旅・観察

手で食べる話

昨日に引き続き、Sさんの体験談だ。私が「指」をベルベル語でなんというか尋ねたら、手で食べる習慣についての話になった。

Sさんがモーリタニアに行ったときのことだ。Sさんはある家に招かれて食事をすることになったのだが、その食べ方を見て驚いた。米を手で掬って、ボール状にして食べる、これだけなら普通だが、面白いのはそれからだ。現地の人は、そのボールをそのまま口に運ぶのではなく、手で米をポイと口の中に投げ入れるのだそうだ。

チュニジアの人も手を使って器用に食べるが、Sさんはさすがにこれは真似できず、スプーンが欲しいと伝えると、その人たちは近所中探してスプーンを持ってきてくれたのだという。

この話からの連想で、あるアルジェリア人の逸話についても話してくれた。

あるアルジェリア人がフランスに行ってレストランで食事をした。するとそのレストランにいたフランス人が汚い食べ方だと文句を言った。

これにそのアルジェリア人、平然と言い返した。

「私が手で食べているのは、自分の手がきれいだからだ。あなたたちがフォークやスプーンで食べるのは、あなたたちの手が汚いからではないか」

もしかしたらこのアルジェリア人は、別の意味でもフランス人の手は汚いと言ったのかもしれない。それはさておき、最初の話も、その次の話も、昔のアラブの逸話集にでも出てきそうなエピソードではないか。

旅・観察

断食の違い

私は今、チュニジアでベルベル語について教えてもらっている。まだ初心者なので、名詞や動詞の活用についてひとつひとつ記録している段階だ。

教えてくれるのはSさんという男性だ。人生経験の豊富な人で、ベルベル語のことばかりでなく、チュニジアの文化や外国での体験などについても話してくれる。ただしこれは、チュニジアのアラビア語方言でだ。しかし、私は方言についても勉強しているので、これも貴重な資料になる。マグロと一緒で捨てるところがない。

ベルベル語で「なにも〜しない」をどう言うのか尋ねていて「断食中はなにも食べない」という例文をSさんが出してくれた。断食というのは、ラマダーンのことで、この期間は、人々は日中は食事をしない。そこからSさんが、断食に関する思い出を話してくれた。

昔、Sさんがあるレバノン人と食事をしたときのことだ。レバノンはアラビア語圏だが、ムスリムだけでなく、キリスト教徒も多く、その人もそのひとりだった。Sさんがその人に肉を渡そうとすると彼は言った。

「私は断食中だから食べません」

これにSさんは「食べてるのに?」と思ったそうだ。だが、そのわけを聞いて彼は「我々は断食というとなにも食べないことだが、レバノンのキリスト教徒にとっては断食とは肉を食べないことで、それ以外は食べてもいいのだ」とびっくりしたということだ。

これがレバノンのキリスト教徒すべてに当てはまるかどうかはさておき、この話のミソは、Sさんも、このレバノン人も、断食に同じアラビア語の単語を使っていたことだ。同じ単語でも、宗教の違いによって意味が変わってくるということが、当時のSさんにとって新鮮な発見だったのだ。

断食というとダイエットしか思い浮かばない私にとっても、Sさんの驚き込みで新鮮な発見となった。

旅・観察

機内食

飛行機に乗ると、目の前に据えられたモニターでパズルゲームを始める人もいるかもしれない。だが、そんなことをしなくても、パズルの時間はやってくる。

機内食の時間だ。

それはまるで、木の四角いコマを動かすパズルのようだ。私は小さなトレーの中にぎっしり並べられている正方形や長方形の皿、パンやクラッカー、コップ、カトラリーやナプキンを巧みにスライドさせる。そうしながら、前菜からデザートへと進んでいかねばならない。

このパズルは、エコノミークラスの必修課題だ。そもそもエコノミーとは語源を辿れば、古代ギリシア語の oikonomia、つまり「家の管理」だということだ。古代ギリシア人の家はとても小さかったのだろう。だからタンスやベッド、テレビ台の置き場を決めるにあたり、まるでパズルを解くかのように苦労しなくてはならなかったのだ。

「しかし、それにしても」と私はこの小さなトレーを舞台に知的格闘を繰り広げながら、疑問に思う。「何ひとつ落とすことなく、食事を済ませることのできる人などいるのだろうか」と。

というのも、皿のプラスチックの蓋はまるでUFOのように飛び出していくし、丸めたナプキンは必ず他のゴミを外に弾き出そうと膨張しだすからだ。コップだって、中身をぶちまけてやろうとかねてから虎視眈々だ。

これらのことに気を取られているあいだに、私はフォークを落としてしまった。それは足元の鞄の上に乗っている。まだ大丈夫だ、と手を伸ばすと、それは鞄から滑り落ち、地の底に飲み込まれていった……。

なんとか苦労して食べ終えたが、それからたっぷり一時間、いかなる乗務員も訪れることなく、トレーは私たちのテーブルの前に置かれていた。食後の時間をゆっくり楽しむのも、やはり必修課題とみえる。

旅・観察

出発

今日は台風だというので、私は朝から羽田空港の運行情報をいくども見ていた。国内便も国際便も欠航と遅延ばかりだ。

だが、私が乗る便はそのリストにはなかった。家を出るギリギリになっても欠航にならない。ならば行くしかない。スーツケースを運び出すとものすごく重い。大雨と荷物と先行きの見えない状況に私の足取りは重かった。

電車の遅延もありうるので早めに家を出た。だが、普通に空港に着いた。

フライトの掲示板を見ると、欠航・遅延の表示に囲まれて、私の乗る便が平然と点灯していた。仕方なくチェックインの列に並ぶ。私の番が来てカウンターにパスポートを渡し、スーツケースをレーンの上に乗せた。

二九キロ。やはりだ。

カウンターの人が二十三キロまでだと告げる。超過料金を払うか、さもなければ、スーツケースから荷物を取り出さねばならない。場合によっては捨てなくては、と覚悟を決める。すると、列を案内しているスタッフがやってきて、話しかけてきた。この便では一人二つまで荷物を預けられて、それぞれ二十三キロまで大丈夫だ、と。

驚くべき言葉だ。だが冷静に確認する。「二つ合わせて二十三キロですか?」

「いえ、一つが二十三キロ以内で、二つまで大丈夫です。荷物の整理はあちらでどうぞ。終わったらお声がけください」

私はたちまち荷物を二つに分け、カウンターに戻った。量ると二十三キロと十キロだ。案内役のスタッフが「でかした」とばかりにうなずいて、立ち去った。

搭乗券の発券を待っているあいだ、隣のカウンターのスタッフたちの話し声が聞こえた。

「手裏剣をお持ちの客様が……」「ちょっと問い合わせてみましょう……」

私は笑いを堪えながら、出国ゲートに向かった。

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安物ガイ(チュニジアへの旅行)

チュニジア行きの航空券には大きく分けて、中東系とヨーロッパ系があり、中東系のほうが二十万円強なのに比べて、ヨーロッパ系だと三十万から五十万円になる。

私は先日チケットを買いに行って、自らの経済状況などを真剣に検討した結果、初めから目をつけていた中東系の安いチケットを買うことにした。エミレーツ航空の二十万円だ。旅行代理店の話だと、中東の情勢次第では便の変更や欠航の可能性もあるという。だが、出発はまだ先のことだ。よくなることだって大いにありうる。安物ガイの消費マインドを支えるのはこの楽観性だ。

今回の旅は、旅費などが研究費から出る。私は旅費の申請のための書類を作成し、これを、研究費を管理してくれているオフィスに送った。書類が整っていないと、研究費を使うことはできない。

次の日、メールの返信が来た。リアリズムのメールであった。

・チュニジア行きの往復でドバイを経由している。
・現在、外務省の海外安全情報では、ドバイはレベル3(渡航中止勧告)となっている。
・経由地であっても、レベル3以上の地域への滞在は許可できない。
・経由地の変更か旅行の延期が必要。

よく見ると「外務省の海外安全情報(危険情報)」としてあった。海外安全情報だから安全だ、と私が言い出すかも、と念を入れたのだ。

もう! 私はすべてキャンセルして、新たなルートで旅程を組み直した。キャンセル料は総額いくらになるかわからない。戦争があると、銭失いも桁がちがう。

(写真:ありし日のドバイ国際空港)

旅・観察

フティーラ(チュニジアの揚げパン)

チュニジアのパンのことについて書いてきたからには、フティーラのことも取り上げなければなるまい。

フティーラとは、丸くて平たい揚げパンだ。丸めた生地を薄くして、油の入った大鍋で揚げて作る。ピザのようにフチは厚いが、内側はパリパリに揚がっている。

お店の人は、目の前で生地を広げて鍋に放り入れる。そのときにちょっと回転させるのがコツのようだ。それから油に浮いた生地を、カギのついた棒でクルクル回したり、ひっくり返したりする。すぐに揚がり、油を切ってできあがりだ。私はハチミツをたっぷりかけるフティーラが好きで、これしか食べない。卵入りもあって、フティーラの中央のくぼみに卵を割り入れて一緒に揚げる。たぶんおいしいのではないかと思う。

フティーラも、前に書いたラブラービーと同じく朝の食べ物だ。朝、お店に行くと、出勤前の人や、揚げたてを紙に包んで持ち帰る人たちでにぎわっている。

チュニジアの民話にもフティーラの店が出てくる。以下は、召使いが、異国で落ちぶれたご主人を探す場面だ。

「その国に着くと、召使いは旅の宿に、馬を預け、あらゆる市場、あらゆる通り、あらゆる小路を一日中歩いて回った。一日、二日経ち、三日目、フティーラ屋に入ってフティーラを食べようとしたとき、自分のご主人がかまどで薪をくべているのを見かけた。まさにご本人、ボロ切れをまとって、汗まみれで、炎に顔を舐められながら働いているのだった」

もちろん、ガスの普及した現代では、このような危険な労働環境はありえない。安心してフティーラを召し上がっていただきたい。

(写真:揚げたてのフティーラ、チュニス)

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主人への信頼(2)(チュニジアの民話)

犬が喋り出した、というか、神がそうさせたのだ。

犬曰く「私は卑しくなどない。私はあの老人の家で育てられ、家と羊の番をしてやり、彼がくれる粗末な食べ物で十分やってきた。ときには主人がうっかりして晩飯抜きで夜を過ごすこともあれば、主人自身もすっからかんの時もある。そうすると、彼と私は一日、二日、三日、いやそれ以上も食べずにいるのだ。それでも私は一度たりとも家を離れたこともなければ、他の家にも行ったこともない。彼以外の主人を知らないのだ」

こういうと、矛先は男に向けられる。

「お前は、祈りと断食に生きて、いったい何年になるというのだ。なのに、たった一晩、パンが途絶えただけで、もう我慢しきれなくなって、パンを与える神を離れて、人間の門前へと足を向けたのだ。お前こそ主人を信頼していないのだ」

そして、犬は実に無情な言葉を放つ。

「お前が礼拝と崇拝のうちに過ごし、空腹に耐え忍んだこの年月は、今日すべて無駄となった」

犬の言葉は激しさを増していく。

「今さら山に戻ったところでなんになるのか。さあ、町へと降り、人と交わるのだ。人々と金の取引をせよ、常人のごとく、働いて、商って、売って、買って、盗んで、奪い取り、騙して、嘘の誓いをたてよ。そして、死が訪れるその日に神がお前に下す苦しみに備えるがいい」

パンのことを考えると、私はいつも、呪いにも似た犬のこの恐ろしい言葉を思い出す。犬が喋りださないよう、やさしくしたい。

(写真:モスクの階段に寝そべる犬、チュニス)

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主人への信頼(1)(チュニジアの民話)

チュニジアのパンについて考えるといつも思い出すのが「主人への信頼」という物語だ。この物語では、パンが大事な役割を果たしている。

イスラームのある行者がいた。彼は山で一年中断食をしていた。日没時になると、天からパンが一切れ落ちてくる。行者は、そのパンを半分食べ、残りの半分を夜明け前に食べる。それからまた、一日の断食に入る。男はこんな生活を何年も続けていたのだった。

ある夜のこと、男のところにパンがやってこなかった。

男は一晩中パンを待ったが、パンは来ない。翌日も断食を続け、日没が近づくころには、とうとう空腹に耐えかねて山を降りた。麓にある貧しい村に行き、村人に食べ物を乞うと、粗末な大麦のパンが二つ与えられた。

男がパンを持って、山に帰ろうとすると、村人の犬があとをつけてきた。パンを狙って、吠えかかったり、服を引っ張ったりするので、男はパンを一個、犬に投げ与えた。犬はガツガツ食べてしまう。だが、それでも犬は満足せず、襲いかかってくる。男はとうとう二個目のパンも与えてしまった。

これで二つともパンはなくなってしまった。ところが、犬はなおも男の後をつけてきて、男の足に噛みついた。男は罵った。

「お前より卑しい犬は今まで見たことがない。お前の主人がくれたパンを二つともくれてやったというのに、いったいなんの用がまだあるのだ。俺からなにが欲しいのだ!」

そのとき突然、犬が喋り出した。

(写真:焼肉とサラダとパン)

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ラブラービー

初めてチュニジアに行ったときのこと、私はチュニジア人の友人たちと家で食事をすることになり、パンを買ってくるように頼まれた。パン屋に行って、バゲットを四本ぐらい買って戻ると、こう言われた。

「なんでこんなに買ってきたんだ。固くなっちゃうじゃないか」

日本のスーパーで買う食パンは長持ちするので、私はその感覚のまま買ってきてしまった。チュニジアでは、宵越しのパンは固くなってしまう。ナマモノだ。

もちろん、だからといって、パンが残らないわけではない。チュニジアには、固くなったパンを食べるためにできたという料理がある。それがラブラービーだ。

これはドンブリに、パンをちぎって入れて、その上にヒヨコ豆とスパイスの入った熱いソースをかける料理だ。ただかけるだけではなく、スプーンでパンを潰して粥状にして食べる。半熟卵を入れることもある。

昨日のパンをできるだけ早く食べてしまいたいからなのかどうかわからないが、ラブラービーは朝の食べ物だ。家庭料理というより、お店で食べるもので、人気の店は早朝から客が列を作っている。

お店に入ると、ドンブリとパンを渡される。そのパンを自分の流儀でちぎってから、ソースをかけてもらう。そして、かき混ぜる。この過程も楽しい。由来はどうあれ、お店で提供されるのは、一晩じっくり寝かせたカチカチのパンではなく、柔らかいパンだ。

(写真:ラブラービー、かき混ぜる前)

旅・観察

チュニジアのパンとカゴ

チュニジアの食事にはパンは欠かせない。たいていの安レストランでは、店に入ると、頼まずともパンが入ったカゴが出てくる。中にはバゲットが切ってある。

これはあらゆる食事にデフォルトでついてくる。しかも食べ放題だ。それはいいのだが、気になることもないではない。

まず、カゴの中に入っているパンがいつ切られたのかわからない。見えるところで切っていることもあるが、店の奥で切っている場合もあるし、もしかしたら、前の客に出されたカゴに減った分だけパン切れを追加したものかもしれない。

それに、店によっては、カゴがテーブルに置いたままになっていることもある。そのカゴはいつからそこにあったものだろうか? そして、何人の客がそこからパンを取ったものだろうか?

さらに、カゴの問題もある。このカゴはいつから使われているのだろうか。底にあるパンくずはいつからそこにあるのだろうか? 考え出すとキリがない。

しかし、実際のところ、私はそれほど気にしていない。なぜなら、チュニジア人は一般にパンにすごくうるさいから。誰に聞いても「昔に比べてパンはまずくなった」という。これは、パンのことをいつも真剣に考えていないと出ない言葉だ。そうした人々が、パンを粗末に扱うことはないし、パンに求める水準も高い。だから、周りのチュニジア人が普通に提供し、普通に食べているのであれば、食べられるのだ。

蝿が止まっていても、手で払うだけだ。