散文

バカとチョンの社会(後編)

昨日、「バカでもチョンでも」という差別表現について、私の側からささやかな新解釈を提出させていただいた。

それは、現代のコンテクストにおいては「チョン」とは、差別に苦しむあらゆる移民を意味すべきだというものである。すると「バカ」とは、論理的・必然的にあらゆる日本人を意味することとなる。

よって、日本はバカとチョンの国である、というのが私の到達点であった。

しかしながら、この新解釈に依拠して「バカでもチョンでも」という差別表現をあらためて捉えなおしてみると、実はこれが素晴らしい表現であることがわかる。

「バカでもチョンでも」安心して暮らせる社会、「バカでもチョンでも」人権の尊重される社会、「バカでもチョンでも」虐待されることのない社会。この表現が、日本人と移民の平等を表わしうることに気づかされるのである。

だが、ここでひとつの契機が生じる。もし、我が国において、あらゆる移民が、人権の観点から日本国民と平等に扱われるとしたら、これらの移民を「チョン」などという蔑称で呼ぶことが、そもそもありえないこととなるのではないだろうか。

そして、これに応じて、日本人もまた、移民の命や人権を自分たちと同等に尊重できるのならば、もはや「バカ」とはいえないのではないだろうか。

「バカでもチョンでも」尊重される社会の実態は、「バカもチョンも」存在しない社会であった。なんと不思議な成り行きだろう。

そんな社会では誰もが人権を享受し、差別されなくなる。いや、皇族がいた。

散文

バカとチョンの社会(前編)

「バカチョン」というのは「バカでもチョンでも」を短くした形だ。この表現が生まれたのがいつかは分からないが、辞書を見ると、明治初期には似たような言い回しがあったようだ。

「チョン」というのはそもそも「一人前でない、劣った人」を意味していたといわれるが、いつからか、朝鮮人への蔑称と同一視されるようになった。

その結果、「バカでもチョンでも」は「バカでも、朝鮮人でも」と理解されるようになったという。語源はともかく、この表現には朝鮮人(韓国人と北朝鮮人)に対する差別意識が明瞭にあらわれており、現代ではこの表現を差別表現とみなし、使わないのが普通だ。

とはいえ、今なおこの語が人を傷つける目的で使われているのもまた事実だ。しばしば、この語を含むネット上での発言が、誹謗中傷やヘイトスピーチとして非難されたり、告訴されたりすることがある。

もっとも、私がひとりの日本人として大和魂をもって訴えたいのは、日本人は決して朝鮮人だけを特別に差別してきたのではないということだ。現代の日本では、多くの移民が生活し、さまざまな差別に悔しさや悲しさを感じている。それだけならまだしも、ときには、入管に収容されて自由を奪われたり、そこで死に追いやられたりする。

私は、これらの移民の苦難を見るにつけ、現代の「チョン」には、朝鮮半島出身の人だけではなく、日本で差別されている外国人すべてを含めるべきではないかと、はなはだ勝手ながら考えるようになった。

こうした考え方を不愉快に思う人もいるかもしれない。とくにこの言葉に傷つけられてきた人々は。だが、それでもひとつの利点がある。というのも、「バカでもチョンでも」のもういっぽうの「バカ」がどのような人々かということがはっきりするからだ。

それがどのような人かというと、もちろん「チョン」以外のあらゆる日本人に決まっている。

日本はバカとチョンの国だったのだ。なるほどうまし国だ。

散文

普遍人間発生装置(8)

説明とは、説明が必要なものと、そうでないものの区別の上になされる。

川端康成の『雪国』の冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は説明の必要もないほど明瞭に思えるが、実際には説明が必要だ。「国境」を明らかに通過したのに、どうして入国審査がないのだろうか? 「長いトンネルを抜ける」とは、トボトボと歩いて通り抜けたということだろうか? それとも自動車だろうか? それに雪国とは? もしかしたら北海道のことで、青函トンネルのことか?

もちろんこうした疑念は、先を読むにつれ解消されていくのだが、これ自体がひとつの文学的な技法だとしても、だからといって「これはこういう文学的技法です」などという説明が必要なわけでもない。このような文がそのままで成立しうるのも、そうした説明が不要であるような読者に向けて書いているからだ。そうした読者の想定があるからこそ、なにを説明すべきか、逆にいえばなにを説明しなくて済むかが決まってくる。

読者をどう想定するかは、説明のレベルを左右する。一般には、知識・文化・社会経験を共有していれば、余計な情報は書かなくて済む。また理解力の程度や理性の働きが「普通」であれば、余計な説明を省くことができる。

ただし、想定される読者像は、時代、文化、国によって異なる。なぜなら、作者は、通常、自分と同じ背景を共有するものとして、読者を想定するから。また、ジャンルや分野によっても異なる。なぜなら、あるカテゴリーの著述の作者は、そのカテゴリーの前提となっている読者像を想定して書くから。

この読者の想定という点が、書かれた物語と、原稿なしに語られる物語との大きな違いだ。語りにおいては聞き手を想定する以前に、具体的な聞き手が目の前にいるのだから、実際の反応を見て、それに合わせて修正し続けることで、よりよく物語を語ることができる。

しかし、書き言葉においてはそのようなリアルタイムでの軌道修正ができないため、どのような読者を想定するかが、説明文にとっていちばん重要な問題となる。

散文

普遍人間発生装置(7)

古くから物語というものが記録されてきたが、今それらを読むと、わかりにくいことが多い。それはひとつには、文字として記録することは簡単ではなかったから、余計な説明は削らざるをえなかったためだろう。またもうひとつには、その記録の読者にとっては説明など不要なことが、現代ではわかりにくくなっているからでもあろう。そのため、古代の物語を読む場合、いろいろな情報を補って読まねばならないし、それでもわからないこともある(もっとも、翻訳で読む場合は事情が違う。しばしば訳者の解釈によって読みやすくなっているから)。

説明文が物語に組み込まれるためには、まず書記技術が発展し、より多くの文字が手軽に書ける環境が整う必要があった。それと同時に、もうひとつ重要な契機が存在する。それは不特定の読者の存在だ。もしも、記録者にとって文字記録の読者が、決まった相手、生活や慣習を同じくする相手であるならば、文字記録に説明は必要ない。というのも、その記録がどのような背景で書かれたのかは自明だから。例えば、メソポタミアでごく初期の文字記録が、経済活動や行政の記録から始まったのも、そうした理由も関わっていよう。

しかし、さまざまな人の生活の場としての都市が成立し、一定の教養層が生まれ、さらに文字記録が、重たい石碑や石板だけではなく、より軽く、持ち運びが容易な媒体(パピルス、羊皮紙、紙など)へと広がっていくと、書き手の想定しない人々にも記録が届く可能性が出てくる。もちろんそうした不特定の読者は、初めは規模は小さく、基本的には同じ文化圏に属していたにしても、そのような読者を想定するということ自体が、書き方を変えることになる。

それは、自分の想定しない読者がテクストを理解できるようにするために、説明文を増やすことだ。だが、この増加は二つの点において制限がかかっていた。ひとつはすでに述べたように、どんなに書字が簡単になったとしても、際限なく説明文を増やせるわけではないということだ。そしてもうひとつの制限は、説明のレベルだ。ここで、どのような読者を想定するか、という問題が出てくることになる。

散文

普遍人間発生装置(6)

物語に挿入される説明文は、ひとつだけではなく、いくつでもつなげることができる。さらに、説明文の後に、別の物語を語る物語文が現れることもありうる。だが、実際にはこうしたことはあまり起こらない。

というのも、それは物語の聞き手にとって負担になるから。中断されたままの物語の情報を維持しながら、長い説明や別の物語を聞くのは、まさに苦痛だ。そこで聞き手は、この明らかな脱線をやめさせようと語り手に働きかけたり、これみよがしにあくびをしたり、思い切って席を立ったりすることになる。そして、語り手がうまく要望を受け入れてもとの物語に戻った場合には、もしかしたら、それまでの物語を思い出すために、話が途切れたところまでのあらすじを手短に話してくれるように頼むかもしれない。

だが、こうしたことは、つまり語り手と聞き手のやり取りは、本や文書などにおいては起こりえない。話の筋を忘れたとしても、読み手は書き手に助けを求める必要はない。ただ前のページを見返せばいいだけだ。

そこで、書かれたテクストにおける説明文は、話し言葉のときとは異なる特徴を持つことになる。それは長さだ。説明文が何ページ続こうと、読み手は戻って参照する箇所さえわかれば、話の筋を見失うことはない。もちろんこれは極端な話で、そのせいで結局、読み手は本を放り出す可能性もある。

だが、書く場合には説明が増えざるをえない事情もある。前の方で述べたように、話し言葉に付随する多くの情報は、文字にしたとたん失われるから、そのぶん、情報を増やさねばならないからだ。

話せば簡単に済むことも、文字にすると意外に多くのことを書かなければならないし、時間もかかる。そんなわけで、メールよりも電話が楽という人がいるのも当然のことだ。

ところで、書き言葉において情報を増やすといっても、これはいつでもどこでもできることではない。説明文の増加のためには、少なくとも文字を書くことそのものに、たいして労力がかからない環境が成立していなくてはならない。

大昔の碑文がたいてい言葉少なでわかりにくいのは、摩滅や欠損のせいばかりでない。文字をケチらざるをえない事情があったのだ。

散文

普遍人間発生装置(5)

説明文が物語の時間の流れを止めるというのは、これが、その時間から独立した説明を導入するからだ。「川は穏やかに流れ、囁くような水の音は心浮き立つようでした」という文の働きは、おばあさんの行為、川の様子、桃の出現という出来事の継起を作るのではなく、おばあさんの行為から桃の出現へという物語の流れをいったん止めて、川の描写を挿入することにある。

説明の「なお、当時は男は山に行き、女は川に行くのが一般的な就業形態でした」も、コメントの「これはおそらく、洗濯機がないか、洗濯機を使わないエコな暮らしを実践していたものと推察されます」も、同じように物語の時間を止めることで挿入される。

そして、説明文のもうひとつの特徴は、物語文とは動詞の形・文型などの点で異なるということだ。まず動詞の形からいうと、物語文は物語を進める文だから、基本的には動詞は過去を表す形になる。つまり、日本語ならばたいていの場合「〜した。〜した。」と過去形の連続によって、出来事の継起が表される。いっぽう、説明文は「〜する、している」という非過去形となることが多い。また「〜していた」という過去になる場合もあるが、その場合は出来事というよりは、何かの属性を表している(すなわち「川は穏やかに流れた」ではなく「川は穏やかに流れていた(そういう川だ)」)。

さらに、文型の点でも違いがある。物語文は出来事を表すため基本的には動詞が述語となる。いっぽう、説明文では形容詞や名詞が述語となる。このような文法形式は、同時にまた、物語文と説明文を区別し、両者の混同を防ぐという役割を果たしている。

説明文と言語形式の関係でもうひとつ大事なのは、説明文の導入と終了を、言語的な標識で明示することがあるということだ。説明の例における「なお、当時は」の「なお」は説明文がここから始まるということを、またコメントの例における「それはともかく」は説明文が終わったということを示す標識として機能している。

物語を語るさいには、こうした物語文と説明文の双方が必要だ(これは物語論で出てくる物語の筋を担う前景と、それ以外の背景にゆるく対応している)。カッコ、なお、この()も説明文の標識だが、普通、話し言葉ではあまり活用しない、カッコとじ。

散文

普遍人間発生装置(4)

ここで説明について考える。

物語は大きく分けると三つの部分によって構成される。登場人物たちの行動などの出来事を述べる文、登場人物の会話(という出来事)、それ以外の部分だ。最初の二つは基本的には前後関係がある出来事であり、時間の流れの中に継起的に位置づけることができる。

単純な物語は基本的には出来事を継起的に述べるだけで成立する。そこで、継起的に出来事を述べる文を、物語文と呼ぶことにする。

「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。すると、川から大きな桃が流れてきました」

これは典型的な物語文だ。もっとも、ただ単に出来事を継起的に述べているだけでなく、実際には「語り初めの構文」とおじいさんとおばあさんを対比させる構文も含まれているので単純ではないが、それでも「おばあさんが川に行く」と「桃が流れてくる」という出来事の継起をそこに見ることができる。

この例には会話は現れないが、発言自体ひとつの出来事なので、ひとまずは物語文に含めておくことにする。

さて、それ以外の部分というのは、出来事(のある側面)についてなにかを述べる部分だ。これにはいろいろとあると思うが、主なものは出来事に関わる人物や状況の描写、出来事についての説明、出来事の評価(コメント)だ。ここではまとめて説明文と呼ぶことにする。それぞれ例をあげよう。

描写
「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。川は穏やかに流れ、囁くような水の音は心浮き立つようでした。すると、川から大きな桃が流れてきました」

説明
「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。なお、当時は男は山に行き、女は川に行くのが一般的な就業形態でした。すると、川から大きな桃が流れてきました」

コメント
「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。これはおそらく、洗濯機がないか、洗濯機を使わないエコな暮らしを実践していたものと推察されます。それはともかく、おばあさんが川で洗濯をしていると、川から大きな桃が流れてきました」

これらの説明文には共通する特徴が少なくとも二つあるが、そのひとつは、出来事が継起する物語の時間を止めることだ。

散文

普遍人間発生装置(3)

次のような文も私にとっては悩みの種だ。

「どうしようもないわ」

「わ」は、女性言葉の「わ」と、男性が呆れて「どうしようもない」というときの「わ」のどちらにも解釈できる。いずれにせよ、文字だけではわからない。

このように書き言葉は、話し言葉を完全には写しとることができない。だが、そのかわり、言葉そのもので補うことができる。例えば、形容詞や副詞、動詞などで描写することがそれだ。

高い声で話した。
キッパリ言った。
ボソボソとつぶやいた
黙った。

また、先ほどの「しないわ」の場合では、「彼は言った」とか「彼女は困惑した」のような説明を加えれば、解釈に困らない。イントネーションもまた「!」や「?」を使わずとも、「と驚いた」とか「と尋ねた」とかの補足があれば問題はない。さらにイントネーションや声の質、強さなどで表される微妙なニュアンスも、副詞や文末表現の使用によって、ある程度は伝達可能だ。

おそらく〜と思われる
〜かもしれない
きっと〜はずだ

こうした補助的手段を活用することで、元来はイントネーションなどを表すことができなかった書き言葉が、イントネーションから独立した文体を獲得していく。

さらに、話し言葉にはもっと複雑な情報が含まれている。誰が、どこで、どういう状況で、なにを前提にその言葉を言ったかという情報だ。相手が目の前にいて、状況を共有していれば言わずもがなのこうした情報が、文の理解に不可欠なこともある。そうした場合、書き言葉ではこうした情報を明示するための説明が増えていく。

これらの説明こそが、やがて書き言葉を話し言葉とは別の道を歩ませることになる。

散文

普遍人間発生装置(2)

また、アクセントだけでなくイントネーションも表記することはできない。「来る」にも、いくつものイントネーションがあり、それによって意味が変わってくる。なにかが来るのを見て言う「来る」も言い方によって、来るものが危険なもの、痛み、意外なものなどに変わる。「来ないほうがいいよと言っているのにそれでも来たいのか」という呆れた「来る」もあれば、「来ないでと願っていたが結局、来てしまうのか」という諦めの「来る」もある。もちろん、疑問や誘いの「来る」にもいろいろあるだろう。これらのニュアンスを表すためにいくつかの補助的記号が発達している。次のようなものだ。

「来る。」
「来る!」
「来る?」
「来る……」
「来る……?」
「来るー」
「来る〜」

いろいろあるが、どれも具体的なイントネーションを伝えるわけではない。イントネーションや発音の記号に見えるが、実際には言葉の解釈を指示する記号としての役割のほうが強い。その意味では、むしろ「(笑)」や「www」といったものの仲間だし、さらにいえば顔文字やスタンプの使用にも関係している。

アクセントやイントネーションのほかに、文字にするとなくなってしまうものはたくさんある。声の質、高さや強さ、速さや間の取り方などがそれだ。これらは文字を太くしたり、フォントを変えたり、サイズを大きくしたり、下線を引いたりして、なんとなくは指示することはできる。スタンプは表情や身振りを書き言葉で指定しようとする努力のひとつであるが、これも記号に過ぎない。また、距離や息遣いなどはそもそも無理なようだ。しかし、いずれにせよ、こうした手段を使えば使うほど、一般的な書き言葉のイメージから外れていくことは確かだ。

散文

普遍人間発生装置(1)

私は結局、大学には受からなかったのだが、昔、予備校に通っていたことがあった。そのとき、現代文の読解問題に「話すように書くことなどできない」と主張するものがあった。誰の文章だかはっきりしないが、そのとき「精神の運動」という言葉が出てきたような気がするから、石川淳かもしれない。

それはともかく、この主張の内容は確か、話し言葉と書き言葉の論理は違うからというようなものだったと思う。それももちろん大事だと思うが、私が今、話すように書くことはできない、と考える理由のひとつは、当たり前のことながら、口から出た言葉を全て文字に表すことはできないからだ。

日本語話者は慣れてしまっていて気がつかないが、日本語の書記法はアクセントを表すことができない。ビルマ語やタイ語にはアクセント(の一種)を表す補助記号があるのと対照的だ。とはいえ、それで日本語を読むとき困るということはない。ひとつには漢字があるからだ。「はし」だけではどう読めばいいかわからないが、「橋」「箸」と漢字を使えば発音するのには困らない。漢字がアクセント記号の代わりにもなっているともいえる。また、漢字がなくても、文脈があればたいていわかる。「このはし渡るべからず」と書いてあれば、一休さんでなくても「箸」ではないことぐらい察することができる。