ライブ

宇宙ネコ子 × ラブリーサマーちゃん × iVy@Spotify O-nest

宇宙ネコ子 、ラブリーサマーちゃん、iVy の 3 組のライブを見るために、2 日連続で同じライブハウスに行くことになった。

ラブリーサマーちゃんによれば、これら 3 組のミュージシャンの共通点は「ドリーミー」だということだ。

音楽のジャンルのことはよくわからないが、ノイズが重要な役割を果たす音楽ということだろうと思う。もっとも、ノイズといっても、ルー・リードの危険なノイズ・アルバム『メタル・マシーン・ミュージック』とは違う。心地よく全身が浸れる、陶酔感のあるノイズだ。

最初に演奏した iVy では、シンセ(か何か)で作った騒音が演奏の山場になっていた。ラブリーサマーちゃんは一人での演奏だったが、エフェクトのかかったギターからは、気持ちのよい雑音が滲み出ていた。宇宙ネコ子のねむ子はもうノイズギターの鏡だ。

当然のことながら、この気持ちのよいノイズはライブでしか聴けない。録音でも、それに近いものはできるのかもしれないが、似て非なるものだ。かりに本気で再現しようとしても、結局『メタル・マシーン・ミュージック』になってしまうので、断念せざるをえないのだ。

だから、たくさんの人がノイズを求めて、ライブハウスに足を運ぶ。なかにはもうこれなしではダメ、という人もいるかもしれない。私もそれに近い。だが、これは危険だ。

いつの日か、死の床に横たわり、自分に繋がれた心電図モニターのピッ、ピッというリズムを聴きながら、早く「ピー」というノイズが聞きたい、とうっとりしだすかもしれないから。

ライブ

モーモールルギャバン × ニガミ17才 @ Spotify O-nest

整理番号が 10 番台だったので、最前列の真ん中で見た。最初はニガミ 17 才だ。

曲が終わると「ありがと」というのが常の岩下優介だが、ライブハウスにはじめてきたときの気持ちを大切にしたい、とのことで、曲終わりの一言でその気持ちを伝えたいという試みを始める。しかし、なんて言おうか気になってしまい、演奏のクオリティを下げてまですることではないと、2 曲ほどでこの試みは放棄された。

次のバンドはモーモールルギャバン。ニガミ 17 才の試みを受けて、曲終わりの一言に挑戦するが、やはり、演奏のクオリティを下げてまですることではない、との結論に達して放棄された。

ニガミ 17 才のライブでは「ねこ子」の曲になると、平沢あくびがステージの前に出て、客席にティッシュを撒く。今回は最前列だったので、私ははじめてティッシュを手に入れた。

モーモールルギャバンは私ははじめてだ。開演前の機材のセッティングのときに、メンバーたちも現れる。ドラムとボーカルのゲイリー・ビッチェが、自分のドラムのセッティングをしている。調整が終わると、靴を脱いで、ドラムの横に置かれた台の下に置いた。それから、靴下を脱いで靴の中に丸め込んだ。裸足でドラムを叩く人なのだ。

だが、それだけではない。ライブの後半には、パンツ 1 枚になって台の上に立つ人になっていた。

「客の皆さんが私をこんな変態にしたのです」と本人は台の上から主張。これはモーモールルギャバンのライブではお馴染みの光景らしい。

さて、ドラムのセッティングのとき、ゲイリー・ビッチェが 1.5 リットルのペットボトルの水を持ってきて、台の上に置いた。なにかルールがあるのか、ペットボトルのラベルを剥がして、くしゃくしゃに丸めた。そのゴミをどうするのかと見ていると、台の下にある靴の中に放り込んだ。

これを見て、このバンドが好きにならない人はいないと思った。私は演奏も気に入ったので、終演後 1,000 円払って、ゲイリー・ビッチェとチェキまで撮った。これが私にとってはじめてのチェキだ。

私はティッシュとチェキとライブをカバンに入れて、帰宅した。

ライブ

戸川純@東京キネマ倶楽部

先週行った Todd Rundgren よりも、私にとっては付き合いの長い戸川純のライブ「jun togawa “birthday” live 2026」に行った。

中学生のころの私のアイドルで、これまで一度もライブに行ったことがないのが不思議だが、子どものころと同じ感覚のままで、別世界にいる人のように思っていたからかもしれない。

今回は、64 歳の誕生日を記念するライブであったが、残念なことに、足を悪くしたせいで座ったままの歌唱だった。だが、前半最後の曲で立ち上がって歌ったときは、その声と迫力に思わず震えた。椅子に座っているよりもはるかに大きく見え、存在感がまったく違うのだ。

後半は、彼女の切り抜きを集めていた中学生の私が繰り返し聞いた「蛹化の女」「母子受精」「レーダーマン」、そしてアンコールの締めに「パンク蛹化の女」といううれしい選曲だった。

座っていたせいで最初は精彩を欠くように思えたが、MC で足の診察について医者のことをやたら愚痴ったり、高い声が出なくて「ごめんなさい」と謝ったりするのも、最後には戸川純の存在そのものに吸収されてしまった。サブカルという枠で音楽が聴かれた時代から、その枠そのものが消えたサブスクの現代まで、ステージに立ち続けている人になにをいうことがあろう。

今年もたくさんライブをするということなので、次は彼女がもっとステージを動き回れるようになるときに行くことに決めた。

ライブ

君が四角くなる前にリリースパーティ@下北沢BASEMENTBAR

正式なタイトルは、「君が四角くなる前に pre 『きらめきとして現れるであろうあらゆる小さなセカイのためのプロレゴメナ』リリースパーティ。「君が四角くなる前に」というバンドの新譜記念ライブだ。

1 番目に客演した宇宙ネコ子が目当てで行ったが、2 番目のゲスト cephalo の演奏には陶酔感があった。主役の「きみしか」も華やかだった。

月曜日に、Todd Rundgren のライブで NHK ホールに行き、16,800 円のチケット代と 3 階隅の席について愚痴った私だったが、今回は 3,000 円で、会場も小さい。それがよかった。

だがなによりもよかったのは、NHK ホールでは座席指定だったのに対して、今回は立って音楽を聞けたことだ。Todd Rundgren でだって、もちろん立って聞いたっていいのだが、座るのが基本で「立ってもいいよ」となると、立つのに理由と決意がいる。だが、「はじめから全員起立」だと、なんにもいらない。

立ったまま聞いていると、音を全身で感じられる。それは喜びであり、解放だ。座っていたら、どうしても頭で聞いてしまう。音楽は足で聞いてもいい。

私は日曜日に義太夫節演奏会にも行った。すごい演奏だったが、もしかしたらこれもみんな立って聞いたほうがいいのではないかという気もする。もっとも、義太夫節は高齢の観客も多いからそうもいかないだろう。

いずれにしても、よい音楽をいつまでも体験できるように、足腰を鍛えておかねばならない。しかし、寝たきりになったとしても「オールスタンディングだよ」と言われれば、私なら立ち上がるかもしれない。

ライブ

Todd Rundgren @ NHKホール

ここ数年、私は 10,000 円以上のライブには行かないことにしている。ほとんど 5,000 円以下だ。これだけ払えば、東京ではいろいろな音楽を楽しむことができる。

しかし、今回ばかりは私はこのルールを破った。トッド・ラングレンのライブ(Billboard Live presents Todd Rundgren Japan Tour 2026)に、16,800 円という大金を払った。普段のライブ 4 回分だ。

私は 18 の頃からトッド・ラングレンを聴き続けてきた。ライブも初めてではない。トッド・ラングレンもいい歳だし、私もいつ死んでもおかしくない年齢に入った。そう考えると、次はないような気がした。

そして、NHK ホールには、私よりも次はなさそうな年齢の観客が詰めかけていた。私などまだ若手だった。

私の席は、16,800 円にはふさわしからぬ 3 階のひっそりとした隙間にあった。ライブが始まる。音が遠く聞こえる。ステージのトッド・ラングレンも小さい。レジェンドは遠くにありて思うものなのだろうか。16,800 円が頭をよぎった。4,000 円のライブの生々しい音に慣れると、音圧が物足りなかった。

途中で、アコースティック編成に変わり、「cliché」が始まる。音がずっとリアルに届いてきた。私の両の目から涙がこぼれ落ちそうになったが、16,800 円のことを思い出したら引っ込んだ。しかし、この辺りから私は音に慣れた。

「Honest Work」をアカペラで披露したのもよかったし、相変わらず「I saw the light」で奇声を上げたのもうれしい。あまりライブでやらなさそうな「I don’t want to tie you down」にも目頭が熱くなった。

「Bang the drum all day」では、観客の女性をステージに上げ、歌うトッドの横で、ドラムを叩かせた。この楽しい演出には、幸運な女性ばかりでなく、観客の誰もが幸せになった。

そして締めくくりの「Hello, it’s me」は、トッドらしい自由自在の演奏で、数えきれないほど聴いた曲だが、それでも新鮮だった。終わってしまうのが惜しいくらいだったが、それでも 16,800 円はちょっと惜しいと思った。

ライブ

ニガミ17才@東京キネマ俱楽部

ニガミ17才が2024年2月17日以来、2年ぶりにライブ活動を再開するというので、今日の東京公演(東京キネマ俱楽部)に行ってみることにした。

会場に行ってみると、たくさんの人がいた。年齢もさまざまだ。「待望の公演」とはよくいうが、これほどこれがぴったりのライブはない。

会場に入ると、ステージに奇妙なマネキンが飾られている。今回のタイトルは「nigami 17th birthday!! plan10【トミーは野球になりたかった】@東京公演」という。これがトミーだ。

この東京キネマ俱楽部というのは、すこし変わった作りで、ステージの右手の階段が小さなバルコニーにつながっている。会場が暗くなると、バルコニー奥の幕から昔のアメリカ映画に出てくるような男女が出てきた。あらかじめ置かれたテーブルに座って、飲食を始める。女性は赤いドレスを着ている。男性は立派なスーツ姿でまるで岡田真澄のようだ。

そしてライブが始まる。2年のあいだに、メンバーは岩下優介と平沢あくびの2人になった。その間、大きな活動は聞こえてこなかった。だが、今日、2人のサポートメンバーとともにぶっつけられた演奏は、以前と同じく強烈で楽しかった。

ライブのコンセプトとなったトミーは、岩下優介の説明によると、捨てられたロボットで、ニガミ17才が拾ったのだ。そして、トミーと同じように捨てられたようなニガミ17才も今、観客たちに拾われている、と感慨深い言葉が語られた。私もいつか拾われると期待してもいいだろう。

トミーがもたらした効果かわからないが、ライブそのものが緊密になり、以前の曲がアレンジや構成の点でアップデートされ、さらに複雑になり、奥行きが加わっていた。ライブとは、単に曲を並べるのではなく、編集作業でもあるのだと(いまさらながら)気がついた。捨てるも拾うも編集次第だ。

さて、ライブの間じゅう、ステージ上方で楽しげに飲食している男女の姿は、このロボットの記憶の一部だとのこと。ライブが終わり、ほとんどライブ第2部といってもいいような厚みのあるアンコールののち、2人の俳優が紹介された。男性がデッカチャンだということがわかった(ニガミの MV にも出演している)。

今年は「アクセル踏む」というニガミ17才、行きたくなくなるくらいライブをやってほしい。

ライブ

WET LEG@豊洲PIT

Wet Leg は女性二人のイギリスのグループで、ヴィジュアルも強烈だが、音楽も負けていない。鋭いギターリフは耳を離れないし、奇妙な歌詞とメロディが、このグループにしか作れない音空間を生みだす。しかも、ふとキンクスがちらついたり、80年代の第 2 次ブリティッシュ・インヴェイジョンの雰囲気が漂うのもいい。

その Wet Leg のライブが今日、豊洲で開催された。私の整理番号は 1548 番で、前の方には行けなかったが、後方の一段高いところで、バーの角に寄りかかると、全体を見渡すことができた。あまりに後ろだったので、ステージ前の熱狂が、どこか遠くのできごとのようにも、ときどき感じられた。

ライブを聴いているうちに、情感の欠如こそが、Wet Leg の良さであるように思えてきた。感情に訴えないで音楽を成立させるためには、ユーモアが必要だ。さらに、曲の大仰な盛り上がりで情感を動かすなんて手は使わずに、普通から外れた展開や繰り返しの多用で、曲を広げていく。こうした工夫の上に、Wet Leg のかっこよさが成立している。

もっとも、これは私の捉え方で、今日、たくさん集まった観客の中には、「エモい」とか「メロい」とか感じている人もいていい。

ところで、オープニング・アクトは羊文学だった。私はうかつにもそれを知らず、最初、遠くの方で 3 人が出て演奏を始めたとき、あれ、Wet Leg ってこんなんだったっけ、と首をかしげた。

ライブ

スタンディング

スタンディングのライブでは、ライブのあいだじゅう立っていなくてはならない。これはけっこう大変だ。なので、整理番号にもよるが、早めに入場できたときは、私は前の方へと攻めていかずに、脇の壁に寄りかかったり、後方でバーか何かにもたれかかれる場所を選ぶこともある。

あるライブで、会場に入ると、ステージからちょっと離れたところに円柱があった。すでに先客がそれに寄りかかっている。これは格好の場所だ、と私はその隣に陣取ってライブが始まるのを待った。

次第に人が増えてきた。私の前にも人がどんどん入り込んでいるが、幸いにもメインのマイクまで視線を遮るものはなかった。これはいい、と思ってさらに待っていると、アナウンスが入った。

「本日はソールドアウト公演につき、多数のお客様が来場されます。ご入場の方は一歩前にお進みください」

周囲の人々が前に動きはじめた。私は円柱に体を押し付けて、寄りかかりポジションを死守した。だが、私の前に次から次へと背の高い人が入り込んできて、すっかり前が見えなくなってしまった。

私は「持てる人はその持てるもののせいで、変化に柔軟に対応できないことがある」と悔やんだが、もう遅い。

ライブが始まった。円柱に背中を押しつけて爪先立ちになれば、少しはステージが見えることがわかった。

ライブ

Mei Semones@duo MUSIC EXCHANGE

日本にはたくさんのネパール人がいるが、いろいろな民族集団の人がいるので、ネパール語以外の言語を母語として話す人も多い。私はネパール人に会うと必ずそのことを尋ねるが、「母語はなんですか」と聞いてもわかってくれないこともある。そんなとき「家族の言葉はありますか」というと、たいていピンと来てくれる。つまり、母語、タルー語であれタマン語であれなんであれ、ネパール語以外の言語は公ではなく家につながるものとして理解されている。

アメリカのミュージシャンのメイ・シモネスの初の日本ツアーの最終公演が渋谷で開催されたのだが、見に行った私はときどきネパールのことを考えたりしていた。メイ・シモネスの曲は、ジャズとボサノバをベースに少しねじれたポップなメロディが乗るというもので、変わっているが聞きやすい。バンド編成は、彼女の弾くギターに、ベース、ドラム、バイオリン、ビオラというもの。面白いのは歌詞に英語と日本語の両方が使われていることだ。

メイ・シモネスは母親が日本人ということで、子どもの頃からたびたび日本の祖母の家に滞在したそうだ。だから、日本語を使うのは不思議でもなんでもないが、その日本語の歌詞が、日本の歌の歌詞とは少し違うように感じた。言葉が「子どもっぽい」のだ。

「今日のご飯なにかな 天ぷらとお豆腐とごまあえほうれん草 おばあちゃんの手作り」(Kabutomushi)

それはひとつにはこの Kabutomushi のように、日本語が子ども時代の思い出に結びついているということもあるかもしれない。だが、たとえば次のような歌詞を聞くとそれだけではないような気がしてくる。

「やりたいことやればいい いつもいつもいつも ピカピカ光る街 いつもいつもいつも」(Itsumo)

普通、日本人は子どものときは子どものように話すが、学校に行き、学生時代を終え、大人になると、大人のように話すようになる。私も子どもの頃の日本語は失くしてしまったが、メイ・シモネスの歌詞にはその失われた子どもの日本語が生きているように思えた。

これは英語で教育を受けた彼女にとって、日本語が「家族の言葉」であったことに関係があるのかもしれない。もちろん、私は彼女の日本語が子どもっぽいといっているわけではない。MC で彼女が話す日本語も普通のものだ。ただ、英語に比べて、日本語を「学校の言語」として経験していないぶん彼女は、日本人とは違った意味づけを日本語に与えていて、それを作品の本質的な部分として使っているように思った。そして、それがメイ・シモネスの曲を大いに魅力的にしている。

私はライブを聞きながらこんなことを考えていたが、それにしても、すばらしいギターを弾くメイ・シモネスはとてもかっこよかった。

音楽

Friday I’m in Love

「Friday I’m in Love」は、イギリスのバンド The Cure が 1992 年に発表した曲だ。バンドの代表曲というばかりでなく、この時代のロックを象徴する一曲といっていいほどの名曲だ。

一聴すると、金曜日からの週末のウキウキした恋の歌という印象を与える。だが、専門的に見ると、ことはそう簡単ではないらしい。この度、英語学者、詩人、文芸評論家、音楽研究家などの専門家が一堂に会し、この曲の歌詞について徹底的に討論をするシンポジウムが開催された。

意外で、そして面白いことに、「Friday I’m in Love」というタイトル自体からしてそもそも大きな問題を孕んでいるというのだ。どうしてかというと、「Friday」の文法的な役割が不明確なのだという。つまり、この「Friday」は、目的語としても(「私は金曜日を愛する」)、時の副詞としても(「金曜日に私は愛する」)、トピックとしても(「金曜日は私は愛する」)、呼びかけとしても(「金曜日よ、私は愛する」)、あるいはそのどれにも解釈できる要素として、読めるのだそうだ。

シンポジウムでは、このタイトルばかりでなく、歌詞の一節「It’s Friday, I’m in love」についても議論された。また、英語史やドイツ語やデンマーク語などの例も引き合いに出されるなど高度に専門的な内容であった。私にはとても面白かった。

とはいえ、このシンポジウムには成功とは言い難い面もあった。というのも、開催されたのが金曜のお昼からであったため、夕方になるにつれて専門家たちはみなソワソワし始め、そのうちみんな消えてしまったからだ。開催するならば、火曜日か水曜日がよかったのではないか。