散文

KNUのゲスト(終)

議長もそうだが、若い幹部も英語ができる。なので英語で話してもいいよ、と私は言われていたが、カレン人たちの集いで、そんなことをするのは場違いなような気がしていた。それもあって私は黙っていたのだが、若い幹部がビルマ語で話すので、近くにいた遺恨ある人が私のために通訳をはじめた。すると、私の隣に座る別の若いカレン人も通訳しだした。私はこの「同時同時通訳」に混乱しつつも、二人のおかげでKNUの若きリーダーとの関係構築の実現に至った。

シメの冷麺やユッケジャンスープが出てきて、飲み放題もラストオーダーになった。私たちは席を立ち、議長と幹部を囲んで記念写真を撮った。私は昔、集会などの後にこういう記念写真をよく撮ったものだった。とはいえ、これはただの記念写真ではない。入管での難民審査で、政治活動の証明として提出するのに必要な写真でもある。

あるとき、なにかの集会の最後に集合写真を撮ることになった。私が写真を撮ろうと思って前に立つと、たくさんの人が自分の携帯でも撮って欲しいとカメラを渡してきた。私はカメラを自分の前に並べ、ひとつひとつ撮っていった。会場にはあの遺恨ある人もいたが、私に渡すのをためらっているようだった。私はとても怒っていたので、声をかけずに済ました。

焼肉屋の会場では、若者たちが議長の隣に並び、写真を撮りあっていた。私もゲストたちの隣に並んで写真を撮ってもらった。そして、遺恨ある人も隣に並んだ。今はビザもあるし、必要ないようにも思えたが、私は写真を撮った。

私たちは店を出て、会計が済むのを街灯の下で待っていた。ひとり五千円だというので、財布から出そうとすると、旧友のひとりが私を制した。財布に手を伸ばして損をした格好だ。このとき初めて私は議長に話しかけ、自分のカレン名を伝えた。これは日本のカレン人にもらったもので、スゴー・カレン語を話す人には必ず受ける鉄板ネタだ。これで少しは覚えてもらえたかもしれない。

会計が終わり、ゲストたちと別れると、私たちは池袋駅に向かって歩きだした。私は遺恨ある人と少し話をした。別れ際に彼女は「みんな歳をとったね」と言った。

散文

KNUのゲスト(3)

若いカレン人のひとりが私たちのテーブルで次から次へと焼肉を焼き、議長を含めみんなの取り皿にのせてくれた。私は悪い気がして「焼くよりもどうか食べてください」と言うと彼は「私は肉は食べないので」と答えた。遠慮なく食べた。

さて、この日は、二十年来の付き合いのカレン人が何人かいた。付き合いというか、一緒に日本でカレン人のための活動を作ってきた人たちだ。そして、そのうちのひとりと私は過去に遺恨があった。遺恨の内容は書かない。私にも言い分があり、相手にも言い分がある。ただ、私は集まりにその人がいたのを見て面倒だと思い、できるだけ近づかないようにしていた。相手もそう思ったのか、話しかけてはこなかった。

焼肉を食べながら私は、別のカレン人の友人に尋ねた。「議長たちのスケジュールはどうなっているんですか?」 だが、私の日本語がうまく理解できないようだった。私は言い直した。「いつ来て、いつ帰るんですか」

すると、遺恨あるカレン人が口を挟んだ。「それがわからない。今日だって急に集められた。だから困ってるよ」

議長たちを招待した団体は別で、そことの連絡がうまく行っていないとのことだった。目的については私は聞かなかったが、日本在住のカレン人や他の活動家と会ったり、日本政府の偉い人と交渉したりするのだろう。

議長はほとんど飲まなかったし、そもそも私たちのテーブルでは議長以外は誰も飲まなかった。そういう年長者の席だったが、若いKNU幹部のいるテーブルのほうは違った。若い人たちが座り、ビールがたびたび運ばれていった。

ロース、カルビに始まった焼肉は、レバー、ホルモンと続き、やがてシーフードになった。もっとも、焼いてくれていたカレン人がこれでようやく食べ物にありつけたかどうかはわからない。というのも、この時には人々は席替えをはじめ、私も若いKNU幹部のいるテーブルに移っていたから。若い幹部のほうはなかなか陽気な人で、私たちは何度も握手したり、乾杯したりした。

散文

KNUのゲスト(2)

だが、断るわけにはいかない事情があるのに気がついた。

というのも前日の日曜日、カレン人の大事なイベントがあり、私はそれも誘われていたのに断っていたからだ。イベントにはKNUのゲストが出席することも知らされていたし、友人が誘ってくれたのは私を紹介したいからだということもわかっていた。結局のところ、私は行くと返事をしたが、それは、むしろこの友人の厚意を二度も断りたくなかったからだ。

そして、池袋の焼肉屋に集まったのは、十三人の在日カレン人と私。しばらくすると友人が、近くのホテルからKNUのゲストを連れてきた。若いカレン人たちが入り口に立って、歓迎の花束を渡した。

会場は広めの個室で、お店も少しだけ高めだ。この店の系列店で働くカレン人がセッティングしてくれたのだという。

ゲストはKNU議長と若い幹部で、二つある大テーブルに別々に座った。私は議長の近くに座らされた。やがて、肉が出てくる。議長は日本酒を飲んでみることにしたようだった。

私は名前ぐらいは伝えたが、実際には議長と話すことはない。私は最近のビルマの状況については疎いので、あまりくだらない質問をしたくはなかった。

また、私はKNUの人を何人も知っていたが、そこで、あの人知ってる、この人知っている、KNUについてこんなこと知ってるなどと、KNU議長相手に釈迦に説法をおっ始めるほどバカではない。

それに、KNU内部にもいろいろな考えと立場がある。私を助けてくれた人が、別の人にとっては裏切り者だったりする。だから、余計なことは言わないのがいちばんだ。

そして、私については自分で言わなくても周りのカレン人がどんどん説明してくれた。これで十分だし、そもそもゲストと話すべきなのは、私ではない。他のカレン人、特に若い人たちだ。

そういうわけで私は、焼肉を食べるのに集中した。

散文

KNUのゲスト(1)

日本にはビルマから来たカレンの人々がいる。カレンの人々のすべてかどうかわからないが、多くがビルマ政府の迫害を経験し、難民として日本に逃れてきた。

ずいぶん昔にカレン人の政治団体がビルマで結成された。日本語でカレン民族同盟(KNU)という。ビルマは現在、さまざまな民族と内戦中だが、KNUはその中でも古株だ。もっとも、KNUは政府のようなもので、戦うのはその下にあるカレン民族解放軍(KNLA)だ。KNUは、他民族との協力・調整、ビルマ政府との交渉、日本政府などとの協議を行うほか、カレン難民の救援などいろいろな活動を行っている。

日本にいるカレン人の多くは、もちろん人によると思うが、KNUに対しては原則的には肯定的に捉えているように思う。というのも、カレン人の利益と希望を代表するもっとも大きな組織だからだ。また、身近な人がKNUの関係者や軍関係者であったりすることもある。ただし、KNU自体も長い歴史のあいだ大きな間違いを犯してきた。なので、多くの人はKNUを頼みの綱とするが、無条件に信頼しているというわけではない。その内情や行動についてはかなり厳しい目で見ているように思う。

私は日本のカレン人とのつき合いも長く、タイ・ビルマ国境の難民キャンプやビルマ国内のカレン人地域にもずいぶん行ったことがある。その過程で、KNUのさまざまなレベルの人々と会い、話す機会を持った。KNUの歴代の議長にも会ったことがある。もっとも、私は偉い人の前だと緊張してしまうので、ほとんど話さなかった。

カレン人地域に行ったのは二〇二四年二月が最後だ。この時は友人のカレン人とともにタイ側から国境を越えてビルマの紛争地域に入った。近くで鉄砲の音が聞こえるような場所だったが、私たちはわりに呑気に過ごした。その時も、友人の親戚のKNU兵士と一緒に行動した。

最近の私は在日カレン人の集まりにあまり顔を出してはいないが、この月曜日、友人から急に連絡が入った。

「今夜、KNUの議長たちと池袋で焼肉を食べるから来てくださいね」

急に言われても困るので私は断ろうと思った。

散文

保証人のポロシャツ

何年か前、カレン人の友人から、在留期間更新許可申請書の身元保証人を頼まれた。何度もしていることなので、拒む理由はない。待ち合わせの場所に行き、近くの喫茶店で署名を済ませると、紙バッグに入った服を渡された。

ユニクロに勤めているその人は、良さそうな服をみつくろって、お礼としてくれたのだった。ユニクロにはほかにもビルマ難民の知人が働いている。

紙袋の中には、真っ白なポロシャツが入っていた。もらったはいいものの、私はこのポロシャツを何年も着なかった。なぜなら、私は服を必ず汚すから。とくに食事中は危険だ。食べ物たちときたら反抗的なのか、いつも私の服やズボンを汚そうと狙っている。

しかし最近、私はこの白いポロシャツを着はじめた。食事のときは、汚れてもいいシャツに着替えればいいからだ。それに気がついて以来、何度も着るようになった。自信がついて、都内にまでポロシャツのまま行ってみたりした。そして、いつの間にか、目立つところに黒い汚れがついていた。

先日、その友人から連絡があった。更新が近づき、また身元保証人になってほしいというのだ。私はそのポロシャツを着た。汚れがうっすらと残っていたが、そのまま会いにいった。その人が待ち合わせ場所に来たとき、私は自分の服を指して、着てきたことを示したが、ピンときていないようだった。

新たな申請書に署名をした。今度も紙袋をもらったが、白い服は入っていなかったので安心した。

散文

国宝

日本にはビルマからやってきた人がたくさんいる。昔は多くの人が不法滞在で働いていた。しかし、今世紀の初めごろから、不法滞在に対する取り締まりが厳しくなってきた。それで、警察に捕まって、入管に収容されたりする人も増えてきた。それで、多くの人は難民申請をするようになった。というのも、これらの人々が国を出た原因は、軍事政権のせいだったから。難民申請は簡単ではなく、最初は誰もが大変な苦労をしたが、やがて少しずつ、正規の滞在資格を得る人も増えてきた。今では多くの人々が日本で安全に暮らしている。

さて、ビルマからやってきたある男性がいる。私は全然知らない人だ。彼が日本にやってきたのは、もう 25 年以上前のことだ。それ以来、日本で生活している。今の年齢についても私は全然知らないが、少なくとも、私より年下ではない。

そして、驚くべきなのは、この彼がいかなるパスポートもビザも持っていないということだ。つまり「不法滞在(非正規滞在)」なのだ。ビザがなければ労働は違反だ。だが現在、彼は都内のどこかの居酒屋で働いている。しかも店側の信頼も厚い。

もちろん、彼のような人はいないわけではないが、たいていは、数年のうちに、職務質問か何かで捕まって、入管に収容されてしまう。だが、いまのところ彼は警察に捕まったこともない。入管で連泊したこともない。日本の入管だって間抜けではない。その当局に気がつかれぬまま、彼は 25 年以上もの歳月を生き抜いてきた……経済の浮き沈み、たびたびの大地震、コロナ、オリンピック……いったいこの 25 年の間に何発の北朝鮮製のミサイルが打ち上げられたことだろうか?

もう偉業といっていい。いや、この人にビザなどもったいない。ぜひ我が国の人間国宝に指定してほしい。

散文

この世はなべて偽装難民

あらゆる難民は、基本的にすべて偽装難民だ。なぜなら、この世界のどこにも、この人は難民です、と証明してくれる場所はないからだ。そして、このような「身分保証」のないことこそが、難民の本質だ。だから、難民はいつでもどこでも偽装難民だと疑われる。そのように疑われる人こそ本当の難民なのだ。

正式のパスポートを持っているとはどういうことだろうか。そのパスポートに記された国家の国民であることを、国家が保証してくれるということだ。

だが、難民にはこうした身分保証はない。どこの国際機関もそうした身分保証を発行できない。それぞれの国がそれぞれの事情に従ってこれこれは難民であると決めるだけだ。そして、そこから抜け落ちる人が偽装難民となる。つまり、国は難民を決めると同時に、偽装難民をも決めているのだ。

この事情を知らない人だけが、偽装難民を非難することができる。だが、実際には政府を批判しているに過ぎないのだ(日本では与党の政治家がこれをするのだから恐れ入る)。そして、このような無知な人はこんなデタラメなことすら考え出す。すなわち、その難民とやらの出身国政府が責任を持って、自分の国の難民に「難民証明書」を出して、難民受け入れ国に通知すべきではないか、と。もっともな理屈だ。だが、もしその国にそんなまともなことができるのであるならば、難民など出やしないだろう。

私たちの国、日本では、こうした主張が本気で罷り通りかねない様相を呈している。今や、日本には難民は存在しない。すべての外国人が偽装難民扱いだ。もっとも、日本では外国人が必要なので、そう簡単に追い出すわけにはいかない。

そこで、私から提案したいのだが、難民ビザなどやめて、偽装難民ビザを出したらいいのではないか。日本人にかかればみんな偽装難民なのだから、通常の難民手続きよりもずっと簡単だ。それに、偽装難民ビザなのだから、誰も文句は言えない。

この偽装難民ビザが実現したら、たぶん、「本物」の難民が日本で暮らすために偽装難民になりすます偽装偽装難民が多発することだろう。

風刺・戯文

熊の郷

熊が人里に降りてきて、人々に乱暴を働きだしたとき、私たちはこう考えた。

「熊に人間の食べ物を食べさせなければこなくなるだろう」

だが、もはや「食べさせない」が通用する段階ではなかった。熊はすっかり味をしめていたのだった。そこで、私たちは熊を全滅させる計画を立てたが、熊権派の活動家たちが余計な告発をしたせいで、裁判所は全滅差し止め命令を下した。

「ならば、熊が絶対に人里に降りてこないようにしてやろう」

私たちは山奥に侵入すると、密かに広大な囲いを建設し、そこに熊を閉じ込めた。そして、囲いの中に熊の好きなハチミツパンやアップルパイ、マロンケーキをいくらでも作り出す装置を設置した。これには食通の熊たちも唸りっぱなしだった。

そればかりではない。私たちはこの「熊の郷」にずっと熊がいたくなるように、毎日、愉快で楽しい熊向けの動画を無料配信するサービス「ネットフリックマ」も開始した。

そこはまるで熊の楽園だった。熊はもはや人里に姿を見せなくなり、傷つけられる人もいなくなった。ついに成功かと思われた。だが、しばらくして、私たちは再び熊が山から降りてくるのを目撃した。

「なにごとか」と私たちが慌てて熊の郷の囲いの中に入ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。侵入者たちが住み着き、熊たちを追い出していたのだ。侵入者たちは木陰でアップルパイをほおばりながら、ネットフリックマを楽しんでいた。その顔はまるで蛇のようだった。

楽園を追い出された熊は、もはや人を襲わなくなっていた。愉快で無情な配信動画が熊の野生と暴力を吸収してしまっていたから。サブスクリプションは無料にかぎり呪いとなるのだ。

今や、熊たちは町外れのキャンプで、UNHCR の支援を待っている。その様子を私たちは配信動画でときどき見る。

旅・観察

牛よ龍よの東日本入管(3)

 入管は仮放免許可申請の結果を申請者に伝える。今回は収容されているSさんが申請者だったので、許可はまず彼に告げられた。なので、彼は私に電話をかけてきたのだった。

 ちなみに外にいる人が申請者の場合は、入管が口を聞いてくれるのは許可された時だけだ。つまり、電話をかけてきてくれるのだが、不許可の場合は簡易書留のみとなる。

 しかも、いまいましいことに書留なので、不在にしていた場合は再配達を頼まねばならない。こっちは差出人に入管と書いてある不在票を見ただけで、もう不許可だと分かるので、実際に受け取る必要などないのにだ。

 Sさんからの知らせを受けた私は、すぐに牛久入管に電話をかけた。目の前で待たせている難民の用事はもう一つ後回しになったのだ。少しぐらい待たせたってかまいやしない。急げ!

 職員が仮放免担当の人に取り次いでくれる。仮放免手続きの件で電話したことを告げる。普通だったらこれですぐに「ああSさんの件ですね」と応対が始まるのだが、相手は「はてどなたで?」という感じだ。この理由は後でわかる。

 ともあれ私たちは手続きの日程を決めねばならない。

 「手続きができる日は最短でいつですか」

 「明日です」

 つまり19日だ。私は20日から少々忙しくなるので、明日できるならばそれに越したことはない。

 「では、明日にします」

 職員は、身分証と印鑑と保証金を持ってくるようにと言って切った。

 保証金は10万円だ。安い。3月末に長崎で仮放免手続きをした時は40万円だった。安いのにはわけがある。入管がそれだけ早く外に出したがっているということだ。保証金が高額のため金策に手間取って、手続きが遅れるのを避けたいのだ。

 夜、Sさんから電話がかかってきた。

 「仮放免いつになりましたか」

 「明日です!」

 大喜びだ。

旅・観察

牛よ龍よの東日本入管(2)

 入管に収容されている人のために仮放免を申請すると、結果が出るまでに普通は1ヶ月半から2ヶ月かかる。しかも、たいていは不許可だ。

 牛久の場合は、収容されてから、1年は経たないと仮放免は出ない。なので、それを見計らって仮放免申請をすることもあるし、許可が出るまで何度も申請することもある。私はいつも後者のやり方を取る。つまり、不許可になったら、できるだけ早く再申請する。

 Sさんは今年の2月に品川から牛久に移された。牛久に来たら、6ヶ月やそこらで出られるわけはない。なので、収容されてすぐに仮放免申請するのは無意味なこともかもしれない。しかし、常に申請中であるというのは、収容されている人にとっては唯一の希望にもなりうる。なので、申請していない期間をできるだけ作らないというのも、意味のないことではないとも思う。

 さて、今回、私は4月22日(水曜日)の午後、牛久に申請書類を送ったが、入管に着くのは遅くとも金曜日、そして、おそらくその翌週の月曜日の27日にはSさんの手に渡るはずだ。なので、申請はその後になる。そして、後で知ったことだが、実際、彼が申請したのは28日だった。

 その3週間後の5月18日月曜日の午前10時、Sさんから電話がかかってきた。私はちょうど別の難民と北千住駅で待ち合わせをしていたのだが、こっちはJRの改札口で待っているのに、向こうは千代田線の改札口でいつまでもぐずぐずしている。私は相当イラついていた。そして、相手がようやく私を見つけて手を振ったそのときにその着信が来たのだ。

 電話など無視して、すぐに待ち合わせの相手との用事(入管関係の書類への署名)に取り掛かってもよかったのだが、こっちは20分も待たされて腹を立てていた。なので、地下鉄のホームからあちこち尋ね歩いてJRのほうの出口までなんとかたどり着いた相手が前にいるというのに、無視するように電話に出た。すると、Sさんの興奮した声が聞こえてきた。仮放免が出た、というのだ。