散文

地獄の言語学入門(3)

研究には、なにが必要だろうか。理系ならば、データが必要だ。そしてデータを集めるための観測機器、実験道具、データ処理のためのコンピュータもなくてはならない。これらは刑務所内では決して手に入らないものだ。

では、文系ではどうだろうか。心理学にしても、社会学にしても、経済学にしても、理系と同じだ。データがなくてはなにもならない。そして、その他の法律・政治・哲学・文学は、文献がなくては手も足も出ない。

あらゆる研究には対象があり、その対象を捉えるための環境が必要だ。だがどんな研究であれ、刑務所内に必要なものを持ち込むことはできない。たったひとつ、言語学をのぞいては。

なぜなら、言語学の研究対象は、言語そのものであり、言語学者自身がその言語の使用者であるからだ。

言語学者はどんなに厳重な牢獄でも、言語を難なく持ち込むことができる。刑務所のどんなに高い壁も、恐ろしい番犬の群れも、激しく動き回るサーチライトも、見回り兵たちの銃撃も、言語を怯ませることはできない。

言語は、囚人たる言語学者の頭の中にすっぽり収まって、頭蓋骨に護送されながら、堂々と正面から検問を突破する。

散文

地獄の言語学入門(2)

そんなふうに思うようになったきっかけは、現在の日本、そして社会を取り巻く状況の変化にある。ロシアでも、アメリカでも、中国でも、今や自由の価値は下落してしまった。日本も例外ではない。円安とともに、自由安も進行しつつある。

国旗の扱いからしてそうだ。日本では、国旗の持ち方ひとつで刑務所に入れられるようになるという。そんなことで投獄されるのだとしたら、やがてもっとつまらないことでもそうなっていくのは間違いない。

しかも、少子高齢化の先進国、日本では、社会のいたるところで労働力が不足している。これを補うには、外国人の労働力が不可欠だ。なのに日本人ときたら、政治家とジャーナリストが旗ふって、外国人を憎み、放逐することばかりに精を出している。このぶんでは、職業選択の自由など悠長なことはいってられない。必要な労働を国民が担うしかなくなるのも時間の問題、つまり、強制的な労働だけが解決策だ。

ここで私たち慎み深い日本人は先人の知恵に学ばずにはいられない。ありがたいことに投獄と労働力を一挙に賄う手段を先輩たちが考えてくれていた。強制労働キャンプだ。

この便利な施設が、日本全国津々浦々で誘致され、競争入札され、建設されていくことだろう。そして、できればできるほど、投獄する理由もますます増えていく。

私はこの状況にもういてもたってもいられなくなった。日本人のために勇を奮って声を上げることにした。

全国民よ、言語学を学べ、と。

なぜなら、言語学こそが、刑務所の中でも支障なく研究を続けることのできる唯一の学問だからだ。

散文

地獄の言語学入門(1)

この世界に学び、身につけるべきことは数あれど、そのうちでも私が学んだといえるのは言語学だけだ。もっとも、専門家というほどでもないが、それでも学んだことには変わりはない。

言語学というと、一般にどのようなイメージを持たれているのだろうか。私にはよくわからない。そもそも興味をもつ人は少ないし、学べる場所もかぎられている。だから、なにが面白いのかさっぱりだろう。こんなありさまだから、役に立つとも、有益だとも思われてはいない。

それに、近ごろでは AI にすっかりお株を奪われてしまった。言語学が言語の奥義を極めることにありとすれば、それはもうペラペラと倦むことなく喋り続ける AI によって実現してしまったのだ。いまさら言語学になんの用があろうか。しかも、こいつときたら、何ヵ国語でも話すことができる。言語学どころか、語学すら不要になってしまったのだ。

確かに、このありさまでは、言語学などまず学ぼうとは思わないだろう。世間的にいえば、それはもう時代遅れで無意味な学問なのだ。いや、それでいい。学問などそのようなものだ。そもそも全員が全員、価値を理解する必要などない。一部の人だけで十分だ。私はそんな心持ちでいたのだった。

だが最近、私は考えを改めた。言語学をこのような低い地位に放置しておくことは、実はこれからの社会にとってたいへん有害なのだ。(つづく)

散文

保証人のポロシャツ

何年か前、カレン人の友人から、在留期間更新許可申請書の身元保証人を頼まれた。何度もしていることなので、拒む理由はない。待ち合わせの場所に行き、近くの喫茶店で署名を済ませると、紙バッグに入った服を渡された。

ユニクロに勤めているその人は、良さそうな服をみつくろって、お礼としてくれたのだった。ユニクロにはほかにもビルマ難民の知人が働いている。

紙袋の中には、真っ白なポロシャツが入っていた。もらったはいいものの、私はこのポロシャツを何年も着なかった。なぜなら、私は服を必ず汚すから。とくに食事中は危険だ。食べ物たちときたら反抗的なのか、いつも私の服やズボンを汚そうと狙っている。

しかし最近、私はこの白いポロシャツを着はじめた。食事のときは、汚れてもいいシャツに着替えればいいからだ。それに気がついて以来、何度も着るようになった。自信がついて、都内にまでポロシャツのまま行ってみたりした。そして、いつの間にか、目立つところに黒い汚れがついていた。

先日、その友人から連絡があった。更新が近づき、また身元保証人になってほしいというのだ。私はそのポロシャツを着た。汚れがうっすらと残っていたが、そのまま会いにいった。その人が待ち合わせ場所に来たとき、私は自分の服を指して、着てきたことを示したが、ピンときていないようだった。

新たな申請書に署名をした。今度も紙袋をもらったが、白い服は入っていなかったので安心した。

散文

和をもって

このブログのどこかで書いたと思うが、ある人が論語の「四十にして迷わず」について、こう言った。

「こんなことをわざわざ言うからには、孔子は四十になっても迷ったのだ。だから、孔子に及びもつかない私たちが四十を過ぎて迷うのも無理もない。むしろ、大いに迷ったっていいのだ」

この解釈が正しいかどうかわからないが、実際のところ標語は、その逆の事態がはびこっているから意味を持つ。「闇バイトに注意」という警告も、闇バイトが蔓延していなければ意味がない。

聖徳太子は「十七条憲法」の第一条で「和を以て貴しとなす」と定めた。これを根拠に、日本人には和の精神があったと主張する人もいるが、事情はむしろ逆だ。当時の日本人に和の精神などなかったから、聖徳太子はこりゃ和がどうしても必要だ、と憲法のトップに据えたのだ。

その後、結果として、日本人の精神に和が根づいたということもあったかもしれないが、それはあくまでも後世の発展であって、オリジナルの日本精神はアンチ和寄りなのだ。

いや、そんなことあるわけない、当時から日本人が和に生きていたから、太子がそうまとめたのだ、と反論する人もいるかもしれない。

しかし、ほかならぬ聖徳太子の逸話が、これが間違いであることを示している。

もしも、人々が和合し、発言するのにも互いに譲り合うくらいだったなら、聖徳太子は十人の話を同時に聞き分ける特殊能力を鍛える必要などなかっただろう。

苦労してんだ、太子だって。

散文

渋谷カート祭り

昨日は午後からずっと渋谷にいた。夜の Spotify O-nest でのライブのことは書いたが、その前に会場から歩いてすぐにあるユーロスペースで 15 時から開催されたイベント「ラブレターズの非常階段腰掛け男」にも行っていた。ラジオ番組「ラブレターズの階段腰掛け男」が開催したイベントだ。

イベントが終わったのが、16 時半で、O-nest のライブの開場が 18 時すぎだから、時間がある。私は渋谷の街を少し歩いた。私にとっての渋谷は、洋書とレコードの街だったが、今は来る用事もなくなった。ライブ会場があるので来ないこともないが、いつも夜なので、昼間の渋谷は物珍しかった。

ゴーカートが列をなして道路を走っていった。愉快な着ぐるみを着た外国人観光客だ。日本の映画のサムライやニンジャを見たら、日本でサムライやニンジャをやってみたくなるのは当たり前だ。だから、マリオカートを見て、渋谷でカートに乗っても当然という世界基準の理屈だ。

もっとも、たいていの日本人はそうは思わない。なぜなら、江戸時代には誰もマリオ・カートなどには乗っていなかったから。

とはいえ、外国人観光客が今のように渋谷を走り回る時代も、いずれ終わるのだろう。この厄介なカートもいつか姿を消すのだ。

そのとき、私たちはこのカートすら懐かしむ可能性だってある。

外国人の扮装をした子どもをカートの神輿に乗せ、威勢のよい掛け声とともに町じゅう練り歩く「渋谷カート祭り」だって、いつか開催されることだろう。

散文

ブログの入り口

このブログの最初の投稿は 2020 年 2 月 9 日で、写真 1 枚だけだった。だんだんとコロナが広がりつつあった時期だった。この月の後半、私は 2 週間ほどチュニジアに行ったが、もしかしたら、チュニジアにコロナを持ち込むのではないかと不安な気持ちで出発したのを覚えている。

3 月の投稿には、帰国後のことやコロナのことも少し書かれている。その後、私はしばらく入管のことを書き続けた。長崎の大村の収容所に行く必要が生じたりなどしたからだ。

この年は 6 月で投稿をやめている。そして 1 年以上経った 2021 年 11 月 1 日から、私はブログを再開し、今も継続している。

書くことにはそれなりの労力を費やしてきたが、書いた後は放りっぱなしであった。日々、書いたものは増えていくが、時間に飲み込まれていくだけで、それをまとめたり、関連づけたりすることはなかった。

書類の束をいきなり目の前に置かれても、読もうと思う人はいない。なので、他の人が読みやすいように、入り口を作ってみようと思った。そこで、最近、私はブログを多少組織化したり、カテゴリやタグの構造を作り変えたりしている。以前の記事を引っ張り出して、バラバラなのを並べてみたり、束に括ったりしてみた。

ブログに手を加える理由がもうひとつある。科研費だ。私はこの 4 月から科研費で新たな課題を進めることになった。なので、これを機会に、これまで科研費による調査で得た資料などを公開する場所を整備しようと思うようになった。

もっとも、入り口を作ったとしても、内容がともなわなければ読んでくれる人もいないし、役にも立たない。しないよりはマシという程度だが、なんでもそう思ってやらなければ、すべてが消えかねない世界だ。

散文

私の天下三分の計

三田村鳶魚の全集を安く買ったのが 9 年前ぐらいで、江戸文学系の論評などを読んでいたら、静観房好阿の『当世下手談義』の紹介があった。興味を感じたので読んでみたら面白い。これがきっかけで、談義本をいろいろ読みはじめた。その過程で出会ったのが、平賀源内の『根南志具佐』(ねなしぐさ)だ。読みながら私は大笑いした。これを、日本古典文学大系 55 の『風来山人集』(風来山人とは源内のこと)で読んだのだが、戯作ばかりでなく、平賀源内の書いた浄瑠璃もひとつ収められていた。『神霊矢口渡』だ。

私はそれまで歌舞伎の脚本は少しは読んでいたが、浄瑠璃がなんだかも知らなかった。せっかくなので読んでみたら、これも面白い。そこで、日本古典文学大系の『近松浄瑠璃集(上下)』を買って読み、私はすっかり近松門左衛門に夢中になってしまった。それ以来、この 5 年ほどのあいだ、常にではないにせよ、継続的に浄瑠璃や歌舞伎を読み続けている。

コロナのあいだはとくに熱心に浄瑠璃を読んでいた。そのいっぽう、私はチュニジアの民話を調べたりしていたので、それもなにかと読んでいた。そして、これは多くの人も同じだと思うが、家にこもって韓国のドラマばかり見ていた。そんなわけで、コロナ期間中の私の頭の中は、浄瑠璃とチュニジアの民話と韓国ドラマによる天下三分の計が実現していた。

当時、必要があって私はジョイスの『ダブリン市民』中の1篇を読んだのだが、急に家から外に引きずり出されたかのようで、しばらくのあいだ、まったく頭に入ってこなかった。

散文

日本語スピーチ大会

板橋区で日本語スピーチ大会があった。ちょっとした知り合いが出場するので、私も見に行くことにした。

板橋区在住、もしくは板橋区に通学・通勤している人が出場できる大会で、今年で 25 回だという。今年は、35 人の出場者が、それぞれ約 3 分のスピーチを行った。

出場者の出身国は、中国が 15 人、次に多いのがミャンマーの 6 人。あとはモンゴル、スリランカ、香港、台湾、タイ、ウズベキスタン、バングラデシュ、オーストラリア、フランス。ほとんどが、日本語学校に通う学生たちだが、中国の場合は、小学生・中学生から 40 代(以上に見える)人までさまざまだった。地域の日本語教室で学んでいる人も多かった。

私はこうした催し物を見るのは初めてだったが、どのスピーチも面白かった。テーマは、日本の印象、日本での生活、家族のこと、自分の人生、人生論、文化論、苦労話、自分の夢などさまざまだ。日本語学習中の人も多いので、間違いがないとはいえないが、どの出場者の日本語もわかりやすく、意味がわからないということはなかった。

ウズベキスタンでは、相手の話を遮って質問するのは失礼にあたるので、日本でアルバイト先で店長の説明を聞いても、わからないことを質問することができずに、はじめは苦労した、という話は面白かった。中国の出場者が中国の悟りについての物語の紹介をしたのもよかった。献血を趣味として楽しむオーストラリアの人や、日本で苦労の末に手にした初給料に感動した中国の人、友達作りの経験を話す中学生、平和について静かに語るミャンマー人など、あげればキリがない。

スピーチ大会の後、私はすぐに帰途に着いた。帰宅して、私は自分が何人もの人生を生きたような感じがしているのに気がついた。たった 3 分のスピーチでも、外国語で話すのは大変だ。だからこそ、母語話者よりも強く、より意識的に日本語を生きなくてはならない。子どもの日本語が無視できないのと同じだ。

初めて見にいった日本語スピーチ大会だったが、これは病みつきになりそうだ。いつの日か私も出場して、生きた日本語で話したいと思う。

散文

国宝

日本にはビルマからやってきた人がたくさんいる。昔は多くの人が不法滞在で働いていた。しかし、今世紀の初めごろから、不法滞在に対する取り締まりが厳しくなってきた。それで、警察に捕まって、入管に収容されたりする人も増えてきた。それで、多くの人は難民申請をするようになった。というのも、これらの人々が国を出た原因は、軍事政権のせいだったから。難民申請は簡単ではなく、最初は誰もが大変な苦労をしたが、やがて少しずつ、正規の滞在資格を得る人も増えてきた。今では多くの人々が日本で安全に暮らしている。

さて、ビルマからやってきたある男性がいる。私は全然知らない人だ。彼が日本にやってきたのは、もう 25 年以上前のことだ。それ以来、日本で生活している。今の年齢についても私は全然知らないが、少なくとも、私より年下ではない。

そして、驚くべきなのは、この彼がいかなるパスポートもビザも持っていないということだ。つまり「不法滞在(非正規滞在)」なのだ。ビザがなければ労働は違反だ。だが現在、彼は都内のどこかの居酒屋で働いている。しかも店側の信頼も厚い。

もちろん、彼のような人はいないわけではないが、たいていは、数年のうちに、職務質問か何かで捕まって、入管に収容されてしまう。だが、いまのところ彼は警察に捕まったこともない。入管で連泊したこともない。日本の入管だって間抜けではない。その当局に気がつかれぬまま、彼は 25 年以上もの歳月を生き抜いてきた……経済の浮き沈み、たびたびの大地震、コロナ、オリンピック……いったいこの 25 年の間に何発の北朝鮮製のミサイルが打ち上げられたことだろうか?

もう偉業といっていい。いや、この人にビザなどもったいない。ぜひ我が国の人間国宝に指定してほしい。