散文

地獄の言語学入門(8)

言語学こそ獄中での学にふさわしいとの認識が打ち立てられた今、「獄中での研究に備える言語学最小キット」について明かすべきときが来た。このキットこそ、いかなる場所でも言語学研究を可能にする最小限の備えである。この備えあれば、獄中においてはいかなる憂いもありえない。

「獄中言語学最小キット」には、言語学の基本を理解するためのツールが詰まっている。このキットの説明に入る前に、まずは、言語学の基礎中の基礎である音声学について解説しよう。

音声学とは、人間が出せる言語音に関する分野だ。この音声学でなによりも重要なのは、IPA の一覧表だ。IPA というのは国際音声記号(International Phonetic Alphabet)のことであり、この記号群は、人間の発せる音(母音と子音)のほとんどに対応している。つまり、IPA を用いれば、世界中のあらゆる言語を表記することができるのだ(もっとも、言語がそれで我慢してくれた場合だけだが)。

それだけではない。音声の分類も体系的だ。母音は唇の丸め、舌の前後、舌の高低という三つの特徴によって分類され、子音は有声か無声か(声帯が振動するかしないか)、調音点(音を作る場所)、調音法(音の作り方)という三つの特徴によって分類されている。もちろん、言語音はさらに複雑であるが、その複雑さをカバーすべく、分類に入りきらない多彩な記号や、パワフルな補助記号も用意されている。

言語学の基礎は、この IPA を理解し、使いこなすことに始まる。そのことを念頭に置いて、まずはお手元のキットを開いてほしい。最初に現れるのは、IPA と記された A4 サイズの封筒だ。あなたがその封筒を開くと、中に紙が一枚入っている。その紙を取り出す。驚いたことに、白紙だ。裏にも何もない。IPA の記号を記した表もリストも何もない。

「なんだ?」と不審に思ったあなたはもう一度、封筒を見返す。そして、そこにこう書かれているのに気がつくのだ。

IPA (International Prison Alphabet)

ここであなたは、その意味を悟るのだ。獄中では IPA に頼るな、と。自分の観察から出発し、自分なりの IPA を作れ、そうできるように備えよ、と。

なお、悟った後は、紙を封筒にちゃんと戻しておくこと。

旅・観察

おもてなさぬの品川入管記(2)

 品川入管の「きびしさ」を噛みしめた私たちであったが、さらにそのきびしさを思い知ることになった。

 申請カウンターは廊下に開いた扉の中にあった。だが、その前は人でいっぱいだったのだ。諸国の民が殺到してた。廊下の両側には椅子が並べられている。だが、どれも埋まっていた。みんな、くたびれた書類を手にうなだれている。立って待っている人もいる。

 難民の椅子取りゲームだ!

 私はどこに取り付いたらいいのかわからない。椅子を狙えばいいのか、扉の前にたむろしている人々の中に入ればいいのか。

 いや、立っている人たちは椅子に座るのを待っているのかもしれないぞ。しかし、列は両側にある。もしかしたら、こっちの椅子の列は申請が終わって呼び出しを待っている人用なのでは。うっかりそんなところに座りでもしたら、1日待っても呼び出されない。

 私はカウンターに入って、職員たちに聞こうとする。職員たちは対応中で、相手にもしてくれない。「外で待っていてください」と追い出される。

 ふと壁を見ると、張り紙が。「お困りの方はご相談ください」と入管の電話番号が書いてある。バカバカしいが、私はそこに電話してみる。

 「どこで待てばいいのですか」

 「受付で聞いてください」

 埒が明かない。

 その時壁際の椅子がひとつ空いた。私は冷静に注視する。反対側の壁際の椅子から移動してくる人はいない……となると。

 今だ座れ!

 私はその椅子を占拠する。と同時に、周りの難民申請者たちを睨みつける。割り込みをしたという文句を封じるのだ。「おもてなし」なんかくそくらえだ。

 しばらくするともう2つ空く。壁際に立っていた2人のアラカン人を呼び寄せる。

 どうやら誰も何も言ってこない。とりあえずここにしがみついて何が起きるか待つのだ。

エレベーターの中