散文

都会の公園

このあいだ用があって、青山だか赤坂だかよくわからない場所に行った。道も広くてキレイな街だったが、暑い日で太陽の光に灼かれながら歩いていると目が回ってきた。そんなとき公園を見つけた。高層ビルの隙間に隠された小さな森のようだった。

足を踏み入れると、頭上から涼しいミストが降り注いできた。まるで公園があいさつをしてくれたかのようだった。私は爽やかな気分になり、木々の作る影に安らぎを感じながら、ベンチに腰をかけた。疲れた足を伸ばし、どこかから聞こえてくるせせらぎの音に耳を傾けた。

公園のなかは、美しい人々が散策していた。みな自然の色をした柔らかい服を着ていた。私は自分の安っぽい服が恥ずかしくなった。天使のような子どもたちが、笑い声を上げながら、木洩れ陽の中を駆け回っている。私は自分の町の公園のことを考えた。

そこでは、木はみんな枯れていて日陰もなかった。土埃が舞い、地面はひび割れていた。子どものかわりに喫煙者と酔っ払いと変質者がノビノビしていた。

そのとき、ひとりの男が向こうからやってきた。男の服はくすんでいて、ズボンの膝のあたりは真っ黒になっていた。男はフラフラと歩きながら、私のベンチの隣にあるゴミ箱の前に立った。その扉を開け、カゴからひとつずつ中身を取り出して調べはじめた。新聞、ペットボトル、紙屑、何かの容器……。

神様かもしれない、と私は想像する。

散文

圧し活

推し活が日常化し、推しがいなければ人に非ざるかのような世の中だが、私には推し活がわからない。たぶん私は心に欠陥があるのだろう。

しかし、人々が推しに金を使うことに喜びを覚え、その金を得るのに許されざることにすら手を出すのを見るにつけ、推し活とは、推しに夢中の人を押し潰して、血の一滴まで絞り取る圧搾装置としか思えない。たぶん私は心に欠陥があるのだろう。

近頃では、政治までも推し活化しているという。支援者の推し活によって首相になった政治家の仕事ぶりを見ていると、まさに国民を圧搾する法律の実現に邁進しているように思える。

推し活に懐疑的な私だが、圧し活には賛成だ。圧し活とは、相手に圧力をかける活動のことだ。アイドルに圧力をかけるのはバカげて見えるが、そのアイドルが健全に末長く活動できるようにするためには、労働環境や契約条件が適正であるように諸方に圧力をかけるのは重要だ。また、暴走しがちなファンを戒めるのも圧し活のひとつだ。

そして、政治家にこそ圧し活すべきなのはいうまでもない。政治資金の不正使用、人権を損なう法律の制定、虚言癖、ゼロ時間睡眠などを、厳しい圧し活によって、是正していくのが、国民の責務だ。

これは、圧し活の推し活が必要ということでは。ついにわかった。

散文

心ない質問

言語学者は言語を研究している。言語の研究にもいろいろあるが、特定の個別言語を研究している人も多い。個別言語にもいろいろある。英語や日本語のように有名なのもあれば、無名なのもある。そして、有名でない言語の研究者がいつもさらされているのが、「どうして〇〇語を研究しはじめたんですか」という心ない質問だ。

なぜ心ない質問なのか。なぜなら、これは相手を満足させるようには決して答えることができない質問だから。言語学の研究者が、ある言語を研究するようになるのは、たいてい偶然によるものなのだ。たまたま興味を持った、たまたまその言語の話者と友人になった、たまたま指導教官に勧められた、たまたま授業に出てきた……そんなもんだ。

だが「どうして〇〇語を研究しはじめたんですか」と聞いてくる人は、まさかそんな偶然が理由だとは思いもしない。だから、「いえ、卒論のテーマを選ぶときに、他の言語より簡単そうに思えたので、たまたま、ですよ……」などとうっかり本当のことを言おうものなら、「またまた〜」と本気にしてもらえないか、「ハハーン、さては……」と痛くもない腹を探られるだけだ。 

というのも、どういうわけかこういう質問をしてくる人は、言語学者とその言語の結びつきには必然的なものがあるはずだと決めつけているのだ。数千ある言語を調べ尽くして「こ、これだ!」とついに発見したとか、背景に恋人との悲しい別れがあるとか、天啓によってその言語へと導かれたとか、貧しい村を救うためだとか、そういう物語、運命、使命が聞きたいのだ。

研究者ではない私もそういう質問をされることがある。そして、どう答えても相手をがっかりさせたり、しらけさせたりするだけなのを心苦しく思っていた。だが、最近、ついに究極の答え方を見つけた。

「いったい、どうして〇〇語なんかやってるんですか」

「人を好きになるのに、理由なんかいるかい? 〇〇語も同じさ……」

これでもう、絶対に質問してこないはずだ。近寄ってもこないかもしれない。

散文

面会室の吸血鬼

もうずいぶん前のことだが、私はよく面会に行ったものだった。面会というのは、入管に収容された人々に会うことだ。私が毎週のように行っていたのは、品川と牛久だった。当時、品川には一年近く収容されている人がザラにいた。牛久の入管だと一年二年は当たり前で、三年という人もいた。これらの人は、政治的理由などで帰国ができないので、入管という国境に閉じ込められていたのだった。

私はいろいろな理由で面会をしなくてはならなかったが、正直言って面倒くさかった。品川に面会に行くと半日、牛久の場合は一日潰れた。手続きも厄介で、職員の応対で悔しい思いをすることもあった(面会の申請を青っぽいボールペンで書いたら、インクは黒じゃなくてはダメだと突っ返されたりした)。また面会相手も親しい人ばかりではないので、気が重かった。

しかし、面会が始まり、実際に相手に会うと、不思議なことが起きた。被収容者たちはいつ外に出られるともわからない苦境にあったが、私はこれらの人々を元気づけるどころか、逆に、これらの人々に元気づけられたのであった。短い面会時間が終わり、面会室を出るとき、私は入ったときとうって変わって、足取りも軽かった。そして、私は自分が吸血鬼になったようにも感じていた。

この奇妙な現象が起きる理由については、ずっとわからないままだった。だが、最近、オスカー・ワイルドの獄中記を読んでいたら、こんなことが書かれていた。投獄された当初は、もう二度と笑うまいと思っていたが、それでは面会に来てくれた人に申し訳ないので、明るく元気にふるまうことにした、と。

面会に行った私が明るい気分になったのも、考えてみれば当たり前のことだったのだ。吸血鬼の汚名は晴れた。

散文

倒れる便座

洋式トイレで座っておしっこをするという男の人が増えているという。もちろん、座っておしっこをするのはおかしいことではない。ビルマでは、ロンジーの男の人が座って用を足しているのを何度か見かけたことがある。

最近では、「座って用を足してください」と注意書きがあるトイレも、よく見かけるようになった。男の座りションの実態が明らかになるにつれ、これまで洋式トイレでの立ちションの後始末に苦い思いをしてきた人々が声を上げるようになったのだ。

しかし、男たちには、座るわけにはいかないときもある。切羽詰まっているときがそれだ。座れるように、ベルトを外してズボンを下ろして、それから……などという余裕がないときが男たちにはある。

そして、そういう余裕のないときにかぎって、便座に恐ろしい罠が仕掛けられている。持ち上げた便座が、手を離した瞬間にバタンと倒れてしまうのだ。

手で便座を押さえながら用を足すしかないが、そのような不安定な体勢で排尿するのは、便器の周囲ばかりでなく、自分までもびしょびしょにする恐れがある。

私のような立って用を足す族がトイレの管理をしていればこのようなことは起きないだろう。だが、座って用を足す族が責任者の場合は、便座を上げることなどしないし、ちゃんと倒れないかどうか調べもしない。だから、いつまで経っても、倒れる便座は改善されない。私がよく行く診療所のトイレがまさにそうだった。

しかも、このトイレが恐ろしいのは、便座が倒れるのがすぐにではなく、数秒後になのだ。フェイントだ。

私はこの診療所で用を足すときはいつも考えたものだった。便座を上げ、手を離し、両手でしっかり押さえて排尿をはじめる。そして、便座が倒れはじめるその一瞬だけ、おしっこを止めることができれば、どこも汚さずに用を足すことは可能だ、と。

あくまでも理論上可能というだけの話にすぎない。だが、私は、いつか人類がその叡智を用いて、倒れる便座を倒すときが来ると信じている。

散文

贅沢なレジャー

AIに聞けば、なんでも答えてくれる。もちろん間違いもあるかもしれないが、チェックすればいいだけの話だし、そのうち、AIの間違いもなくなるだろう。いや、AIの間違いは間違いだと見做されなくなるだろう。

難しい本の内容も、AIが簡単に説明してくれる。あらすじも教えてくれる。言語の壁も粉砕された。どんな言語もすぐに翻訳してくれる。

だから、本など読む必要はない、外国語など勉強する必要はない、と主張する人が出てくるのも当然だろう。これに対して、思考力が……とか、リテラシーというものは……など言い立てる人もいるが、そういう人もこっそりAIを使っている。いや、その高尚な見解すらAI由来成分がたっぷりだ。

もっとも、私は読書や外国語学習がなくなるとは思わない。むしろそれらは、AIが普及したのちは、富裕層のみに許された贅沢なレジャーとなるのではないかと思っている。読書も外国語学習も時間と労力を必要とする活動だ。そして時間と労力をそんなことに費やせるのは、富裕層しかいない。

昔、山登りは何か生活の必要に結びついた労働だった。そして、そのような労働の必要のなくなった現代では、山登りは、装備や入山料など、大金をはたける人だけができる贅沢な遊びになってしまった。そして、私たちは、コスパが悪いという理由で山登りなどゲームやVRで十分、と笑っている。だが、実際にはお金もなければ休みもないで、登山口にすら辿り着けない。

読書も外国語学習も同じだ。じっくり精読したり、単語を暗記したりしている間に、空腹が耐え難くなってくる。休憩時間にAIに聞くのが私たちにはお似合いだ。AIはもう貧困層の印というわけで、AIフリーの読書と外国語学習が、お金持ちのステータスとなるのも当然の成り行き。

もしかしたら、渋谷松濤の「アッカド語講読サークル」に高貴な人々が集う、そんな時代も来るかもしれない。

「奥様! サルゴン大王の碑文、もうお読みになって?」

「ええ、とても素晴らしいものでしたわ!」

「それはそうと、今日は伯爵はお見えにならないのね!」

「そうなの! なんでも『資本論』(ヴェルケ版)に夢中だとかで!」

散文

知を見る人々

私は最近、頭のよさについて考えている。一般的には、頭がいいことは得だ。いい大学に行けるし、いい仕事に就けるし、収入も多い。人が集まってくるし、幸福だ。だが、頭のいい人が得をしているということは、私のようなそうでない人は損をしているということだ。悔しいので、いろいろと考えているうちに、頭のよさについての単純な物語を思いついた。


ある研究者が、とても難しい問題を考案し、とても難しい問題ができたということを人々に発表した。それから研究者は、このとても難しい問題を小学校に持っていって、小学生に解かせた。するとひとりだけ正答した児童がいた。人々は「まさに神童だ」と驚いた。

次に高校生たちにこの問題を解かせた。するとやはりひとりだけ正解を出した生徒がいた。人々は「これこそ天才だ」と感心した。

今度は、研究者は難しい大学に行って、そこで問題を与えた。ひとりの学生がたちまち片付けてみせた。人々は「やっぱり優秀だ」と納得した。

それから国会に向かい、政治家たちにとても難しい問題を提出した。すると、ヤジを言うほどの短い間にひとりの政治家が正解を答弁した。人々は「頭の回転がなんと速いのだろうか」と喜びあった。

国会の隣にはテレビ局があった。研究者はそこに行くと、芸能人たちにとても難しい問題をオファーした。タレントたちはギャラが決まるとすぐにこの問題に取り組み、ひとりのスターがベスト・アンサーを早押しした。人々は「ああ見えても地頭がいいのだ」と喝采を送った。

最後に、研究者は町に行き、出会った外国人たちを呼び止めて、この問題を示した。ひとりの外国人が正解を提示した。人々は「なんてずる賢いんだろう」と防犯対策を行なった。

散文

成功に終わらず(2)

その後、ロシア語の詩の専門家と知り合う機会を得た。今から七年前のことだが、LINE を教えてもらったので、さっそくメッセージに該当箇所を引用して、「バーンズ」について尋ねた。だが、返事はなかった。

さらに年月がたち、このあいだ、少し必要があって『収容所群島』を開いたとき、私はこの未解決の問題を思い出した。そして、私はこの問題に文明の利器を適用することを思いついた。AI に聞いたのだった。そして、こっちはすぐに返事をしてくれた。

AI が教えてくれたのは次の二点だ。

1)この言葉は「バーンズ」ではなく、エリザベス朝の廷臣・詩人 ジョン・ハリントン(John Harington, 1560–1612)の警句であること。

2)この警句自体、非常に有名なもので、原文は以下の通り。

Treason doth never prosper: what’s the reason?
Why, if it prosper, none dare call it treason.

「反逆が成功することは決してない。なぜか。
成功すれば、もはや誰もそれを反逆とは呼ばないからだ(AI の訳)」

この二点については、他の資料からも裏付けられているから間違いはない。さらに、ハリントンとバーンズの関係について、複数の AI の見解を突き合わせると次のような事情が見えてきた。

ハリントンの警句の翻訳者は、ロバート・バーンズの詩の翻訳でも有名な人物であった。これがこの警句をロシア語圏で「バーンズ作」として流通させる原因のひとつになったのだそうだ。さらに、AI によれば、この訳者が英語の「反逆」をロシア語で「暴動」としたことも、警句の解釈に影響を与えているのだという。「反逆」はひとりでもできるが、「暴動」はたくさんいなくてはならない。

これで、「バーンズ」の正体がひとまずはわかったわけだが、正直言って、私はつまらなくなってしまった。なぜなら、ハリントンの警句には、ソルジェニーツィンがそこに託したような、失敗に終わった暴動への悲しみも、それを乗り越えようとする抵抗の意志もなかったから。また、私が共感したような、常に敗者の側を選び取る変革の運動論も入り込む余地はなかった。あるのはただ「勝てば官軍」という月並みな皮肉にすぎなかった。

ソルジェニーツィンの解釈も、私の解釈も、ハリントンの警句の意味とは、実際のところほとんど関係がないのであった。そこで、私はある意味では不首尾に終わったこの探索を、三者の意味の違いを厳密に区別して終わりにしたい。

「反逆が成功することは決してない。なぜか。
成功すれば、もはや誰もそれを反逆とは呼ばないからだ」(ハリントン)

「暴動が成功に終わることはない。
勝利を収めたときには、その呼び名も変わるから……」(ソルジェニーツィン)

「変革が成功に終わることはない。
勝利を収めたその瞬間に、敗者の側へ向かうから……」(私)

散文

成功に終わらず(1)

ソルジェニーツィンの『収容所群島』第五部十二章(邦訳版第六巻)では、ケンギル収容所で起きた反乱が戦車によって残酷に鎮圧された事件が報告されている。作者は、その末尾に以下のような「詩」を引く。

暴動が成功に終わることはない。
勝利を収めたときには、その呼び名も変わるから…… (バーンズ)

この引用を通じてソルジェニーツィンが言いたかったのは、ケンギルの反乱は成功に終わらず、それゆえ呼び名も変わらなかったが、それでもなおこの事件は、反乱と片付けることのできないなにかであるのだ、ということだと思う。それはそれとして、私はこの言葉を読んだとき、別な解釈が思い浮かんだ。それはこんなものだ。

社会を変えようとする運動は、本質的には成功しないものだ。というのも、成功したそのときに、その運動自体が変えられるべき対象となるから。

つまり、社会を変えようとする運動は、それが運動であり続けるかぎり、成功に終わってはならない、ということだ。別の言い方をするならば、本当の運動は、成功する瞬間に、あえて失敗の側に立つ。なぜなら、運動の原点は、常に敗者の側にしかないから。

もちろんこれはすべての運動には当てはまらないし、当てはまっても困る。だが、本当の運動が持つべき条件、私がかねてから考えていた条件を言い当てているように思え、感心したのだった。

そこで私はこの「詩」の正確な文脈を知りたくなった。作者は「バーンズ」とのみある。ロシア風の名前ではなく、英語の名前だ。

だが、バーンズとはいったいなんであろうか。社会運動の本質を見抜いた、こんなラディカルな言葉を残した人物とは誰であろうか。私は英文学はよくわからないし、英詩についてはなおさらだ。ただ私はなんとなくロマン派風の人物を想像していた。バーンズは詩を書きながら革命に身を投じ、戦場か獄中かで死んだ……彼は自ら失敗の側を選んだのだ……。そこでちょっと検索してみると、カタカナでバーンズなる人物がわんさかだ。英語の綴りも Burns、Barnes、Byrnes などとキリがない。どこから手をつけたらいいかわからなくなって、私は諦めてしまった。

散文

ヘンリー・ジェイムズの怪談

見えるはずのないものが見えたとき、その経験は人間の心理にどのような微妙な陰影を投げかけるのだろうか。夏だから、というわけではないが、私の身に実際に起きた怖い話をひとつさせてほしい。

私はといえば、昔から読みもしないのに本を買いこんでしまう悪癖があった。おかげで、本棚には本がぎっしり詰め込まれ、どこにどんな本があるのかもわからないありさまだ。だが、後になってある本が必要になったとき、かなりの確率で本棚に見つかるので、買っておいてよかったということがいくどもあり、やめられないのだった。

このあいだも、英語を勉強しようと急に思いたった私は、本棚に埋もれた英語の小説を掘り出していた。すると、黒いカバーでお馴染みの「Library of America」版のヘンリー・ジェイムズの長編小説集が出てきた。The Ambassadors と The Golden Bowl と The Outcry が入っているものだ(Henry James: Novels 1903-1911, LOA #215)。私は The Ambassadors が読みたかったので、購入しておいてくれた過去の自分に感謝しながら、他の英語の本とまとめて本棚に押し込んだ。

その翌日、本格的に読むわけではないが、少し英語の文章を見てみたいと思って、私は The Ambassadors の入ったあの本を本棚で探した。が、どこを探しても出てこない。「あれ、確かにあったのに……」と本棚の奥へ手を伸ばすと、黒い表紙の「Library of America」が出てきた。

ヘンリー・ジェイムズの長編小説集だ。だが、The Sacred Fount と The Wings of the Dove が入っている別の巻(Henry James: Novels 1901-1902, LOA #162)だった。

「ということは」と私は考えた。「後期の三大作品、『鳩の翼』『使者たち』『金色の盃』の原書が我が書架には揃っているわけだ」

あとは例の一冊を見つけるだけだ、と本棚をくまなく探すも、肝心の『使者たち』の巻(LOA #215)は出てこない。私は不意にイヤな気分がしてきた。パソコンを開き、Amazon のサイトに向かう。購入履歴のページに行き、「Henry James」と検索した。画面を見て私は言葉を失った。履歴には『鳩の翼』の巻(LOA #162)しかなかった。

私が数日前、自分の本棚に見つけたあの Henry James: Novels 1903-1911 (LOA #215): The Ambassadors / The Golden Bowl / The Outcry (Library of America Complete Novels of Henry James), ISBN 978-1598530919 は、いったい……?