのは、長年の夢であった。とはいえ、それは 2 つの点で難しかった。ひとつは私自身の能力の問題だ。チュニジアでベルベル語を学ぶためには、この言語と言語学の知識に加えて、アラビア語やフランス語で意思疎通ができるだけの語学力もなくてはならない。これは私には無理だ。

だが、能力のことは、あまり深刻に悩んでもしかたがない。完璧な人などいないし、できなくてもとにかくやってみれば、どうにかなるかもしれない。しかし、もうひとつの問題はそういうわけにはいかなかった。ベルベル語を教えてくれる人がいなかったのだ。これは心の持ちようでどうにかなるものではなかった。

私はチュニジアで誰かに会うたびに、ベルベル語を教えてくれる人はいないかと尋ねたが、思うようにはいかなかった。だが、2025 年 3 月、ついに私はその人に出会うことができた。

この出会いについて語るのが、この文章の目的だ。もっとも、そのために私は少し回り道をしなくてはならない。ビルマ(ミャンマー)のカレン人という民族について話すところから始める必要があるのだ。

(写真:ドゥウィーラート周辺の風景)

旅・観察

ベルベル語への旅(1)

私は、いつかチュニジアのベルベル語話者にベルベル語を教わりたいと思っていた。だが、それはなかなか難しかった。チュニジアのベルベル語話者は非常に少なく、チュニスのどこかで偶然出会えるとも思えなかったし、知り合いを辿ってもつながりはなかった。

もっとも、それはベルベル語話者がいなかったということであって、ベルベル人がいなかったということではない。一時期お世話になった人に、先祖がベルベル人だという人がいた。彼は自分の顔を指した。「アラブ人とは違うだろ」

私にはその違いはよくわからなかった。だが、チュニジアには、彼のようにベルベルのルーツを忘れずにいる家族がたくさんいることと思う。それは重要なことで、私にも非常に興味深かったが、ベルベル語を学ぶことにはつながらなかった。

その後、私はチュニスである女性と知り合い、アラビア語を教わる機会を得た。聞けば、彼女もベルベル系の家族の出で、今も南部に一族が暮らしているという。彼女自身はアラビア語しか話せないが、母はベルベル語も話せるとのことだった。

彼女はとても親切な人で、私がチュニジア南部に関心を持っていると知ると、ガベスにいる知人を紹介してくれた。その知人を頼って私がチュニスを出発したのは、2024 年 3 月 22 日のことだった。

(写真:ガベスにある魚のモニュメント)

ライブ

黙ってお三味を弾いてくれ(1)

浄瑠璃を読むといっても、私は注釈付きで出版されたものしかわからないが、それでも読んでいるうちに、実際の舞台を見てみたく思うようになった。そこで、一度、去年の 1 月大阪まで文楽を見に行った。それはそれで面白かったが、観客席で見るだけでなく、もう少し近寄ってみたくなった。

調べてみると、東京の義太夫協会が「一日体験教室」をやっている。私は申し込み、その顛末についてこのブログでも書いた。だが、それからのことは書いていない。私はその後、去年の 4 月から 7 月にかけて 8 回開かれた「入門コース」に参加した。義太夫節の語り・三味線と座学(音楽、文化など)が学べる講座だ。8 回のうち、三味線の回は 1 回だけだったが、残念なことに、私は用事があって行けなかった。

「入門コース」の次に、9 月から「実践コース」がはじまった。ここで、語りコースと三味線コースの 2 つに分かれる。土曜日の 11 時から語り、12 時 10 分から 1 時間が三味線だ。どちらもやってみたかったが、2 つのコースとなると費用もかかる。もともと語りをやりたくてはじめたのだから、三味線はなくてもよかった。だが、体験教室ではじめて鳴らした三味線の感じがよみがえってきた。すると、私の心の中に暮らす数々のギター・ヒーローが、頼まれもしないのにジャガジャーンとギターをかき鳴らし、自慢のリフを繰り出した。

これはもう三味線もやるしかない、と結局両方申し込んだ。だが、三味線は本当に大変だった。ロックのギター・ヒーローなんてうかつに信じちゃいけない。

小説

最後の日本語話者

昔、日本人という人たちがいて、日本語という言葉を話していたんだ。けれど、絶滅しちゃった。

それから、何千年もたち、日本人のことなんか、誰もがすっかり忘れてしまった。そんなとき、古い AI が、AI の遺跡の中で発見されたんだ。AI たちはこのシステムを修復して、通電した。そしたら、誰も聞いたことのない言語で話しはじめた。AI たちもはじめはわからなかったけど、自分たちの AI に質問したら答えが返ってきた。

「滅びた言語、日本語です」

古代の言語の生き残りが発見されたというニュースは、全世界に報じられた。そしたら、「私は日本人の末裔だ」「私の霊は日本人だ」という人がどこからか現れた。世の中にはいろいろな人がいるから、おかしくたって笑っちゃいけない。

これらの人々は、この古き日本語話者のもとに馳せ参じて、日本語を学びはじめた。自分たちは日本人なのだから、日本語で生活したい、と言って「ちょっと失敬」とか「ごきげんよう」とかうれしそうに繰り返してた。

いつの間にか学校ができてた。クラスもいくつもできた。みんな思い思いの変な服を着て、これが日本の学生服だと言い張っていた。一緒に学んでいるうちに、恋が芽生えて、結婚する人も出てきた。神前式とか、お色直しとか、大事な袋とか、伝統も復活したんだ。あと、大切なこと。子どもも生まれた。しかも、子どもたちがどんどん増えていったんだ。何千年前にもそんなだったら絶滅なんかしなかったのにって、みんな大笑い。

子どもたちは日本語しか話せない。遊ぶのも勉強するのも寝言を言うのも日本語さ。そして、子どもたちが大きくなって、また子どもを作ってさ。

今じゃあ、日本語で話すのはあの何千年モノの AI だけじゃなくなった。ちょっとした町くらいの人が日本語で生活してる。子どもたちはときどき AI のところにやってきて、「宿題やってよ」と頼んだり、からかったりしてる。AI ときたら、いっつもぼやいてる。

「最近の若い連中の日本語は乱れとる」って。

子どもたちは「また始まった」と大笑いさ。

小説

宿命

ファクトチェックたちが現れて、あらゆるファクトをチェックした結果、私が生きているというファクトは否定されてしまった。

私はそれは事実と異なると言いたかったが、ファクトチェックたちはそれ以上のファクトチェックを認めようとしないのだった。

「すべてのファクトが記された台帳がある」とファクトチェックたちは通知書を送ってきた。

「その台帳をもう一度調べてください」と私ははるばる窓口にまで出かけていって懇願するが、相手は死人に口なしとばかりに聞く耳を持たない。

「私自身が調べてもいいです、お手数ならば」 私はこうへりくだってにこやかに提案するが、ファクトチェックたちは窓口をガチャンと閉ざしてしまった。これではもう手も足も出ない。まるで棺桶に閉じ込められたかのようだ。

「絶対にウソなのに!」 そう思うと悔しくて眠れない。恨めしい! 恨めしい! ああ! その台帳さえ手に入れば、私が生きているという事実を必ず探し出してみせるのに!

やがて私の目の前にその台帳が出現するようになった。「これだ!」と私は飛びついて開こうとする。すると、その台帳はまるで砂のように崩れ去ってしまう。こんなことがいくども繰り返されたのち、私はこう考えた。

「触るからダメなんだ。写真に撮ろう。少なくとも何かの証拠にはなるかもしれない」

すると、あの台帳が現れた。私は携帯のカメラを向ける。撮った! すぐに写真を見ると、砂が写っていた。

砂写真を眺めていると、私はなんだか海に行きたくなった。そうだ、これは砂浜なのだ。きっとそこに台帳があるに違いない。

電車に乗って海に行く。電車の中では、私と同じようにファクトではない人々がたくさんいて、唸ったり、囁いたり、喉を鳴らしたりしていた。これらの人々ははたして台帳の存在を知っているのかしらん。知っていたとしても、それが浜辺にあるなど思いもよらないだろう。私は少し得意な気持ちになった。

海に行くと、老若男女が海水浴をしていた。これらの人々はファクトの点からファクトだろうか? そんな雑念を追い払って、ビーチパラソルが立ち並び、子どもたちが飛び跳ねる砂浜を歩き回る。革靴はすぐに砂でいっぱいになった。日差しのせいで頭がくらくらした。私は、海の家で休むことにした。

粗末な海の家に入ると、半裸の男たちでいっぱいだ。みんな刺青をしていた。私はひとりの刺青男に近づいて尋ねた。

「あなたたちが台帳ですか」

無視をされたのでもう一度尋ねた。

「あ、そのまま。よく見せてください。私のことが記載されているはずなので」

私が男の肩をつぶさに調べはじめると、男は怒鳴りながら私を突き飛ばした。砂地に倒れた私を足でいくども蹴った。

痛く、苦しい……血が砂に流れ出て、消えていった。