私たちの政治犯を驚かせるのは、その新たな看守が、別の基準にしたがってグループ分けをしていることだ。
これをA’グループとB’グループとしよう。そしてやはりB’グループのほうが危険なのだ。
はじめ、政治犯はこれも弁別特徴が賄賂であろうと推定した。そこで、こっそりと看守に近づいて硬貨を一枚握らせる。猛烈なビンタで弾き飛ばされた。「次に同じことをしたら独房行きだぞ!」と警告された。政治犯は鼻血まみれになりながら退散する。賄賂ではないのだ。
それからしばらく獄中音韻論研究の日々だ。この看守はどんな基準で依怙贔屓をしているのか、どうやったらA’グループに入れるのか……そして、ついに見つかる。この看守は暇なときやたらと立派な本を開いているのだ。こっそり近くに寄って何を読んでいるのか覗き見る。宗教書だ。
政治犯はその看守の目の届くところに佇んだ。そして、小声で、だが聞こえるように、祈りの文句を繰り返し、それっぽく礼拝してみせた。
「おお!」と看守は声を上げ、思わず祈った。この瞬間から、政治犯はA’グループのほうに振り分けられることとなった。弁別特徴は祈りだったのだ。
私ははじめこの看守が中国人かもしれないと示唆した。監獄論的には看守はどの国の、いやどの言語の話者でもいい。しかし、音韻論的には、話の流れからすると、中国語話者、いや、韓国語話者や、ビルマ語話者がふさわしい。
というのも、これらの言語は、日本語のような有声・無声という弁別特徴にこだわらず、別の特徴によって区別するのだから。つまり、中国語や韓国語などでは、有声・無声よりも、有気・無気という別の対立関係のほうが重要なのだ。
有気とは子音を出した後に一瞬の気音(呼気)が後続する音のことだ。無気は逆にこの気音がない。中国語などでは、この気音の有無で語が区別される。これに対し、日本語はそうではない。t の後に気音が続こうと続くまいと、タイヤはタイヤだ。
この音韻論的思考のおかげで、A’グループに仲間入りした私たちの政治犯は、軽作業をこなしながら考える。
「あの看守は賄賂の有無で囚人を区別したが、この看守は祈りの有無でそうしている。では、どちらが良い看守だろうか? 音韻論的には弁別特徴にいいも悪いもない。だが、賄賂は不正なのに対して、祈りは善だ……」
看守論に耽る政治犯の手が止まった。めざとく見つけた看守が、分厚い宗教書でぶちのめした。