風刺・戯文

走馬灯

私はまったく死は怖くない。いつでもその覚悟ができている。だが、ひとつだけ問題がある。走馬灯を見たくないのだ。

私の人生は苦しみと悲しみ、侮辱と蔑みに満ちたものだった。そんな人生を再体験するなどごめんだ。

死ぬ直前に脳が破壊されるように何かの装置を頭に埋め込んだら、走馬灯を見ずに済むのでは、と考えたこともある。だが、走馬灯は、脳の破壊のその刹那にも忍び込んでくるだろうことに気がついた。

走馬灯を委託できないかとも考えた。死ぬ瞬間に私の走馬灯を他人の頭の中に配信し、私の代わりにその人に見てもらう、そのスキに私はとっとと死んでしまうという作戦だ。私は脳の研究をしている大学や研究所をリストアップし、片っ端から電話をかけた。まともに取り合ってくれる人などいないなか、ひとりだけが私の話を聞いてくれた。それどころか、目下その研究に打ち込んでいるといううれしい返答。だが、続く言葉は私を失望させただけだった。

「脳を繋げば、死の瞬間のあなたの走馬灯を相手に見せることは可能です。ですが、接続には危険がともなうので、あなたより先に委託先の相手が死んでしまうことすらあります。すると、あなたが逆に赤の他人の走馬灯を見る羽目になるのです。その直後に、死にかけのあなたは自分の走馬灯を見ることになる、つまり、走馬灯が二本連続上映されるおそれがあるのです。しかも、入れ替え制ではないのですよ」

となると、私は死なないでいる以外にない。だが、死は必ずやってくる。私は死は全然怖くない。怖い走馬灯が怖い。

風刺・戯文

スランティング・ボックス

世界の非アジア人の皆様へ
(世界アジア親睦協会日本支部代表より)

私たちアジア人は、非アジア人である皆様に謝罪の意を伝えたく、ここにお手紙を差し上げる次第です。といいますのも、私たちアジア人特有の吊り上がった目のせいで、皆様に大変なご迷惑をおかけしているからです。

皆様が私たちを見たときに吊り目をしたくなるという、そのお気持ちに我慢を強いている状態が現在続いております。私たちアジア人はそのお気持ちに寄り添うことができず、大変申し訳なく思っております。心苦しさのあまり、私たちの吊り上がった目も、心なしか下がりがちなのでございます。

このような状況は、無論のこと打開する必要があります。私たちはここでひとつの提案をさせていただきたく思います。

それは、スランティング・ボックスでございます。これはボタンひとつで展開する携帯式の簡易ボックスで、かつての公衆電話ボックスと似ています。皆様方におかれましては、アジア人と会う前、重要な国際会議の前、あるいは、急にのっぴきならぬ侮蔑の念が湧き上がってきたときなどに、このボックスをパッと広げ、中に駆け込んで、思う存分、目を引っ張っていただきたいのです。もちろんボックスの中は外から見えませんから、心置きなく吊り目をお楽しみください。しかるのちに、アジア人との交流・親睦に邁進していただければ、不慮のスランティングにより最悪の事態に至るということもないかと思います。

また、スランティング・ボックスが利用できない緊急時に備えて、携帯用のスランティング・マスクもご用意いたしました。これは顔全体を覆うマスクでして、両の耳の上に穴がございます。そこから両手を差し込めば、周りの人に気づかれることなく、好きなだけ目を引っ張れるスグレモノでございます。

非アジア人の方々におかれましては、これらの利器を積極的に活用していただき、末長く東西の友情が続くようにお計らいいただければとお願いする次第です。

散文

中身のない言葉(2)

中身のない言葉の巧みなところはまた、これが受け手に物語を喚起することにある。

「やり抜く政治」は「やり抜かない腑抜けた政治家とは異なり、やるべきことを遂行する政治家」という物語に結びつく。さらに、ここには敵と味方という対立関係が隠されており、やり抜かない政治家の妨害に負けずに立ち向かうという、一段上の物語にも発展しうる。「ぶれずにまっしぐら!」「今こそ変化!」も同様だ。

「取り戻す!」はさらに手が込んでいる。これが受け手に呼び起こす物語は、「何かが失われた。そして私たちはそれを取り戻す」というものだ。そして、受け手は単に失われただけでなく、失うことになった原因、あるいは奪った相手の存在にまで思いを巡らせるかもしれない。すると例えば「大事なものを我々から奪った敵を打ち負かし、それを奪い返すことによって勝利する」という派手な物語にまで膨らみうる。そして、このように喚起された物語は、受け手が中身を補って完成させたものであるから、受け手の物語でもある。これにより、受け手は自分の物語を当該政治家に託すことになるのであり、これは容易に政治的支持に結びつく。

ここで重要なのは、「取り戻す!」と言った当人は、「特定の敵に大事なものを奪われた」などとは一言も言っていないことだ。もしそのようなことを言ったとしたら、その主張について根拠を示す責任が生じるが、「取り戻す!」とだけ言っているかぎり、そのような責任を避けることができる。そこで、受け手がこの標語を聞いて「特定の敵に大事なものを奪われた」と解釈し、それを公言した結果、事実ではないと非難されたとしても、標語の主は「自分はそんなことを言っていない」と、その解釈についての責任を否認しうるのである(これは、実際のところニュースで飽きるほど聞かされたやり取りだ)。

このように中身のない言葉は、受け手に中身を埋めさせることによって物語を喚起し、さらにその物語に関与させるという働きを持っている。そして、もうひとつの利点は、標語そのものには中身がないのだから、その解釈について政治家は責任を負わずに済ませることができるということにある。

つまり、政治家たちの中身のない言葉がどのように解釈されても、政治家たちは知らない顔をすることも可能だ。なぜなら、中身のない言葉には中身がないのだから。

だが、それでいいのだろうか。

少なくとも、中身のない言葉を使ったこと自体は、中身のあることなのだから、そのことについては責任を大いに問われるべきだろう。

散文

中身のない言葉(1)

政治家のキャッチフレーズにはおかしなものが多い。例えば「やり抜く政治」「ぶれずにまっしぐら!」「今こそ変化!」「取り戻す!」などなどだが、よくよく見てみると、なにをやり抜くのか、まっしぐらにどこに行こうとしているのか、どんな変化を起こそうとしているのか、なにを取り戻すのか、よくわからない。もちろん、公約をよく読めば書いてあるのかもしれないが、もっとはっきり言ったほうが親切ではないかとも思う。

そんなわけで私は中身のない標語だとバカにしていたのだが、よくよく考えてみると、これはもしかしたら中身がないことが肝なのではないかという気がしてきた。

というのも、中身がないものに出会うと、人間はそれぞれ自分でその中身を埋める習性があるからだ。

そこで人は「やり抜く政治」と聞くと、自分なりになにをやり抜くかを思い浮かべることになる。ある人は経済政策、また別の人は政治資金のこと、子育てのこと、あるいは外国人の問題、とそれぞれだ。このような解釈の多様性が立候補者にとって有利なのはいうまでもない。多くの人が中身のない標語の中身を自分の関心事で埋めてくれれば、その分、自分の支持につなげることができるからだ。これがもし「原発再稼働のためにやり抜く政治」と具体的にいってしまったら、関心のない人や反対する人は、そこで離れてしまう。

こう考えてみると、中身がないことが中身だったのだ。

風刺・戯文

地頭の悪さについて

することがないので街をぶらぶら歩いていたら、一群の人々に出会った。みんなで大きな荷物を担ぎ、口々に叫んでいた。よく見てみると、荷物ではなくゴザでぐるぐる巻きにされた男なのだった。そして、人々はその男に「バカめ」「アホ」「ノロマ」などと侮蔑の言葉を浴びせかけていた。

私は思わず尋ねずにはいられなかった。「この人がどうしたのですか。盗撮でもしたのでしょうか」

ひとりの男が答えた。「私たちはこの男を海に沈めようと運んでいるのです」

「それはまたどうしてですか」

「こいつ、地頭が悪いからだよ!」と別の男が忌々しげに叫んだ。「そうだ!」「悪すぎる!」と人々は同調した。

「地頭が悪いからといって海に投げ入れることはないではありませんか」

「違うんだ! こいつは地頭は悪いままのほうがいいと言って、絶対に何もわかろうとしないのだ」「地頭の悪さが犯罪的なのだ!」「地頭のよさに対する侮辱だ!」 そういうと、人々は男を殴りつけた。男は呻き声をあげた。私は彼に話しかけた。

「いくら地頭が悪いといっても、あなたはご自分が海に放り投げようとされていることぐらいはわかるでしょうに!」

簀巻きにされた男は苦しそうな声で答えた。「わたくしは……地頭の悪い男でございます」

「そんな! 死ぬのに地頭の良し悪しは関係ありませんよ!」

「わかりません。わたくしは地頭が悪いからこそわからないのでございます」

人々が嘲った。「この調子だ!」 ひとりが私に説明した。「こいつは、地頭のよさより、地頭の悪さのほうがずっといいって言いやがるんだ。わからないままでいたいんだとさ! とんだ地頭の悪さだ!」

男がうめいた。「そうではないのです。わかった気になるより、わからないままでいるほうが、ずっと大事だ、と申し上げたのでございます」

「そうさ! だからいっそのこと、わからないままにしてやろうってのさ!」 人々はそういうと簀巻きの男を運んで、海のほうに行ってしまった。地頭のよい人々は、なるほどすぐやる人々だ。

風刺・戯文

悪人たちのボランティア

私が強く訴えたいのは、ボランティアをしている人はみんな悪人だということだ。

だが、これには二種の悪人が含まれている。最初の悪人は、ボランティアをすることで何か良いことをした気になる人々だ。つまり善人ぶった連中だ。そしてぶっているからにはその正体は悪人なのだ。

二番目の悪人だが、こいつらの悪辣さに比べれば、最初の連中など小悪党にすぎない。これらの大悪党はボランティアなどとうそぶきながら、そのじつ金のことしか考えていない連中だ。

なにしろボランティアには金がかかる。支援活動は言わずもがな、事務所の賃料、運営費、スタッフの給料に交通費、企業や行政との交渉、フェアの参加費、ニュースレターの発送費に、会議のお茶菓子……。

これらの経費をかき集めるため、大悪党たちはボランティアなどそっちのけで、あちこちほっつき回って寄付金をせしめ、めざとく助成金を見つけて掠め取ろうとし、講演会で人心を迷わし、フェアトレード商品で荒稼ぎすることに精を出しているのだ。

事情を知らぬ一般人たちはボランティア活動を「ノンキなお遊び」とバカにしてはばからない。だが、これらの悪人たちのボランティア活動の裏にどれだけの狡賢さと計算高さと抜け目なさが渦巻いていることだろうか。これに比べれば一般人たちの金儲けなど児戯に等しい。

だから、私は不祥事を起こした芸能人たちにみそぎとしてボランティアさせるのは断固として反対だ。人間はボランティアをやって善人になりはしない。むしろボランティアたちの悪どさに染まって、差別の撤廃や人間の平等を訴えて政府に楯突きかねない。

風刺・戯文

ありがた迷惑

日本ほどよそさまの国に迷惑をかけたことのない国はないし、それなのに一方的に迷惑をかけられている国はない。

アメリカ、ロシア、中国は世界にもっとも迷惑をかけている迷惑枢軸国だ。日本も散々な目に遭っている。

朝鮮半島も迷惑の塊みたいなところだ。北朝鮮のミサイルは言うに及ばず、韓国の少女像も迷惑千万だ。

それにいちいち中国やら韓国やらが靖国神社に口を出してくるのははた迷惑だ。こっちが迷惑をかけたとでもいうのだろうか。

日本に迷惑をかけているのはこれらの迷惑先進国ばかりではない。最近では貧乏な迷惑後進国から移民が日本にやってきて、日本中で迷惑のかけ放題だ。

しかも世界中から観光客という迷惑客が押し寄せてきて、迷惑ツーリズムに精を出している。

しかし、あえて言わせてほしい。もっとも迷惑なのは日本人だ、と。なぜなら日本人の人のよさ、やさしさ、おもてなし精神、迷惑を憎む心が、世界中の迷惑インフルエンサーと迷惑テロ集団たちにつけ込まれているのだから。

私は日本人はもっともっと迷惑にならなければならないと思う。電車の中では外国人に負けないくらい大声で話そう。レジ係に小銭を投げつけよう。ネットの誹謗中傷を日課にしよう。小さな迷惑を大きな迷惑に育てよう。

迷惑の犠牲になるのはもうたくさんだ。世界中で日本人は迷惑行為を行なうべきだ。日本政府も迷惑外交を行うべきだし、もっと迷惑がかけられるような法整備に取り組むべきだ。

もちろん憲法の第九条など明日にも登録抹消だ。我が国の迷惑行為を妨げるあんな条文、よかれと思って付け加えたのだろうが、正直言ってありがた迷惑だ。

風刺・戯文

失礼のアソビ

ネットなどでだれそれに失礼といって怒っている人がいる。たとえば有名人に記者が厳しい質問をしたとき、それはその有名人にとって失礼だというのだ。

だが、ある言動が失礼かどうかは当事者が決めるものだ。それを関係のない外野が勝手に推しはかって決めつけるのは、そっちのほうがそれこそ失礼ではないだろうか。

もっとも、失礼と言いたがる人にもそれなりの理由があることも認めてあげなくてはならない。労せずして自分を正しい側に置きたいとか、日本の身分制が揺らぐのがいやだとか、とにかくなにか口を挟んで賢いところを見せつけたいとか……。

しかし、この世には失礼を承知で言ったりしたりしなくてはならないこともある。

憎まれても、石を投げられても、首を刎ねられても、やらなくてはならないこともある。

失礼にもアソビがなくてはならない。アソビのない失礼がこのまままかり通ることになったら、私たちはいずれ、反戦活動家に対して、戦争をしている人に失礼ではないかと怒ることになるだろう。

それどころか、軽々しく戦争に反対するのは、戦火に巻き込まれて悲惨な思いをしている民間人に対して失礼だとも言いかねない。

風刺・戯文

本当にやさしい日本語

私は、差別語などは使わないように日ごろから気をつけているが、ポリチカル・コレクトネスの欠乏した人や、無知な人は差別語を使いがちだ。もっとも、教養豊かな私も、ときには間違えることもないではない。

先日、犬と散歩している人がいたので、「汚い犬ですね」といったらイヤな顔をされた。どうにも納得がいかなかったので、後で友人に尋ねたら「ワンちゃん」というべきなのだそうだ。現代では動物も命あるものとして尊重すべきだということなのだろう。

そのような観点からすれば「豚児」「豚箱」などという表現も現代にはふさわしくない。なぜなら豚に失礼だ。「馬齢を重ねる」も同じで、馬に配慮が足りないというべきだ。そう考えると「馬鹿」などもはなはだ危険だ。現代ならば「人児」「人箱」「人齢を重ねる」「人々」が適切だろう。

最近では「尻切れ蜻蛉」も差別語に加えられたようだ。私などは差別に対する備えがしっかりしているせいで、もう十年以上前から「蜻蛉返り」も使わない。

差別語を見逃せないタチの私は、しばしば指摘や注意をしてしまう。ネットならば差別語警察、いや差別語ワンちゃんと言われるかもしれないが、やはり黙っていられない。

先日なども、ある人がしきりに「外人、外人」と繰り返すので、「差別主義者め、外国人と言いなさい」と注意したら、こんなふうに言い返された。

「うるさい、俺は差別なんかしてない」

「いいや、していたぞ」

「愚か者め。外人の外を外国と言い換えれば、外国人になる。だが、この外も外国に言い換えたほうがいいのではないか。すると外国国人だ。だがそれでも外が残る。そんなこんなで外国国国国国国国国国国国国国国国国人になっても、まだ終わらない。これじゃあキリがないから、俺は国を省略して外人と言っているのだ。この二字の間に収められた差別を憎む心はそれこそ無限大なのだ!」

人々人々しいにもホドがある。まったく呆れた人野郎だ。

散文

バカとチョンの社会(後編)

昨日、「バカでもチョンでも」という差別表現について、私の側からささやかな新解釈を提出させていただいた。

それは、現代のコンテクストにおいては「チョン」とは、差別に苦しむあらゆる移民を意味すべきだというものである。すると「バカ」とは、論理的・必然的にあらゆる日本人を意味することとなる。

よって、日本はバカとチョンの国である、というのが私の到達点であった。

しかしながら、この新解釈に依拠して「バカでもチョンでも」という差別表現をあらためて捉えなおしてみると、実はこれが素晴らしい表現であることがわかる。

「バカでもチョンでも」安心して暮らせる社会、「バカでもチョンでも」人権の尊重される社会、「バカでもチョンでも」虐待されることのない社会。この表現が、日本人と移民の平等を表わしうることに気づかされるのである。

だが、ここでひとつの契機が生じる。もし、我が国において、あらゆる移民が、人権の観点から日本国民と平等に扱われるとしたら、これらの移民を「チョン」などという蔑称で呼ぶことが、そもそもありえないこととなるのではないだろうか。

そして、これに応じて、日本人もまた、移民の命や人権を自分たちと同等に尊重できるのならば、もはや「バカ」とはいえないのではないだろうか。

「バカでもチョンでも」尊重される社会の実態は、「バカもチョンも」存在しない社会であった。なんと不思議な成り行きだろう。

そんな社会では誰もが人権を享受し、差別されなくなる。いや、皇族がいた。