散文

普遍人間発生装置(1)

私は結局、大学には受からなかったのだが、昔、予備校に通っていたことがあった。そのとき、現代文の読解問題に「話すように書くことなどできない」と主張するものがあった。誰の文章だかはっきりしないが、そのとき「精神の運動」という言葉が出てきたような気がするから、石川淳かもしれない。

それはともかく、この主張の内容は確か、話し言葉と書き言葉の論理は違うからというようなものだったと思う。それももちろん大事だと思うが、私が今、話すように書くことはできない、と考える理由のひとつは、当たり前のことながら、口から出た言葉を全て文字に表すことはできないからだ。

日本語話者は慣れてしまっていて気がつかないが、日本語の書記法はアクセントを表すことができない。ビルマ語やタイ語にはアクセント(の一種)を表す補助記号があるのと対照的だ。とはいえ、それで日本語を読むとき困るということはない。ひとつには漢字があるからだ。「はし」だけではどう読めばいいかわからないが、「橋」「箸」と漢字を使えば発音するのには困らない。漢字がアクセント記号の代わりにもなっているともいえる。また、漢字がなくても、文脈があればたいていわかる。「このはし渡るべからず」と書いてあれば、一休さんでなくても「箸」ではないことぐらい察することができる。

散文

自己肯定感で人生が変わる

私は昔、まだ子どものような考えをしていたころ、自信とか自己肯定感とかについてよく思いを巡らせた。というのも、そうしたものを持っている人は、人生からより良いものを手に入れられると思っていたから。そして、それらが欠乏気味だった私は、やや悲しく思っていた。

そこで、私は、自信のある人の行動や心理をよく観察することにした。また、どうして自分にそれがないのかについても考察した。そして、その結果、驚くべきことが分かった。自信のある人は、そういうふうに生まれついていたか、そういうふうにいられる環境に育ってきたのだった。いっぽう、そうでない人は生まれつきそうか、そうでなくさせる環境に育ってきたのだった。つまり、自信とか自己肯定感とかの有無は、その人間にはあまり関係がないことのようなのだった。

だから、自己肯定感が何かを「引き寄せ」たとしても、それは、いろいろな条件が重なって、その人がたまたま自己肯定感が高くあったからにすぎない。また自己肯定感の欠如が何かを「引き寄せ」なかったとしても、それは、やはりいろいろな条件が重なって、その人がたまたまそういう人となったからにすぎない。引き寄せは、ただ本人の意思とは関係なく、自動的に発生するようなのだった。

それよりも、と私は思った。誰でも常に引き寄せることができるものや、自信や自己肯定感の有無に関係なくめったに引き寄せることができないもののほうが重要ではないか、と。

そんなわけで、それ以来、私は自信や自己肯定感について考えるのをやめた。そのおかげで、少なくとも私は、自己啓発本に無駄な出費をせずに済んでいる。自己肯定感が私の人生を変えたのだ。

散文

にーまであるくない?

最近の日本語で気になったことを三つ。

ひとつは「〜くない」という言い方。例えば「来るくない?」「めっちゃ夢あるくない?」。これは「来るっぽくない?」「夢がありそうじゃない?」「来そうだと思う」「夢があるように思える」という意味で使われていることが多いようだ。この「〜くない」はもう日常会話に溶け込んでいるほど広がっているように思う。私は使わないが。これについては、すでに先行研究がある。

次は「〜まである」という表現。「〜ということまで起こりうる・ありうる」という意味で使われるようだ。「皇族にこんなことをするのだから、我々国民にはもっと酷いことをするまである」というのは私が作った例文だ。もっとも、これもいくつか先行研究がある。

最後は「しねーよ(しないよ)」や文末の「ねー」などの「えー」が「いー」や「いー」寄りに聞こえることがあること。つまり「しにーよ」に聞こえる。関東の田舎出身の芸能人がこう発音していたのを最近耳にしたので、そこの方言かと思ったら、それほど田舎ではない人も「いー」寄りで発音していた。

「えー」が「いー」になるのは、別に不思議ではないことで、英語の me も同じだし、アラビア語でも似たような現象がある。もっとも、日本語のこの現象が音変化なのかどうなのかはよくわからない。たまたまかもしれないし、私の聞き間違いまである。

すでに大方の人が気づいている現象だろうが、私のように日本語をよく知らない人の耳にも入ってくるというのは、こうした現象の広がりを知る上で、ここに書いておくのは意味あるくない? と思う。

風刺・戯文

原理>原則

非核三原則とは、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」とする政治的原則だ。この原則は、問題があるからなくすべきだという政治家もいれば、問題があるから強化すべきだという市民もいる。

また「撃ち込ませず」を入れて四原則にすべきだという意見もある。これに対しすでに「持ち込ませず」に含まれているから不要だという人もいれば、これにまた反論して「撃ち込ませず」を四つ目に加えて、敵基地を先制攻撃する能力も保有すべきだという人もある。さらに「持ち込み禁止」を明示して、ルールのわからない外国人が外で買った飲食物を店内で飲み食いしないようにするのも大事だと強調する人もごくわずかにいる。

非核三原則はあくまでも原則にすぎず、原理とは異なるとの主張も最近なされている。原則は人間が決めたルールだが、原理は科学的なものだというのである。ゆえにどんなに重要な原則でも、原理のほうが優先されてしまうのだという。

原理の観点から見ると、日本は現在、核攻撃に関して非常に憂慮すべき状況にあるのだそうだ。というのも、現在の世界では核爆弾の使用可能性ががぜん高まっているからだ。

そうした危機的状況においては、核を撃つのがアメリカにせよ、ロシアにせよ、中国にせよ、どの国であろうと、世界中の他のどの国よりも核爆弾が落ちる可能性が高いのは日本なのだそうだ。

というのも二度も核が落ちたのは、日本だけだからだ。原理的にいえば、三度ある。歴史はいつだって仏の顔をギリギリまで試す。これも原理だ。もうギリギリだ。

散文

頭のよさ

世の中には頭のよい人がたくさんいて、私はいつもうらやましく思っている。頭のよい人は社会的地位も高いし、尊敬されている。どんな人もすぐに論破してしまう。よいことづくめだ。そんなことを考えているうちに、次のようなことを思いついた。

頭のよい人は頭が悪くならなくてはならない。もし悪くならないのならば、その頭のよい人は頭が悪い。

頭がよいということは、頭が悪い人が他にたくさんいるということだ。つまり、たくさんの頭の悪さのおかげで頭がよくなっている。とすると、頭のよい人がその頭のよさのおかげでこれら頭の悪い人よりもよいものを得ているとするならば、そのよいものを頭の悪い人にも分け与える義務が生じる。

その義務を果たす方法は二つある。ひとつは、税金や支援などを通じて、いろいろな事情で頭が悪くならざるをえなかった人々が頭の悪い状態から抜け出るような機会を作ることだ。また、いま頭が悪くなくてもこれから頭が悪くなる可能性がある人にも、そうならないような手立てを講ずることも大事だ。

もうひとつは、頭のよさの基準を広げることで、これはまさに、頭のよい人だからこそできることだ。現行の頭のよい人だけが頭がよいとされるのではなく、その基準そのものにいろいろな頭のよさも含められるようにするのがいい。そうすると、これまで頭が悪いとされて涙を飲んできた人も、やはり頭がいいと評価されるようになるはずだ。

そして、これらの義務を遂行することによって、頭のよい人は次第に頭が悪くなっていく。というのも、新たに頭のよい人が増えるにつれて、もともと頭のよい人が占めていた地位は、それだけありきたりなものになっていくからだ。

しかし、それこそが頭のよい人のすべきことだ。もしそれができないのならば、頭が悪いというべきであろう。

散文

KNUのゲスト(終)

議長もそうだが、若い幹部も英語ができる。なので英語で話してもいいよ、と私は言われていたが、カレン人たちの集いで、そんなことをするのは場違いなような気がしていた。それもあって私は黙っていたのだが、若い幹部がビルマ語で話すので、近くにいた遺恨ある人が私のために通訳をはじめた。すると、私の隣に座る別の若いカレン人も通訳しだした。私はこの「同時同時通訳」に混乱しつつも、二人のおかげでKNUの若きリーダーとの関係構築の実現に至った。

シメの冷麺やユッケジャンスープが出てきて、飲み放題もラストオーダーになった。私たちは席を立ち、議長と幹部を囲んで記念写真を撮った。私は昔、集会などの後にこういう記念写真をよく撮ったものだった。とはいえ、これはただの記念写真ではない。入管での難民審査で、政治活動の証明として提出するのに必要な写真でもある。

あるとき、なにかの集会の最後に集合写真を撮ることになった。私が写真を撮ろうと思って前に立つと、たくさんの人が自分の携帯でも撮って欲しいとカメラを渡してきた。私はカメラを自分の前に並べ、ひとつひとつ撮っていった。会場にはあの遺恨ある人もいたが、私に渡すのをためらっているようだった。私はとても怒っていたので、声をかけずに済ました。

焼肉屋の会場では、若者たちが議長の隣に並び、写真を撮りあっていた。私もゲストたちの隣に並んで写真を撮ってもらった。そして、遺恨ある人も隣に並んだ。今はビザもあるし、必要ないようにも思えたが、私は写真を撮った。

私たちは店を出て、会計が済むのを街灯の下で待っていた。ひとり五千円だというので、財布から出そうとすると、旧友のひとりが私を制した。財布に手を伸ばして損をした格好だ。このとき初めて私は議長に話しかけ、自分のカレン名を伝えた。これは日本のカレン人にもらったもので、スゴー・カレン語を話す人には必ず受ける鉄板ネタだ。これで少しは覚えてもらえたかもしれない。

会計が終わり、ゲストたちと別れると、私たちは池袋駅に向かって歩きだした。私は遺恨ある人と少し話をした。別れ際に彼女は「みんな歳をとったね」と言った。

散文

KNUのゲスト(3)

若いカレン人のひとりが私たちのテーブルで次から次へと焼肉を焼き、議長を含めみんなの取り皿にのせてくれた。私は悪い気がして「焼くよりもどうか食べてください」と言うと彼は「私は肉は食べないので」と答えた。遠慮なく食べた。

さて、この日は、二十年来の付き合いのカレン人が何人かいた。付き合いというか、一緒に日本でカレン人のための活動を作ってきた人たちだ。そして、そのうちのひとりと私は過去に遺恨があった。遺恨の内容は書かない。私にも言い分があり、相手にも言い分がある。ただ、私は集まりにその人がいたのを見て面倒だと思い、できるだけ近づかないようにしていた。相手もそう思ったのか、話しかけてはこなかった。

焼肉を食べながら私は、別のカレン人の友人に尋ねた。「議長たちのスケジュールはどうなっているんですか?」 だが、私の日本語がうまく理解できないようだった。私は言い直した。「いつ来て、いつ帰るんですか」

すると、遺恨あるカレン人が口を挟んだ。「それがわからない。今日だって急に集められた。だから困ってるよ」

議長たちを招待した団体は別で、そことの連絡がうまく行っていないとのことだった。目的については私は聞かなかったが、日本在住のカレン人や他の活動家と会ったり、日本政府の偉い人と交渉したりするのだろう。

議長はほとんど飲まなかったし、そもそも私たちのテーブルでは議長以外は誰も飲まなかった。そういう年長者の席だったが、若いKNU幹部のいるテーブルのほうは違った。若い人たちが座り、ビールがたびたび運ばれていった。

ロース、カルビに始まった焼肉は、レバー、ホルモンと続き、やがてシーフードになった。もっとも、焼いてくれていたカレン人がこれでようやく食べ物にありつけたかどうかはわからない。というのも、この時には人々は席替えをはじめ、私も若いKNU幹部のいるテーブルに移っていたから。若い幹部のほうはなかなか陽気な人で、私たちは何度も握手したり、乾杯したりした。

散文

KNUのゲスト(2)

だが、断るわけにはいかない事情があるのに気がついた。

というのも前日の日曜日、カレン人の大事なイベントがあり、私はそれも誘われていたのに断っていたからだ。イベントにはKNUのゲストが出席することも知らされていたし、友人が誘ってくれたのは私を紹介したいからだということもわかっていた。結局のところ、私は行くと返事をしたが、それは、むしろこの友人の厚意を二度も断りたくなかったからだ。

そして、池袋の焼肉屋に集まったのは、十三人の在日カレン人と私。しばらくすると友人が、近くのホテルからKNUのゲストを連れてきた。若いカレン人たちが入り口に立って、歓迎の花束を渡した。

会場は広めの個室で、お店も少しだけ高めだ。この店の系列店で働くカレン人がセッティングしてくれたのだという。

ゲストはKNU議長と若い幹部で、二つある大テーブルに別々に座った。私は議長の近くに座らされた。やがて、肉が出てくる。議長は日本酒を飲んでみることにしたようだった。

私は名前ぐらいは伝えたが、実際には議長と話すことはない。私は最近のビルマの状況については疎いので、あまりくだらない質問をしたくはなかった。

また、私はKNUの人を何人も知っていたが、そこで、あの人知ってる、この人知っている、KNUについてこんなこと知ってるなどと、KNU議長相手に釈迦に説法をおっ始めるほどバカではない。

それに、KNU内部にもいろいろな考えと立場がある。私を助けてくれた人が、別の人にとっては裏切り者だったりする。だから、余計なことは言わないのがいちばんだ。

そして、私については自分で言わなくても周りのカレン人がどんどん説明してくれた。これで十分だし、そもそもゲストと話すべきなのは、私ではない。他のカレン人、特に若い人たちだ。

そういうわけで私は、焼肉を食べるのに集中した。

散文

KNUのゲスト(1)

日本にはビルマから来たカレンの人々がいる。カレンの人々のすべてかどうかわからないが、多くがビルマ政府の迫害を経験し、難民として日本に逃れてきた。

ずいぶん昔にカレン人の政治団体がビルマで結成された。日本語でカレン民族同盟(KNU)という。ビルマは現在、さまざまな民族と内戦中だが、KNUはその中でも古株だ。もっとも、KNUは政府のようなもので、戦うのはその下にあるカレン民族解放軍(KNLA)だ。KNUは、他民族との協力・調整、ビルマ政府との交渉、日本政府などとの協議を行うほか、カレン難民の救援などいろいろな活動を行っている。

日本にいるカレン人の多くは、もちろん人によると思うが、KNUに対しては原則的には肯定的に捉えているように思う。というのも、カレン人の利益と希望を代表するもっとも大きな組織だからだ。また、身近な人がKNUの関係者や軍関係者であったりすることもある。ただし、KNU自体も長い歴史のあいだ大きな間違いを犯してきた。なので、多くの人はKNUを頼みの綱とするが、無条件に信頼しているというわけではない。その内情や行動についてはかなり厳しい目で見ているように思う。

私は日本のカレン人とのつき合いも長く、タイ・ビルマ国境の難民キャンプやビルマ国内のカレン人地域にもずいぶん行ったことがある。その過程で、KNUのさまざまなレベルの人々と会い、話す機会を持った。KNUの歴代の議長にも会ったことがある。もっとも、私は偉い人の前だと緊張してしまうので、ほとんど話さなかった。

カレン人地域に行ったのは二〇二四年二月が最後だ。この時は友人のカレン人とともにタイ側から国境を越えてビルマの紛争地域に入った。近くで鉄砲の音が聞こえるような場所だったが、私たちはわりに呑気に過ごした。その時も、友人の親戚のKNU兵士と一緒に行動した。

最近の私は在日カレン人の集まりにあまり顔を出してはいないが、この月曜日、友人から急に連絡が入った。

「今夜、KNUの議長たちと池袋で焼肉を食べるから来てくださいね」

急に言われても困るので私は断ろうと思った。

散文

こどおじのアポリア

昨日、大久保にネパール料理を食べに行った。そのとき友人から聞いたのだが、日本はこどおじで溢れているのだそうだ。こどおじというのは、子ども部屋に住んでいるおじさんのことだ。そして、友人によれば、そもそもにほおじ(日本に住んでいるおじさん)が多いのだから当然なのだそうだ。

また、ネットで話題になっているとかいう「こどおじのアポリア」についても教えてもらった。

二部屋しかない家があるとする。子ども部屋があってそこにおじさんが住んでいる。もうひとつの部屋にはその両親が住んでいる。

何年か経ち、その両親が死ぬ。おじさんはそのまま子ども部屋に住み続ける。やがておじさんは結婚する。おじさんは妻と子ども部屋に住み続ける。しばらくすると、子どもができる。

子どもは成長する。やがてひとつの部屋で暮らすのが窮屈になってくる。おじさんは子にいう。

「さいわい、この家にはもうひとつ部屋がある。お前はその部屋に移りなさい」

子どもはその部屋で暮らしはじめる。そして、おじさんになる。やがておじさんは結婚し、子どもができる。その子どもが成長し、おじさんはいう。

「さいわい、この家にはもうひとつ部屋がある。お前はその部屋に移り、祖父母と一緒に暮らしなさい」

月日が経ち、その子もおじさんになる。このとき、この家にこどおじは何人住んでいるだろうか。

この難問にはAIも歯が立たなかったそうだ。こどおじの方々に聞くしかあるまい。