散文

カとガ(3)

チュニス方言にある [g] は、[q] が変化したものというよりも、南部の方言から流入してきた可能性があるとした。とすると、南部方言で [q] から [g] の変化が起きたと考えられるかもしれない。

しかし、南部方言は、他の北アフリカのベドウィン由来の方言と同じく、アラビア半島からやってきたものだ。そして、アラビア半島にも [g] を持つ方言が今もあることを考えると、ベドウィンが北アフリカに来たときに、この [g] を持ってきたという可能性もある。

さらにこうも考えることができる。もしもアラビア半島では古くから [g] を持つ方言が話されていて、これがコーランの時代にまで遡ることができるならば、[g] は [q] と同じくらい古いのかもしれない。とすると、[q] が [g] に変化したとは異なる解釈もできる。つまり、古いアラビア語には [q] でも [g] でもない音があって、その音からこの二つが生まれた、と。

しかしここから先は、他のセム語との比較も考慮に入れなくてはならないから、ここでやめにしておくが、いずれにせよ、[q] と [g] の関係は一筋縄ではいかない。

さて、ここで不思議な存在が現れる。チュニス方言の猫、qaṭṭūs だ。南部方言だと、gaṭṭūs になるが、これまで述べてきたことからはとくに不思議はないように思える。だが、これがけっこう謎なのだ。

散文

カとガ(2)

[g] は標準アラビア語にはない音だが、これを持つ方言も多い。私が比較的知っているのはチュニジアのチュニス方言だが、この方言には [g] と [q] の両方がある。

qalb(心)
gamra(天体の月)

gamra は、標準アラビア語の qamar に対応する。とすると、[q] が、方言では [g] になったと考えることができるが、そう簡単ではない。というのもその場合、qalb が galb でないことの特別な理由を考えなくてはならないからだ。

現在のチュニジアでは、南部の方言では [g] が一般的だ。「言う」という意味の動詞は、チュニス方言では qāl だが、南部では gāl だ。チュニスは長い間、チュニジアの中心地であったから、周囲の方言の影響を受けてきた。その結果、[g] のある語彙がたくさん入り込んだとも考えられる。gamra もそのひとつと考えるほうが、[q] から [g] への変化を考えるよりも単純だ。

また、[q] と [g] で意味が違う語もある。

daqq(ノックする)
dagg(針などが刺す)

daqq には対応する標準アラビア語の daqqa があり、これも「ノックする」という意味だ。dagg は別の方言から取り入れたとひとまずは考えたい。だが、だからといって、daqq と dagg が無関係とは言いきれない。「ノックする」と「刺す」は似ていなくもないから。その場合、どこかで [q] が [g] に変化した例ともなりうる。

さらに、[q] とは関係のなさそうな [g] もある。[g] で始まる garnabbū は、チュニス方言独特の語彙だというが、語源も不明で、形もあまりアラビア語らしくはない。

いろいろ書いたが、わからないことが多いのだ。これが面白い。

それはそれとして、garnabbū の使用には注意されたい。年配の女性に対する罵り言葉だから。

散文

カとガ(1)

アラビア語には二つの「カ」の音がある。ひとつは日本語の「カ」に近い音だ。一般的な音声記号で書くと [k] になる。専門的には無声軟口蓋破裂音という。もうひとつの「カ」は、[k] よりも口の奥のほうで作る音で、無声口蓋垂破裂音と呼ばれる。記号で書くと [q] だ。これは日本語にはない音だ。口を大きく開けてカラスの鳴き声を真似すると近い音が出るかもしれない。

アラビア語では [k] と [q] はまったく違う音だ。kalb は「犬」を意味する語だが、この k を q に変えて qalb とすると「心」という意味になる。

さて日本語にはさらに「ガ」がある。これは [g](有声軟口蓋破裂音)だ。これとは別に鼻濁音の「ガ」([ŋ]、軟口蓋鼻音)もあるが、ここでは関係ない。そして、アラビア語にはこの [g] の「ガ」がない。

ただし、これは標準アラビア語の話だ。アラビア語には、公的な場で使用される標準アラビア語と日常的に使われるアラビア語方言という二種のアラビア語がある。標準アラビア語には [g] はないが、方言にはこれを持つものも多い。とくに北アフリカのアラビア語方言では「ガ」がよく聞かれる。

私はこの [k] と [q] と [g] の三つの音についてかねてから不思議に思っていることがある。それについて少し書いてみるというのが、この記事の目的だ。

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パソコンの事故

一ヶ月半前、スタバで MacBook Air をいじっていたら、隣の人の荷物が倒れてきた。それで私の飲んでいたアイス・コーヒーのグラスが倒れ、キーボードにかなりの量がかかった。私は席から飛び上がり、慌ててパソコンを拭いた。中にまでコーヒーが入り込んでいて、逆さにすると茶色い液体が垂れてきた。

家に帰って、携帯で調べてみると、パソコンの電源を切って充電もしないように、と書いてあった。下手をすると発火してしまうのだろう。少なくとも丸二日は放置して乾かすべきだという。

その間、パソコンが使えず困ったが、しょうがない。また別の問題もあった。そのような事態に陥ったパソコンは故障する可能性が高い、というのだ。壊れた場合は、荷物を倒した人に弁償してもらうことになる。すでに連絡先は交換してあった。私はその日、Apple Store に行き、事情を話して見積もりを作ってもらった。最低でも十六万かかるという。私の使っているものはもうすぐ五年になるので、これならば新しいものを買うほうがよい。

私はちょうど iMac を買おうと思っていた。しかし、ノートまで買い換えるとなると話が違う。そこでいろいろ考えて、iMac は買うにしても、ノートはいちばん安い MacBook Neo にすることにした。私の使い方ならその程度で十分だ。iMac について調べると、どうやら近々新型が出るという。これはいいタイミングだ。

ただ、今のところ、私の MacBook Air にはなんの異常も発生していないのが、問題といえば問題だ。

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ぶれない芸

漫才を見たり、芸人たちの話を聞いているとたまに「ぶれてはいけない」という話になる。これには二つの側面がある。ひとつは話の「ぶれ」だ。漫才にせよ漫談にせよ、話のフォーカスがずれたり、ひとつに絞りきれていなかったりすると、聞く人の解釈がぶれてしまうというのだ。もうひとつは視線の「ぶれ」で、例えば普段つけていないアクセサリーをつけていたり、手に包帯を巻いていたりすると、観客はそっちのほうに気を取られてしまう。

これらのぶれは、舞台上で行われていることに観客が集中することを妨げる余計なものだから、できるだけ排除しなくてはいけないのだという。私は芸能のことはわからないが、芸人たちが舞台では決まった衣装を身につけるのも、こうした余計なものを舞台に持ち込まないためのひとつの工夫であろう。

また芸人たちが、程度の差こそあれ、ある種のキャラクターを帯びて登場するのも、もちろんキャラクターそのものにも機能はあるが、衣装と同じように余計なものを排除する機能があるものと思われる。いつもと同じ雰囲気だからこそ、観客は迷わずに集中することができる。

私は昨日、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない、と書いたが、芸人にもこれは当てはまる。漫才や漫談は演劇とは違うから、そのまま生身の人間がそこにいると勘違いしやすい。またそう勘違いさせるのが芸のうちでもある。しかし、そこにいるのは引き算によって作られた存在だ。

演技や芸というと特別なことのように感じられるが、やっていることは私たちにも関係のあること、つまり話を伝えるということだ。となると、私たちもまた、なにかを伝えようとするとき生身の人間でなくなっているのではないか、という気もしてくる。

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ラバー・ソウル・アンユースト

十月二日にビートルズの『ラバー・ソウル』のスペシャル・エディションが発売された。どんな内容かと曲目を見ていると気になるものがあった。

DISC 2 の十二曲目の「In My Life (Extract With Unused Organ Solo)」だ。この曲は印象的なチェンバロ風のソロでも有名だが、それをオルガンで弾いた別テイクがあり、その間奏部分だけを抜き出したものだ。括弧内を日本語にすれば「未使用オルガン・ソロ付きの抜粋」とでもなる。

私が気になったのはこの抜粋のカタカナ表記だ。Apple Music でも、ユニバーサル・ミュージック・ジャパンのサイトでも「イン・マイ・ライフ(エクストラクト・ウィズ・アンユースト・オルガン・ソロ)」となっている。

私は英語はよくわからないが、「未使用」という意味ならば、unused の s は z で発音するのではないかと思う。つまり「アンユーズド」だ。濁点のないアンユーストは普通「慣れていない」という意味だ。

よくよく考えてみると use は奇妙な単語だ。動詞ならユーズ、名詞ならユースだ。これはまだいいとしても、同じ used でも「〜を使った」のときはユーズド、「〜したものだ」とか「〜に慣れている」とかのときはユーストだ。

「〜したものだ」や「〜に慣れている」の used はいつも to が続く。そのときは、ユースト・トゥではなく、to とくっついてユースタとかユーストゥになってしまう(と辞書に書いてある)。これは後続する to に引っ張られてそうなったと考えるのが自然だ。しかしこうなるともう usedto で一語で、ユーズドとは別の語のような気もするが、よくわからない。

しかし、それにもましてわからないのは、大きな会社なのに、しかも誰もが知っている歴史的作品なのに、濁点なしという間違いが校正を通り抜けてそのまま世に出てしまったように見えることだ。もしかしたら私の英語の知識が乏しいだけということもありうるが、そのうちビートルズもヒートルスになるかもしれない。

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あぶない辞書

昔は単語ひとつ調べるのにも、分厚い辞書を取り出して、パラパラとページを繰って探し出さねばならなかった。また、学校に行くときは、辞書を何冊もリュックに入れて持ち歩かねばならなかった。しかし、今は腰にやさしい時代になった。スマートフォンひとつあれば十分で、アプリを開いて、単語を入力するだけで意味が出てくる。

とはいえ、紙の辞書と完全に「おさらば」というわけにはいかない。電子化されていない辞書も数知れない。また、何ページにもわたる項目を概観したり、あちこちのページにある複数の項目を同時に検討するときには紙のほうが便利だ。もっとも、こうした問題はいずれ技術的に解決されるのかもしれない(し、もうされているのかもしれない)。

この調子だと、おそらく何年後かには、紙の辞書を所持しているだけで不思議に思われる時代になっているだろう。それどころか、警察に捕まる可能性だってある。マリファナを巻くのにうってつけだからだ。

そんな危険な代物だが、私はいまだに紙の辞書を使うことも多い。そして、いつも思い出すことがある。

日本言語学会の会長を務めたこともある言語学者がいた。昔の人なので私は直接会ったことはないが、その当時を知る人がこんな話をしてくれた。

「その先生は、眼球が動かなくなっていたんだ……あるとき、そのことを先生に尋ねたら、メガネの奥から目をギロリとさせて『辞書の見過ぎだよ』って言ってたね」

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苦の世界(reprise)

一週間前、私は『宇野浩二全集』について「苦の世界」というタイトルで書いた。タイトルにはあまり意味はなく、宇野浩二の代表作を持ってきたにすぎない。内容はというと、古書サイトで目をつけていたのがAIに買われてしまったので、AIの魔の手から日本の文化を守るために、別の『宇野浩二全集』を探し出して買う、というものだ。

これはあくまでもフィクションで、もっともらしい理由にかこつけて物欲を満たそうとする、そういう人間について書いたのだった。だから、実際にはなにも買いはしなかった。

しかし、書き終わってから、私はなんとなく落ち着かなくなった。フィクションとはいえ、買ったと書いたことに引っかかりを感じていた。私は古書サイトを調べてみた。だが、気に入るようないい状態のものはなかった。しかし、たとえあったとしても買うつもりはなかった。ただ、あれば、「お気に入り」に登録しておこうかと思っていただけだった。

ふとオークション・サイトのことを思い出して、『宇野浩二全集』を探してみた。

するとあった。

しかも、非常に安く、そのわりに状態もよいのだった。私は最低価格で入札した。オークションで買い物をするのははじめてだった。他に入札者が現れないまま数日後、オークションは終了し、私は落札した。そして、今、『宇野浩二全集』は私の書架に並んでいる。

私ははじめ、もっともらしい理由をつけて欲しいものを買う人間について書いたのだった。それを書くこと自体がまた、私にとって、もっともらしい買う理由となったとは、いったい誰に想像できただろうか。

散文

備えあれば

近所のスーパーでは、夕方になると生鮮食品がまばらになる。これはひとつには食品ロスを減らすためだろうが、もうひとつには私たちが出費を抑えるようになったためでもあろう。

あくまでも印象にすぎないが、他の商品も種類が減っているように感じる。いつも買っていたヨーグルトが姿を消した。豆腐もいつの間にか見たことのないメーカーのものに変わった。刺身も薄くなった。無料の牛脂もワサビもなくなった。

今日の夕方、そのスーパーに行ったら、果物もなにもなくなっていた。野菜の棚もカラだ。いつもよりたくさんの人がいて、残り少ない商品から選びに選んでカゴに入れていた。

まるで台風のときみたいだ。

だが、すでに台風は去り、別の台風が来るにはまだ間があった。私は、このスーパーが明日から三日間、店内改装のために休業することになっていたのを思い出した。

日本もついに昔の共産圏のようになったかと衝撃を受けたが、どうやらそれにはまだ間があったようだった。

私は買い物カゴを抱え直すと、売り場を慌ただしく動き回る人々の中に飛び込み、三割引の豚肉と半額の厚焼き卵を素早く掴み取った。八枚切りの食パンはすでに売り切れていたので、わずかに残っていた六枚切りで我慢した。

来るべき通貨危機もこの動きで乗り切れそうだ。

散文

ランダムに読む

ここ数日、私はこのブログのフロントページなどを作り変えている。大きく直すわけではないが、あまりにも無愛想だったので、少し愛想をよくしてみた。

もっとも私はあまり知識がないので、懇意にしているAIにお願いして、新しい仕組みをいくつか作ってもらった。そのうちのひとつが「ランダムに読む」ボタンだ。このボタンを押すと、ブログの別の記事にランダムに飛ぶ。どんな作品が出てくるかわからない。

今のところ、ボタンを各記事の末尾に設置するつもりでいる。つまり、読み終えたら押せるということだ。とはいえ、このボタンがついているのはまだ一部に過ぎない。私はAIに何度も懇願して、全部の記事に一度にまとめて設置してくれるよう求めたが、できないの一点張りだ。なので、自分でひとつひとつ手動でつけていかねばならない。いつ終わるかはわからない。

私にはアイディアがある。ブログの中に、この「ランダムに読む」ボタンでしか行けないページを作るのだ。そのページには財宝が眠っている。そこにたどり着いたものだけが、無限の富を手に入れることができるのだ。すると、荒くれ者のトレジャーハンターたちが大挙してブログにやってくることだろう。「ランダムに読む」ボタンを押しまくり、ブログをくまなく跋渉する。ページビューは莫大なものになるだろう。コンパスや十徳ナイフ、テンガロンハットなど、トレジャーハンターの購買意欲を刺激する広告を入れれば、いい副収入になるはずだ。

だが、そのためにはまず無限の富を手に入れなければならない。これさえあれば、小遣い稼ぎは確実だ。