散文

地獄の言語学入門(6)

「さて、この私は、数学者の自慢とする理性とやらにも一言言わねばならない。数学者はこの理性が普遍的であることをエラく鼻にかけているようだが、その普遍性こそが、まさに獄中の学としての欠陥となるのだ。

というのも、理性が万人の共有するものであるのならば、ただ一人の天才がその理性の探究と行使に打ち込めば良いだけの話であり、なにも他の有象無象がこの理性にかかずらう必要などないのである。そのような無駄な営みにわざわざ首を突っ込む愚か者はいるだろうか? ゆえに、万人が投獄されうる万人投獄説に立脚する獄中の学として、数学はまことに楽しみの薄いものとなるのである。

ところが、言語学はこの普遍的な理性を相手にするものではない。皆さんは、この世界にいったいどれだけ言語があるとお考えであろうか。七千ほどであろうか? いや、違う。かの韓国の大作家キム・ヨンファン先生がいみじくも言い当てたように、この世界には人間の数だけ言語があるのだ(なお、先生は韓国ドラマの登場人物である!)。

つまり、言語とは社会的な存在ではあるにしても、個人にも深く根ざす存在なのであり、その個人の生育歴、経験、思考、職業、社会生活によって千差万別に変わりうるのである。それだから、理性のように人任せにしておけばいいものではない。それはなによりもまず自分の言語なのであるから、じっくりと観察すれば、自分にしか気がつきえないこと、自分にしか言えないことが必ず見つかるものなのである。それは数学の新定理を発見することよりもはるかに容易なのだ。

すなわち、言語学とは、普遍性よりも個別性がものをいう学なのであり、これゆえに、言語学は、万人が刑務所で喜びとともに研究にいそしむ学として、数学よりも徹頭徹尾ふさわしいのである!」

数学者をここまでやっつけたからには、哲学者も神学者も、私はたった一言で薙ぎ払うことができた。

「哲学者よ、哲学が獄中での継続的な研究に不向きであることは、その祖たる人物が投獄されるや否や自ら毒杯をあおったことによりすでに証明済みである! そして神学者よ! もしも神がいればこんな刑務所などあろうはずもないのだから、アクィナスだか秋茄子だか知らないが、そんなものは捨てて、ロマンス言語学に打ち込むが良い!」

かくして私は、これらの学者たちを、それぞれがもともと安住していた独断の眠りへと追い払ったのであった。