言語学こそ獄中での学にふさわしいとの認識が打ち立てられた今、「獄中での研究に備える言語学最小キット」について明かすべきときが来た。このキットこそ、いかなる場所でも言語学研究を可能にする最小限の備えである。この備えあれば、獄中においてはいかなる憂いもありえない。
「獄中言語学最小キット」には、言語学の基本を理解するためのツールが詰まっている。このキットの説明に入る前に、まずは、言語学の基礎中の基礎である音声学について解説しよう。
音声学とは、人間が出せる言語音に関する分野だ。この音声学でなによりも重要なのは、IPA の一覧表だ。IPA というのは国際音声記号(International Phonetic Alphabet)のことであり、この記号群は、人間の発せる音(母音と子音)のほとんどに対応している。つまり、IPA を用いれば、世界中のあらゆる言語を表記することができるのだ(もっとも、言語がそれで我慢してくれた場合だけだが)。
それだけではない。音声の分類も体系的だ。母音は唇の丸め、舌の前後、舌の高低という三つの特徴によって分類され、子音は有声か無声か(声帯が振動するかしないか)、調音点(音を作る場所)、調音法(音の作り方)という三つの特徴によって分類されている。もちろん、言語音はさらに複雑であるが、その複雑さをカバーすべく、分類に入りきらない多彩な記号や、パワフルな補助記号も用意されている。
言語学の基礎は、この IPA を理解し、使いこなすことに始まる。そのことを念頭に置いて、まずはお手元のキットを開いてほしい。最初に現れるのは、IPA と記された A4 サイズの封筒だ。あなたがその封筒を開くと、中に紙が一枚入っている。その紙を取り出す。驚いたことに、白紙だ。裏にも何もない。IPA の記号を記した表もリストも何もない。
「なんだ?」と不審に思ったあなたはもう一度、封筒を見返す。そして、そこにこう書かれているのに気がつくのだ。
IPA (International Prison Alphabet)
ここであなたは、その意味を悟るのだ。獄中では IPA に頼るな、と。自分の観察から出発し、自分なりの IPA を作れ、そうできるように備えよ、と。
なお、悟った後は、紙を封筒にちゃんと戻しておくこと。