散文

地獄の言語学入門(13)

投獄されたばかりの政治犯にとって必要なのは(二度目三度目でないかぎり)、まず獄中の人々の動きを観察することだ。すると、ただちに次のようなことがわかってくる。

囚人たちには大きく分けて二つのグループ(AとB)がある。囚人たちには毎日労働が課されるが、Aグループには暖かい倉庫内での作業道具の整備・資材の確認などの仕事が割り当てられる。いっぽうBグループの囚人たちはといえば、氷点下の極寒の世界での重労働だ。凍えながら夢中になってレンガを積んだり、橋の建設のためにずぶ濡れになりながら砂利を運ぶ。ときには水の中に落ちて上がってこない者もいる。

また、労働だけでなく、食事にも違いがある。Aグループはいちばん最初に飯にありつける。そして、これらの恵まれた人々は、後から列に並ばせられるBグループのことなど考えやしない。Aグループが食べ終わったころには、飢餓状態のBの囚人たちが残り物の奪い合いをしている。

牢獄の看守は明らかに依怙贔屓しているのだ。そこで、私たちの政治犯は考える。AとBはいったいなにが違うのだろうか、と。これは重要な問いだ。なぜなら、どちらのグループに入るかで、生き残れるかが決まるのだから。

政治犯はそれぞれのグループの囚人の観察を始める。グループを分けるのは、国や民族だろうか。いや、違うようだ。この政治犯は慎重に看守に近づき、それとなく故郷を聞き出す。なるほどAグループには看守と同郷のものがいるようだ。だが、これまでに集めた情報によれば、全員ではない。ということは、郷土愛がグループの対応の違いを生み出しているわけでもない。

政治犯の観察はさらに続く。性格、体つき、犯罪の種類、刑期……どの点から見ても、AとBを区別する決定的な違いは見当たらない。この観察者が絶望しはじめたとき、決定的瞬間が訪れる。

Aグループの囚人のひとりが看守に近づき、タバコを一本渡したのだ。看守はタバコを受け取ると、手でその囚人を追っ払った。すると、また別のAグループの囚人がやってきた。その囚人はポケットから硬貨を取り出すと、看守の腰のポケットにそっと入れる。看守はどこか遠くに目を向けたまま、同じように手で追い払った。

政治犯はこのとき電撃的に理解する。これだ……これだ、と。

AグループとBグループを分ける弁別特徴は、看守への賄賂だったのだ。

小説

道を渡りし者(1)

ある仕事で、とある地方都市に行ったときのことだ。

意外に用が早く済んで、どうやら午後3時の電車に乗れそうだった。そうすれば、暗くなる前に東京に着くだろう。私は急いで駅へと歩いたが、途中、目の前で信号が赤に変わった。

左右を見るが車が来る気配もなかったので、私は立ち止まらずに横断歩道を渡った。そのとき、周囲から叫び声が上がった。

前の歩道で信号を待っていた男が叫んだ。「なんてことだ! 赤なのに渡ってるぞ」 私の背後でも誰かが叫んだ。「すごい! すごい!」

私が渡りきると信号が青に変わり、その瞬間、どっと人々が私を取り巻いた。私は自分の行為を咎められるのかと思い、恐怖に襲われたが、人々の顔にはいかなる怒りも憎しみなかった。ただ、そのかわり、驚きと興奮があった。

人々はみな顔を上気させながら私を質問責めにした。「いったいどうやったんです?」「どこからおいでになったのです?」「私にもできるでしょうか?」

しまいには「なんという勇者だろう!」「ヒーローだ!」「魔法使いだ!」などと私を褒めそやしだした。手を打ち鳴らす者もいた。もしここで、ひとりの恰幅の良い男が私を人々から引き離さなかったら、胴上げが始まっていたかもしれない。

旅・観察

おもてなさぬの品川入管記(7)

 入管としては、もうこの質問表と引き換えに感謝状を差し上げたいぐらいだろう。自ら「偽装難民」と名乗り出てくれるわけだから。しかし、その感謝状の裏を見れば、しっかりと強制退去令が……という次第だ。

 ならば、このげに恐ろしき質問票にどう書いたらいいのだろうか。正解はもちろん、自分の難民性に関係することだけ書く、だ。

 「当該活動」をやめざるをえなかったのは「私は難民だからです」で十分だ。これは詭弁でもないし、嘘でもない。そもそも、難民でなければ日本になんか来なかったのだから。

 さて、紙を一瞥するや否やこれらの事情を瞬時に察した私は、素早く2人のアラカン人を制止した。ペンを握った2人はビルマ語の丸文字をすでに書き連ねていたのだ。

 「待ちたまえ! そこは難民の理由だけを書くのだ。うむ、消せばなんとかなる! で、いったいなんて書いたのかね?」

 「『私はアラカン州で命の危険があるので逃げてきました。難民です。』と書きました」

 「あ、そう」

 なに、わかってんじゃない。俺が口を出すまでもないのさ……。

 女性職員が紙を回収に来た。私が日本人だと知ると、私の身分確認もする。まもなく、男性のほうが呼ばれたが、すぐに戻ってきた。在留カードの住所変更をしていないので、受理できないのだという。

 次に呼び出された女性のほうは、無事に受理されて、11:30-12:00に再度呼び出しますという札をもらっている。

 ちょっと時間ができたので、私はこの間に仮放免保証金の還付手続きをするために4階の会計窓口に行った。20分ほどで済まし、10万円の小切手を受け取って再び3階に戻る。

 もう女性の手続きも終わっていた。後は、2階のBカウンターで技能実習ビザの変更手続きをするだけだ。しかし、もう十分だろう。私は2人を置いて入管を後にし、小切手を換金するために田町の銀行に向かったのであった。