研究

遠い道のり

チュニジアのベルベル語は、話す人が少なくなっていて、そのうちなくなるかも、という人もいる。私はこの言語の勉強を始めたばかりなので、なんとも言えないが、辞書も文法書もないので、ひとつひとつ調べなくてはならない。私の目標は文法書を書くことだが、Sさんはそんな私を助けてくれている人だ。

チュニジアのアラビア語で「布製の大きな袋」という意味のシュカーラという語がある。これをベルベル語でなんというかSさんに尋ねると、該当する単語を教えてくれた。私はそれをアラビア文字で書き取り、その下に日本語で「大きなふくろ」とメモをした。あとで見返したら「大きなふから」と書かれていた。シュカーラに引っ張られていたのだ。文法書への道のりは遠いと言わねばならない。

Sさんはベルベル語が母語だが、普段はチュニジアのアラビア語で生活している。そんなわけで単語がすぐ出てこないことも多いが、すぐに同居しているお母さんに電話で確認してくれる。しかし、なにかの事情で電話が繋がらないこともある。そんなときはわからない点はそのままにしておいて、あとで聞くことにしている。

あるとき「〜の間に」という単語をSさんが思い出せないことがあった。そこで、いつものように電話すると、Sさんの家族が出て、お母さんに取り次いでくれた。実はその前に何度か電話をかけたが繋がらなかったので、不明な単語がいくつかあった。問題の単語を教えてもらうと、私たちはノートを見返し、わからない単語をお母さんにひとつひとつ教えてもらった。

そして、Sさんが電話を切り、もう一度「〜の間に」の問題に返ったとき、私たちはその単語をすっかり忘れていることに気がついた。

ありがたいことにすぐに電話をかけて確認してくれたが、道のりはまだまだ遠いと言わねばならない。

旅・観察

手で食べる話

昨日に引き続き、Sさんの体験談だ。私が「指」をベルベル語でなんというか尋ねたら、手で食べる習慣についての話になった。

Sさんがモーリタニアに行ったときのことだ。Sさんはある家に招かれて食事をすることになったのだが、その食べ方を見て驚いた。米を手で掬って、ボール状にして食べる、これだけなら普通だが、面白いのはそれからだ。現地の人は、そのボールをそのまま口に運ぶのではなく、手で米をポイと口の中に投げ入れるのだそうだ。

チュニジアの人も手を使って器用に食べるが、Sさんはさすがにこれは真似できず、スプーンが欲しいと伝えると、その人たちは近所中探してスプーンを持ってきてくれたのだという。

この話からの連想で、あるアルジェリア人の逸話についても話してくれた。

あるアルジェリア人がフランスに行ってレストランで食事をした。するとそのレストランにいたフランス人が汚い食べ方だと文句を言った。

これにそのアルジェリア人、平然と言い返した。

「私が手で食べているのは、自分の手がきれいだからだ。あなたたちがフォークやスプーンで食べるのは、あなたたちの手が汚いからではないか」

もしかしたらこのアルジェリア人は、別の意味でもフランス人の手は汚いと言ったのかもしれない。それはさておき、最初の話も、その次の話も、昔のアラブの逸話集にでも出てきそうなエピソードではないか。

旅・観察

断食の違い

私は今、チュニジアでベルベル語について教えてもらっている。まだ初心者なので、名詞や動詞の活用についてひとつひとつ記録している段階だ。

教えてくれるのはSさんという男性だ。人生経験の豊富な人で、ベルベル語のことばかりでなく、チュニジアの文化や外国での体験などについても話してくれる。ただしこれは、チュニジアのアラビア語方言でだ。しかし、私は方言についても勉強しているので、これも貴重な資料になる。マグロと一緒で捨てるところがない。

ベルベル語で「なにも〜しない」をどう言うのか尋ねていて「断食中はなにも食べない」という例文をSさんが出してくれた。断食というのは、ラマダーンのことで、この期間は、人々は日中は食事をしない。そこからSさんが、断食に関する思い出を話してくれた。

昔、Sさんがあるレバノン人と食事をしたときのことだ。レバノンはアラビア語圏だが、ムスリムだけでなく、キリスト教徒も多く、その人もそのひとりだった。Sさんがその人に肉を渡そうとすると彼は言った。

「私は断食中だから食べません」

これにSさんは「食べてるのに?」と思ったそうだ。だが、そのわけを聞いて彼は「我々は断食というとなにも食べないことだが、レバノンのキリスト教徒にとっては断食とは肉を食べないことで、それ以外は食べてもいいのだ」とびっくりしたということだ。

これがレバノンのキリスト教徒すべてに当てはまるかどうかはさておき、この話のミソは、Sさんも、このレバノン人も、断食に同じアラビア語の単語を使っていたことだ。同じ単語でも、宗教の違いによって意味が変わってくるということが、当時のSさんにとって新鮮な発見だったのだ。

断食というとダイエットしか思い浮かばない私にとっても、Sさんの驚き込みで新鮮な発見となった。

旅・観察

安物ガイ(チュニジアへの旅行)

チュニジア行きの航空券には大きく分けて、中東系とヨーロッパ系があり、中東系のほうが二十万円強なのに比べて、ヨーロッパ系だと三十万から五十万円になる。

私は先日チケットを買いに行って、自らの経済状況などを真剣に検討した結果、初めから目をつけていた中東系の安いチケットを買うことにした。エミレーツ航空の二十万円だ。旅行代理店の話だと、中東の情勢次第では便の変更や欠航の可能性もあるという。だが、出発はまだ先のことだ。よくなることだって大いにありうる。安物ガイの消費マインドを支えるのはこの楽観性だ。

今回の旅は、旅費などが研究費から出る。私は旅費の申請のための書類を作成し、これを、研究費を管理してくれているオフィスに送った。書類が整っていないと、研究費を使うことはできない。

次の日、メールの返信が来た。リアリズムのメールであった。

・チュニジア行きの往復でドバイを経由している。
・現在、外務省の海外安全情報では、ドバイはレベル3(渡航中止勧告)となっている。
・経由地であっても、レベル3以上の地域への滞在は許可できない。
・経由地の変更か旅行の延期が必要。

よく見ると「外務省の海外安全情報(危険情報)」としてあった。海外安全情報だから安全だ、と私が言い出すかも、と念を入れたのだ。

もう! 私はすべてキャンセルして、新たなルートで旅程を組み直した。キャンセル料は総額いくらになるかわからない。戦争があると、銭失いも桁がちがう。

(写真:ありし日のドバイ国際空港)

旅・観察

フティーラ(チュニジアの揚げパン)

チュニジアのパンのことについて書いてきたからには、フティーラのことも取り上げなければなるまい。

フティーラとは、丸くて平たい揚げパンだ。丸めた生地を薄くして、油の入った大鍋で揚げて作る。ピザのようにフチは厚いが、内側はパリパリに揚がっている。

お店の人は、目の前で生地を広げて鍋に放り入れる。そのときにちょっと回転させるのがコツのようだ。それから油に浮いた生地を、カギのついた棒でクルクル回したり、ひっくり返したりする。すぐに揚がり、油を切ってできあがりだ。私はハチミツをたっぷりかけるフティーラが好きで、これしか食べない。卵入りもあって、フティーラの中央のくぼみに卵を割り入れて一緒に揚げる。たぶんおいしいのではないかと思う。

フティーラも、前に書いたラブラービーと同じく朝の食べ物だ。朝、お店に行くと、出勤前の人や、揚げたてを紙に包んで持ち帰る人たちでにぎわっている。

チュニジアの民話にもフティーラの店が出てくる。以下は、召使いが、異国で落ちぶれたご主人を探す場面だ。

「その国に着くと、召使いは旅の宿に、馬を預け、あらゆる市場、あらゆる通り、あらゆる小路を一日中歩いて回った。一日、二日経ち、三日目、フティーラ屋に入ってフティーラを食べようとしたとき、自分のご主人がかまどで薪をくべているのを見かけた。まさにご本人、ボロ切れをまとって、汗まみれで、炎に顔を舐められながら働いているのだった」

もちろん、ガスの普及した現代では、このような危険な労働環境はありえない。安心してフティーラを召し上がっていただきたい。

(写真:揚げたてのフティーラ、チュニス)

旅・観察

主人への信頼(2)(チュニジアの民話)

犬が喋り出した、というか、神がそうさせたのだ。

犬曰く「私は卑しくなどない。私はあの老人の家で育てられ、家と羊の番をしてやり、彼がくれる粗末な食べ物で十分やってきた。ときには主人がうっかりして晩飯抜きで夜を過ごすこともあれば、主人自身もすっからかんの時もある。そうすると、彼と私は一日、二日、三日、いやそれ以上も食べずにいるのだ。それでも私は一度たりとも家を離れたこともなければ、他の家にも行ったこともない。彼以外の主人を知らないのだ」

こういうと、矛先は男に向けられる。

「お前は、祈りと断食に生きて、いったい何年になるというのだ。なのに、たった一晩、パンが途絶えただけで、もう我慢しきれなくなって、パンを与える神を離れて、人間の門前へと足を向けたのだ。お前こそ主人を信頼していないのだ」

そして、犬は実に無情な言葉を放つ。

「お前が礼拝と崇拝のうちに過ごし、空腹に耐え忍んだこの年月は、今日すべて無駄となった」

犬の言葉は激しさを増していく。

「今さら山に戻ったところでなんになるのか。さあ、町へと降り、人と交わるのだ。人々と金の取引をせよ、常人のごとく、働いて、商って、売って、買って、盗んで、奪い取り、騙して、嘘の誓いをたてよ。そして、死が訪れるその日に神がお前に下す苦しみに備えるがいい」

パンのことを考えると、私はいつも、呪いにも似た犬のこの恐ろしい言葉を思い出す。犬が喋りださないよう、やさしくしたい。

(写真:モスクの階段に寝そべる犬、チュニス)

旅・観察

主人への信頼(1)(チュニジアの民話)

チュニジアのパンについて考えるといつも思い出すのが「主人への信頼」という物語だ。この物語では、パンが大事な役割を果たしている。

イスラームのある行者がいた。彼は山で一年中断食をしていた。日没時になると、天からパンが一切れ落ちてくる。行者は、そのパンを半分食べ、残りの半分を夜明け前に食べる。それからまた、一日の断食に入る。男はこんな生活を何年も続けていたのだった。

ある夜のこと、男のところにパンがやってこなかった。

男は一晩中パンを待ったが、パンは来ない。翌日も断食を続け、日没が近づくころには、とうとう空腹に耐えかねて山を降りた。麓にある貧しい村に行き、村人に食べ物を乞うと、粗末な大麦のパンが二つ与えられた。

男がパンを持って、山に帰ろうとすると、村人の犬があとをつけてきた。パンを狙って、吠えかかったり、服を引っ張ったりするので、男はパンを一個、犬に投げ与えた。犬はガツガツ食べてしまう。だが、それでも犬は満足せず、襲いかかってくる。男はとうとう二個目のパンも与えてしまった。

これで二つともパンはなくなってしまった。ところが、犬はなおも男の後をつけてきて、男の足に噛みついた。男は罵った。

「お前より卑しい犬は今まで見たことがない。お前の主人がくれたパンを二つともくれてやったというのに、いったいなんの用がまだあるのだ。俺からなにが欲しいのだ!」

そのとき突然、犬が喋り出した。

(写真:焼肉とサラダとパン)

旅・観察

ラブラービー

初めてチュニジアに行ったときのこと、私はチュニジア人の友人たちと家で食事をすることになり、パンを買ってくるように頼まれた。パン屋に行って、バゲットを四本ぐらい買って戻ると、こう言われた。

「なんでこんなに買ってきたんだ。固くなっちゃうじゃないか」

日本のスーパーで買う食パンは長持ちするので、私はその感覚のまま買ってきてしまった。チュニジアでは、宵越しのパンは固くなってしまう。ナマモノだ。

もちろん、だからといって、パンが残らないわけではない。チュニジアには、固くなったパンを食べるためにできたという料理がある。それがラブラービーだ。

これはドンブリに、パンをちぎって入れて、その上にヒヨコ豆とスパイスの入った熱いソースをかける料理だ。ただかけるだけではなく、スプーンでパンを潰して粥状にして食べる。半熟卵を入れることもある。

昨日のパンをできるだけ早く食べてしまいたいからなのかどうかわからないが、ラブラービーは朝の食べ物だ。家庭料理というより、お店で食べるもので、人気の店は早朝から客が列を作っている。

お店に入ると、ドンブリとパンを渡される。そのパンを自分の流儀でちぎってから、ソースをかけてもらう。そして、かき混ぜる。この過程も楽しい。由来はどうあれ、お店で提供されるのは、一晩じっくり寝かせたカチカチのパンではなく、柔らかいパンだ。

(写真:ラブラービー、かき混ぜる前)

旅・観察

チュニジアのパンとカゴ

チュニジアの食事にはパンは欠かせない。たいていの安レストランでは、店に入ると、頼まずともパンが入ったカゴが出てくる。中にはバゲットが切ってある。

これはあらゆる食事にデフォルトでついてくる。しかも食べ放題だ。それはいいのだが、気になることもないではない。

まず、カゴの中に入っているパンがいつ切られたのかわからない。見えるところで切っていることもあるが、店の奥で切っている場合もあるし、もしかしたら、前の客に出されたカゴに減った分だけパン切れを追加したものかもしれない。

それに、店によっては、カゴがテーブルに置いたままになっていることもある。そのカゴはいつからそこにあったものだろうか? そして、何人の客がそこからパンを取ったものだろうか?

さらに、カゴの問題もある。このカゴはいつから使われているのだろうか。底にあるパンくずはいつからそこにあるのだろうか? 考え出すとキリがない。

しかし、実際のところ、私はそれほど気にしていない。なぜなら、チュニジア人は一般にパンにすごくうるさいから。誰に聞いても「昔に比べてパンはまずくなった」という。これは、パンのことをいつも真剣に考えていないと出ない言葉だ。そうした人々が、パンを粗末に扱うことはないし、パンに求める水準も高い。だから、周りのチュニジア人が普通に提供し、普通に食べているのであれば、食べられるのだ。

蝿が止まっていても、手で払うだけだ。

旅・観察

チュニジアのパンの機能

チュニジアのパンにはたくさん種類があるが、大きく分けると二種類ある。丸く平たいパンとバゲットだ。平たいパンは「アラビア・パン」とも呼ばれる。もう一方は、我々がフランスパンと呼ぶ棒状のパンだ。フランスのバゲットのことはよくわからないが、チュニジアのバゲットは細くて硬い。

バゲットには硬い表皮と柔らかい中身がある。我々にとってパンとは、耳ではなく、その中身が主役だ。だが、チュニジアでは逆だ。表皮が主役だ。だから細いのかもしれない。

それは、ひとつには、表皮がおいしいからだ。表面がパリパリでヒビも細かい。ちぎると、いい音と香ばしい匂いがする。だが、それだけではない。チュニジア人にとってパンの表皮は、スプーンや箸でもある。チュニジアでは、基本的に手で食事をする。スプーンなどを使わずに、この表皮を器用に使って、すくったり、挟んだり、皿を拭ったりして、食べる。

寿司を手で食べる国から来た私も、真似して食べてみる。だが、なかなかうまくいかない。気がつくと、パンばかり食べていて、サラダやシチューはちょっとしか減っていない。

チュニジアにおいては、表皮は中身よりも機能負荷が高い。そんなわけで、表皮ばかりが、どんどん食べられていく。食後のテーブルを見ると、白い棒状の中身だけが残されていることもある。