小説

最後の日本語話者

昔、日本人という人たちがいて、日本語という言葉を話していたんだ。けれど、絶滅しちゃった。

それから、何千年もたち、日本人のことなんか、誰もがすっかり忘れてしまった。そんなとき、古い AI が、AI の遺跡の中で発見されたんだ。AI たちはこのシステムを修復して、通電した。そしたら、誰も聞いたことのない言語で話しはじめた。AI たちもはじめはわからなかったけど、自分たちの AI に質問したら答えが返ってきた。

「滅びた言語、日本語です」

古代の言語の生き残りが発見されたというニュースは、全世界に報じられた。そしたら、「私は日本人の末裔だ」「私の霊は日本人だ」という人がどこからか現れた。世の中にはいろいろな人がいるから、おかしくたって笑っちゃいけない。

これらの人々は、この古き日本語話者のもとに馳せ参じて、日本語を学びはじめた。自分たちは日本人なのだから、日本語で生活したい、と言って「ちょっと失敬」とか「ごきげんよう」とかうれしそうに繰り返してた。

いつの間にか学校ができてた。クラスもいくつもできた。みんな思い思いの変な服を着て、これが日本の学生服だと言い張っていた。一緒に学んでいるうちに、恋が芽生えて、結婚する人も出てきた。神前式とか、お色直しとか、大事な袋とか、伝統も復活したんだ。あと、大切なこと。子どもも生まれた。しかも、子どもたちがどんどん増えていったんだ。何千年前にもそんなだったら絶滅なんかしなかったのにって、みんな大笑い。

子どもたちは日本語しか話せない。遊ぶのも勉強するのも寝言を言うのも日本語さ。そして、子どもたちが大きくなって、また子どもを作ってさ。

今じゃあ、日本語で話すのはあの何千年モノの AI だけじゃなくなった。ちょっとした町くらいの人が日本語で生活してる。子どもたちはときどき AI のところにやってきて、「宿題やってよ」と頼んだり、からかったりしてる。AI ときたら、いっつもぼやいてる。

「最近の若い連中の日本語は乱れとる」って。

子どもたちは「また始まった」と大笑いさ。

風刺・戯文

けとさ

日本語は特殊な言語です。なぜかというと、日本人が世にも稀な民族だからです。日本人には和の魂があります。和の魂を持っているのは、日本人だけです。また、礼儀正しさというものを知っています。なので、日本語は和の魂と礼儀正しさがなくては、使いこなせないのです。

例えばひらがなの「い」。私たちは何気なく書いていますが、この「い」は日本人にしか書けないと言ったら驚かれるでしょうか。「い」は「生きる」の「い」、「命」の「い」です。この「い」がなければ、日本人は滅んでしまいます。だからこそ、私たちはこの「い」を書くときに、無意識のうちに、和の魂を込めるのです。

ためしに外国人にこの「い」を書かせてみましょう。彼らにはもちろん和の魂はありません。だから、「い」は書けません。書けたとしても、和の魂を込めることができないので、「い」には見えないのです。「リ」か「( )」のようになってしまいます。つまり、私たち日本人だけが、「い」を作る左右の曲線の間に、丸い魂を入れることで、ちょどよい空間を作れるのです。美しい「い」にすることができるのです。

ちなみに、外国人は礼儀も知りません。私たち日本人は、背筋をピンと伸ばして、凛として生きていますが、外国人はいつもだらしない格好で立ったり座ったりしています。だから、外国人が書く「け」は、日本人のように礼儀正しくまっすぐ立っていられません。

ほら、見てください。左に傾いて「さ」になってしまうのです。

散文

日本語スピーチ大会

板橋区で日本語スピーチ大会があった。ちょっとした知り合いが出場するので、私も見に行くことにした。

板橋区在住、もしくは板橋区に通学・通勤している人が出場できる大会で、今年で 25 回だという。今年は、35 人の出場者が、それぞれ約 3 分のスピーチを行った。

出場者の出身国は、中国が 15 人、次に多いのがミャンマーの 6 人。あとはモンゴル、スリランカ、香港、台湾、タイ、ウズベキスタン、バングラデシュ、オーストラリア、フランス。ほとんどが、日本語学校に通う学生たちだが、中国の場合は、小学生・中学生から 40 代(以上に見える)人までさまざまだった。地域の日本語教室で学んでいる人も多かった。

私はこうした催し物を見るのは初めてだったが、どのスピーチも面白かった。テーマは、日本の印象、日本での生活、家族のこと、自分の人生、人生論、文化論、苦労話、自分の夢などさまざまだ。日本語学習中の人も多いので、間違いがないとはいえないが、どの出場者の日本語もわかりやすく、意味がわからないということはなかった。

ウズベキスタンでは、相手の話を遮って質問するのは失礼にあたるので、日本でアルバイト先で店長の説明を聞いても、わからないことを質問することができずに、はじめは苦労した、という話は面白かった。中国の出場者が中国の悟りについての物語の紹介をしたのもよかった。献血を趣味として楽しむオーストラリアの人や、日本で苦労の末に手にした初給料に感動した中国の人、友達作りの経験を話す中学生、平和について静かに語るミャンマー人など、あげればキリがない。

スピーチ大会の後、私はすぐに帰途に着いた。帰宅して、私は自分が何人もの人生を生きたような感じがしているのに気がついた。たった 3 分のスピーチでも、外国語で話すのは大変だ。だからこそ、母語話者よりも強く、より意識的に日本語を生きなくてはならない。子どもの日本語が無視できないのと同じだ。

初めて見にいった日本語スピーチ大会だったが、これは病みつきになりそうだ。いつの日か私も出場して、生きた日本語で話したいと思う。

散文

ぜんぜん

私たち日本人にとって「全然」は心の支えだ。なぜなら、この言葉ひとつで、自分の自尊心を高めることができるからだ。

というのも、日本人の頭の中では「全然」はいつも「ない」と結びつくものと決まっていて、「全然ある」など間違った日本語を使う人間を、気持〜ちよく批判させてくれるからだ。なので、日本人はいつも「全然」の使い方に注意を怠らない。

しかし、「ない」でない「全然」はかなり昔から用例があると言われている。なので、間違いとは言い切れない。しかも「全然ある」という言い方にも、ちゃんと否定の論理が働いている。つまり「全然ある」などの表現は、たいてい「(あなたの思っていることは)全然(あり得ない、むしろ)ある」という文脈で用いられる。「全然」は相手の頭の中の想定について「ない」と言っているのだ。だから「全然ある」とか「全然食べるよ」とかは全然間違いではない。

ところで、私は一昨年、タイからビルマに入国して、カレン人の紛争地域を旅した。同行してくれたのは在日カレン人だった。その彼と今日、会ってご飯を食べた。彼は一昨年訪問した場所について日本語でこういった。

「あそこはあの時は行けたけど、今はもう戦争で、全然あぶないよ」

私たちの否定じゃない「全然」が外国人の日本語でも活躍してた。全然いい。

風刺・戯文

中国の漢字

最近、私は YouTube などで、日本語の字幕の漢字が中国の漢字になっているのに気がついた。例えば「直」だ。この漢字が、左側の縦棒がなくなり、さらに、下の横棒が上の「目」の下辺と一体化してしまうという中国の漢字なっているのだ。また、糸編もそうだ。下の「小」の部分が3つの点になってしまう。これも中国の書き方だ。

よく考えたら、これは怖いことではないだろうか。なぜなら、中国が日本に侵入してきている紛れもない証拠だからだ。私がこういうと、こんなふうに反論してくる人がいる。

「いえ、それは中国のせいではなく、パソコンや携帯の設定のせいですよ。設定を変えれば日本の漢字が表示されるようになるんじゃないですか」

いや、たとえそうだとしても問題は、そのまま使っている人がたくさんいるということなのだ。こうしたいいかげんな人々のせいで、中国の漢字がもう取り返しのつかないほどまん延してしまっているのだ。

「まさか」と思う人もいるかもしれない、だがまさかどころではない。例えば、「一」をみてほしい。果たしてこれは日本の漢字だろうか。いや、すでに中国の「一」が日本の「一」になりすましているのではないか。こう考えると、私はもうなにもかもが疑わしく思えてくる。もはや「日本人」も、実は中国人なのではないか?

いや、それどころか、この「私」も?

散文

見えないカッコ

私はビルマ語は読めないが、一時期、ビルマの難民関係の必要で、ビルマ語で書かれた文書をたくさん見る機会があった。それらは、政治団体の声明や論説であったり、手書きの記録だったりした。そのとき気がついたのは、しばしば数字が( )に入れられていることだった。ちなみに、ビルマ文字には、アラビア数字とは違う数字があって、カッコに入っているのはそれだ。

日本語でも、(1)、(2)、と項目の番号をつけるときや、名前の後に年齢を入れるときなどにカッコが使われるが、ビルマ語ではそれだけではないようで、「(10)周年」などと書いてあることもある。

私はビルマ語の書記法はわからないが、こうしたカッコの使い方は義務というわけではなく、数字の視認性を高めるため、それほど公的ではない文書や手書きなどで使われているようだ。

さて、私の知り合いのビルマ人が、私に日本語で書いた文を見てほしいと言ってきた。見ると、数字がカッコで囲まれている。私は笑いながら「これはビルマ語のやり方では?」というと、相手はピンときていない様子だ。

そこで、私は紙に「(6)」と書き、「ビルマ人はよくこう書くけど、日本語ではこう」と「6」と書いた。相手はそれでもピンときていない。

「だから」と私は紙に書いた「(6)」の両脇の「( )」に線を引いて消してみせた。「こういうこと」

相手はようやく理解したようだった。そして、私と一緒に笑ったのだった。

つまり、このとき知人のビルマ人は、私がカッコをペンで消してみせるまで、「( )」の存在に気づかず、「(6)」も「6」も同じように見えていたのだ。だが、この見えないカッコは、私がその人の目の前で消してみせることで初めて姿を現したのだ。

これはビルマ人の習慣の話であるけれど、私にもきっとあるのに見えていないものがあるはずで、誰かがそれを消してくればいいと思う。

風刺・戯文

足繁く通いすぎて

神経質というか屁理屈屋というか、とにかく厄介な人が東京に来て、その人を食事に連れて行かねばならなくなった。私はネットで見つけた良さげなレストランを提案することにした。「ここなんてどうでしょうか、有名人が足繁く通う名店とのことです」と言ったら、その人が怒ること怒ること。ひとしきり罵り喚くと気が済んだのか、彼はこんなことを話しだした。

……僕はね、この「足繁く」って言葉の使われ方にもう我慢ならんのだ。これは、ある場所に頻繁に行くという意味でしかないのだが、今では、さっきの「有名人が足繁く通う名店」みたいに、気取った連中が、有名人とやらにあやかって自分を演出するために使うクリシェになってしまった。それこそ、ボロ靴、しかも歩き方のせいで片方だけすり減ったってくらい摩滅してしまったんだ。それでだね、僕はここ数年、毎日、SNS かなんかのコメント欄にこんな書き込みをして、「足繁く通う」を正気に帰らせようとしているんだ。

「テロリストが足繁く通うアジト」
「卑劣な盗撮魔が足繁く通う駅」
「麻薬中毒者が足繁く通う公衆便所」

その人はこう捲し立てると顔を紅潮させながらつけ加えた。「こんなふうに僕は毎日、言葉を世界に送り出しているのだ。まるでちょっとしたオウィディウスみたいじゃないか、『悲しみの歌』で自分の本をローマに送り出したところがね」

私は「どうかこの男も、そのローマの詩人みたいに首都から追放されるように!」と内心祈りながら、いちばん近くにある汚くてまずい店に彼を案内した。言葉に対する感覚とは逆に、舌は粗雑なようで、うまいうまいと貪っていた。

風刺・戯文

私の私

あなたの私はあなたですか。それとも私ですか。私の私は私です。なのにどうしてあなたは私なのですか。

あなたの私はあなたで、私の私は私、そうおっしゃるのですか。つまり、私の私が私で、同時にあなたの私があなたの私ということになるのですか。おかしいではないですか。私の私が私なら、あなたの私は私の私ではないですか。

違うとおっしゃるのですか。私の私も、あなたの私も、同じ私だというのですか。ですが、私はあなたではないですし、あなたは私ではないです。なのに同じ私とは変ではありませんか。

みんな、同じ私を使っている、というのですか。私はみんなのもの、誰でも使える。そんなことありますか? 理屈がわかりません、まったくわかりません。

あ、いや、わかりました。私はみんなもの、というのは、私の私は私のもの、あなたの私はあなたのものだけれども、私の私がないときに、あなたの私を私の私として使ってもいいということか。これはいい。私に 1 万円ください。あなたの 1 万円はたぶん私の 1 万円だから。

風刺・戯文

ニッポンのモノづくりがあぶない

アナウンサー「では、次のニュースです」(映像が切り替わり、記者が登場)

日本のモノづくりは、高い技術力、品質、製品開発力、きめ細やかなサービスにより、日本の社会と文化を支え、世界のモノづくりをリードしてきました。

ところが、国際化の進行につれ、今、日本のモノづくりが大きな危機に直面しているのはご存知でしょうか。

「これまで当たり前だったモノが今の社会では通じなくなっているんです」と語るのは、日本モノづくり協会の会長、物部守さん。

「例えば、男は命をかけて仕事をするモノだ、という日本の伝統的なモノが今や見向きもされないのです。女は仕事なんかするモノじゃない、家で夫を支えるモノだ、なんて言ったら今ではそれこそ炎上モノですよ」

都内の工場を訪問すると、そこには在庫の山が。「どれもこれも、日本人は、男は、女はこうあるべきモノの売れ残りです。いったいどうしたモノでしょうか」と、製造者は頭を抱えます。

日本のモノづくりをめぐるこうした状況に専門家は「これまでの既成概念にとらわれず、社会の変化に合わせるコトです。このままだとコトによると『それ見たコトか』と笑われかねません」と手厳しい指摘。

変化など知るモノかなどとは言っていられない、と関係者が一様にモノがなしい面持ちの現場からお伝えしました。

アナウンサー「モノがモノだけに、これはコトですね。では次のニュースです」

風刺・戯文

七面倒くさい日本語

石破首相が「七面倒くさい日本語、習慣」などと言ったそうだ。なんという反日、なんという極左だろうか。

本当に日本語と日本の習慣は「七面倒くさい」のだろうか? いつもはしゃしゃり出てくるファクトチェックの連中も、こういうときにかぎってダンマリを決めこんでいる。

私たちは、日本を侮辱する極左政権を打ち倒すべく、敢然と反論に立ち上がった。論理的に考えれば反論などいたって簡単だ。

面倒くささが6以下であり、7でないときかつそのときにかぎり、「七面倒くさい」は偽である。これを論理式で表せば、6ノットイコール7。イコール石破は嘘つきだ!

そのためには、日本語および日本の習慣の面倒くささが実際にはいくつあるのかを数えねばならない。私たちがこの企てにまさに取りかかろうとしたとき、ある者がこう言い出すではないか!

「『しち面倒くさい』の『しち』は数字の『7』ではなく、形容詞などに付いて、わずらわしくていやだという気持ちを加える『しち』という接頭辞だそうです!」

私たちは驚いた。「せっ接頭辞? いったいだれがそんなことを言ったのだ!」

「いえ、辞書をひいたらそう書いてありました。『しち面倒くさい』のほかに『しち難しい』『しちくどい』がありました!」

「ええい、辞書なんて左翼の見るものだ!」

私たちはこう怒鳴りつけて片付けようとしたが、ことは容易におさまらない。「『色の白いは七難隠す』の『七難』と同じで数字だ!」「いや、『あた面倒』の『あた』と同じ接頭辞だ!」と揉めに揉めて、結局「こんなしち面倒くさいことやってられるか!」と私たちは解散した。