ライブ

改良人形芝居ルネッサンス@浅草文化観光センター

一糸座は江戸時代からの伝統を受け継ぐ糸あやつり人形の劇団で、義太夫節に合わせた上演も行なっている。文楽の人形と違うのは、その名の通りひとりで糸を操って人形を動かす点と、人形遣いがセリフを言うところだ。

今回の演目は「三番叟」「八百屋お七、火見櫓の場」「鈴ヶ森」と新作人形浄瑠璃だ。新作は吉原の遊郭に行こうとする男の話だった。

このうち義太夫節が演奏されたのは「八百屋お七」と新作で、語りは竹本越孝、三味線は鶴澤三寿々という、私が習ったことのある先生方だ。これに望月太意三郎の太鼓が加わった。配置でいえば、右からは語りと三味線が聞こえ、左からは太鼓が鳴り響き、中央の舞台では人形たちが動いて話すというもので、小さい会場だったので目も耳ものびのびと楽しんでいた。

人形操作の巧みさにも驚いた。あんな複雑なことをしなくても生身で演じればいいのにと思うが、逆に人形だからいいのではという気もしてきた。それは人形にしかできないことがあるというのではなく、演劇の本質に人形があるのではないか。古典ギリシアの演劇ではマスクをかぶっていたというし、能もまたそうだ。生身では都合が悪いことがあるのだ。

通常の演劇で大事なのは、筋やテーマが明確に観客に伝わるように登場人物を動かすことだ。そのためにはまずある種の類型化とデフォルメが必要だ。これでわかりやすくなる。それから、観客が集中してくれるように、余計なものを捨てるのも大事だ。人形やマスクならば、生身の人間が簡単に隠すことのできない変化を見せないでおくことができる。人形やマスクによって生身の危うさを排除することで、演劇は初めて演劇になるのではないだろうか。

こういうと、生身の人間も演劇に出演しているではないか、と反論する人もいるだろう。だが、その生身の人間も、演技を通じて人形になっているのではないだろうか。もしかしたら、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない。

ライブ

整理番号の人(2)

150番まで呼び出しが進んだとき、ある変化が起きた。入り口のスタッフがこんなことを言い出したのだ。

「ここからは5番ずつお呼びします。では、151番から155番までの方」

入場を待つ人々の群れから、五人の姿がバラバラと離脱し、入場口に吸い込まれていった。これはいったいどういうことだろうか、と私はいつも思う。早い番号は丁寧に迎え入れられるのに、後の方ではザルでひとまとめに掬われて放り込まれるのだ。

わ、私たちは同じ料金を払っているのだ! こんな十把一絡げの扱いを受けるいわれはない! すると誰かが反論する。早い番号を取るのに苦労した人は報われるべきではないか?

違う! これは抽選だ! 番号が遅いのは私のせいではない!

いや、結局のところ、もう会場のいい場所は埋まっていることだろう。いまさら順番など関係ないのかもしれない……。そうだ、もうどこだっていい。249番に宿る場所などないのだ。

「200番からは10番ずつお呼びします。もう少し前にお詰めください」

私はさらに前に出た。目の前にスタッフが立っていた。

「241番から250番までの方!」

私はすばやく群を抜け、他の誰よりも早くスタッフに携帯をかざすと、1番で入場口を通過した。

ライブ

整理番号の人(1)

オールスタンディングのライブに行った。開場時間の前に着くと、すでに会場の入り口には人が群がっていた。待っていると、やがてスタッフが姿を現し、まもなく開場であること、整理番号順に呼んでいくので、チケットを用意しておくことなどを告げた。そして、時間が来て入場が始まった。

入り口に立ったスタッフが声を上げる。

「整理番号1番の方」

群れの中からひとりが歩み出て、携帯の画面をスタッフに見せる。このときから私たちすべてはこの人の背中を追うものとなったのだ。

「整理番号2番の方、3番の方」 スタッフは次々に番号を呼び、その度に客が中へと吸い込まれていった。私は249番だった。

「整理番号20番の方、ただいま20番までお呼びしています」 間に合わなかった人々がパラパラと入場していく。

番号はどんどん進んでいった。「整理番号47番の方……52番の方……60番の方、ただいま60番まで入場できます」 係の人はよく番号を忘れずにいるものだ、と感心する。私なら途中で何番まで数えたか忘れてしまうだろう。

整理番号が70番になった。70番目の客を通過させたスタッフは、入場待ちの客たちに呼びかけた。

「もう少し前に詰めてお待ちください」

番号の早い人々が入場してしまったので、前の方にスペースができていたのだ。人々は前進した。私もどんどん進み、一番前の空間に入り込んだ。249番なので呼ばれるのにはまだ間があった。だが、スタッフの命令は絶対だ。それに、そうするだけの理由もあった……。

ライブ

ラブレターズ単独ライブ2026「溺愛」@赤坂RED/THEATER

公演は九十分で六本のコントが演じられた。会場は大爆笑で、私も笑った。コントの道具を入れ替える間に、前のコントと次のコントを繋ぐミニコントもあった。これは去年の単独公演でも見たが、相変わらずのうまさに感心した。

面白かったのでそれはそれでよかったのだが、笑ってばかりいると今度はもの足りなくなってきた。どこか笑えないところがあると私はうれしい。

笑えないところがあるというのは、まず、背後に毒や暗さがある感じで、これがあると「ちょっと待てよ」とノンキに笑っていられなくなる。もうひとつはなにかしら発見があるということで、そうなるともう笑っているどころでなくなってくる。

もっとも、ラブレターズに毒がないのは別に悪いことではない。そうした作風だからだ。また、発見というのは枠が外れたときに起きることが多い。例えば、漫才だと最初から役に入るわけではないので、演者の個性についてなにか発見することもあるが、コントでは最初から演技が始まるので、その外にあるものはあまり目に入ってこない。ただし、発見させるコントというものもあると思うが、これもまた作風の問題だ。

最後に心覚えにコントの順を記しておく。「ゴミ箱」「N」「孫」「シェフ」「音楽」「携帯」。これは本当のタイトルではなく、またネタバレにならないよう気をつけている。なので、これだけでは観ていない人はわからないだろうし、半年後の私にもわからないだろう。

ライブ

ぎだゆう座十月公演@お江戸上野広小路亭

この日の演目は『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の「六角堂の段」(浄瑠璃:竹本綾一、三味線:鶴澤弥々、細三味線:鶴澤朔弥)と「帯屋の段」(浄瑠璃:竹本越孝、三味線:鶴澤津賀花)。一七六一年に起きた、三十八歳の男と十四歳の少女の心中事件をもとに作られた作品だ。

これは気持ち悪い。だいたい浄瑠璃作品には子どもの命を利用するものが多く、私はそういう部分はきらいだ。もっとも、『桂川』の場合は、本当は心中事件ではなく、二人とも事件に巻き込まれて殺害されたものだという。よかった。

しかし、事実はどうであれ物語は心中物だ。「帯屋の段」の後半で二人が死を決意するくだりは、やはりすきにはなれない。もっとも、語りと三味線は別物で、その演出には息を呑むような瞬間があった。

私がもっとも気に入ったのは、「帯屋の段」の前半部分だ。意地の悪い女とその息子が出てきて、憎々しげに主人公を苦しめる。公演では浄瑠璃脚本を印刷したものが配布され、言葉がわからないときはそれを適宜確認しながら舞台を見る。通常は印刷物と実際の語りは大きく違うことはないのだが、竹本越孝先生の語りはその印刷物を超えるようなもので、私は紙など見ている場合ではないという気分になった。

「笑壺に入る」とは「笑う」という意味で浄瑠璃などでよく出てくる言葉だが、これが現代の「笑いのツボに入る」「ツボる」とどういう関係なのかわからない。それはともかく「帯屋の段」では悪役の息子がまさしく現代語でいう「ツボる」くだりがあり、語りに引き込まれていた私も思わずツボりかけた。

ライブ

『コントの虎 漫才の狼』@なかのZERO小ホール

これはヤーレンズとジグザグジギーの第十一回目のツーマンライブだ。私は去年の同じころに第八回にも行っている。今回は最前列の真ん中といういい席が当たったが、音楽とは違い、漫才とコントではあまり関係なかった。

ネタを三本ずつ、そのうち新ネタはそれぞれ二本ということだった。演目は次の通り。タイトルは私が適当につけたものだ。

オープニングトーク
①ヤーレンズ「自己紹介」
②ジグザグジギー「白T」
③ヤーレンズ「ファミレス」
④ジグザグジギー「結婚式の撮影」
⑤ヤーレンズ「クイズ番組」
⑥ジグザグジギー「指名手配」
トーク

ジグザグジギーのコントは、ひとつのアイディアを押すタイプのもので、アイディアの奇妙さと演出が巧みだった。

ヤーレンズの二人には、以前から妙な偏屈さがあることは感じていたが、今回の漫才では、その背後にある種の鬱屈が見え隠れしているのに気がついた。そこが批評の気配を漂わせ、漫才を単なるふざけ合いに見せない。

ヤーレンズの最後のネタは、知っている人だけが笑える小ネタの連続と、誰でも笑える動きのある大ネタ、という持ち味がバランスよく組み合わされたものだった。

私がこれまで見たどの漫才よりも充実したものだった。おそらく現在、漫才として見られる最高の部類に入るのではないだろうか。

私は賞レースのことはわからないし、これをそのままM-1に持っていけるものでもないだろうが、今年も大いに期待できるのではないかと思う。

十月の後半からは来年の武道館での単独公演の抽選が始まるそうだ。ヤーレンズの単独はいつも落ちるので、応募はやめようと思っていたが、やってみるだけの価値はある。

ライブ

その人差し指で

スマートフォンの表面の汚さは、トイレの便座に匹敵するほどだということはよく知られている。いや、ある調査によれば便座よりもはるかに汚いのだという。

便座並みの汚れが如何なるものかというと、持ち主の皮脂や汗から召喚された諸々の雑菌たちだという。また、私たちの手はいろいろなものに触れるようにできているから、手を経由してさまざまなバイ菌たちが移住してきている可能性もある。スマートフォンの表面は、バイ菌たちの楽園だったのだ。しかも、便座並みに汚いのならばいっそのことと、便座並みの使い方をしている人も多いだろう。

もっとも自分の携帯を自分で触るのならばいい。だが、問題は他人のものを触らねばならないときだ。私にもその経験はあるが、他人の携帯の表面は見るからにニチャニチャネチャネチャしている。得体の知れぬ凶悪なバイ菌たちががっちり連携しあっているその様子に、私の人差し指は戸惑いを隠せない。

私はたまにライブに行くが、最近では携帯のアプリがチケットがわりになっている。入場時に携帯の画面を見せる。そこには電子チケットがあり、入場係が人差し指でスワイプすると完了だ。

入場係は毎晩、その人差し指で果敢に何百もの携帯の表面をなぞる。命懸けの仕事だ。私はライブに行くたびに、入場係の人々の健康を願わずにはいられない。

ワンドリンク代の六百円で、アルコール類などを買う代わりに、除菌アルコールをスタッフに差し入れできる、そんなオプションもあればいい。

ライブ

Homecomings presents「many shapes, many echoes」@ 渋谷 CLUB QUATTRO

私は忘れていたのだが、Homecomings のスリーマンライブは長いのだった。去年の七月は四時間。待ち時間を入れると五時間立ちっぱなし。だが、今日は三十分ばかり短縮されていた。

ゲストバンドは iVy と DYGL の2バンド。どちらも私は二回目だ。そしてどちらも来月新しいアルバムを出すという。

Homecomings は二人体制になって初めてだ。私は入場順が遅く、右端の壁であまりステージは見えなかった。ときどき壁に寄りかかりながら、目を瞑りながら音に浸った。ふと目を開けるとステージの光が前の観客の頭の向こうに見えて、あまりに遠くにあるのに驚いた。目を閉じて聴くと距離を感じないのが不思議だ。

Homecomings の曲には独特のクセがあって、メロディの最後に一拍遅れて沈むようなメロディが来る。サビに繋がるときもあるし、曲の終わりのときもあるが、その沈んだ一節に独特の余韻がある、ということに気がついた。

MC では今後のライブの話になった。最近のAI任せの風潮に逆らって、フライヤーを手作りしたとのことだ。韓国でもライブがあるので、そのフライヤーを向こうのプロモーターに渡したら、フライヤーをAIに読ませてアニメにしてしまったそうだ。

ライブの終わりの物販では、iVy のメンバーの二人が来ていたので、Tシャツを買うついでに「一月のワンマンの抽選に応募しました」と言ったら喜んでいた。

ライブ

海風邪 1st EP release party@下北沢ERA

海風邪というバンドの初EP「私の夢を見ていてね」リリース記念ライブが九月二十日に行われ、宇宙ネコ子がゲストとして出演するので行ってみた。海風邪は、昨年結成されたばかりの五人組のバンドで、男女のツインボーカルもいい。楽曲も気に入った。

ライブ前、雨の中、会場に向かって歩いていると、宇宙ネコ子のギターのねむこさんが前を横切って行った。そして、同じ頃、ギターとボーカルの kano さんは別のところでケバブを購入していたことが MC でのちに明らかにされた。出演前は必ずケバブを食べるのだそうだ。トルコのミュージシャンでもそんなことはしないだろう。

宇宙ネコ子は前日と同じバンドセットで、ドラムとベースはいつものサポートメンバーだ。昨日書いたことにも通じるが、研究発表と同じく、演奏もまたわかりやすくなくてはいけないと、ライブを聴きながら思った。どういうことかというと、瞬間瞬間に聞き手がどの音、どの楽器、どの効果に意識をフォーカスすればいいかが自然にわかるということだ。それができると演奏は近くなるし、そうでないとただ遠くで鳴っている音になる。

宇宙ネコ子の場合、演奏の焦点は歌とギターだ。どちらかのときもあるし、両方のときもあるが、なんにしても、聞いていて迷うことがない。考えずに音を楽しむことができる。逆にいえば、なんの音だろう、とまず考えさせられると、そこで聞くことが止まってしまう。そうならないようにするためには、音を詰め込まないのが大事だ。今回の宇宙ネコ子でいうと、ドラムとベースの仕事が重要だ。

よくよく考えてみれば、これは当たり前のことだ。デイヴィッド・リー・ロスが歌っているあいだじゅう、エディ・ヴァン・ヘイレンがチロリロチロリロチロリロビィーンと派手に弾いていたら、聞き手もいつジャンプしたらいいかわからなくなるにちがいない。

ライブ

Good lucky 2マン show!@三軒茶屋 HEAVEN’S DOOR

今日は noodles と宇宙ネコ子のツーマンライブがあった。この組み合わせは去年の十一月二十一日以来、二回目だ。その時と同じく、宇宙ネコ子、noodles の出順だった。

前のライブでは、宇宙ネコ子の kano さんがギターをどこかに置き忘れて、noodles の yoko さんから借りるという「事件」があった。その顛末について改めて yoko さんより MC で報告があった。

ライブ終了後、置き忘れた場所に戻ったら、奇跡的にあったのだという。

MC ではさらに、ラーメンにおけるネギの働きについての考察も披露された。ネギがきらいな yoko さんは、ある店で、ラーメンのネギを自分で除いて食べた後に、同じラーメンを今度はネギ抜きで注文して食べたら、ネギを除いたときのほうがおいしかったのだという。その後、ネギを食べずにそのおいしさをラーメンに留める方法の提案などもなされた。

それはともかく、そんな話が出るくらいの余裕の演奏であった。熱心なファンも多いようで、私は最前列にいたのだが、noodles の出番直前になると急に背中から受ける圧が高まったのに驚いた。

私は二ヶ月ぶりのライブハウスだった。整理番号が早めで、最前列の左端、スピーカーの前の場所を取ることができた。音を直接浴びる場所なので左耳がやられる可能性があったが、耳が悪くなったら退却することにした。

結局は無事だったが、ライブが始まるまでは心配だった。

『釣りキチ三平』に出てくるウラン鉱のせいで片目になったイワナのことをふと思い出したりした。