ライブ

みなみかわ@草月ホール

「ニヤる~話を3つ用意しました~」というタイトルで、ひとつ三十分強の漫談を三つ、合わせて一時間四十五分の公演だった。私が見に行ったのは夜だ。

内容については「終わったら忘れてください」というので書かない。どの漫談もみなみかわ自身の一人称の語りで、フィクションではなかったが、フィクションとしての構造も、どんでん返しもあった。とくに良かったのは、一つ目と三つ目で、一つ目はコメディ映画になりそうなアイディアを実行してみた話、三つ目はある意味ではホーム・アローンのように悪者を撃退する話だった。

また、どれも倫理がテーマになっていた。一つ目は倫理的であろうとするあまり生まれたコメディ、二つ目は反倫理的行為の追求、三つ目は倫理的でないものを、倫理でもって「成敗」するもので、観客もやっつけられる側にあったのが面白いところだ。

倫理のある笑いというのは、なにも道徳的なことを主張するような堅苦しいものではない。笑いのテーマや方法の根っこに倫理、あるいは倫理から生まれた怒りやいらだちがあるということだ。そうした倫理がなくても笑いは生まれるし、そういう笑いもあってもいいと思う。ただ、倫理は、人間関係や善悪の判断がそうであるように、社会的なものだ。だから、そこから生まれる笑いは、程度の差はあるにしても、社会のあり方を反映したものになる。私はこんなふうに社会に触れてくる笑いが好きだ。

ところで、最初の漫談で、ちょっとしたトラブルがあった。みなみかわさんは大きな声で慌てていたが、何かトラブルがあったときに、黙ってトラブルを解消しようとするよりも、明るく騒いだほうが見ていて安心できるのに気がついた。私も人前で話すときになにか問題が生じたら、派手に困ってみせようと思う。

ライブ

ニガミ17才@渋谷 CLUB QUATTRO

今も読まれているかどうかはわからないが、子どものころ、私はロックスター語録を愛読したものだった。そのうちのひとつの『ミック・ジャガー語録』に彼の発言としてこんなことが書いてあった。

「ボブ・ディランだって、真面目な歌を歌い終わったあとに『なんちゃって』って付け加えてるかもしれないんだぜ!」

私は、七月十七日、ニガミ17才の全国ツアーファイナルに行って、そんな言葉を思い出した。もっとも、ボーカルとギターの岩下優介さんは、一曲歌い終わった後に「なんちゃって」するのではなかった。ギターを弾いているときでも、歌っているときでも、客に話しかけているときでも、真面目な顔の後に必ずイタズラっぽい、あるいは照れたような表情が現れる。それは、真剣になりすぎないようにストップをかけているのかもしれないし、逆に真剣さを押し退けて「なんちゃって」が出てきてしまうのかもしれないが、いずれにせよそれは、観客たちに向けた、真面目に受け取らず、楽しんでいいんだ、という合図として機能していた。

その実例にふさわしい出来事が、ライブの初めにあった。メンバーの登場から最初の曲に移る演出のところで、しくじってやり直し、しかもそのやり直しもうまくいかなかった。だが、この過程自体が、そもそもの演出であったかのように見えるほど自然で、私は今も、これが真面目なことなのか「なんちゃって」なのかわからない。そのわからなさこそ本質的で、真剣さとふざけの間の境界の上をうまく微調整しながら歩いてみせるのが、このバンドのもっとも真剣なところだ。

ツアーファイナルということで「最高の夜にしよう」というMCがあったが、私は最高の夜がよくわからないし、そんなものがあるとは信じてもいないが、「これはライブで味わえる最高の瞬間だ」と言える瞬間は間違いなくあったので、最高の夜だったと言えるかもしれない。なんちゃって。

ライブ

宇宙ネコ子@下北沢近道

宇宙ネコ子初のワンマン 「ねこねこ音楽会 夏の庭」が行われたが、すばらしいものだった。演奏も気合が入っていて、サポートメンバーもいつも以上にキレが良かった。会場の音響の良さも相まって、これまでのどのライブよりもクリアに聞こえた。全身をいくども音の塊が通過していった。

セットリストは、前半はアルバム「君のように生きれたら」、後半はアルバム「日の当たる場所にきてよ」で、先週のライブのように新曲はなかった。アルバムを非常に大切にしているのがうかがえた。

今日は、いつものドラムとベースに加えてギターのサポートも入っていた。それでメインボーカル(kano)はギターなしで歌に専念し、メインギター(ねむ子)もギターだけでなくシンセなども演奏し、さらに音に深みが加わっていた。なお、kano さんは、先週はステージでココアを飲んでいたが、今日はハチミツのチューブを合間合間に口にしていた。

そして、やはり今回もメインギターの凄さに圧倒された。特に「(I’m) Waiting for the Sun」では、繊細なアルペジオから、鋭いフレーズ、ゴツいカッティング、そして狂おしいノイズまで、幅広い演奏を聴くことができた。さまざまな演奏手法で曲を構築していく仕方が、家を出る前に奇しくも YouTube で見たジョン・マッギオークの演奏(Spellbound)を彷彿とさせて、感慨深かった。

アンコールでは「ただいま」が演奏された。MCで明かされたのは、この曲の仮名が「エハラ」であったことで、それはこの曲は矢野顕子の曲調をイメージして作られたから。つまり、矢野顕子のモノマネをするエハラマサヒロから取られたのだという。家を出る前に私は奇しくも YouTube で、エハラマサヒロの布施明の動画を見ていて、これもまた感慨深かった。

ダブル・アンコールの「日々のあわ」では、ギターのサポートが抜けて、いつもの四人編成に戻り、kano さんもギターを演奏した。新しい一歩を踏み出したという感じで、これからのライブも楽しみだ。

ライブ

宇宙ネコ子×幽体コミュニケーションズ@O-nest

一二時開演のライブ。日曜午前中の渋谷は少し不穏で、裏通りは臭った。昨晩のはしゃぎを持ち越す集団や、歩道の真ん中に倒れ伏している若い男を避けながら、会場に向かう。

幽体コミュニケーションズは、自然音とバックトラックを使う複雑な演奏だが、骨格は日本のポップで、それが楽しい。ヴォーカルの人が「朝に起きると朝の体になる」と言っていて、まさに日曜のお昼の音楽になっていた。

宇宙ネコ子は日曜の午後の台風のようだ。新曲を四曲演奏した。そのうち最初の二曲は十月のアルバムに入る予定だが、後の二曲は入らないのだそうだ。入るとすれば、次の次のアルバムかも、とのこと。実際に聞いてみると、雰囲気が確かに違うのだった。

ボーカル+ギターの人(kano)が、飲み物としてペットボトルを二本持ってきていた。一本はコーン茶で、もう一本はココアだった。ステージでジャック・ダニエルを飲む人はいるが、ココアを飲む人ははじめて見た。

メインギターの人(ねむ子)は、フレーズも的確で、ノイズも分厚い。私の好きなギタリストだ。いつもステージ右側の床に白い布を敷いて、その上に座って弾く。なので、少し後ろからだと、演奏しているようすはよく見えない。もっと後ろからだと、いるかどうかもわからない。今回は私は右側の二列目だったので、その演奏をたっぷりと見ることができた。

もっとも、演奏中はほとんどステージの奥のほうに顔を向けていた。だが、まれに客席を見るときがある。いつもマスクをしている人なので、表情はわからないが、とても楽しそうな目をしていた。

一二時からのライブハウスもいいものだと思った。歩道で寝ていた男も今ごろは歩き出していることだろう。

ライブ

松任谷由実@東京国際フォーラム・ホールA

人に頼まれて携帯で松任谷由実のチケットを取ったら、その携帯の持ち主しか入場できないというので、結局、私が行くことになった。七月二日のライブだ。

今回のライブは、最新作のアルバムにちなんで「THE WORMHOLE TOUR」と名づけられ、宇宙論に結び付けられている。ユーミンは「恋愛の教祖」と呼ばれたり、「シティポップ」の代表格として扱われたりしている。だが、それは上辺だけの理解にすぎない。なぜなら、松任谷由実はSF歌手だからだ。

以前のツアーでもタイムマシンがコンセプトとして取り上げられていた。ウェルズを持ち出すまでもなく、これはSFだ。それどころかAIで若い頃の自分のクローンまで作り出した。MCでは、そのうちロボットの自分が歌うだろう、などということも言っている。SF歌手ユーミンは本気なのだ。

よくよく考えてみれば、松任谷由実は「時をかける少女」や「さよならジュピター」といった八十年代のSF映画の主題歌も作っている。いうまでもなくどちらも名曲だが、これもまた、松任谷由実のずば抜けたSF感性の証拠だ。

この日のライブでは、SF的なツアーコンセプトがじっくり展開され、アンコールではかなりリラックスした演奏が繰り広げられた。正直言って、私はこっちのほうがずっと楽しかった。そして、ついに最後の曲「卒業写真」がはじまった。

人ごみに流されて
変わっていく私を
あなたはときどき
遠くでしかって

私よりも年齢層の高い観客が多く、みな感動しながら聞いていた。それぞれの青春、もう二度と戻ってこない青春を思い出しているのかもしれなかった。

だが、SF歌手ユーミンがそんな後ろ向きの歌を歌うだろうか。私に言わせれば、この歌の本当のメッセージはそんなものではない。高次の存在へと変容しつつある人類を、宇宙人が遠くから見守っている、これだ。

幼年期からの卒業も近い。

ライブ

ぎだゆう座六月公演

毎月一日二日はお江戸上野広小路亭で、女流義太夫の公演がある。二時間ほどの公演で、最初に演目の解説があって、それから演奏がある。六月一日の公演は義経千本桜の「すしやの段」だ。これを「前」と「奥」の二つに分けて、「前」を竹本京之助(浄瑠璃)、鶴澤津賀寿(三味線)、「奥」を竹本越孝(浄瑠璃)、鶴澤三寿々(三味線)が演奏した。このうち、京之助先生、越孝先生、三寿々先生は、去年度の義太夫節の実践コースで教わった先生方だ。

義太夫節は、語りと三味線を聴いているうちに両者が一つになって独特な響きを帯び、体の深いところにまで届きはじめる。遠赤外線焙煎だ。

とはいえ、私は聴くだけでは言葉がわからないので、ときどきパンフレットを見る。これは入場時に貰えるもので、脚本が印刷してある。聴いているうちに「命」の発音が変なのに気がついた。

「命は」を「いのちは」ではなく「いのった」というのだ。「命を」も「いのっと」と言っていたような気もする。あとで日本古典文学大系の『文楽浄瑠璃集』で調べてみると、連声で「いのッタ」というと書いてあった(二〇〇ページ)。

義太夫節ではよく出てくるが、撥音の後に助詞の「は」が来ると合わさって「な」になる。つまり「油断は」は「ゆだんな」と読む。「いのった」もこれと同じような現象だ。

だが、「んは」が「な」になるのは、「h」が消えたためだとすればまだわかるとしても、「いのちは」が「いのった」になるのはよくわからない。連声だというが、連声は漢字の熟語で起きるものだという。だが、「いのち」は和語だ。おそらく漢語由来の連声が、和語にも適用されたのだろう。だが、それでもよくわからない。

いずれにせよ、こうした古い発音が今も生きているのが義太夫節の面白さだ。昨年度の語り教室では越孝先生に「腕白」の「ぱ」は、「ぱ」と「ば」の間だと教わった。どういう発音かはわからないが、そうしないと、どこか違ってしまうのだ。とても面白い。

ライブ

第十九回 街裏ぴんく漫談独演会「ワンスアゲイン」

昨日土曜日、義太夫節のフリーマーケットで床本を買ったのち、渋谷のさくらホールで開催された街裏ぴんく漫談独演会に行った。あまり考えていなかったが、義太夫節も漫談も語りだ。

といっても、街裏ぴんくの漫談についてそれほど知っているわけではない。ただ、評判がいいので一度、生で聞いてみたいと思っていた。それで独演会のチケットを予約した。ただ、その前に今年の五月七日、にぼしいわしの A-dashi 事務所ライブ「フーフー#5」にも出演するというので、行ってみた。それを見て独演会がますます楽しみになった。

私は語りがどんなふうに成立するかに興味がある。言語的側面から捉えるとやりやすいが、声の調子や表情、動きなどの身体表現なども大事な要素だ。だから、生で見なくてはならない。だから、独演会に行かなくてはならない。遊びではない。だが、そう考えると行きたくなくなるので、遊びとして行った。

そして、独演会はとても面白かった。

街裏ぴんくの漫談はたいてい具体的な地名に語り手がいるところから始まる。そこに何か奇妙な出来事が起きて、語り手が巻き込まれる。同時に聞き手も、街裏ぴんくの提示する少し間の抜けたファンタジーの世界に運ばれていく。

この変な世界は展開自体も面白いが、語り手自身もときどき脱線して余計なことを言い出すのが面白い。しかし、もっとも笑いが大きいのは、奇妙な世界の登場人物が言う一言だ。これがどこかずれていて、吹き出さずにはいられない。街裏ぴんくらしさが出ているピークの作り方だと思った。

また、声色や身振り手振りだけでなく、全身を使って舞台中を飛び回る。これを二時間半続けるのだから非常に大変だ。聞いている方も疲れてしまうので、街裏ぴんくも気をつかって「楽にして聞いてください」と言っていたくらいだ。

義太夫節でも漫談でも、その他の話芸でも、演技や三味線があるとはいえ、中心にあるのは語りだ。その語りだけで、不思議と独特な空間が立ち上がってくる。これが語りの醍醐味であり、私の関心のあるところだ。

街裏ぴんくの独演会にもその不思議な空間が確かに存在していて、彼の着るピンクの衣装が奇妙な輝きを発したり、別の色に見えたりした。

ライブ

宇宙ネコ子 × ラブリーサマーちゃん × iVy@Spotify O-nest

宇宙ネコ子 、ラブリーサマーちゃん、iVy の 3 組のライブを見るために、2 日連続で同じライブハウスに行くことになった。

ラブリーサマーちゃんによれば、これら 3 組のミュージシャンの共通点は「ドリーミー」だということだ。

音楽のジャンルのことはよくわからないが、ノイズが重要な役割を果たす音楽ということだろうと思う。もっとも、ノイズといっても、ルー・リードの危険なノイズ・アルバム『メタル・マシーン・ミュージック』とは違う。心地よく全身が浸れる、陶酔感のあるノイズだ。

最初に演奏した iVy では、シンセ(か何か)で作った騒音が演奏の山場になっていた。ラブリーサマーちゃんは一人での演奏だったが、エフェクトのかかったギターからは、気持ちのよい雑音が滲み出ていた。宇宙ネコ子のねむ子はもうノイズギターの鏡だ。

当然のことながら、この気持ちのよいノイズはライブでしか聴けない。録音でも、それに近いものはできるのかもしれないが、似て非なるものだ。かりに本気で再現しようとしても、結局『メタル・マシーン・ミュージック』になってしまうので、断念せざるをえないのだ。

だから、たくさんの人がノイズを求めて、ライブハウスに足を運ぶ。なかにはもうこれなしではダメ、という人もいるかもしれない。私もそれに近い。だが、これは危険だ。

いつの日か、死の床に横たわり、自分に繋がれた心電図モニターのピッ、ピッというリズムを聴きながら、早く「ピー」というノイズが聞きたい、とうっとりしだすかもしれないから。

ライブ

モーモールルギャバン × ニガミ17才 @ Spotify O-nest

整理番号が 10 番台だったので、最前列の真ん中で見た。最初はニガミ 17 才だ。

曲が終わると「ありがと」というのが常の岩下優介だが、ライブハウスにはじめてきたときの気持ちを大切にしたい、とのことで、曲終わりの一言でその気持ちを伝えたいという試みを始める。しかし、なんて言おうか気になってしまい、演奏のクオリティを下げてまですることではないと、2 曲ほどでこの試みは放棄された。

次のバンドはモーモールルギャバン。ニガミ 17 才の試みを受けて、曲終わりの一言に挑戦するが、やはり、演奏のクオリティを下げてまですることではない、との結論に達して放棄された。

ニガミ 17 才のライブでは「ねこ子」の曲になると、平沢あくびがステージの前に出て、客席にティッシュを撒く。今回は最前列だったので、私ははじめてティッシュを手に入れた。

モーモールルギャバンは私ははじめてだ。開演前の機材のセッティングのときに、メンバーたちも現れる。ドラムとボーカルのゲイリー・ビッチェが、自分のドラムのセッティングをしている。調整が終わると、靴を脱いで、ドラムの横に置かれた台の下に置いた。それから、靴下を脱いで靴の中に丸め込んだ。裸足でドラムを叩く人なのだ。

だが、それだけではない。ライブの後半には、パンツ 1 枚になって台の上に立つ人になっていた。

「客の皆さんが私をこんな変態にしたのです」と本人は台の上から主張。これはモーモールルギャバンのライブではお馴染みの光景らしい。

さて、ドラムのセッティングのとき、ゲイリー・ビッチェが 1.5 リットルのペットボトルの水を持ってきて、台の上に置いた。なにかルールがあるのか、ペットボトルのラベルを剥がして、くしゃくしゃに丸めた。そのゴミをどうするのかと見ていると、台の下にある靴の中に放り込んだ。

これを見て、このバンドが好きにならない人はいないと思った。私は演奏も気に入ったので、終演後 1,000 円払って、ゲイリー・ビッチェとチェキまで撮った。これが私にとってはじめてのチェキだ。

私はティッシュとチェキとライブをカバンに入れて、帰宅した。

ライブ

戸川純@東京キネマ倶楽部

先週行った Todd Rundgren よりも、私にとっては付き合いの長い戸川純のライブ「jun togawa “birthday” live 2026」に行った。

中学生のころの私のアイドルで、これまで一度もライブに行ったことがないのが不思議だが、子どものころと同じ感覚のままで、別世界にいる人のように思っていたからかもしれない。

今回は、64 歳の誕生日を記念するライブであったが、残念なことに、足を悪くしたせいで座ったままの歌唱だった。だが、前半最後の曲で立ち上がって歌ったときは、その声と迫力に思わず震えた。椅子に座っているよりもはるかに大きく見え、存在感がまったく違うのだ。

後半は、彼女の切り抜きを集めていた中学生の私が繰り返し聞いた「蛹化の女」「母子受精」「レーダーマン」、そしてアンコールの締めに「パンク蛹化の女」といううれしい選曲だった。

座っていたせいで最初は精彩を欠くように思えたが、MC で足の診察について医者のことをやたら愚痴ったり、高い声が出なくて「ごめんなさい」と謝ったりするのも、最後には戸川純の存在そのものに吸収されてしまった。サブカルという枠で音楽が聴かれた時代から、その枠そのものが消えたサブスクの現代まで、ステージに立ち続けている人になにをいうことがあろう。

今年もたくさんライブをするということなので、次は彼女がもっとステージを動き回れるようになるときに行くことに決めた。