散文

面会室の吸血鬼

もうずいぶん前のことだが、私はよく面会に行ったものだった。面会というのは、入管に収容された人々に会うことだ。私が毎週のように行っていたのは、品川と牛久だった。当時、品川には一年近く収容されている人がザラにいた。牛久の入管だと一年二年は当たり前で、三年という人もいた。これらの人は、政治的理由などで帰国ができないので、入管という国境に閉じ込められていたのだった。

私はいろいろな理由で面会をしなくてはならなかったが、正直言って面倒くさかった。品川に面会に行くと半日、牛久の場合は一日潰れた。手続きも厄介で、職員の応対で悔しい思いをすることもあった(面会の申請を青っぽいボールペンで書いたら、インクは黒じゃなくてはダメだと突っ返されたりした)。また面会相手も親しい人ばかりではないので、気が重かった。

しかし、面会が始まり、実際に相手に会うと、不思議なことが起きた。被収容者たちはいつ外に出られるともわからない苦境にあったが、私はこれらの人々を元気づけるどころか、逆に、これらの人々に元気づけられたのであった。短い面会時間が終わり、面会室を出るとき、私は入ったときとうって変わって、足取りも軽かった。そして、私は自分が吸血鬼になったようにも感じていた。

この奇妙な現象が起きる理由については、ずっとわからないままだった。だが、最近、オスカー・ワイルドの獄中記を読んでいたら、こんなことが書かれていた。投獄された当初は、もう二度と笑うまいと思っていたが、それでは面会に来てくれた人に申し訳ないので、明るく元気にふるまうことにした、と。

面会に行った私が明るい気分になったのも、考えてみれば当たり前のことだったのだ。吸血鬼の汚名は晴れた。

散文

成功に終わらず(2)

その後、ロシア語の詩の専門家と知り合う機会を得た。今から七年前のことだが、LINE を教えてもらったので、さっそくメッセージに該当箇所を引用して、「バーンズ」について尋ねた。だが、返事はなかった。

さらに年月がたち、このあいだ、少し必要があって『収容所群島』を開いたとき、私はこの未解決の問題を思い出した。そして、私はこの問題に文明の利器を適用することを思いついた。AI に聞いたのだった。そして、こっちはすぐに返事をしてくれた。

AI が教えてくれたのは次の二点だ。

1)この言葉は「バーンズ」ではなく、エリザベス朝の廷臣・詩人 ジョン・ハリントン(John Harington, 1560–1612)の警句であること。

2)この警句自体、非常に有名なもので、原文は以下の通り。

Treason doth never prosper: what’s the reason?
Why, if it prosper, none dare call it treason.

「反逆が成功することは決してない。なぜか。
成功すれば、もはや誰もそれを反逆とは呼ばないからだ(AI の訳)」

この二点については、他の資料からも裏付けられているから間違いはない。さらに、ハリントンとバーンズの関係について、複数の AI の見解を突き合わせると次のような事情が見えてきた。

ハリントンの警句の翻訳者は、ロバート・バーンズの詩の翻訳でも有名な人物であった。これがこの警句をロシア語圏で「バーンズ作」として流通させる原因のひとつになったのだそうだ。さらに、AI によれば、この訳者が英語の「反逆」をロシア語で「暴動」としたことも、警句の解釈に影響を与えているのだという。「反逆」はひとりでもできるが、「暴動」はたくさんいなくてはならない。

これで、「バーンズ」の正体がひとまずはわかったわけだが、正直言って、私はつまらなくなってしまった。なぜなら、ハリントンの警句には、ソルジェニーツィンがそこに託したような、失敗に終わった暴動への悲しみも、それを乗り越えようとする抵抗の意志もなかったから。また、私が共感したような、常に敗者の側を選び取る変革の運動論も入り込む余地はなかった。あるのはただ「勝てば官軍」という月並みな皮肉にすぎなかった。

ソルジェニーツィンの解釈も、私の解釈も、ハリントンの警句の意味とは、実際のところほとんど関係がないのであった。そこで、私はある意味では不首尾に終わったこの探索を、三者の意味の違いを厳密に区別して終わりにしたい。

「反逆が成功することは決してない。なぜか。
成功すれば、もはや誰もそれを反逆とは呼ばないからだ」(ハリントン)

「暴動が成功に終わることはない。
勝利を収めたときには、その呼び名も変わるから……」(ソルジェニーツィン)

「変革が成功に終わることはない。
勝利を収めたその瞬間に、敗者の側へ向かうから……」(私)

散文

成功に終わらず(1)

ソルジェニーツィンの『収容所群島』第五部十二章(邦訳版第六巻)では、ケンギル収容所で起きた反乱が戦車によって残酷に鎮圧された事件が報告されている。作者は、その末尾に以下のような「詩」を引く。

暴動が成功に終わることはない。
勝利を収めたときには、その呼び名も変わるから…… (バーンズ)

この引用を通じてソルジェニーツィンが言いたかったのは、ケンギルの反乱は成功に終わらず、それゆえ呼び名も変わらなかったが、それでもなおこの事件は、反乱と片付けることのできないなにかであるのだ、ということだと思う。それはそれとして、私はこの言葉を読んだとき、別な解釈が思い浮かんだ。それはこんなものだ。

社会を変えようとする運動は、本質的には成功しないものだ。というのも、成功したそのときに、その運動自体が変えられるべき対象となるから。

つまり、社会を変えようとする運動は、それが運動であり続けるかぎり、成功に終わってはならない、ということだ。別の言い方をするならば、本当の運動は、成功する瞬間に、あえて失敗の側に立つ。なぜなら、運動の原点は、常に敗者の側にしかないから。

もちろんこれはすべての運動には当てはまらないし、当てはまっても困る。だが、本当の運動が持つべき条件、私がかねてから考えていた条件を言い当てているように思え、感心したのだった。

そこで私はこの「詩」の正確な文脈を知りたくなった。作者は「バーンズ」とのみある。ロシア風の名前ではなく、英語の名前だ。

だが、バーンズとはいったいなんであろうか。社会運動の本質を見抜いた、こんなラディカルな言葉を残した人物とは誰であろうか。私は英文学はよくわからないし、英詩についてはなおさらだ。ただ私はなんとなくロマン派風の人物を想像していた。バーンズは詩を書きながら革命に身を投じ、戦場か獄中かで死んだ……彼は自ら失敗の側を選んだのだ……。そこでちょっと検索してみると、カタカナでバーンズなる人物がわんさかだ。英語の綴りも Burns、Barnes、Byrnes などとキリがない。どこから手をつけたらいいかわからなくなって、私は諦めてしまった。

散文

ヘンリー・ジェイムズの怪談

見えるはずのないものが見えたとき、その経験は人間の心理にどのような微妙な陰影を投げかけるのだろうか。夏だから、というわけではないが、私の身に実際に起きた怖い話をひとつさせてほしい。

私はといえば、昔から読みもしないのに本を買いこんでしまう悪癖があった。おかげで、本棚には本がぎっしり詰め込まれ、どこにどんな本があるのかもわからないありさまだ。だが、後になってある本が必要になったとき、かなりの確率で本棚に見つかるので、買っておいてよかったということがいくどもあり、やめられないのだった。

このあいだも、英語を勉強しようと急に思いたった私は、本棚に埋もれた英語の小説を掘り出していた。すると、黒いカバーでお馴染みの「Library of America」版のヘンリー・ジェイムズの長編小説集が出てきた。The Ambassadors と The Golden Bowl と The Outcry が入っているものだ(Henry James: Novels 1903-1911, LOA #215)。私は The Ambassadors が読みたかったので、購入しておいてくれた過去の自分に感謝しながら、他の英語の本とまとめて本棚に押し込んだ。

その翌日、本格的に読むわけではないが、少し英語の文章を見てみたいと思って、私は The Ambassadors の入ったあの本を本棚で探した。が、どこを探しても出てこない。「あれ、確かにあったのに……」と本棚の奥へ手を伸ばすと、黒い表紙の「Library of America」が出てきた。

ヘンリー・ジェイムズの長編小説集だ。だが、The Sacred Fount と The Wings of the Dove が入っている別の巻(Henry James: Novels 1901-1902, LOA #162)だった。

「ということは」と私は考えた。「後期の三大作品、『鳩の翼』『使者たち』『金色の盃』の原書が我が書架には揃っているわけだ」

あとは例の一冊を見つけるだけだ、と本棚をくまなく探すも、肝心の『使者たち』の巻(LOA #215)は出てこない。私は不意にイヤな気分がしてきた。パソコンを開き、Amazon のサイトに向かう。購入履歴のページに行き、「Henry James」と検索した。画面を見て私は言葉を失った。履歴には『鳩の翼』の巻(LOA #162)しかなかった。

私が数日前、自分の本棚に見つけたあの Henry James: Novels 1903-1911 (LOA #215): The Ambassadors / The Golden Bowl / The Outcry (Library of America Complete Novels of Henry James), ISBN 978-1598530919 は、いったい……?

散文

私の天下三分の計

三田村鳶魚の全集を安く買ったのが 9 年前ぐらいで、江戸文学系の論評などを読んでいたら、静観房好阿の『当世下手談義』の紹介があった。興味を感じたので読んでみたら面白い。これがきっかけで、談義本をいろいろ読みはじめた。その過程で出会ったのが、平賀源内の『根南志具佐』(ねなしぐさ)だ。読みながら私は大笑いした。これを、日本古典文学大系 55 の『風来山人集』(風来山人とは源内のこと)で読んだのだが、戯作ばかりでなく、平賀源内の書いた浄瑠璃もひとつ収められていた。『神霊矢口渡』だ。

私はそれまで歌舞伎の脚本は少しは読んでいたが、浄瑠璃がなんだかも知らなかった。せっかくなので読んでみたら、これも面白い。そこで、日本古典文学大系の『近松浄瑠璃集(上下)』を買って読み、私はすっかり近松門左衛門に夢中になってしまった。それ以来、この 5 年ほどのあいだ、常にではないにせよ、継続的に浄瑠璃や歌舞伎を読み続けている。

コロナのあいだはとくに熱心に浄瑠璃を読んでいた。そのいっぽう、私はチュニジアの民話を調べたりしていたので、それもなにかと読んでいた。そして、これは多くの人も同じだと思うが、家にこもって韓国のドラマばかり見ていた。そんなわけで、コロナ期間中の私の頭の中は、浄瑠璃とチュニジアの民話と韓国ドラマによる天下三分の計が実現していた。

当時、必要があって私はジョイスの『ダブリン市民』中の1篇を読んだのだが、急に家から外に引きずり出されたかのようで、しばらくのあいだ、まったく頭に入ってこなかった。

風刺・戯文

素顔

「みなさんにとっては VTuber なんてもう当たり前でしょうが」と、その先生は学生たちに語りかけた。

「僕はこのあいだ孫に教わりまして。アニメかと思っていたら、あにはからんや、裏に人間がいて動かしているというんですね。コンピューターを使うとそういうことができるということなんですが、で、僕は聞いたんですね。後ろで動かしている人はどんな人なのか、顔とかわからないのか、と孫に聞いたんです。すると『これはこういうものだよ』と答えるのです。いや、でも、誰が動かしているか、気にならないの、としつこく聞いたんです。そしたら、孫はいかにも面倒くさそうに『ホントは誰とか考えないよ』というので、いや、そういうものなのかと感心してしまいました。背後に誰がいるのかとか、素顔はどうだ、だなんて詮索するのはもう意味がないのかもしれませんね。僕も見習いたいとは思いますが……」

こう前置きを終えると、先生は少し悲しそうに作家論の講義にとりかかった。