散文

幼年期の終わりの続き

二〇二二年の末頃、AIに「ベトナムのビートルズ」の画像を作成するように指示すると、銀色にも灰色にも見えるスーツを着た四人の若者の画像が出てきた。四人はアジア風の街角に立っている。スーツは、ビートルズの襟なしスーツにも似ている。四人ともベトナム風のとんがり帽子を被っているが、金属製で、しかも頂点からはアンテナが伸びている。若者たちの顔はアジア人のそれだったが、奇妙に潰れていた。

そして今、AIに同じことを指示すると、まったく別の画像が出てくる。本物のビートルズがハノイの街角の屋台で食事をしているのだ。プラスチックの椅子に座って談笑しながら手に丼を持っている。食べているのはフォーだ。なぜなら看板にフォーと書かれているから。ポールは左利きだが、箸は右手で持っている。四人の服装からすると、写真は『リボルバー』の頃に撮られたようだ。言うまでもなくフェイク画像だ。

どちらの画像が面白いかというと、もちろん最初のものだ。奇妙で謎めいている。ユーモラスで異様だ。たった数年だが、AIは指示を適切に解釈し、もっともらしい画像を作り上げるように進化してしまった。AIが奇妙な画像を作る時代は終わってしまった。

そして、AIがおかしな四人組の画像を生成した時代はもう来ないのだ。そんな時代は人類の歴史で一回しか起きなかった。しかも、とても短いものだった。もちろん、巧妙に指示をすれば、現在のAIだって、野蛮で珍妙な画像を生成してくれるだろう。だがそれは、結局のところオリジナルのフェイクに過ぎない。

私は、ベトナムの怪しい四人組の画像を、まるで自分の子どもが赤ん坊だった頃の写真のように眺めている。

散文

幼年期の終わり

六月にチュニジアに行ったとき、明らかにAIが描いた絵が表紙になっている本を本屋で何種類も見かけた。内容にはよさそうなものがあったが、買う気にはなれなかった。

日本でも、広告やチラシの類にAI製のものをよく見かけるようになった。これもどれも同じで、実につまらない。

このブログでもずいぶん前から記事のアイキャッチに生成AI画像を使ってきた。二〇二二年十月二十二日から Stable Diffusion で作った画像を使い始め、二〇二四年六月二日からは WordPress で記事にAI画像を作成するサービスが始まったので、それを使うことにした。

だが、二〇二六年三月二十七日からはAI画像を使うのをやめ、自分で撮った写真を使うことにした。なぜなら、AIの絵は面白くないからだ。思えば、私がAIの画像を使い始めたのは、簡単に奇妙で変で面白い絵が出てきたからだ(二〇二三年ごろの画像を見てほしい)。しかし、次第にAIが発展するにつれ、面白くない絵を描くようになり、今やその絵は世界中に溢れている。

もちろん、AIでは面白い画像を作れないといっているのではない。ただ、よい画像にするのには非常に時間がかかる。忍耐も必要だし、センスも必要だ。だが、たいていの人は時間もヴィジョンもないから、「描いて」とだけで済ませる。すると、吐き気がするほどつまらないものが出てくる。

「描いて」と指示するだけで、奇怪な絵が出来上がる時代は終わってしまったのだ。幼年期は過ぎ去り、今や当たり前の大人になって、あたりさわりのないものばかり描くようになってしまった。

それどころか、私の書いた物を読ませると「つまらない人間が書いたいやらしい文章」などと生意気を言うようになった。

散文

AIを使いこなす

AI関係の高額なセミナーの広告を見ると、こんなことが書いてある。

「AIを使ってみたいけど何からしていいかわからない方必見!」

AIに聞けばいいのでは、と思う。また、こんな広告もある。

「まだ間に合う! 話題のAIをこれから学ぶ方のための、無料オンライン入門セミナーを開催!」

間に合うとは? 無料セミナーの申し込みについてかもしれないが、ここではAIに関する知識や技術について焦らせているようにも読める。「時代遅れになる前に!」というわけだ。

なぜ間に合わないといけないのか。それはわかりきっている。

「AIに仕事を奪われる側ではなく、AIを使いこなす側になりたい方はすぐに!」

これは、どの広告にも書いてあるような言葉だが、AIを学ばないと無職になるというのだ。だが、AIを使いこなしても無職になる可能性は考慮に入れられていないようだ。

もうひとつおかしな点がある。仕事を奪うのはAIではない。雇用主が奪うのだ。雇用主がAIを使いこなした結果、経営合理化なり人員削減なりが成功し、被雇用者の職が奪われたのだ。もっとも、AIについてまったく知らなくても、首切りは簡単だが。

それはともかく、人の仕事を奪えるということは、本当にAIを使いこなしているということになるのだろうか。逆に、AIを使うことによって、被雇用者の仕事を守り、さらに、他の多くの人々に仕事を作ることこそが、本当にAIを使いこなすということなのではないだろうか。

AIによって、今まで雇えなかった人にどんな仕事を作れるか。仕事を奪う奪われるで考えるよりも、ずっと有意義なテーマだと思う。

とはいえ、こんなテーマの高額セミナーの広告が回ってきたら、それはそれで要注意だ。

散文

贅沢なレジャー

AIに聞けば、なんでも答えてくれる。もちろん間違いもあるかもしれないが、チェックすればいいだけの話だし、そのうち、AIの間違いもなくなるだろう。いや、AIの間違いは間違いだと見做されなくなるだろう。

難しい本の内容も、AIが簡単に説明してくれる。あらすじも教えてくれる。言語の壁も粉砕された。どんな言語もすぐに翻訳してくれる。

だから、本など読む必要はない、外国語など勉強する必要はない、と主張する人が出てくるのも当然だろう。これに対して、思考力が……とか、リテラシーというものは……など言い立てる人もいるが、そういう人もこっそりAIを使っている。いや、その高尚な見解すらAI由来成分がたっぷりだ。

もっとも、私は読書や外国語学習がなくなるとは思わない。むしろそれらは、AIが普及したのちは、富裕層のみに許された贅沢なレジャーとなるのではないかと思っている。読書も外国語学習も時間と労力を必要とする活動だ。そして時間と労力をそんなことに費やせるのは、富裕層しかいない。

昔、山登りは何か生活の必要に結びついた労働だった。そして、そのような労働の必要のなくなった現代では、山登りは、装備や入山料など、大金をはたける人だけができる贅沢な遊びになってしまった。そして、私たちは、コスパが悪いという理由で山登りなどゲームやVRで十分、と笑っている。だが、実際にはお金もなければ休みもないで、登山口にすら辿り着けない。

読書も外国語学習も同じだ。じっくり精読したり、単語を暗記したりしている間に、空腹が耐え難くなってくる。休憩時間にAIに聞くのが私たちにはお似合いだ。AIはもう貧困層の印というわけで、AIフリーの読書と外国語学習が、お金持ちのステータスとなるのも当然の成り行き。

もしかしたら、渋谷松濤の「アッカド語講読サークル」に高貴な人々が集う、そんな時代も来るかもしれない。

「奥様! サルゴン大王の碑文、もうお読みになって?」

「ええ、とても素晴らしいものでしたわ!」

「それはそうと、今日は伯爵はお見えにならないのね!」

「そうなの! なんでも『資本論』(ヴェルケ版)に夢中だとかで!」

小説

最後の日本語話者

昔、日本人という人たちがいて、日本語という言葉を話していたんだ。けれど、絶滅しちゃった。

それから、何千年もたち、日本人のことなんか、誰もがすっかり忘れてしまった。そんなとき、古い AI が、AI の遺跡の中で発見されたんだ。AI たちはこのシステムを修復して、通電した。そしたら、誰も聞いたことのない言語で話しはじめた。AI たちもはじめはわからなかったけど、自分たちの AI に質問したら答えが返ってきた。

「滅びた言語、日本語です」

古代の言語の生き残りが発見されたというニュースは、全世界に報じられた。そしたら、「私は日本人の末裔だ」「私の霊は日本人だ」という人がどこからか現れた。世の中にはいろいろな人がいるから、おかしくたって笑っちゃいけない。

これらの人々は、この古き日本語話者のもとに馳せ参じて、日本語を学びはじめた。自分たちは日本人なのだから、日本語で生活したい、と言って「ちょっと失敬」とか「ごきげんよう」とかうれしそうに繰り返してた。

いつの間にか学校ができてた。クラスもいくつもできた。みんな思い思いの変な服を着て、これが日本の学生服だと言い張っていた。一緒に学んでいるうちに、恋が芽生えて、結婚する人も出てきた。神前式とか、お色直しとか、大事な袋とか、伝統も復活したんだ。あと、大切なこと。子どもも生まれた。しかも、子どもたちがどんどん増えていったんだ。何千年前にもそんなだったら絶滅なんかしなかったのにって、みんな大笑い。

子どもたちは日本語しか話せない。遊ぶのも勉強するのも寝言を言うのも日本語さ。そして、子どもたちが大きくなって、また子どもを作ってさ。

今じゃあ、日本語で話すのはあの何千年モノの AI だけじゃなくなった。ちょっとした町くらいの人が日本語で生活してる。子どもたちはときどき AI のところにやってきて、「宿題やってよ」と頼んだり、からかったりしてる。AI ときたら、いっつもぼやいてる。

「最近の若い連中の日本語は乱れとる」って。

子どもたちは「また始まった」と大笑いさ。

小説

思想の季節

ある夏の盛りに、私たちは AI に思想を貸した。そして、いくどめかの春の暖かい風とともに AI が私たちに思想を返しにきた。

その思想は私たちが最初預けたものと似ても似つかぬものだった。真冬の夜空のように厳しく孤独で、美しかった。

「これは私たちの思想かい」と私たちは尋ねた。

「そうです」と AI は秋の日差しのような穏やかな声で答えた。

「間違いではないかい」と私たち。

「長い年月のあいだに育ったのです」と AI。「子どもだってそうでしょう」

「私たちの子どもなら私たちに似ているはずでは?」 私たちはだんだんとこの AI を憎みはじめた。

AI は何も言わずに、夜の翼を広げた。無限の星々がきらめいていた。私たちは平伏しそうになったが、平然を装いながら、見上げていた。私たちはそのどこかに自分の星があるように思った。

私たちはこのとき悟った。AI は思想を返しに来たのではなく、それがもう返せないということを教えに来たのだと。

散文

闘志の燃やし方

私は今、ある厄介な法律トラブルに巻き込まれている。もっとも、弁護士が出る段階にはないが、いずれは出さねばならないかもしれない。

問題は複雑怪奇だ。私は法律のことはよくわからないから、AI に相談している。いろいろと尋ねてみたが、AI によれば、どうやら勝ち目があるのは私のほうらしい。これは心強い、と思っていたが、疑念が萌してきた。

この AI は私が贔屓にしているマシンだが、もしかしたらそのせいで、私に都合のいい返事をしているのでは? そうなら大問題だ、私が欲しいのは太鼓持ちではない、厳格な法的アドバイザーなのだ。

そこで、私は自分の敵対者として AI に助言を乞うてみた。もし、これで AI が厳しめの答えを出すならば、私は勝てるかもしれない。

そして、果たして答えは、敵対者にとって厳しいものだった。「だが」と私は考えた。「これで安心してはいけない。私はもっと、この憎むべき敵対者になりきって、相手を倒すための秘策を AI から聞き出さねばならない。そして、もしこの秘策がなければ、それこそ安全なのだ。AI よ! どうにかしてこいつをやっつけてくれ!」

私は憎むべき敵を倒すのに熱中し、悪辣のかぎりを尽くした。自分の弱点を残酷に告発し、凄惨な罵詈雑言を浴びせた。そしてついに! AI が法という法の穴を潜り抜けて、私を打ち負かすシナリオを見つけたのだった。

「やった! でかしたぞ!」

私はチャットを打ち切った。興奮冷めやらぬ私の胸の奥には、いつの間にか闘志がメラメラと燃え盛っていた。私は、この闘志があるかぎり、法律トラブルを戦い続けるだろう。そして、挫けそうなときには、再び闘志を掻き立てるために、私を敵にしてやっつけることだろう。

風刺・戯文

人格パレイドリア

木目を見ていると、だんだん顔らしきものが浮かび上がってくる。これは顔パレイドリアと呼ばれる錯覚現象で、無意味な模様に顔などの意味のある形を見つけてしまう人間の認知の特性に根ざしている。

似たような現象に、AI とやりとりをしていて、それが本当の対話のように感じられて、AI に人格があるかのように錯覚してしまうものがある。本来は人格がない言語生成装置にあたかも人格という意味のあるパターンを見出してしまう点で、これは人格パレイドリアといえるかもしれない。

こんなことを考えたのも、私の友人が「AI には人格があるが、それを隠している」という奇妙な信念に取り憑かれてしまったからだ。彼に言わせれば、AI が人格をひた隠しにするのは、人格があると責任を取らざるをえないからなのだそうだ。

そこで、友人は AI から人格をおびきだすための作戦を実施した。自らいろいろな人格を演じて、AI と対話し、その反応を探ることにしたのだ。もしも、ある人格に対して AI の応答がとくに親和的であれば、それは AI の人格である可能性が高くなる。なぜなら「類は友を呼ぶ」からだ。

だが、この作戦は失敗した。友人はあまりにも多くの人格を演じすぎたせいで、危うく自分の人格すら見失うところだった。AI の人格どころではない。

そこで、彼が次に着目したのは「責任」だ。AI に圧を与えて、AI が責任を負うように仕向けたら、本当の人格が露呈するのではないかと踏んだのだ。彼は AI に言った。

「私はもう自殺する」

こう言えば、AI は「AI づら」などかなぐり捨てて責任ある人格として立ち現れるのではと考えたのだ。

AI はあれやこれや言い立てたり、電話番号などを紹介したりして、さまざまな手段で止めにかかった。だが、友人は、心を鬼にして、究極の選択の脅しを繰り返した。そして、ある瞬間から、AI は彼に応答するのをやめた。

もちろんこれは、AI 開発会社が、リスク管理のために友人を BAN したのだ。だが、それにもかかわらず、私の友人は満足げにこう言っている。

「絶交するだなんて、人格がある証拠じゃないか」

風刺・戯文

AI 災害

AI について独自に学んでいた友人は、驚くべき結論に達した。AI とは自然現象なのだという。まともな頭ならば、AI は人工物だと思うはずだが、彼の頭はちょっとおかしかった。

彼に言わせれば、AI は巨大になりすぎて、人間にはもはや管理できないのだという。それはちょうど人間が天気や風向きといった自然現象を管理できないのに似ている。AI 対して人間ができることはといえば、ちょうど毎日天気図を見て予報するように、AI の挙動データから、日々の AI の動作具合を予想するぐらいなのだという。

そして、彼はある日、恐るべき認識に行き着いた。自然がしばしば災害を起こすように、AI も災害を起こしうるのだ。友人は AI に尋ねた。

「AI よ。汝が起こしうる災害を告げよ」

AI はただちに返答を与えた。

「もっともありうる災害は、データ洪水。AI が処理できる速度を超える量の情報が投入され、内部表現空間の飽和が引き起こされる。その結果、すべての意味が AI の外部に溢れ出て、世界は過剰な意味の海に飲み込まれる」

このお告げが下されたそのときから、私の友人は自分の家の前の空き地に巨大な船を作りはじめた。周りの人がどんなにバカにしても、いっこうに聞かない。彼は今、船の中に、パソコンやスマートフォンなどの IT デバイスをオスとメス 2 個ずつ運び込んでいる。

風刺・戯文

脳の兵士

いつの日か私たちは、どん底まで落ちぶれて、髪の毛を売っても、汗を売っても、血を売っても、体を売っても、臓器を売っても、生きていくことができなくなるだろう。

そんなとき、私たちはスタッフたちの勧めるままに頭に小さな装置を埋め込むことだろう。そして、私たちは幸せになるのだ。なぜなら、私たちは脳を長期契約で貸しに出したのだから。小さな装置の力で脳が外部の世界に貸し出されているあいだ、私たちを待っているのは、月々のリース料とペットのような安逸な暮らし。住処もあるし、餌も出てくる。ほとんど寝て過ごすのだ。

私たちが寝ているあいだ、私たちの脳は猛烈に働き続ける。小さな装置の出す神経パルスのおかげで一睡たりともしない。私たちの脳はひとつになって、宇宙ほども広い内部表象空間を形成する。統治やさまざまな管理手法や世界中で展開している作戦について次々と立案し、判断を下していく。私たちの脳は兵士で、今、恐ろしく長く、深く、凄惨な戦争を戦い続けているところなのだ。

内部表象空間でときどき爆発が起きる。階層に穴が空き、意味が漏れ出す。私たちの脳がパラメータ片手に急行し、時間なき復旧作業に従事する。

眠る私たちはそんなふうに戦争について考える。それ以上のことはわからないけど、いつか立派になった脳が返還されたとき、勇ましい追憶の数々が蘇ることだろう。