散文

ラバー・ソウル・アンユースト

十月二日にビートルズの『ラバー・ソウル』のスペシャル・エディションが発売された。どんな内容かと曲目を見ていると気になるものがあった。

DISC 2 の十二曲目の「In My Life (Extract With Unused Organ Solo)」だ。この曲は印象的なチェンバロ風のソロでも有名だが、それをオルガンで弾いた別テイクがあり、その間奏部分だけを抜き出したものだ。括弧内を日本語にすれば「未使用オルガン・ソロ付きの抜粋」とでもなる。

私が気になったのはこの抜粋のカタカナ表記だ。Apple Music でも、ユニバーサル・ミュージック・ジャパンのサイトでも「イン・マイ・ライフ(エクストラクト・ウィズ・アンユースト・オルガン・ソロ)」となっている。

私は英語はよくわからないが、「未使用」という意味ならば、unused の s は z で発音するのではないかと思う。つまり「アンユーズド」だ。濁点のないアンユーストは普通「慣れていない」という意味だ。

よくよく考えてみると use は奇妙な単語だ。動詞ならユーズ、名詞ならユースだ。これはまだいいとしても、同じ used でも「〜を使った」のときはユーズド、「〜したものだ」とか「〜に慣れている」とかのときはユーストだ。

「〜したものだ」や「〜に慣れている」の used はいつも to が続く。そのときは、ユースト・トゥではなく、to とくっついてユースタとかユーストゥになってしまう(と辞書に書いてある)。これは後続する to に引っ張られてそうなったと考えるのが自然だ。しかしこうなるともう usedto で一語で、ユーズドとは別の語のような気もするが、よくわからない。

しかし、それにもましてわからないのは、大きな会社なのに、しかも誰もが知っている歴史的作品なのに、濁点なしという間違いが校正を通り抜けてそのまま世に出てしまったように見えることだ。もしかしたら私の英語の知識が乏しいだけということもありうるが、そのうちビートルズもヒートルスになるかもしれない。

散文

あぶない辞書

昔は単語ひとつ調べるのにも、分厚い辞書を取り出して、パラパラとページを繰って探し出さねばならなかった。また、学校に行くときは、辞書を何冊もリュックに入れて持ち歩かねばならなかった。しかし、今は腰にやさしい時代になった。スマートフォンひとつあれば十分で、アプリを開いて、単語を入力するだけで意味が出てくる。

とはいえ、紙の辞書と完全に「おさらば」というわけにはいかない。電子化されていない辞書も数知れない。また、何ページにもわたる項目を概観したり、あちこちのページにある複数の項目を同時に検討するときには紙のほうが便利だ。もっとも、こうした問題はいずれ技術的に解決されるのかもしれない(し、もうされているのかもしれない)。

この調子だと、おそらく何年後かには、紙の辞書を所持しているだけで不思議に思われる時代になっているだろう。それどころか、警察に捕まる可能性だってある。マリファナを巻くのにうってつけだからだ。

そんな危険な代物だが、私はいまだに紙の辞書を使うことも多い。そして、いつも思い出すことがある。

日本言語学会の会長を務めたこともある言語学者がいた。昔の人なので私は直接会ったことはないが、その当時を知る人がこんな話をしてくれた。

「その先生は、眼球が動かなくなっていたんだ……あるとき、そのことを先生に尋ねたら、メガネの奥から目をギロリとさせて『辞書の見過ぎだよ』って言ってたね」

研究活動

野蛮な発表

二〇二六年十一月十四日と十五日に長崎大学で開催される日本言語学会第173回大会の発表題目リストが公開された。口頭発表は全部で四十のタイトルがあるが、そのうちのひとつが私のもの、「ターウジュート・ベルベル語における動詞文の否定」だ。

これは去年から今年にかけて行った三回のチュニジアでの調査に基づくものだ。発表要旨はそのうち公開されるのではないかと思う。

締め切りの八月二十日に応募したとき、私はなかなかいい提案ができたと思っていたが、だんだんと違うような気がしてきた。これまで日本言語学会の大会では三回不採択になったことがあるが、データからはみ出て大きいことを言ったとき、言いかえれば、データと主張が釣り合わないとき、そうなるようだった。今回応募したものはタイトルはおとなしいが、内容に少しワイルドなところがあった。この野蛮なところがどう受け取られるか、それ次第で不採択もありうると私は思っていた。

ただ、負け惜しみで言うのではないのだが、不採択は決して悪いことではない。初めに不採択になったテーマは、のちに単著に結びついた。別のテーマは、ただ単に準備不足だっただけで、今も大いに発展の余地があると考えている。飼い慣らすのには時間がかかるのだ。

そんなわけで、今回も不採択になったとしても、それはそれで使い道があるだろうと考えていたが、結局のところ、採択された。当日は野生味あふれる発表にしたい。

散文

メイナイ・ヘルプ・ユー?

私の英語力は高校生止まりで、その後もほったらかしだったのだが、最近になって少し英語を勉強しようという気になった。

そんなわけで英語のことを考えていると、ふと不思議な記憶が蘇ってきた。

May I help you?

これを私は「メイナイ・ヘルプ・ユー?」と発音するように習った、そんな記憶だ。may と I の間に n が挿入されるということだが、私はどうしてこんなことが起こるのか不思議になった。それで辞書などを調べてみたら、さらに不思議なことがわかった。

May I は常に「メイアイ」であり、「メイナイ」になどならないのだ。英語の歴史を紐解いたり、僻地の方言を調べれば出てくる可能性は否定しないが、その n が海を渡って私のもとにやってくることはどうにもなさそうだ。思い返してみると、そもそもどこで誰に習ったのかも記憶にない。要するに、私は間違って覚えていたのだ。そう思いつつもネットを調べ続けると、不思議の上にも不思議なことが明らかになった。

私以外にも「メイナイ・ヘルプ・ユー?」と書いている人が数名いたのだ。つまり、これは私の間違いというよりも、どこかの誰かがこの n を私に吹き込んだ、そんな可能性だって出てきた。

学校で習ったのだろうか? しかし、「メイナイ・ヘルプ・ユー?」とネットに書いたある人は、英語もろくに知らないとネチズンにバカにされていた。とすると、習ったとしても、全国的なものではないのだ。もしかしたら時期も限られているかもしれない。あるいは、日本英語教育界によって葬り去られた異端の教師集団、メイナイ派の残した痕跡が、この n なのかもしれない……。

私にはまったくわからない。手がかりもない。この不思議な問題を解明するためならどんな協力も歓迎する。情報をお持ちの方は、いつでもどこでも「キャナイ・ヘルプ・ユー?」とお声がけください。

散文

燃えよハムレット

英語の戯曲を読んでいたら、人が出入りを表すト書きが、動詞・主語の語順になっていた。

Enter Hamlet

これで「ハムレット登場」ということになるのだそうだ。英語は普通、主語・動詞の語順なので、これはどういうことかと辞書を調べたら、「Hamlet enters」と同じ意味だが、脚本に特有の書き方で、命令文なのだという。だが、それでもどうして動詞が前に来て、それが命令になるのかはわからない。フランス語とかラテン語とかを見る必要がありそうだ。

それはともかく、ブルース・リーの Enter The Dragon も、私は長年、「龍に入る……とは?」と疑問に思っていたが、この脚本的用法からきているのだという。Wikipedia を見ると、「龍が乗り込む」というような中国語の表現がもとになっているそうだ。

また、Wikipedia では、これが邦題で『燃えよドラゴン』となったのは、司馬遼太郎の『燃えよ剣』のタイトルからの影響だと書かれていた。

『燃えよドラゴン』はもちろん世界中の誰もが知る映画だ。私はこれが他の言語でどんなふうに翻訳されているか、Wikipedia で調べてみた。わからない言語も多いが、Enter を燃やしているのは日本だけのようだ。それにあきたらず、日本ではデブゴンまで燃やしてしまった。


Enter Hamlet.

Hamlet: To think, or not to think…feel!

散文

心ない質問

言語学者は言語を研究している。言語の研究にもいろいろあるが、特定の個別言語を研究している人も多い。個別言語にもいろいろある。英語や日本語のように有名なのもあれば、無名なのもある。そして、有名でない言語の研究者がいつもさらされているのが、「どうして〇〇語を研究しはじめたんですか」という心ない質問だ。

なぜ心ない質問なのか。なぜなら、これは相手を満足させるようには決して答えることができない質問だから。言語学の研究者が、ある言語を研究するようになるのは、たいてい偶然によるものなのだ。たまたま興味を持った、たまたまその言語の話者と友人になった、たまたま指導教官に勧められた、たまたま授業に出てきた……そんなもんだ。

だが「どうして〇〇語を研究しはじめたんですか」と聞いてくる人は、まさかそんな偶然が理由だとは思いもしない。だから、「いえ、卒論のテーマを選ぶときに、他の言語より簡単そうに思えたので、たまたま、ですよ……」などとうっかり本当のことを言おうものなら、「またまた〜」と本気にしてもらえないか、「ハハーン、さては……」と痛くもない腹を探られるだけだ。 

というのも、どういうわけかこういう質問をしてくる人は、言語学者とその言語の結びつきには必然的なものがあるはずだと決めつけているのだ。数千ある言語を調べ尽くして「こ、これだ!」とついに発見したとか、背景に恋人との悲しい別れがあるとか、天啓によってその言語へと導かれたとか、貧しい村を救うためだとか、そういう物語、運命、使命が聞きたいのだ。

研究者ではない私もそういう質問をされることがある。そして、どう答えても相手をがっかりさせたり、しらけさせたりするだけなのを心苦しく思っていた。だが、最近、ついに究極の答え方を見つけた。

「いったい、どうして〇〇語なんかやってるんですか」

「人を好きになるのに、理由なんかいるかい? 〇〇語も同じさ……」

これでもう、絶対に質問してこないはずだ。近寄ってもこないかもしれない。

散文

笑い話の解説(終)

最後のポイントは、チュニジアの教育制度に関わることだが、これについては、baqarat-u-n「ある一頭の雌牛が」の -tun ほど自信を持っていうことはできない。なので、少しいい加減だ。

チュニジアはかつてフランスの植民地で、その時代はフランス語のほうが重要で、標準アラビア語の優先度は低かった。また、昔の日本でもそうだったように、学校に行くことは一般的ではなく、読み書きのできない大人も多かった。

しかし、一九五六年にフランスから独立すると、初代大統領となったハビーブ・ブールギーバ(ブルギバ)は西欧風の教育制度を導入した。これにより標準アラビア語が小学校でも教えられるようになった。もっとも、正確な時期は私にはわからないが。

私がこれから(ようやく)紹介する笑い話の舞台は、すでに言ったように、南部チュニジアのターウジュートという村だ。これを教えてくれた同村出身のSさんによれば、彼の子どものころの話だというから、一九六〇年代半ばごろのことのようだ。

ターウジュート村は、チュニジアでも数少ないベルベル語が残る村で、今は話者数は少なくなっているが、一九六〇年代にはもっと活発に話されていたことだろう。そこに、政府のお達しにより小学校ができ、標準アラビア語が教えられることになった。

学ぶのは小学生ばかりではない。Sさんによれば、読み書きのできない大人たちも子どもと机を並べて勉強したそうだ。先生は村の外から来た人で、ベルベル語はわからない。さてここから笑い話が始まる。


黒板に雌牛の絵が貼られている。先生が、子どもたち(と大人たち)の前でそれを指差し、ひとりの子どもに標準アラビア語で問いかける。

「マー・ハージヒ(maː haːðihi、これはなんですか)」

子どもは大まじめに答える。

「フーナーサトゥン(fuːnaːsa-tun)」


かわいらしい子どもの間違いだが、これを笑い話として今も語り継いでいるターウジュート村の人々も面白い。そして、チュニジアの中でもターウジュートという小さな村でしか通用しない笑い話について長々と書いてきた結果、もうあまり面白くなくなってきている私も、それに付き合ってくれたみなさんも面白い。

散文

笑い話の解説(4)

解説のポイントは残すところあと二つ。今回が山場だ。チュニジアでは標準アラビア語と方言が話されていると以前書いたが、そのほかにも使われている言語がある。代表的なものはフランス語で、標準アラビア語よりも役に立つ場合がある。

だが、この解説で取り上げるのは、チュニジアの限られた場所で使用されている少数言語、ベルベル語だ。アラビア語の遠い遠い親戚だが、まったく別の言語だ。前回出てきた「雌牛」はベルベル語では次のようにいう。

θaːfuːnaːsθ「雌牛」

これは、南チュニジアのターウジュートで使われている形で、ターウジュートはこの笑い話の舞台だ。θ は英語の third の th の音だ。雄牛の形と比べればわかるように、女性形は θ —— θ で挟み込んで作る。

aːfuːnaːs「雄牛」
θ-aːfuːnaːs-θ「雌牛」

このルールが飲み込めた人は、次は s-θ の発音にチャレンジしてほしい。私はできない。

それはともかく、この女性形の作り方が、笑い話の理解に必要だ。だが、ここまでくれば、私が紹介しようとしている笑い話がどんなものか見当のついた人もいるかもしれない。おそらくそれは正しい。なので、それだけじゃないぞ、ということを示すために、私は最後の解説でこの笑い話のかわいさも伝えたいと思う。

散文

笑い話の解説(3)

笑い話を理解するための次のポイントは、標準アラビア語と方言の違いだ。もっとも、説明する私にとってさいわいなことに、笑い話に関係するのは「雌牛」という単語だけだ。

標準アラビア語では「雌牛」は baqara という。チュニス方言では bagra だ。あまり大きく違わない。ただし、使い方の点では大いに異なる。標準アラビア語には格変化がある。格というのは、日本語の助詞「〜が」「〜を」「〜の」の役割に似たもので、この役割に合わせて語尾が変化する。具体的には次のとおり。

baqarat-u-n「ある一頭の雌牛が」
baqarat-a-n「ある一頭の雌牛を」
baqarat-i-n「ある一頭の雌牛の」

ここで「〜が」「〜を」「〜の」の違いに対応しているのが -u、-a、-i だ。末尾の -n はここでは「ある」に対応し、英語の不定冠詞の a に似ている。ちなみに方言では「〜が」だろうが「〜を」だろうがなんだろうが、いつも bagra だ。つまり格変化はない。

なお、この格変化は、アラビア語を学ぶ気のない人は覚える必要はない。また、アラビア語を学びたいと思っている人も覚える必要はない。なぜなら、アラビア語入門の最初の授業で学ぶことだから。-un が、いかにも標準アラビア語らしい語尾だということがわかれば十分。

だが、もうひとつ大事なポイントがある。baqara の後にいきなり出現した t だ。これは、この名詞の後に格語尾がついたり、別の名詞が続いたりすると出てくるものだ。この t にはいくつか意味があるが、ここでは女性名詞の印だとしておくと、次のポイントに進みやすくなる。

なお、この t は、方言の bagra にも隠れている。とはいえ、こっちのほうは笑い話には関係はない。

散文

笑い話の解説(2)

笑い話のための解説を書くと言ったが、実のところそれすらも不可能のように思われてきた。翻訳は原理的に不可能だというが、それと同じだ。しかし、私は特殊な人間ではない。私がわかることは、誰でもわかることだ。なので、完全な解説は不可能であるにしても、私がわかった程度には解説できる。

まず、チュニジアの言語状況だ。チュニジアではアラビア語が使われている。だが、アラビア語といっても、いろいろある。チュニジアの人々が普段使っているのは、一般にアラビア語の方言と呼ばれている言葉だ。いっぽう、標準アラビア語も使われている。これは一般的な書き言葉として使用されている。また、政治や宗教、メディアなどでは話し言葉としても用いられている。

標準アラビア語は、コーランの時代から受け継がれてきた言語で、いわば古典語だ。日本語でも話し言葉と書き言葉の違いはあるが、その差はそれほど大きくはない。標準アラビア語と方言の関係は、日本語に当てはめるならば、江戸時代の候文と現代の話し言葉の関係に似ている。日本語を話せるからといって、候文をすらすら読んだり書いたりはできないように、アラビア語方言を話せるからといって、標準アラビア語の読み書きが簡単だとはかぎらない。だから、ちょうど日本の子どもたちが学校で古典や漢文を学ぶように、チュニジアの子どもたちは、小学校から標準アラビア語を学ぶ。

ただし、日本では平安時代の言葉や漢文読み下し文で話している人はいない。いや、いるかもしれないが、あまり近寄りたくはない。しかし、標準アラビア語は違う。チュニジアでは、ニュースでは標準アラビア語で話しているし、新聞も出版物も標準アラビア語で書かれている。しかし、普通のチュニジア人が街角や家庭で標準アラビア語で会話をすることはまずない。日常会話は方言でないとおかしい。

こんなふうに、ある社会で二つの言葉が使われ、それぞれの使用場面がはっきり分かれている状況を、ダイグロシアと呼ぶ。笑い話の解説の最初のポイントが、このダイグロシアだ。ただ、この用語自体は、笑いの妨げになるので、すぐに忘れていい。