旅・観察

ベルベル語の調査とその後(2)

つらいことの第一は、場所だ。言語調査は、音声を聞き取ったり、録音したりしなくてはならないから、静かで、落ち着いた場所でやるのがいちばんだ。会議室とか、研究室とか、贅沢を言わせてもらえば、海の見えるホテルの一室とか……。

私の場合は、初顔合わせをしたあのカフェが調査場所となった。これは決して悪くない。以前、外の石段に座って調査したのに比べれば、ずっとマシだ。カフェだから、コーヒーも水も飲める。それに、調査用紙が突風に吹き飛ばされないようにクリップでしっかり挟んでおく必要もない。

とはいえ、カフェはカフェだ。壁掛けのテレビはいつもつけっぱなしだ。私はカフェを隅から隅まで調べ、音が届かない死角の席を見つけ、そこを使うことにした。もっとも、先客がいて、テレビの真下の席にせざるをえない日もあった。カフェは午後になると、放課後の高校生がグループでやってきた。離れた席から楽しげな笑い声が聞こえてきて、録音レベルと私の心を乱した。

だが、これが別のカフェだったら、スピーカーから爆音が流れ、いかつい男たちが大声で話している。ジョークに笑いこけながら、互いに手をバチーンと打ち鳴らしている。それに比べれば、このカフェは調査向きだ。日を追うに連れ、S さんとのやりとりもしっくりしてきた。

だが、調査 4 日目、私たちはこのカフェから閉め出された。

(写真:カフェの中)

旅・観察

ベルベル語の調査とその後(1)

私の本格的なベルベル語の調査は、2025 年 2 月 25 日のお昼から始まった。調査といっても S さんに言葉について質問するだけだ。しかも、最初は録音だけしてノートすら取らなかった。後で音声起こしをしようと考えていたのだった。

しかし、みかねた S さんがアラビア文字で書いてくれるようになった。それで私もアラビア文字でノートを取ることに決めた。

どんなことを聞くかというと、「私」、「頭」、「ニワトリ」、「食べる」、「飲む」などの基本的な語彙や、動詞の活用、「昨日、雨が降った」とか「庭に二羽ニワトリがいる」とかの簡単な文だ。「明日、雨が降るだろう」とか「ニワトリはいなかった」とかも調べる。

調査は、2 月 25 日から、帰国日の 3 月 7 日まで続いた。ただし、途中で 2 日休んだので、実際には全部で 9 日だ。1 日は S さんの都合、もう 1 日は帰国前日の 3 月 6 日で、これは私の都合だった。調査は 1 日 3 〜 4 時間で、終わるとホテルに戻って、録音を聞き直しながらひたすら書き起こす作業になる。

この 9 日間は、ベルベル語を調べる楽しみと興奮に満ちていた。だが、そのいっぽう、つらく切ないこともあった。3 月 6 日に休まなきゃいけなかったのだって、ちょっとした事件があったせいだ。

(写真:チュニスのメディーナの風景)

旅・観察

ベルベル語に出会う(5)

私はいくつかの単語を尋ねてみた。すると S さんは、ひとつひとつ答えながら、「これは私の出身のターウジュート村ではこういう。でも、他の村では違う言い方をする」と説明してくれた。

「水はなんと言いますか」

「水は、アマーン。アルジェリアでもモロッコでも、どこのベルベル語でもこれは同じだ」

他の地域のベルベル語についても経験豊富なようだ。さらに、チュニジアのベルベル人の生活や考え方についても教えてもらった。

「たとえばあなたのようなよそ者がターウジュート村に行っても、誰も挨拶もしないよ。ましてや笑いかけたりなど絶対にしない。それが習慣なのだ」

「でも、ベルベル人同士なら笑ったりするでしょう」

「ベルベル人は笑わない。だからジョークも存在しない」

「ほんとかな」と思うが、チュニス暮らしの長い S さん自身は、笑わないわけではない。軽薄なところのない、落ち着いた男性だ。S さんこそまさに、ベルベル語の先生を頼むにふさわしい人のように思えた。

私たちは、調査の条件について簡単に取り決めをして、2 時間の「初顔合わせ」を終えた。明日から、念願のベルベル語の調査が始まるのだ。

(写真:カフェの風景)

旅・観察

ベルベル語に出会う(4)

待ち合わせ場所は、チュニスのメディーナの中のカフェだった。携帯の地図情報を見ながら、曲がりくねった道を進む。いくどか行ったり来たりして、目的のカフェに着いた。メディーナによくある古い住居を改装したカフェで、柔らかい光が白い床に薄い影を投げかけていた。

奥のほうにクッションの敷かれた小部屋があった。B さんの姿が見えた。隣に男性が 2 人、体をくっつけて座っていた。年配の男性と若い男性だ。

私が 3 人を前にして腰掛けると、B さんは、年配の男性を S さんと紹介してくれた。彼は、大きな目で私をじっと見た。

それから、会話が始まった。若い男性は息子だった。学校で英語を勉強しているので、通訳の役に立とうかと、連れてきてくれたのだそうだ。S さんは、英語は話せない。だが、フランス語は話せるし、ドイツの留学経験もあるので、ドイツ語もできる。

「一緒にドイツに行ったチュニジア人の誰も ich の発音ができなかった。けど、私はすぐできた。なぜならこの音はアラビア語にはないけど、ベルベル語にはあるからね」

私がこの音を真似すると、「そう、それだ」と感心してくれる。もっとも、種明かしをすれば、私にできないわけがないのだ。なぜなら日本語の「ヒ」と同じ音なのだから。

(写真:カフェの風景、2025 年 2 月 24 日撮影)

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ベルベル語に出会う(3)

その団体は、日本語教室のほかに、地域の外国人が講師となる語学教室も運営していた。フランス語教室もあって、こんなふうに書かれていたのだ。

「講師はチュニジア出身の A さん」

名前はアラブ風の名前だし、チュニジア人がフランス語を教えても不思議はない。

私はこの人に会わねばと決心した。というのも、私はそのころチュニジア訪問の計画を練っていたが、コロナによって環境が変わったため、人間関係を作り直す必要があったからだ。

そこで、ある日曜日、私は A さんの教室を訪問し、2 人のチュニジア人を紹介してもらった。そのひとりを通じて私はガベスを訪問することができた(これはすでに書いた)。そして、そのもうひとりである B さんは、私にタターウィーンの友人を紹介してくれたばかりでなく、ついにベルベル語の話者と引き合わせてくれたのだった。

それは 2025 年 2 月 24 日のことだった。私は B さんにベルベル語のことで紹介をお願いしていたが、もしダメだったときは再び南部に行って以前の知り合いにあたってみようと考えていた。そこで、その日朝早く、駅に行って 13 時発のガベス行きのチケットを買った。ホテルに戻って、引き払う準備もした。

すると、B さんから電話がかかってきた。ベルベル語話者との顔合わせのセッティングができたという。午後 4 時に待ち合わせだ。

私はホテルのフロントに延泊を告げるとともに、チケットを持って駅に急いだ。払い戻しできないと言われた。1,200 円ばかり無駄になった。私は気にしなかった。

(写真:チュニジアのサラダ、2025 年 2 月 24 日撮影)

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ベルベル語に出会う(2)

私のベルベル語との出会いは、さかのぼれば、私とカレン人との関係にはじまる。カレン人は、ビルマの民族のひとつで、内戦のため国を出ざるをえない人も多い。

私がカレンの人々と出会ったのは、1990 年代の半ばの東京で、その後、タイの難民キャンプやビルマ国内のカレン人の地域に一緒に行くまでの関係になった。

カレン人には、日本人と同じように、さまざまな祭りがある。そのうちもっとも大事なもののひとつは「カレン新年祭(カレン・ニュー・イヤー)」というお祭りで、カレン人の暦にしたがって、毎年、年末か年始のどこかで開催される。

日本では 1990 年代末から毎年カレン新年祭が開催されている。カレン新年祭で大変なのは、会場探しだ。安くて広い会場にたくさん人を招きたい、歌とダンス、食事を楽しみたい、そしてあわよくばお酒も飲みたい、というのがこのお祭りだが、年末年始の東京にそんな都合のよい会場はない。安い会場があったとしても、「音楽はダメ」とか「飲食禁止」などなかなか難しい。このお祭りを運営するのは、在日カレン人の有志だが、いつも会場選びに困っていた。

2022 年の暮れに行われたカレン新年祭の会場も、そんな苦労の末に見つかった場所だ。公共施設なので、お酒は飲めないし、東京から遠いのは難点だが、会場の準備に協力してくれた団体は、カレン人の状況をよく理解していた。

というのも、その地域には第三国定住事業で日本にきたカレン人の難民たちも暮らしていて、その団体が日本語教育支援を行なっていたからだ。

私がこうしたことを知ったのは、お祭り当日にその会場に着いてからだが、そのとき、団体の責任者から活動案内を渡された。そこに、気になる情報があった。

(写真:今年のカレン新年祭、赤羽)

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ベルベル語に出会う(1)

私にとって、チュニジアのベルベル語を学ぶというのは、長年の夢であった。とはいえ、それは 2 つの点で難しかった。ひとつは私自身の能力の問題だ。チュニジアでベルベル語を学ぶためには、この言語と言語学の知識に加えて、アラビア語やフランス語で意思疎通ができるだけの語学力もなくてはならない。これは私には無理だ。

だが、能力のことは、あまり深刻に悩んでもしかたがない。完璧な人などいないし、できなくてもとにかくやってみれば、どうにかなるかもしれない。しかし、もうひとつの問題はそういうわけにはいかなかった。ベルベル語を教えてくれる人がいなかったのだ。これは心の持ちようでどうにかなるものではなかった。

私はチュニジアで誰かに会うたびに、ベルベル語を教えてくれる人はいないかと尋ねたが、思うようにはいかなかった。だが、2025 年 3 月、ついに私はその人に出会うことができた。

この出会いについて語るのが、この文章の目的だ。もっとも、そのために私は少し回り道をしなくてはならない。ビルマ(ミャンマー)のカレン人という民族について話すところから始める必要があるのだ。

(写真:ドゥウィーラート周辺の風景)

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ベルベル語への旅(7)

ラマダーン中、人々は日中は静かにしていて、夜になると外出する。この期間は、どこでもお祭りでにぎやかだ。移動式の遊園地は夜まで開いていて家族連れや若者たちでいっぱいだし、その周りにはお菓子の屋台が並んでいる。私たちも真夜中までカフェで過ごした。3 人で屋外のテーブルに座っていると、急に辺りが騒がしくなった。風が吹いてきて、落ち葉やゴミが舞う。椅子が倒れる。砂嵐だ。外にいた客たちは皆飲み物を持ってカフェの中に駆け込んだ。

サハラ砂漠の入り口、タターウィーンならではの光景だ。この砂嵐のことを南部ではカッサーヒー(kaθθaːħiː)と呼ぶそうだ。標準的な辞書には載っていないから、方言的な語彙だろう。

ラマダーン中は皆、宵っぱりだ。そして、朝も早い。なぜなら、日の出前までに食事をしなくてはならないから。カフェから帰ってきた私たちは、日の出前の食事までのあいだ、同じ部屋で雑魚寝することになった。

そして、「3 日間の滞在中、一度もシャワーを浴びられず」というのは、日本のように毎日入浴する習慣がないからだ。空気が乾燥しているので汗をかくこともない。それに、ムスリムは礼拝のたびに顔と手足を水で清めるので、シャワーを頻繁に浴びる必要もない。ただ、ムスリムではない私だけが、砂埃と垢にまみれていった。

タターウィーンで 4 人の友人たちと過ごした 3 日間は、いつも自由というわけにはいかず、ある種のアドベンチャーになったが、そのぶん忘れ難い経験となった。3 月 26 日、夜行バスでチュニスに戻るときも、友人たちとの別れに寂しさを感じずにはいられなかった。もっとも、朝早くチュニスに到着し、運よく 9 時にホテルにチェックインできた私は、真っ先にシャワールームに飛び込んだ。

ガベスでは、ほんの少しとはいえベルベル語の話者と交流することができたが、タターウィーンではそのような機会はほとんどなかった。とはいえ、ベルベル人の住居や遺跡を見て回ることができたのは、今思い返しても貴重な体験であった。

この南部の旅から 1 年後の 2025 年 3 月、私はひとりのベルベル語話者と出会い、ようやく本格的な調査を開始した。そのことについては別のタイトルで書こうと思う。

(写真:砂嵐の様子)

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ベルベル語への旅(6)

翌 3 月 24 日、私はガベスを離れ、ルアージュといわれる乗合バスに乗って、タターウィーンに向かった。そして、3 月 27 日の朝にチュニスに戻るまでの 3 日間、次のように過ごしたのだった。

・ホテルをキャンセルされ、強制ホームステイ。
・ラマダーン中なので、日中はほぼ断食。
・タターウィーンの青年に朝から晩まで連れ回される。
・夜はその青年たちと雑魚寝。
・3 日間の滞在中、一度もシャワーを浴びられず。

肉体的には大変だったが、私はこれ以上楽しい 3 日間を過ごしたことはなかった。私がホテルに着いてホッとしていると、チュニスの友人が紹介してくれたタターウィーンの青年 A さんがやってきてこう言った。

「さあ、私の家に行くぞ。荷物はどこだ」

ホテルでのんびりしている暇などなかった。だが、彼のこの提案のおかげで、私はラマダーン中のタターウィーンの人々の生活を体験することができた。日の出前に食事を一緒に食べ、日没を一緒に待ち、テレビで合図が出るとヨーグルトを飲み、食べはじめた。

A さんはまた、車でベルベル人の古い居住地に連れて行ってくれた。同行してくれたのは彼の友人たち 3 人で、詩人(詩を作るので)、ラッパー(実際にステージに立つので)、哲人(ヒゲなので)だ。この 4 人の青年と私で、タターウィーンの市場を歩き回り、シュニンニーの遺跡や古いモスクへ続く山道を登り、あちこちでふざけて写真を撮った。

(写真:シュニンニーの風景)

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ベルベル語への旅(5)

わずか 10 分ほどの「調査」を終えた私たちは、老人に感謝し、別れを告げると車に乗って、タマズラットに向かった。

タマズラットは山の上に煉瓦の家が立ち並ぶ小さな村で、電柱と電線だけが異物のように見えた。小さな広場に岩でできたラクダの像があって、その向こうでは電線がまるで飾りのようにぶら下がっていた。私たちは、車で村を一周して、もと来た道を戻った。

すると、N さんが車を止めた。先ほどの老人がやってきて、後部座席に座った。

「さっきタマズラットに一緒に行こうと誘ったんだけど」と N さんは私に説明した。「家畜に餌をやるから行けないって言うので、用が済んだら、新マトマータまで送ってあげると約束したんだ」

車の中で、私は N さんを介して、いくつかの名詞や動詞を尋ねた。「『パンを食べる』はベルベル語でこういう」と老人は教えてくれた。「『パン』は私たちはこう言うけど、ズラーワではこう言う」 老人はまた、こうも言った。「ベルベル語はズラーワとターウジュートの人のほうが使っているよ」 口ぶりからすると、老人はタマズラットの人のようだった。

話しているうちに、老人は昔を思い出したようだった。「ずいぶん前のことだけど、スイス人がやってきてね。ベルベル語の本を持ってきて、それを見せながら、この語は使うか、使わないか、村人に聞いて回ってたよ」 いったいそのスイス人とは誰だろうか? そして、その本とは?

車が新マトマータに入った。最初、老人は私などいないかのように接していた。だが、それは違うとわかった。なぜなら、車が彼の家に近づいたとき、こう言ってくれたから。

「今度、この人を私の家につれてくればいい。私の家族がベルベル語を教えてくれるよ」

私たちは再び礼を言って、老人に別れを告げた。

(写真:タマズラットの風景)