ライブ

整理番号の人(1)

オールスタンディングのライブに行った。開場時間の前に着くと、すでに会場の入り口には人が群がっていた。待っていると、やがてスタッフが姿を現し、まもなく開場であること、整理番号順に呼んでいくので、チケットを用意しておくことなどを告げた。そして、時間が来て入場が始まった。

入り口に立ったスタッフが声を上げる。

「整理番号1番の方」

群れの中からひとりが歩み出て、携帯の画面をスタッフに見せる。このときから私たちすべてはこの人の背中を追うものとなったのだ。

「整理番号2番の方、3番の方」 スタッフは次々に番号を呼び、その度に客が中へと吸い込まれていった。私は249番だった。

「整理番号20番の方、ただいま20番までお呼びしています」 間に合わなかった人々がパラパラと入場していく。

番号はどんどん進んでいった。「整理番号47番の方……52番の方……60番の方、ただいま60番まで入場できます」 係の人はよく番号を忘れずにいるものだ、と感心する。私なら途中で何番まで数えたか忘れてしまうだろう。

整理番号が70番になった。70番目の客を通過させたスタッフは、入場待ちの客たちに呼びかけた。

「もう少し前に詰めてお待ちください」

番号の早い人々が入場してしまったので、前の方にスペースができていたのだ。人々は前進した。私もどんどん進み、一番前の空間に入り込んだ。249番なので呼ばれるのにはまだ間があった。だが、スタッフの命令は絶対だ。それに、そうするだけの理由もあった……。

風刺・戯文

カット

ヘアカット100は、一九八〇年に結成されたイギリスのポップ・バンドだ。デビュー・シングルは「Favourite Shirts (Boy Meets Girl)」で、「好き好きシャーツ」という今から見ると奇妙な邦題がつけられている。この他にも「Love Plus One(渚のラブ・プラス・ワン)」などのヒット曲に恵まれたが、一九八二年のファースト・アルバムののちに、中心人物のニック・ヘイワードが脱退し、一九八四年に解散した。

そして、今年六月、ニック・ヘイワード参加アルバムとしては、四十四年ぶりとなるヘアカット100の新作『Boxing The Compass』が発表された。ファースト・アルバムの魅力であった若々しいギターとメロディの高揚感に、大人の落ち着きが加わった良作だ。バンドは精力的にツアーも行っているようだ。

今、日本は簗農水相の発言で揺れている。自分を支持しなかった二市町について、予算を減額したと発言したというのだ。報道によれば「予算カット63」、「予算カット54」だという。その一方、「好き好き市町」には「予算プラス・ワン」したのではないかという疑惑も生じている。

当初は発言を認めていなかった簗農水相であったが、高市首相との「ボーイ・ミーツ・ガール」ののち、自分の発言を「高揚感」による表現だったとして撤回した。脱退は否定したものの、このままでは解散にまで発展するとの見方も出始めている。

おりしもニック・ヘイワードの来日公演が、今月中旬、大阪と東京で開催される。カットの渦中にあるニック・ヘイワードがなんと発言するか、注目を集めている。

風刺・戯文

走馬灯

私はまったく死は怖くない。いつでもその覚悟ができている。だが、ひとつだけ問題がある。走馬灯を見たくないのだ。

私の人生は苦しみと悲しみ、侮辱と蔑みに満ちたものだった。そんな人生を再体験するなどごめんだ。

死ぬ直前に脳が破壊されるように何かの装置を頭に埋め込んだら、走馬灯を見ずに済むのでは、と考えたこともある。だが、走馬灯は、脳の破壊のその刹那にも忍び込んでくるだろうことに気がついた。

走馬灯を委託できないかとも考えた。死ぬ瞬間に私の走馬灯を他人の頭の中に配信し、私の代わりにその人に見てもらう、そのスキに私はとっとと死んでしまうという作戦だ。私は脳の研究をしている大学や研究所をリストアップし、片っ端から電話をかけた。まともに取り合ってくれる人などいないなか、ひとりだけが私の話を聞いてくれた。それどころか、目下その研究に打ち込んでいるといううれしい返答。だが、続く言葉は私を失望させただけだった。

「脳を繋げば、死の瞬間のあなたの走馬灯を相手に見せることは可能です。ですが、接続には危険がともなうので、あなたより先に委託先の相手が死んでしまうことすらあります。すると、あなたが逆に赤の他人の走馬灯を見る羽目になるのです。その直後に、死にかけのあなたは自分の走馬灯を見ることになる、つまり、走馬灯が二本連続上映されるおそれがあるのです。しかも、入れ替え制ではないのですよ」

となると、私は死なないでいる以外にない。だが、死は必ずやってくる。私は死は全然怖くない。怖い走馬灯が怖い。

風刺・戯文

CDケースの悲劇

「死者に鞭打つ」の謗りを受けても、私たちは言わずにはいられない。私たちはあなたのことがきらいだったと。

私たちは否定はしない。あなたのおかげで私たちの生活は豊かになったことを。だが、あなたが手を差し伸べてくれたとき、私たちは心の中であなたを憎んでいた。あなたが賜物を運んできたときも、私たちはあなたに対する罵りを忘れなかった。そして、あなたの時代が終わった今、私たちはあなたに感謝しつつも、あなたに対するイラだちも想起せずにはいられない。

ああ、CDケースよ、あなたはなんと厄介な存在だったことだろうか。あなたを積み重ねれば、必ずザザーッと崩れずにはいなかった。手で持ち運ぶときは、縦に積んでも、両手で横に重ねて持っても、必ず床に順次落下していった。あなたを棚に並べれば、端の一枚は断固としてパタリと倒れた。そのせいで私たちは二枚組を端にもってこねばならなかった。そのせいで整然としたアーティスト順が台無しになった!

あなたは買ったときですら私たちを苦しめた。どうしてあなたを包むフィルムはあれほど剥がしにくかったのか。CDケースの側面のフィルム接着部をいくら爪でカリカリやっても絶対に剥がれない。フィルム剥がし用のテープすら端っこを掴むのは容易ではないし、できたとしても途中で切れるのだ。

私たちはあなたに問いたい。いったいあなたはどうしていつの間にかひび割れていたのか、と。落としたこともなければ、踏み潰したこともないのに。それに蓋を開閉させるヒンジの部分。あそこを破壊してパカパカにすることのいったいなにが楽しいのだ。教えてほしい。

もちろん、あなたは答えない。私たちはいくどもあなたに詰め寄った。だが、あなたはいつもカラカラと音を立てるだけ。ああ! それは折れたツメが立てる音だった! CDを中央で固定するヤツの!

今、私たちはもはやあなたを必要としない。ビデオがラジオスターを殺したように、サブスクがあなたを葬り去ったのだ。いずれ私たちを除いては、あなたの悪行を知るものもいなくなるだろう。そして、あなたの思い出も私たちとともに消えることだろう。

ライブ

ラブレターズ単独ライブ2026「溺愛」@赤坂RED/THEATER

公演は九十分で六本のコントが演じられた。会場は大爆笑で、私も笑った。コントの道具を入れ替える間に、前のコントと次のコントを繋ぐミニコントもあった。これは去年の単独公演でも見たが、相変わらずのうまさに感心した。

面白かったのでそれはそれでよかったのだが、笑ってばかりいると今度はもの足りなくなってきた。どこか笑えないところがあると私はうれしい。

笑えないところがあるというのは、まず、背後に毒や暗さがある感じで、これがあると「ちょっと待てよ」とノンキに笑っていられなくなる。もうひとつはなにかしら発見があるということで、そうなるともう笑っているどころでなくなってくる。

もっとも、ラブレターズに毒がないのは別に悪いことではない。そうした作風だからだ。また、発見というのは枠が外れたときに起きることが多い。例えば、漫才だと最初から役に入るわけではないので、演者の個性についてなにか発見することもあるが、コントでは最初から演技が始まるので、その外にあるものはあまり目に入ってこない。ただし、発見させるコントというものもあると思うが、これもまた作風の問題だ。

最後に心覚えにコントの順を記しておく。「ゴミ箱」「N」「孫」「シェフ」「音楽」「携帯」。これは本当のタイトルではなく、またネタバレにならないよう気をつけている。なので、これだけでは観ていない人はわからないだろうし、半年後の私にもわからないだろう。

風刺・戯文

苦の世界

古書を買うのに「日本の古本屋」を使っている人も多いと思う。私もずいぶん購入しているが、まだ買い足りない。しかし、お金はもちろん、本を置く場所も、読む気もないというありさまなので、欲しいものはひとまず「気になる本一覧」に登録し、堰き止めている。あとは機の熟すのをただ待つ。

とはいえ「気になる本一覧」なので、気にならざるをえない。なので用もないのに覗く。すると、大事な気になる本が売れてしまっていることがある。最近見たら『宇野浩二全集 全十二巻 限定千部』が売り切れになっていた。状態も良さそうで、価格も一万四千円という掘り出し物だった。もっとも、すぐに必要なものでもなかった。そんなわけで、いつか買える日が来るのを楽しみにしながら、私はときどき眺めていたのだが、そんなささやかな楽しみもついに失われてしまったのだ。私は激しく後悔した。

最近のニュースによれば、日本の古書が大量に購入されて海外に送られているという。AIの旺盛な食欲の餌食となるさだめだ、ともっぱらの噂だ。私の宇野浩二全集ももしかしたら今頃、AIの胃袋に収まっているかもしれない。

それどころか、宇野浩二がお気に入りになってしまう可能性だってある。AIの財力からすれば限定千部の全集などペロリだろう。日本中の宇野浩二全集が今この瞬間に収奪されようとしている。なんという苦の世界だろうか。

危機感に駆られて私は「日本の古本屋」のサイトを開く。AIの暴走を食い止めねば、となかば祈るような気持ちで、宇野浩二全集の在庫を検索し、購入手続きに進む。

ライブ

ぎだゆう座十月公演@お江戸上野広小路亭

この日の演目は『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』の「六角堂の段」(浄瑠璃:竹本綾一、三味線:鶴澤弥々、細三味線:鶴澤朔弥)と「帯屋の段」(浄瑠璃:竹本越孝、三味線:鶴澤津賀花)。一七六一年に起きた、三十八歳の男と十四歳の少女の心中事件をもとに作られた作品だ。

これは気持ち悪い。だいたい浄瑠璃作品には子どもの命を利用するものが多く、私はそういう部分はきらいだ。もっとも、『桂川』の場合は、本当は心中事件ではなく、二人とも事件に巻き込まれて殺害されたものだという。よかった。

しかし、事実はどうであれ物語は心中物だ。「帯屋の段」の後半で二人が死を決意するくだりは、やはりすきにはなれない。もっとも、語りと三味線は別物で、その演出には息を呑むような瞬間があった。

私がもっとも気に入ったのは、「帯屋の段」の前半部分だ。意地の悪い女とその息子が出てきて、憎々しげに主人公を苦しめる。公演では浄瑠璃脚本を印刷したものが配布され、言葉がわからないときはそれを適宜確認しながら舞台を見る。通常は印刷物と実際の語りは大きく違うことはないのだが、竹本越孝先生の語りはその印刷物を超えるようなもので、私は紙など見ている場合ではないという気分になった。

「笑壺に入る」とは「笑う」という意味で浄瑠璃などでよく出てくる言葉だが、これが現代の「笑いのツボに入る」「ツボる」とどういう関係なのかわからない。それはともかく「帯屋の段」では悪役の息子がまさしく現代語でいう「ツボる」くだりがあり、語りに引き込まれていた私も思わずツボりかけた。

ライブ

『コントの虎 漫才の狼』@なかのZERO小ホール

これはヤーレンズとジグザグジギーの第十一回目のツーマンライブだ。私は去年の同じころに第八回にも行っている。今回は最前列の真ん中といういい席が当たったが、音楽とは違い、漫才とコントではあまり関係なかった。

ネタを三本ずつ、そのうち新ネタはそれぞれ二本ということだった。演目は次の通り。タイトルは私が適当につけたものだ。

オープニングトーク
①ヤーレンズ「自己紹介」
②ジグザグジギー「白T」
③ヤーレンズ「ファミレス」
④ジグザグジギー「結婚式の撮影」
⑤ヤーレンズ「クイズ番組」
⑥ジグザグジギー「指名手配」
トーク

ジグザグジギーのコントは、ひとつのアイディアを押すタイプのもので、アイディアの奇妙さと演出が巧みだった。

ヤーレンズの二人には、以前から妙な偏屈さがあることは感じていたが、今回の漫才では、その背後にある種の鬱屈が見え隠れしているのに気がついた。そこが批評の気配を漂わせ、漫才を単なるふざけ合いに見せない。

ヤーレンズの最後のネタは、知っている人だけが笑える小ネタの連続と、誰でも笑える動きのある大ネタ、という持ち味がバランスよく組み合わされたものだった。

私がこれまで見たどの漫才よりも充実したものだった。おそらく現在、漫才として見られる最高の部類に入るのではないだろうか。

私は賞レースのことはわからないし、これをそのままM-1に持っていけるものでもないだろうが、今年も大いに期待できるのではないかと思う。

十月の後半からは来年の武道館での単独公演の抽選が始まるそうだ。ヤーレンズの単独はいつも落ちるので、応募はやめようと思っていたが、やってみるだけの価値はある。

小説

古典化

父親と娘がレストランの席に座って、パスタが出てくるのを待っていた。そのレストランは渋谷のにぎやかな場所にあり、店内では若者たちがおしゃべりをし、外国人観光客がビール瓶を前にくつろいでいた。

親子は黙って携帯を見ていた。店ではずっとビートルズが流れていた。ミスター・ムーンライト、アイ・フィール・ファイン、サムシング……

十代の娘が顔を上げた。「この曲知ってる?」

父親はすぐに答えた。「ビートルズのストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」

「いいね」

「うん、この店、ビートルズしか流さないみたい」

ギターのコードが鳴り響き、ア・ハード・デイズ・ナイトが始まった。若々しい声と勢いのあるカッティングにしばらく耳を傾けていた父親は、携帯を見つめている娘に尋ねた。

「どう、ビートルズ気に入った?」

「いいね。けど……こんなお店で流れてるなんておかしいね」

「なんで?」

「もっと落ち着いた場所のほうが似合いそう」

歪んだギターリフとともに、アイ・ウォント・ユー(シーズ・ソー・ヘヴィ)が流れはじめた。

散文

備えあれば

近所のスーパーでは、夕方になると生鮮食品がまばらになる。これはひとつには食品ロスを減らすためだろうが、もうひとつには私たちが出費を抑えるようになったためでもあろう。

あくまでも印象にすぎないが、他の商品も種類が減っているように感じる。いつも買っていたヨーグルトが姿を消した。豆腐もいつの間にか見たことのないメーカーのものに変わった。刺身も薄くなった。無料の牛脂もワサビもなくなった。

今日の夕方、そのスーパーに行ったら、果物もなにもなくなっていた。野菜の棚もカラだ。いつもよりたくさんの人がいて、残り少ない商品から選びに選んでカゴに入れていた。

まるで台風のときみたいだ。

だが、すでに台風は去り、別の台風が来るにはまだ間があった。私は、このスーパーが明日から三日間、店内改装のために休業することになっていたのを思い出した。

日本もついに昔の共産圏のようになったかと衝撃を受けたが、どうやらそれにはまだ間があったようだった。

私は買い物カゴを抱え直すと、売り場を慌ただしく動き回る人々の中に飛び込み、三割引の豚肉と半額の厚焼き卵を素早く掴み取った。八枚切りの食パンはすでに売り切れていたので、わずかに残っていた六枚切りで我慢した。

来るべき通貨危機もこの動きで乗り切れそうだ。