私が、刑務所で研究を続けることができるのはひとり言語学者のみだと、大胆にも宣言したとき、三人の学者が憤然として立ち上がり、抗議を始めた。
数学者と哲学者と神学者であった。
これらの尊敬すべき三学者たちは、自らの研究対象を極めるのに必要なのは、ただ人間に備わった理性のみであり、この理性こそ人間が行住坐臥、同伴しているものに他ならぬと断言し、こう言ってのけた。
「かるがゆえに、これらの学こそ、刑務所の中であろうとどこであろうと遂行できる普遍的な学なのである。高貴なる学の三姉妹と呼ばれるのもまったくもって当然なのだ」
そして、三人は口を揃えて「なんじゃ、言語学とかいう下賎の学は、言語とかいうただの道具の学、大工の修行にすぎぬではないか!」と嘲笑し、罵倒のかぎりを尽くしたのであった。
これに対し、冷静にも私は即座に以下の反論を行った。
「数学者よ、なるほど数学とは汝の言いし如く、全人類が分かち持つ理性を基盤としてなされる学問である。しかしながら、その理性において数の神秘を解き明かすには、複雑な数式を操る技術的卓越性が不可欠である。だが、この技術的卓越性こそが、数学をこそ、かえって刑務所内における遂行不可能の学たらしめているのである。
なんとなれば、数式を巧みに操り、黒板いっぱいに書き散らすには、天才的な知能が必要だからだ。しかるに、言語の分析とは、まず現象学的な観察であり、いかなる知識も先入見もなく始められる学的実践である。もちろん、観察のコツや視点を学ぶことは重要であるにしても、かりにそれがなかったとしても、観察する習慣とその蓄積によって、誰でも十分に興味深い研究を成しうるのだ。それはちょうど、下手くそな日曜大工でも、頑張ればなんとか使い物になる棚を作ることができるようなものだ。
換言すれば、数学は一部の天才の業であるが、言語学は万人に開かれた知の技術なのだ。だからこそ、私は訴える。刑務所が万人に開かれた時代だからこそ、万人が言語学を学ばねばならぬ、と」
そして、私は悠々と自分の頭を指さした。「いまだ得心しない様子の諸氏に、決定的な証拠をお見せしよう。日々言語学研究に打ち込むこの頭脳は、いまだかつてサインとコサインの違いを受け入れたためしがないのだ!」
青ざめた数学者たちを前に、私が展開したさらなる反論は、よりいっそう奇妙で驚くべきものであった。