散文

地獄の言語学入門(15)

私たちの政治犯を驚かせるのは、その新たな看守が、別の基準にしたがってグループ分けをしていることだ。

これをA’グループとB’グループとしよう。そしてやはりB’グループのほうが危険なのだ。

はじめ、政治犯はこれも弁別特徴が賄賂であろうと推定した。そこで、こっそりと看守に近づいて硬貨を一枚握らせる。猛烈なビンタで弾き飛ばされた。「次に同じことをしたら独房行きだぞ!」と警告された。政治犯は鼻血まみれになりながら退散する。賄賂ではないのだ。

それからしばらく獄中音韻論研究の日々だ。この看守はどんな基準で依怙贔屓をしているのか、どうやったらA’グループに入れるのか……そして、ついに見つかる。この看守は暇なときやたらと立派な本を開いているのだ。こっそり近くに寄って何を読んでいるのか覗き見る。宗教書だ。

政治犯はその看守の目の届くところに佇んだ。そして、小声で、だが聞こえるように、祈りの文句を繰り返し、それっぽく礼拝してみせた。

「おお!」と看守は声を上げ、思わず祈った。この瞬間から、政治犯はA’グループのほうに振り分けられることとなった。弁別特徴は祈りだったのだ。

私ははじめこの看守が中国人かもしれないと示唆した。監獄論的には看守はどの国の、いやどの言語の話者でもいい。しかし、音韻論的には、話の流れからすると、中国語話者、いや、韓国語話者や、ビルマ語話者がふさわしい。

というのも、これらの言語は、日本語のような有声・無声という弁別特徴にこだわらず、別の特徴によって区別するのだから。つまり、中国語や韓国語などでは、有声・無声よりも、有気・無気という別の対立関係のほうが重要なのだ。

有気とは子音を出した後に一瞬の気音(呼気)が後続する音のことだ。無気は逆にこの気音がない。中国語などでは、この気音の有無で語が区別される。これに対し、日本語はそうではない。t の後に気音が続こうと続くまいと、タイヤはタイヤだ。

この音韻論的思考のおかげで、A’グループに仲間入りした私たちの政治犯は、軽作業をこなしながら考える。

「あの看守は賄賂の有無で囚人を区別したが、この看守は祈りの有無でそうしている。では、どちらが良い看守だろうか? 音韻論的には弁別特徴にいいも悪いもない。だが、賄賂は不正なのに対して、祈りは善だ……」

看守論に耽る政治犯の手が止まった。めざとく見つけた看守が、分厚い宗教書でぶちのめした。

散文

地獄の言語学入門(14)

ここでひとつ似たような問題に取り組もう。

日本語のタイヤとダイヤの違いだ。この二つはいったいなにが違うのだろうか? 正解した人全員に、ダイヤが好きなだけ手に入る秘密の方法をプレゼントしよう。

どうかな? わかったかな?

硬さ? 素材? ちょっと違うな……そうそう! 「タ」と「ダ」が違うのだ。

では「タ」と「ダ」の違いは? 音声記号で書くと [t] と [d] で、両方とも歯茎破裂音だ。なにが違うというと、声帯の振動があるかないか。[t] は無声歯茎破裂音、[d] は有声歯茎破裂音だ。

つまり、「タ」と「ダ」、[t] と[d] の違いは無声か有声かなのだ。そして、この違いは重大だ。なぜなら日本語話者は声帯の震えによって、タイヤとダイヤを区別しているのだから。

有声・無声というこの区別は、日本語では大きな役割を担っている。金と銀([k/g])、パリとバリ([p/b])、麻と痣([s/z])などなど、無声・有声を入れ替えただけで意味が違ってしまう。

このように意味の違いを引き起こす特徴、この場合だと無声・有声という音声的特徴を弁別特徴と呼ぶ。そして、この弁別特徴によって話者の頭の中で区別される「音」が音素だ。すなわち、タイヤとダイヤの例からは /t/, /d/ の二種の音素が立てられることになる。

ここで獄中に戻ろう。私たちの政治犯がAグループとBグループの弁別特徴に気がつきえたのは、明らかに音韻論への深い理解があったからこそなのだ。そして、それはこの政治犯にとって幸いであった。なぜなら、声帯振動の有無はタイヤとダイヤを分けるにすぎないが、賄賂の有無は生死を分けるから。

しかし、ここでこの政治犯の前に別の看守が立ち塞がる。この看守は……たとえば中国人だ。

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散文

地獄の言語学入門(13)

投獄されたばかりの政治犯にとって必要なのは(二度目三度目でないかぎり)、まず獄中の人々の動きを観察することだ。すると、ただちに次のようなことがわかってくる。

囚人たちには大きく分けて二つのグループ(AとB)がある。囚人たちには毎日労働が課されるが、Aグループには暖かい倉庫内での作業道具の整備・資材の確認などの仕事が割り当てられる。いっぽうBグループの囚人たちはといえば、氷点下の極寒の世界での重労働だ。凍えながら夢中になってレンガを積んだり、橋の建設のためにずぶ濡れになりながら砂利を運ぶ。ときには水の中に落ちて上がってこない者もいる。

また、労働だけでなく、食事にも違いがある。Aグループはいちばん最初に飯にありつける。そして、これらの恵まれた人々は、後から列に並ばせられるBグループのことなど考えやしない。Aグループが食べ終わったころには、飢餓状態のBの囚人たちが残り物の奪い合いをしている。

牢獄の看守は明らかに依怙贔屓しているのだ。そこで、私たちの政治犯は考える。AとBはいったいなにが違うのだろうか、と。これは重要な問いだ。なぜなら、どちらのグループに入るかで、生き残れるかが決まるのだから。

政治犯はそれぞれのグループの囚人の観察を始める。グループを分けるのは、国や民族だろうか。いや、違うようだ。この政治犯は慎重に看守に近づき、それとなく故郷を聞き出す。なるほどAグループには看守と同郷のものがいるようだ。だが、これまでに集めた情報によれば、全員ではない。ということは、郷土愛がグループの対応の違いを生み出しているわけでもない。

政治犯の観察はさらに続く。性格、体つき、犯罪の種類、刑期……どの点から見ても、AとBを区別する決定的な違いは見当たらない。この観察者が絶望しはじめたとき、決定的瞬間が訪れる。

Aグループの囚人のひとりが看守に近づき、タバコを一本渡したのだ。看守はタバコを受け取ると、手でその囚人を追っ払った。すると、また別のAグループの囚人がやってきた。その囚人はポケットから硬貨を取り出すと、看守の腰のポケットにそっと入れる。看守はどこか遠くに目を向けたまま、同じように手で追い払った。

政治犯はこのとき電撃的に理解する。これだ……これだ、と。

AグループとBグループを分ける弁別特徴は、看守への賄賂だったのだ。

散文

地獄の言語学入門(12)

日本語話者にとっては、ハ行はハ行だ。「ハ」も「ヒ」も「フ」も「ヘ」も「ホ」も皆、ハ行の一味だ。つまり、ローマ字で書けば、ha, hi, hu, he, ho だ。だが、本当のところは別物だ。ここで音声学がものをいう。

まず「ハ」「ヘ」「ホ」だが、これらは音声記号で書くと [h](無声声門摩擦音)だ。発音(調音)してみればわかるが、喉の奥で鳴っている。これに対して「ヒ」を調音してみてほしい。これは喉の奥ではなく、口の中の真ん中あたりの音、正確にいえば無声硬口蓋摩擦音 [ç] だ。そして、「フ」、こいつときたら、もっと前にまでしゃしゃり出てきて、唇でフーフー鳴ってやがる。無声両唇摩擦音 [ɸ]、つまり上下の唇で作る音というわけ。

要するに、ハ行のハヒフヘホが h でできていると思っているのは、日本語話者の頭の中だけで、実際には異なる音の寄せ集めだったわけだ。ある言語の話者の頭の中にあるこうした「音」を、実際の音と区別するために「音素」と呼ぶ。

この事情をまとめると以下のようになる。なお、音素は // で囲み、実際の音を表す IPA は [ ]で囲むのが決まりだ。

【日本語のハ行音の音素と実際の音】

音素 /h/ 実際の音  [h], [ç], [ɸ](ただし、ほかにももっと種類がある)

牢獄でも同じように表すことができる。

犯素 /犯罪者/ 実際の犯 [殺人犯], [強盗犯], [窃盗犯], [政治犯](ただし、ほかにも無数の犯罪がある)

なお、日本語のハ行音の [h], [ç], [ɸ] のうち、どれが政治犯なのか、「ホ」なのか「ヒ」なのか「ヘ」なのか、という問題は、獄中でゆっくり取り組むべき課題だ。外にいられるあいだは、ほかの問題に集中することをおすすめする。

散文

地獄の言語学入門(11)

音声学を学んだのちは音韻論の最小キットのご紹介だ。音声学では言語の音の仕組みが問題となっていたが、音韻論では音に代わって「音素」が登場する。

音素を理解するには、政治犯の悔しさを理解することから入るのがいちばんだ。

まず、それは本来違うものが一緒くたにされてしまう悔しさだ。

私たちの牢獄に放り込まれる人々の事情はいろいろだ。まず殺人犯がいる。それから強盗犯、窃盗犯なんてのもいる。詐欺犯もいるし、その他もっと酷い犯罪者たちがいる。これらの只中で、ひとり所在なさげにしている囚人がいる。これは政治犯だ。殺しも盗みもなにひとつしていないのに、口を滑らせてお上の悪口を言ったばかりに、うっかり国旗を踏んづけたばかりに(あるいは踏んだことにされて)、ここにぶち込まれたのだ。

それなのに、この牢獄では、そして世間でも、すべての囚人がひとしなみに「犯罪者」と呼ばれる。十把一絡げの扱いだ。政治犯はこれが悔しくてたまらない。だが、グッと堪える。なぜならそんな不満を口にしようものなら、懲罰房行き確定だから。

政治犯の悔しそうな様子を見て、元コソ泥がからかう。

「まあ、おんなじ罪人どうし仲良くしようや!」

毎度毎度のこのおふざけに、殺人犯も強盗犯も腹を抱えて大笑いだ。政治犯は無言でうつむいて、例の言語学研究に取りかかる……。

なんとも切ない情景だが、まさに同じことが、日本語のハ行に起きているのだ。

散文

地獄の言語学入門(10)

さらに音声学には実利的な側面もあるのを見逃してはならない。これは獄中だけにかぎったことではないが、獄中においてもっとも利益を生ずる。

音声学を学べば、世界中のいかなる言語音であれ、人間であるかぎり原理上は誰でも発音できるということがわかるようになる。そして、音声学を通じて発音の仕組みを学ぶことによって、音声学を学んだことのない人よりも、異言語の発音を模倣することがずっと容易になる。

つまり、あなたは初めて出会った異言語の話者の言葉の断片を、その目の前でほぼ正確に繰り返すことができるのである。これがいかなる効果を生み出すであろうか。

ひとことで言えば親しみだ。

あなたの見事な真似っぷりを見たその異言語の話者は、あなたに親しみを感じずにはいないのだ。これはその言語がマイナーであればあるほど効果を発する。なかには感極まって「ブラザー!」と呼びかける者もいるくらいだ。ただし、当然ながら、英語ではこの効果はほぼゼロだ。

さて、この音声学的実演がもっとも効果を発するのが牢獄内だ。獄中はさまざまな言語の話者で溢れていることをすでに指摘した。英語や中国語は言うに及ばず、なかには聞いたこともないような言語の話者が、牢名主としてふんぞりかえっている場合だってある。

そんなとき、その牢名主にへりくだりながら近づいて、その言語の挨拶かなにかを、音声学的に正確な発音でうやうやしく真似したらどうなるだろうか?

たちまち牢名主のお気に入りだ。

パンのかけら、スープの残り、タバコの一本にもありつけるかもしれない。音声学が暮らしを向上させた瞬間である。

散文

地獄の言語学入門(9)

ここで、こんな疑問を投げかけてくる人もいるかもしれない。

「我々はすでに日本語を話しているのだから、いまさら音声学を学んで発音の練習をすることなど意味がないのではないか」

これはもちろん正しい。ただし収監されていないかぎりにおいてだ。獄中においては、もっとも身近で手に入りやすいものから観察を開始するしかない。そのひとつが、自分ができる発音の観察だ。

しかも、すでにできる発音の観察は、二つの利点に結びついている。ひとつはこれが音韻論の基礎となることだ。だが、これはのちに述べるとしよう。

もうひとつは、これが他の言語の発音を学ぶときに役に立つということだ。人間の出せる言語音は実に多様であるが、IPA の説明でも触れたように、これらの音は、いくつかの要素の組み合わせに還元することができる。この組み合わせを手っ取り早く学ぶには、自分の発音を観察するのがいちばんだ。そして、この観察こそが、他の言語の発音を学ぶときにも有用なのだ。

「だが」とさらに反論をしてくる人もいるかもしれない。「獄中で外国語を学ぶなどという暢気なことができるのだろうか?」

できるのだ。いや、刑務所だからこそ、異言語を学ぶ能力は必要なのだ。なぜなら、国境の揺らぐこの世界では、刑務所も国境の上に建つからだ。

異言語の発音を学ぶ能力はこのときもっとも実り多いものとなる。同房の囚人が全員、アジアのどこかの少数言語の話者だったとしても、あなたは怯みはしない。それどころか、この好機を利用せんと、堂々とド真ん中に座り、身振り手真似で発音を教えてくれとせがみだすことだろう。

あるいは逆に、アフリカ出身の言語学者から、日本語の母音の正確な音について何時間も質問され、それが自分の口や舌の動きを観察する貴重な機会となることだってないわけではない。いや、それどころか、ヨーロッパ出身の囚人に、「喉を鳴らす r 音」についてしつこく質問したことがきっかけとなって、共同研究の誘いを受けることだってあるかもしれない。

それに、そもそもあなたのいる牢獄が日本国内とはかぎらない。流刑地がどんな過酷な地であろうと、言語研修を受けるつもりで過ごしたいものだ。

散文

地獄の言語学入門(8)

言語学こそ獄中での学にふさわしいとの認識が打ち立てられた今、「獄中での研究に備える言語学最小キット」について明かすべきときが来た。このキットこそ、いかなる場所でも言語学研究を可能にする最小限の備えである。この備えあれば、獄中においてはいかなる憂いもありえない。

「獄中言語学最小キット」には、言語学の基本を理解するためのツールが詰まっている。このキットの説明に入る前に、まずは、言語学の基礎中の基礎である音声学について解説しよう。

音声学とは、人間が出せる言語音に関する分野だ。この音声学でなによりも重要なのは、IPA の一覧表だ。IPA というのは国際音声記号(International Phonetic Alphabet)のことであり、この記号群は、人間の発せる音(母音と子音)のほとんどに対応している。つまり、IPA を用いれば、世界中のあらゆる言語を表記することができるのだ(もっとも、言語がそれで我慢してくれた場合だけだが)。

それだけではない。音声の分類も体系的だ。母音は唇の丸め、舌の前後、舌の高低という三つの特徴によって分類され、子音は有声か無声か(声帯が振動するかしないか)、調音点(音を作る場所)、調音法(音の作り方)という三つの特徴によって分類されている。もちろん、言語音はさらに複雑であるが、その複雑さをカバーすべく、分類に入りきらない多彩な記号や、パワフルな補助記号も用意されている。

言語学の基礎は、この IPA を理解し、使いこなすことに始まる。そのことを念頭に置いて、まずはお手元のキットを開いてほしい。最初に現れるのは、IPA と記された A4 サイズの封筒だ。あなたがその封筒を開くと、中に紙が一枚入っている。その紙を取り出す。驚いたことに、白紙だ。裏にも何もない。IPA の記号を記した表もリストも何もない。

「なんだ?」と不審に思ったあなたはもう一度、封筒を見返す。そして、そこにこう書かれているのに気がつくのだ。

IPA (International Prison Alphabet)

ここであなたは、その意味を悟るのだ。獄中では IPA に頼るな、と。自分の観察から出発し、自分なりの IPA を作れ、そうできるように備えよ、と。

なお、悟った後は、紙を封筒にちゃんと戻しておくこと。

散文

地獄の言語学入門(7)

さて、これらの三学者が退場するやいなや立ち上がったのは、音響音声学者、心理言語学者、コーパス言語学者であった。実験設備やコンピュータが不可欠なこれら諸分野の学者たちは、仲間である私の主張に対して猛然と反論を……(写本に数行の欠落あるか)……かくて私の親身の説得により、(学者たちは)それぞれの立派なラボへと退却していったのであった。

以上、とんだエラスムス的脱線であったが、これも獄中の学としての言語学の優位性を明らかにするためには仕方のないことであった。

だが、ここで我が所説に重大な欠陥のあることを、ただちに諸君に打ち明けねばならない。

それは AI である。近年の AI の発展は目覚ましく、賛否はあれども言語研究のあり方を大きく変えてしまった。そのせいで、言語学系の国際学会といえば、必ず「AI 時代の言語」的なメインテーマがなければ格好がつかなくなってしまったほど。AI について無知な私はたいへん肩身の狭い思いをさせられているのだが、それにもかかわらず、この AI の存在こそが、獄中の学としての言語学の優位を揺るがしかねない、ということを認めるにやぶさかではないのである。

ここで私がこんなことをいうと、諸君がこう反論するのが目に見えるようだ。

「AI こそ、獄中に持ち込めないものの最たるものではないか。いかに AI が言語学に重要な洞察をもたらすとはいえ、言語学こそが獄中の学の華であるという私たちの信念は揺るがない!」

私はこのような説に対して猛然と反論するであろう。

「諸君は、今後さらに AI が進化しないとでも考えているのか? そして、近い将来、DX 化した強制収容所で、AI 看守をうまくおだてれば、実験やコーパスのデータ処理をしてもらえるかも、という可能性も考えないのか?」と。

私は頭の堅い人間ではないのだ。

散文

地獄の言語学入門(6)

「さて、この私は、数学者の自慢とする理性とやらにも一言言わねばならない。数学者はこの理性が普遍的であることをエラく鼻にかけているようだが、その普遍性こそが、まさに獄中の学としての欠陥となるのだ。

というのも、理性が万人の共有するものであるのならば、ただ一人の天才がその理性の探究と行使に打ち込めば良いだけの話であり、なにも他の有象無象がこの理性にかかずらう必要などないのである。そのような無駄な営みにわざわざ首を突っ込む愚か者はいるだろうか? ゆえに、万人が投獄されうる万人投獄説に立脚する獄中の学として、数学はまことに楽しみの薄いものとなるのである。

ところが、言語学はこの普遍的な理性を相手にするものではない。皆さんは、この世界にいったいどれだけ言語があるとお考えであろうか。七千ほどであろうか? いや、違う。かの韓国の大作家キム・ヨンファン先生がいみじくも言い当てたように、この世界には人間の数だけ言語があるのだ(なお、先生は韓国ドラマの登場人物である!)。

つまり、言語とは社会的な存在ではあるにしても、個人にも深く根ざす存在なのであり、その個人の生育歴、経験、思考、職業、社会生活によって千差万別に変わりうるのである。それだから、理性のように人任せにしておけばいいものではない。それはなによりもまず自分の言語なのであるから、じっくりと観察すれば、自分にしか気がつきえないこと、自分にしか言えないことが必ず見つかるものなのである。それは数学の新定理を発見することよりもはるかに容易なのだ。

すなわち、言語学とは、普遍性よりも個別性がものをいう学なのであり、これゆえに、言語学は、万人が刑務所で喜びとともに研究にいそしむ学として、数学よりも徹頭徹尾ふさわしいのである!」

数学者をここまでやっつけたからには、哲学者も神学者も、私はたった一言で薙ぎ払うことができた。

「哲学者よ、哲学が獄中での継続的な研究に不向きであることは、その祖たる人物が投獄されるや否や自ら毒杯をあおったことによりすでに証明済みである! そして神学者よ! もしも神がいればこんな刑務所などあろうはずもないのだから、アクィナスだか秋茄子だか知らないが、そんなものは捨てて、ロマンス言語学に打ち込むが良い!」

かくして私は、これらの学者たちを、それぞれがもともと安住していた独断の眠りへと追い払ったのであった。