散文

私の天下三分の計

三田村鳶魚の全集を安く買ったのが 9 年前ぐらいで、江戸文学系の論評などを読んでいたら、静観房好阿の『当世下手談義』の紹介があった。興味を感じたので読んでみたら面白い。これがきっかけで、談義本をいろいろ読みはじめた。その過程で出会ったのが、平賀源内の『根南志具佐』(ねなしぐさ)だ。読みながら私は大笑いした。これを、日本古典文学大系 55 の『風来山人集』(風来山人とは源内のこと)で読んだのだが、戯作ばかりでなく、平賀源内の書いた浄瑠璃もひとつ収められていた。『神霊矢口渡』だ。

私はそれまで歌舞伎の脚本は少しは読んでいたが、浄瑠璃がなんだかも知らなかった。せっかくなので読んでみたら、これも面白い。そこで、日本古典文学大系の『近松浄瑠璃集(上下)』を買って読み、私はすっかり近松門左衛門に夢中になってしまった。それ以来、この 5 年ほどのあいだ、常にではないにせよ、継続的に浄瑠璃や歌舞伎を読み続けている。

コロナのあいだはとくに熱心に浄瑠璃を読んでいた。そのいっぽう、私はチュニジアの民話を調べたりしていたので、それもなにかと読んでいた。そして、これは多くの人も同じだと思うが、家にこもって韓国のドラマばかり見ていた。そんなわけで、コロナ期間中の私の頭の中は、浄瑠璃とチュニジアの民話と韓国ドラマによる天下三分の計が実現していた。

当時、必要があって私はジョイスの『ダブリン市民』中の1篇を読んだのだが、急に家から外に引きずり出されたかのようで、しばらくのあいだ、まったく頭に入ってこなかった。

散文

阿弥陀胸割異聞

「阿弥陀胸割」とは、昔の語り物のひとつで、落ちぶれた姉と弟の物語だ。

ある金持ちがいて、その息子が病気でもう死にそうときた。医者がいうには、病気を治すには、同い年の娘の生肝が必要なのだという。そこに現れたのが、姉と弟。姉は条件にぴったりだ。金持ちが事情を話すと、姉は、弟の面倒を見てくれるならばと、引き受ける。

息子の病が重くなると、金持ちは姉と弟のいる阿弥陀堂に人をやり、姉を殺し、生肝を取らせる。その生肝を食べた息子はたちまち回復だ。後になって、阿弥陀堂に行ってみると、姉と弟が無傷で寝ている。その傍らには、胸が割れて血に染まった阿弥陀仏が。なんと身代わりになってくれたのだ……。

私はこの物語を読んで、ひらめいた。

実は私の友人で焼肉屋で働く男が、禁制のレバ刺しを内緒で食べさせてやると誘ってくれたのだ。私としては行きたいのはやまやまだったが、運悪く当局に踏み込まれたりしたら、厄介なことになるのではと二の足を踏んでいた。

だが、万が一そんな事態になっても、もう大丈夫。持参の胸の割れた阿弥陀像を当局に見せて「生肝はこっちの」と主張すれば、なんとか切り抜けられそうではないか……。