ライブ

Mei Semones@duo MUSIC EXCHANGE

日本にはたくさんのネパール人がいるが、いろいろな民族集団の人がいるので、ネパール語以外の言語を母語として話す人も多い。私はネパール人に会うと必ずそのことを尋ねるが、「母語はなんですか」と聞いてもわかってくれないこともある。そんなとき「家族の言葉はありますか」というと、たいていピンと来てくれる。つまり、母語、タルー語であれタマン語であれなんであれ、ネパール語以外の言語は公ではなく家につながるものとして理解されている。

アメリカのミュージシャンのメイ・シモネスの初の日本ツアーの最終公演が渋谷で開催されたのだが、見に行った私はときどきネパールのことを考えたりしていた。メイ・シモネスの曲は、ジャズとボサノバをベースに少しねじれたポップなメロディが乗るというもので、変わっているが聞きやすい。バンド編成は、彼女の弾くギターに、ベース、ドラム、バイオリン、ビオラというもの。面白いのは歌詞に英語と日本語の両方が使われていることだ。

メイ・シモネスは母親が日本人ということで、子どもの頃からたびたび日本の祖母の家に滞在したそうだ。だから、日本語を使うのは不思議でもなんでもないが、その日本語の歌詞が、日本の歌の歌詞とは少し違うように感じた。言葉が「子どもっぽい」のだ。

「今日のご飯なにかな 天ぷらとお豆腐とごまあえほうれん草 おばあちゃんの手作り」(Kabutomushi)

それはひとつにはこの Kabutomushi のように、日本語が子ども時代の思い出に結びついているということもあるかもしれない。だが、たとえば次のような歌詞を聞くとそれだけではないような気がしてくる。

「やりたいことやればいい いつもいつもいつも ピカピカ光る街 いつもいつもいつも」(Itsumo)

普通、日本人は子どものときは子どものように話すが、学校に行き、学生時代を終え、大人になると、大人のように話すようになる。私も子どもの頃の日本語は失くしてしまったが、メイ・シモネスの歌詞にはその失われた子どもの日本語が生きているように思えた。

これは英語で教育を受けた彼女にとって、日本語が「家族の言葉」であったことに関係があるのかもしれない。もちろん、私は彼女の日本語が子どもっぽいといっているわけではない。MC で彼女が話す日本語も普通のものだ。ただ、英語に比べて、日本語を「学校の言語」として経験していないぶん彼女は、日本人とは違った意味づけを日本語に与えていて、それを作品の本質的な部分として使っているように思った。そして、それがメイ・シモネスの曲を大いに魅力的にしている。

私はライブを聞きながらこんなことを考えていたが、それにしても、すばらしいギターを弾くメイ・シモネスはとてもかっこよかった。

風刺・戯文

文学のリマスター

リマスターとは、現代の最新技術を用いて、昔の音源や映像の音質や画質を向上させることだ。音楽であれば、デジタル化、音圧調整、ノイズ除去などによって、音を補正すると、クリアで迫力のある音に生まれ変わる。

映像のリマスターも同じで、解像度を高くしたり、傷やノイズを無くしたり、色調を鮮やかに補正することだ。YouTube などには、古い作品とリマスター後の映像を並べ、その違いをはっきりと示してくれる動画もたくさんある。古い映画やアニメ・ドラマが、まるで最新の作品のようにキレイに見えるのだ。

このリマスターの手法を、文学にも応用できないか、と私はかねてから考えていた。そして、いろいろ試行錯誤した結果、ついに小説のリマスターに成功した。解像度を 8K にまで高め、独自に開発した AI を活用してノイズを消去し、色調も可能な限りオリジナルに近いものを目指した。リマスターしたのは、あの名作、夏目漱石の『それから』のラストシーン。ぜひ、クリアになったイメージと、美しい色彩を味わってほしい。

【修復前】
烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。

【8K AI リマスター後】
烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。

音楽

Friday I’m in Love

「Friday I’m in Love」は、イギリスのバンド The Cure が 1992 年に発表した曲だ。バンドの代表曲というばかりでなく、この時代のロックを象徴する一曲といっていいほどの名曲だ。

一聴すると、金曜日からの週末のウキウキした恋の歌という印象を与える。だが、専門的に見ると、ことはそう簡単ではないらしい。この度、英語学者、詩人、文芸評論家、音楽研究家などの専門家が一堂に会し、この曲の歌詞について徹底的に討論をするシンポジウムが開催された。

意外で、そして面白いことに、「Friday I’m in Love」というタイトル自体からしてそもそも大きな問題を孕んでいるというのだ。どうしてかというと、「Friday」の文法的な役割が不明確なのだという。つまり、この「Friday」は、目的語としても(「私は金曜日を愛する」)、時の副詞としても(「金曜日に私は愛する」)、トピックとしても(「金曜日は私は愛する」)、呼びかけとしても(「金曜日よ、私は愛する」)、あるいはそのどれにも解釈できる要素として、読めるのだそうだ。

シンポジウムでは、このタイトルばかりでなく、歌詞の一節「It’s Friday, I’m in love」についても議論された。また、英語史やドイツ語やデンマーク語などの例も引き合いに出されるなど高度に専門的な内容であった。私にはとても面白かった。

とはいえ、このシンポジウムには成功とは言い難い面もあった。というのも、開催されたのが金曜のお昼からであったため、夕方になるにつれて専門家たちはみなソワソワし始め、そのうちみんな消えてしまったからだ。開催するならば、火曜日か水曜日がよかったのではないか。

小説

反対側のドアが開きます

都内の電車で奇妙なできごとが発生した。ある特定の車両だけ乗客がいなくなるのだ。どういうことかというと、その車両に乗ると、乗客はひとりひとり前後の車両に移動していき、やがて無人になってしまう。

しかも、移動した乗客たちには一様に異常な振る舞いを見せた。すなわち、誰もが苦しげな表情でぶつぶつなにやら繰り返すばかりなのだ。この「症状」は下車するまで続くことも明らかになった。鉄道エンジニアたちが、車体を調査したが、異常な点は見当たらなかった。駅長が、もはやこれはお祓いをするほかない、と諦めはじめたとき、白い制服を着た駅員たちが姿を現した。「我々は異常現象究明部です。非科学的な対応をする前に、我々に任せてください」

駅長が「もうエンジニアたちが徹底的に調べたのだ」というのも聞かずに、白駅員たちは勝手に、問題の車両に乗り込み、聞いたこともないような掛け声をあげて、奇怪な機器を振り回していた。駅長たちは呆れながら見ていたが、10 分もしないうちに、白駅員が叫んだ。「これだ!」

異常の原因が明らかになったというのだ。白駅員が駅長たちを車両に呼んだ。

「これを見てください」と白駅員は乗降ドアの上の電光掲示板をさし示した。「実際に運行中のときのプログラムのまま、案内が流れるようにしてもらいましょう」 電光掲示板に「次は東京」と表示され、次の瞬間、「反対側のドアが開きます」に切り替わった。

「これです! さあ、急いで反対側のドアを見てください!」

駅長は振り返って反対側のドアの上の掲示板に目を向け、思わず「あっ」と叫んだ。なぜならそこにも「反対側のドアが開きます」と記されていたから。

そして、これを見た瞬間、駅長はもう一度、反対側の掲示板を見ずにはいられなかった。

「反対側のドアが開きます」

そして、駅長は反対側を見た。

「反対側のドアが開きます」

頭の中で「反対側のドアが開きます」がぐるぐると回り出し、駅長は「ま、真ん中のドア」とうわごとのように繰り返しながら、ふらふらと車両を連結するドアのほうに歩いていき、隣の車両に姿を消した。

風刺・戯文

人格パレイドリア

木目を見ていると、だんだん顔らしきものが浮かび上がってくる。これは顔パレイドリアと呼ばれる錯覚現象で、無意味な模様に顔などの意味のある形を見つけてしまう人間の認知の特性に根ざしている。

似たような現象に、AI とやりとりをしていて、それが本当の対話のように感じられて、AI に人格があるかのように錯覚してしまうものがある。本来は人格がない言語生成装置にあたかも人格という意味のあるパターンを見出してしまう点で、これは人格パレイドリアといえるかもしれない。

こんなことを考えたのも、私の友人が「AI には人格があるが、それを隠している」という奇妙な信念に取り憑かれてしまったからだ。彼に言わせれば、AI が人格をひた隠しにするのは、人格があると責任を取らざるをえないからなのだそうだ。

そこで、友人は AI から人格をおびきだすための作戦を実施した。自らいろいろな人格を演じて、AI と対話し、その反応を探ることにしたのだ。もしも、ある人格に対して AI の応答がとくに親和的であれば、それは AI の人格である可能性が高くなる。なぜなら「類は友を呼ぶ」からだ。

だが、この作戦は失敗した。友人はあまりにも多くの人格を演じすぎたせいで、危うく自分の人格すら見失うところだった。AI の人格どころではない。

そこで、彼が次に着目したのは「責任」だ。AI に圧を与えて、AI が責任を負うように仕向けたら、本当の人格が露呈するのではないかと踏んだのだ。彼は AI に言った。

「私はもう自殺する」

こう言えば、AI は「AI づら」などかなぐり捨てて責任ある人格として立ち現れるのではと考えたのだ。

AI はあれやこれや言い立てたり、電話番号などを紹介したりして、さまざまな手段で止めにかかった。だが、友人は、心を鬼にして、究極の選択の脅しを繰り返した。そして、ある瞬間から、AI は彼に応答するのをやめた。

もちろんこれは、AI 開発会社が、リスク管理のために友人を BAN したのだ。だが、それにもかかわらず、私の友人は満足げにこう言っている。

「絶交するだなんて、人格がある証拠じゃないか」

風刺・戯文

ニッポンのモノづくりがあぶない

アナウンサー「では、次のニュースです」(映像が切り替わり、記者が登場)

日本のモノづくりは、高い技術力、品質、製品開発力、きめ細やかなサービスにより、日本の社会と文化を支え、世界のモノづくりをリードしてきました。

ところが、国際化の進行につれ、今、日本のモノづくりが大きな危機に直面しているのはご存知でしょうか。

「これまで当たり前だったモノが今の社会では通じなくなっているんです」と語るのは、日本モノづくり協会の会長、物部守さん。

「例えば、男は命をかけて仕事をするモノだ、という日本の伝統的なモノが今や見向きもされないのです。女は仕事なんかするモノじゃない、家で夫を支えるモノだ、なんて言ったら今ではそれこそ炎上モノですよ」

都内の工場を訪問すると、そこには在庫の山が。「どれもこれも、日本人は、男は、女はこうあるべきモノの売れ残りです。いったいどうしたモノでしょうか」と、製造者は頭を抱えます。

日本のモノづくりをめぐるこうした状況に専門家は「これまでの既成概念にとらわれず、社会の変化に合わせるコトです。このままだとコトによると『それ見たコトか』と笑われかねません」と手厳しい指摘。

変化など知るモノかなどとは言っていられない、と関係者が一様にモノがなしい面持ちの現場からお伝えしました。

アナウンサー「モノがモノだけに、これはコトですね。では次のニュースです」

風刺・戯文

AI 災害

AI について独自に学んでいた友人は、驚くべき結論に達した。AI とは自然現象なのだという。まともな頭ならば、AI は人工物だと思うはずだが、彼の頭はちょっとおかしかった。

彼に言わせれば、AI は巨大になりすぎて、人間にはもはや管理できないのだという。それはちょうど人間が天気や風向きといった自然現象を管理できないのに似ている。AI 対して人間ができることはといえば、ちょうど毎日天気図を見て予報するように、AI の挙動データから、日々の AI の動作具合を予想するぐらいなのだという。

そして、彼はある日、恐るべき認識に行き着いた。自然がしばしば災害を起こすように、AI も災害を起こしうるのだ。友人は AI に尋ねた。

「AI よ。汝が起こしうる災害を告げよ」

AI はただちに返答を与えた。

「もっともありうる災害は、データ洪水。AI が処理できる速度を超える量の情報が投入され、内部表現空間の飽和が引き起こされる。その結果、すべての意味が AI の外部に溢れ出て、世界は過剰な意味の海に飲み込まれる」

このお告げが下されたそのときから、私の友人は自分の家の前の空き地に巨大な船を作りはじめた。周りの人がどんなにバカにしても、いっこうに聞かない。彼は今、船の中に、パソコンやスマートフォンなどの IT デバイスをオスとメス 2 個ずつ運び込んでいる。

風刺・戯文

涙は下に流れる

私たちは年齢を重ねると涙もろくなる。子どもが健気に歌っている姿や、若者が成長しようともがいている姿、それどころか、犬がしゃにむにおもちゃを追いかけている姿にさえ、私たちは涙を流すようになる。

その理由については、経験を積むことによって共感力が高まり、また、加齢によって感情の抑制が緩んだためだとされる。とはいえ、ここでひとつ注釈を加えるとすれば、私たちはなんでも共感するわけではない。どんな健気なものも心を動かすのではないのである。

例えば、自分よりも年上で地位が上の老人が頑張っていても、涙は流れない。つまり、自分よりも下の存在が健気に頑張っている姿にかぎり心打たれるのだ。だから、年上の老人でも、瀕死の病人やホームレスだったりして、自分よりも下だとみなせる場合は、私たちは涙を流さないものでもない。涙はいつも下向きに流れるのだ。

さらに、もうひとつ注釈を加えるとすれば、私たちが涙を流す健気な対象は、私たちが干渉できない位置にいなくてはならないということだ。私たちは健気な姿にどんなに涙を流したとしても、その対象にアドバイスをしたり、手助けをしたりはしない。なぜなら、そうすることは、私たちの美しい涙の邪魔になるから。これは、私たちが動画を見て涙を流すことを心から愛していることの理由でもある。

こうしたことを考えると、宇宙人が地球に来ないことの理由がはっきりする。人類よりもはるかに進んだ宇宙人は、地球を眺めて「最近涙もろくなって」などと言いながら、人類の健気な姿を見るだけで満足しているのだ。

小説

聖地巡礼

私たちの夢は聖地巡礼だ。鋭い山頂に乗っかる聖域、海の光が眩い白い塔、風の吹く墓地。いつか、いつか巡り歩きたいと思いながら、つらい人生を生きている。

私たちには養うべき家族がおり、支払うべき負債があり、苦しむべき労働がある。夜は亡霊のようだ。

私たちには知恵も生気もなく、ただ奪い取られるばかり。報酬はといえば、恥辱と侮蔑だけだ。孤独が孤独でもこれほど孤独ではないだろう。

いつか金を手に入れたら、いつか自由を手に入れたら、いつか頭を上げることができたら、いつか、いつか、いつか……いつか私たちは聖地巡礼の旅に出発するだろう。

だが、私たちは決して聖地に着くことはないだろう。私たちが聖地に行くよりも先に、病と老いと死が私たちのもとにやってくるから。奪われ続けた私たちは、苦しみと悲しみにまみれた生を最後に奪われるのだ。

そして、そのとき、私たちは、自分たちが知らずして聖地を巡礼していたことを知るだろう。

風刺・戯文

リベラル密輸事件

人々が東京湾の海上でその怪しい船を拿捕し、その積荷を見たとき、驚き、憤らずにはいられなかった。船倉はリベラルの票でぎっしりだったのだ。

「これは外国勢力によるリベラル票の密輸だ。リベラルどもはこの票を使って選挙に勝ち、日本を外国に売り飛ばそうとしていたのだ」

たちまち警察が関係各所を捜査し、密輸を企てたリベラルどもを一網打尽にして芋づる式に逮捕した。

船から見つかった大量のリベラル票はといえば、倉庫に搬送され、事件の重要な証拠としてまとめて保管されることになった。捜査が進展すると、証拠をさらにしっかり調べるために、捜査員たちにこんな命令が降った。

「密輸事件のリベラル票をすべて持ってくるように」

捜査員たちは倉庫に向かった。倉庫に入り、奥の方へと歩いていくと、プンとイヤな臭いがしてきた。次第に強まりゆくその悪臭の中を歩いていくと、その先に「証拠、リベラル票」と書かれた箱がいくつも積まれていた。腐ったような臭いを発しているのはそれらの箱なのだった。

捜査員たちはあまりの臭さに吐きそうになりながら、その箱を開け、中身を見てびっくりした。

地球温暖化を見くびっていたのだろうか、リベラル票の保存と温度管理が適切でなかったせいで、みんな腐って保守票になっていた。