散文

地獄の言語学入門(5)

私が、刑務所で研究を続けることができるのはひとり言語学者のみだと、大胆にも宣言したとき、三人の学者が憤然として立ち上がり、抗議を始めた。

数学者と哲学者と神学者であった。

これらの尊敬すべき三学者たちは、自らの研究対象を極めるのに必要なのは、ただ人間に備わった理性のみであり、この理性こそ人間が行住坐臥、同伴しているものに他ならぬと断言し、こう言ってのけた。

「かるがゆえに、これらの学こそ、刑務所の中であろうとどこであろうと遂行できる普遍的な学なのである。高貴なる学の三姉妹と呼ばれるのもまったくもって当然なのだ」

そして、三人は口を揃えて「なんじゃ、言語学とかいう下賎の学は、言語とかいうただの道具の学、大工の修行にすぎぬではないか!」と嘲笑し、罵倒のかぎりを尽くしたのであった。

これに対し、冷静にも私は即座に以下の反論を行った。

「数学者よ、なるほど数学とは汝の言いし如く、全人類が分かち持つ理性を基盤としてなされる学問である。しかしながら、その理性において数の神秘を解き明かすには、複雑な数式を操る技術的卓越性が不可欠である。だが、この技術的卓越性こそが、数学をこそ、かえって刑務所内における遂行不可能の学たらしめているのである。

なんとなれば、数式を巧みに操り、黒板いっぱいに書き散らすには、天才的な知能が必要だからだ。しかるに、言語の分析とは、まず現象学的な観察であり、いかなる知識も先入見もなく始められる学的実践である。もちろん、観察のコツや視点を学ぶことは重要であるにしても、かりにそれがなかったとしても、観察する習慣とその蓄積によって、誰でも十分に興味深い研究を成しうるのだ。それはちょうど、下手くそな日曜大工でも、頑張ればなんとか使い物になる棚を作ることができるようなものだ。

換言すれば、数学は一部の天才の業であるが、言語学は万人に開かれた知の技術なのだ。だからこそ、私は訴える。刑務所が万人に開かれた時代だからこそ、万人が言語学を学ばねばならぬ、と」

そして、私は悠々と自分の頭を指さした。「いまだ得心しない様子の諸氏に、決定的な証拠をお見せしよう。日々言語学研究に打ち込むこの頭脳は、いまだかつてサインとコサインの違いを受け入れたためしがないのだ!」

青ざめた数学者たちを前に、私が展開したさらなる反論は、よりいっそう奇妙で驚くべきものであった。

散文

地獄の言語学入門(4)

刑務所の中の天文学者が星を見ようとして監獄の重苦しい天井に妨げられるとき、言語学者は自分の言語をじかに観察している。言語学者が探究すべき宇宙は頭の中にあるのだ。

動物学者が独房の中でジャングルの動物たちを夢見ているとき、言語学者はその隣の独房で自分の舌を動かして音声学的観察をじかに行っている。

独房の中、入破音の調音練習を延々と繰り返す言語学者を見て、看守たちは大慌てで、所長に「第 1857 号に精神異常の兆候あり」という報告を上げることだろう。

だが、言語学者ができることはこれだけではない。刑務所は他者の言語の格好の観察場所でもある。

文学研究者たちが、刑務所の図書サービスで目当ての資料を探すのを諦めたとき、言語学者は看守と囚人のやり取りに密かに耳を傾け、批判的談話分析と社会言語学に関する第一級の資料を発見したと小躍りすることだろう。

国際情勢から遮断された獄中の政治学者たちがフラストレーションを募らせているとき、言語学者は同じブロックの囚人たちの話す方言、スラング、専門用語に心躍らせている。言語学者がいるところ、そこはすでにフィールドワークの現場なのだ。

とりわけ終身刑の言語学者は、刑務所内の言語変化のメカニズムの解明に腰をすえて取り組むことだろう。その粘り強い探究心は、刑務所内で「無罪」が「有罪」へと変わる通時的意味変化を明らかにしてみせるのだ。

しかも、言語学者お得意の古代文字の解読の機会すらある。言語学者は牢獄の片隅に刻まれた乱雑な線刻文字を苦労して読み解き、それが「助けてくれ」という絶叫であることを突き止める。

そして、言語学の優位を示すこれらのリストに、もっとも優雅なものをひとつつけ加えよう。それは、看守たちが「きりきり歩けっ」と囚人たちを銃殺場に連行しようとしているときだ。他の分野の研究者が迫り来る死の恐怖に、うなだれたり、反抗したり、泣いたり喚いたりするなか、ひとり言語学者だけは平然と、逍遥するが如く歩いていくことができる。

なぜなら、「きりきり歩く」と「きりきり痛む」と「きりきりまい」の「きりきり」が、同じなのか違うのか、その分析に夢中だからだ。

銃口を前にしても目隠しなどいらないくらいだ。

散文

地獄の言語学入門(3)

研究には、なにが必要だろうか。理系ならば、データが必要だ。そしてデータを集めるための観測機器、実験道具、データ処理のためのコンピュータもなくてはならない。これらは刑務所内では決して手に入らないものだ。

では、文系ではどうだろうか。心理学にしても、社会学にしても、経済学にしても、理系と同じだ。データがなくてはなにもならない。そして、その他の法律・政治・哲学・文学は、文献がなくては手も足も出ない。

あらゆる研究には対象があり、その対象を捉えるための環境が必要だ。だがどんな研究であれ、刑務所内に必要なものを持ち込むことはできない。たったひとつ、言語学をのぞいては。

なぜなら、言語学の研究対象は、言語そのものであり、言語学者自身がその言語の使用者であるからだ。

言語学者はどんなに厳重な牢獄でも、言語を難なく持ち込むことができる。刑務所のどんなに高い壁も、恐ろしい番犬の群れも、激しく動き回るサーチライトも、見回り兵たちの銃撃も、言語を怯ませることはできない。

言語は、囚人たる言語学者の頭の中にすっぽり収まって、頭蓋骨に護送されながら、堂々と正面から検問を突破する。

散文

地獄の言語学入門(2)

そんなふうに思うようになったきっかけは、現在の日本、そして社会を取り巻く状況の変化にある。ロシアでも、アメリカでも、中国でも、今や自由の価値は下落してしまった。日本も例外ではない。円安とともに、自由安も進行しつつある。

国旗の扱いからしてそうだ。日本では、国旗の持ち方ひとつで刑務所に入れられるようになるという。そんなことで投獄されるのだとしたら、やがてもっとつまらないことでもそうなっていくのは間違いない。

しかも、少子高齢化の先進国、日本では、社会のいたるところで労働力が不足している。これを補うには、外国人の労働力が不可欠だ。なのに日本人ときたら、政治家とジャーナリストが旗ふって、外国人を憎み、放逐することばかりに精を出している。このぶんでは、職業選択の自由など悠長なことはいってられない。必要な労働を国民が担うしかなくなるのも時間の問題、つまり、強制的な労働だけが解決策だ。

ここで私たち慎み深い日本人は先人の知恵に学ばずにはいられない。ありがたいことに投獄と労働力を一挙に賄う手段を先輩たちが考えてくれていた。強制労働キャンプだ。

この便利な施設が、日本全国津々浦々で誘致され、競争入札され、建設されていくことだろう。そして、できればできるほど、投獄する理由もますます増えていく。

私はこの状況にもういてもたってもいられなくなった。日本人のために勇を奮って声を上げることにした。

全国民よ、言語学を学べ、と。

なぜなら、言語学こそが、刑務所の中でも支障なく研究を続けることのできる唯一の学問だからだ。

散文

地獄の言語学入門(1)

この世界に学び、身につけるべきことは数あれど、そのうちでも私が学んだといえるのは言語学だけだ。もっとも、専門家というほどでもないが、それでも学んだことには変わりはない。

言語学というと、一般にどのようなイメージを持たれているのだろうか。私にはよくわからない。そもそも興味をもつ人は少ないし、学べる場所もかぎられている。だから、なにが面白いのかさっぱりだろう。こんなありさまだから、役に立つとも、有益だとも思われてはいない。

それに、近ごろでは AI にすっかりお株を奪われてしまった。言語学が言語の奥義を極めることにありとすれば、それはもうペラペラと倦むことなく喋り続ける AI によって実現してしまったのだ。いまさら言語学になんの用があろうか。しかも、こいつときたら、何ヵ国語でも話すことができる。言語学どころか、語学すら不要になってしまったのだ。

確かに、このありさまでは、言語学などまず学ぼうとは思わないだろう。世間的にいえば、それはもう時代遅れで無意味な学問なのだ。いや、それでいい。学問などそのようなものだ。そもそも全員が全員、価値を理解する必要などない。一部の人だけで十分だ。私はそんな心持ちでいたのだった。

だが最近、私は考えを改めた。言語学をこのような低い地位に放置しておくことは、実はこれからの社会にとってたいへん有害なのだ。(つづく)

散文

保証人のポロシャツ

何年か前、カレン人の友人から、在留期間更新許可申請書の身元保証人を頼まれた。何度もしていることなので、拒む理由はない。待ち合わせの場所に行き、近くの喫茶店で署名を済ませると、紙バッグに入った服を渡された。

ユニクロに勤めているその人は、良さそうな服をみつくろって、お礼としてくれたのだった。ユニクロにはほかにもビルマ難民の知人が働いている。

紙袋の中には、真っ白なポロシャツが入っていた。もらったはいいものの、私はこのポロシャツを何年も着なかった。なぜなら、私は服を必ず汚すから。とくに食事中は危険だ。食べ物たちときたら反抗的なのか、いつも私の服やズボンを汚そうと狙っている。

しかし最近、私はこの白いポロシャツを着はじめた。食事のときは、汚れてもいいシャツに着替えればいいからだ。それに気がついて以来、何度も着るようになった。自信がついて、都内にまでポロシャツのまま行ってみたりした。そして、いつの間にか、目立つところに黒い汚れがついていた。

先日、その友人から連絡があった。更新が近づき、また身元保証人になってほしいというのだ。私はそのポロシャツを着た。汚れがうっすらと残っていたが、そのまま会いにいった。その人が待ち合わせ場所に来たとき、私は自分の服を指して、着てきたことを示したが、ピンときていないようだった。

新たな申請書に署名をした。今度も紙袋をもらったが、白い服は入っていなかったので安心した。

旅・観察

安物ガイ(チュニジアへの旅行)

チュニジア行きの航空券には大きく分けて、中東系とヨーロッパ系があり、中東系のほうが二十万円強なのに比べて、ヨーロッパ系だと三十万から五十万円になる。

私は先日チケットを買いに行って、自らの経済状況などを真剣に検討した結果、初めから目をつけていた中東系の安いチケットを買うことにした。エミレーツ航空の二十万円だ。旅行代理店の話だと、中東の情勢次第では便の変更や欠航の可能性もあるという。だが、出発はまだ先のことだ。よくなることだって大いにありうる。安物ガイの消費マインドを支えるのはこの楽観性だ。

今回の旅は、旅費などが研究費から出る。私は旅費の申請のための書類を作成し、これを、研究費を管理してくれているオフィスに送った。書類が整っていないと、研究費を使うことはできない。

次の日、メールの返信が来た。リアリズムのメールであった。

・チュニジア行きの往復でドバイを経由している。
・現在、外務省の海外安全情報では、ドバイはレベル3(渡航中止勧告)となっている。
・経由地であっても、レベル3以上の地域への滞在は許可できない。
・経由地の変更か旅行の延期が必要。

よく見ると「外務省の海外安全情報(危険情報)」としてあった。海外安全情報だから安全だ、と私が言い出すかも、と念を入れたのだ。

もう! 私はすべてキャンセルして、新たなルートで旅程を組み直した。キャンセル料は総額いくらになるかわからない。戦争があると、銭失いも桁がちがう。

(写真:ありし日のドバイ国際空港)

旅・観察

フティーラ(チュニジアの揚げパン)

チュニジアのパンのことについて書いてきたからには、フティーラのことも取り上げなければなるまい。

フティーラとは、丸くて平たい揚げパンだ。丸めた生地を薄くして、油の入った大鍋で揚げて作る。ピザのようにフチは厚いが、内側はパリパリに揚がっている。

お店の人は、目の前で生地を広げて鍋に放り入れる。そのときにちょっと回転させるのがコツのようだ。それから油に浮いた生地を、カギのついた棒でクルクル回したり、ひっくり返したりする。すぐに揚がり、油を切ってできあがりだ。私はハチミツをたっぷりかけるフティーラが好きで、これしか食べない。卵入りもあって、フティーラの中央のくぼみに卵を割り入れて一緒に揚げる。たぶんおいしいのではないかと思う。

フティーラも、前に書いたラブラービーと同じく朝の食べ物だ。朝、お店に行くと、出勤前の人や、揚げたてを紙に包んで持ち帰る人たちでにぎわっている。

チュニジアの民話にもフティーラの店が出てくる。以下は、召使いが、異国で落ちぶれたご主人を探す場面だ。

「その国に着くと、召使いは旅の宿に、馬を預け、あらゆる市場、あらゆる通り、あらゆる小路を一日中歩いて回った。一日、二日経ち、三日目、フティーラ屋に入ってフティーラを食べようとしたとき、自分のご主人がかまどで薪をくべているのを見かけた。まさにご本人、ボロ切れをまとって、汗まみれで、炎に顔を舐められながら働いているのだった」

もちろん、ガスの普及した現代では、このような危険な労働環境はありえない。安心してフティーラを召し上がっていただきたい。

(写真:揚げたてのフティーラ、チュニス)

旅・観察

主人への信頼(2)(チュニジアの民話)

犬が喋り出した、というか、神がそうさせたのだ。

犬曰く「私は卑しくなどない。私はあの老人の家で育てられ、家と羊の番をしてやり、彼がくれる粗末な食べ物で十分やってきた。ときには主人がうっかりして晩飯抜きで夜を過ごすこともあれば、主人自身もすっからかんの時もある。そうすると、彼と私は一日、二日、三日、いやそれ以上も食べずにいるのだ。それでも私は一度たりとも家を離れたこともなければ、他の家にも行ったこともない。彼以外の主人を知らないのだ」

こういうと、矛先は男に向けられる。

「お前は、祈りと断食に生きて、いったい何年になるというのだ。なのに、たった一晩、パンが途絶えただけで、もう我慢しきれなくなって、パンを与える神を離れて、人間の門前へと足を向けたのだ。お前こそ主人を信頼していないのだ」

そして、犬は実に無情な言葉を放つ。

「お前が礼拝と崇拝のうちに過ごし、空腹に耐え忍んだこの年月は、今日すべて無駄となった」

犬の言葉は激しさを増していく。

「今さら山に戻ったところでなんになるのか。さあ、町へと降り、人と交わるのだ。人々と金の取引をせよ、常人のごとく、働いて、商って、売って、買って、盗んで、奪い取り、騙して、嘘の誓いをたてよ。そして、死が訪れるその日に神がお前に下す苦しみに備えるがいい」

パンのことを考えると、私はいつも、呪いにも似た犬のこの恐ろしい言葉を思い出す。犬が喋りださないよう、やさしくしたい。

(写真:モスクの階段に寝そべる犬、チュニス)

旅・観察

主人への信頼(1)(チュニジアの民話)

チュニジアのパンについて考えるといつも思い出すのが「主人への信頼」という物語だ。この物語では、パンが大事な役割を果たしている。

イスラームのある行者がいた。彼は山で一年中断食をしていた。日没時になると、天からパンが一切れ落ちてくる。行者は、そのパンを半分食べ、残りの半分を夜明け前に食べる。それからまた、一日の断食に入る。男はこんな生活を何年も続けていたのだった。

ある夜のこと、男のところにパンがやってこなかった。

男は一晩中パンを待ったが、パンは来ない。翌日も断食を続け、日没が近づくころには、とうとう空腹に耐えかねて山を降りた。麓にある貧しい村に行き、村人に食べ物を乞うと、粗末な大麦のパンが二つ与えられた。

男がパンを持って、山に帰ろうとすると、村人の犬があとをつけてきた。パンを狙って、吠えかかったり、服を引っ張ったりするので、男はパンを一個、犬に投げ与えた。犬はガツガツ食べてしまう。だが、それでも犬は満足せず、襲いかかってくる。男はとうとう二個目のパンも与えてしまった。

これで二つともパンはなくなってしまった。ところが、犬はなおも男の後をつけてきて、男の足に噛みついた。男は罵った。

「お前より卑しい犬は今まで見たことがない。お前の主人がくれたパンを二つともくれてやったというのに、いったいなんの用がまだあるのだ。俺からなにが欲しいのだ!」

そのとき突然、犬が喋り出した。

(写真:焼肉とサラダとパン)