小説

エレベータ(2)

ホームではもう電車が待っていた。あの不機嫌そうな女がエレベータの横の車両に乗ったのを見て、私はその隣の車両に乗り込んだ。ドアが閉まり、電車は走り出す。そして数駅走ったのち、終点に到着した。

キャリーバッグを引っ張りながら私はエレベータを探した。それは階段の下に設置されていて、入り口の前の黄色い点字ブロックの上には、あの薄紫のスーツケースがあった。そして、その持ち手を引っ張って、あの女がカゴの中に姿を消した。私は「急ぎたければ急げばいいさ!」と、ゆっくりエレベータに近づいていった。

エレベータの扉が閉まり始めたとき、先ほどの背の高い老人がやってきて扉に割り込んだ。扉は容赦なく老人を挟み、その姿を一瞬、人形のようにした。だが、老人は手で扉をこじ開け、体を中に入れた。そして、入り口に立つと、私のほうを見た。

扉は開いたままだった。老人が「開ける」ボタンを押してくれていたのだ。私はゆうゆうとエレベータに乗り込むと、キャリーバッグをぐいと引き寄せた。そのとき、私は自分の後ろで、もうひとりの客がやってきたのに気がついた。老人はその人が乗り込むと「閉まる」ボタンを押した。

エレベータは四人を乗せて上昇を始めた。

ウヒヒ、と私は心の中で思った。

小説

エレベータ(1)

私はキャリーバッグをうんとこしょと持ち上げて電車を降りた。それはオレンジ色の大きなバッグで、中には本が詰まっていた。長年使ってきたせいか、車輪の部分がおかしくなって、転がすとゴロゴロとやけに大きな音を立てた。あまりにもうるさいので、ときどき振り返る人もいる。私は恥ずかしかったが、捨てるのも面倒なのでそのまま使い続けていた。それに、ノイズキャンセリング機能のついたイヤホンを装着すると、音も聞こえなくなった。

階段で持ち運べないほど重かったので、私はエレベータを探した。ホームを少し歩くと、エレベータの表示のついた柱が見えた。入り口は反対側にあるようで、今しも三人の乗客がゆっくりと回り込んで行くところだった。歩き方がどこかぎこちないジャージ姿の男の後ろを、二人の老人がトボトボと歩いていた。私は次に乗ろうと思って急がずに進み、エレベータの前に立った。すると思わぬことに、閉まっていた扉が開いた。中の人が私に気が付いて開けてくれたのだ。私はとっさにイヤホンを外し、お礼を言いながら乗り込んだ。ジャージの男が連れの人に「ゴロゴロ音が聞こえたから、乗る人がいるって気が付いたんだ」と得意そうに言った。

エレベータは改札口のある階に到着し、私たちは降りた。三人が改札口に向かうのを見送りながら、私は乗り換えのために反対側にあるもう一基のエレベータに向かった。

エレベータの前には、若い女が立っていた。そのわきには薄紫色のスーツケースがあった。エレベータが上昇してきて、扉を開いた。私は彼女の後に続いて乗り込んだ。女が「閉まる」のボタンを押したとき、背の高い老人がのっそりと戸口に現れた。私は慌てて「開ける」ボタンを押そうと探した。老人は閉まろうとするドアを手で押さえて、私のすぐ隣に立った。下降を始めたエレベータの中で、女が「もう!」と苛立たしげに言うのが、ノイキャン越しにも聞こえた。

散文

ぶれない芸

漫才を見たり、芸人たちの話を聞いているとたまに「ぶれてはいけない」という話になる。これには二つの側面がある。ひとつは話の「ぶれ」だ。漫才にせよ漫談にせよ、話のフォーカスがずれたり、ひとつに絞りきれていなかったりすると、聞く人の解釈がぶれてしまうというのだ。もうひとつは視線の「ぶれ」で、例えば普段つけていないアクセサリーをつけていたり、手に包帯を巻いていたりすると、観客はそっちのほうに気を取られてしまう。

これらのぶれは、舞台上で行われていることに観客が集中することを妨げる余計なものだから、できるだけ排除しなくてはいけないのだという。私は芸能のことはわからないが、芸人たちが舞台では決まった衣装を身につけるのも、こうした余計なものを舞台に持ち込まないためのひとつの工夫であろう。

また芸人たちが、程度の差こそあれ、ある種のキャラクターを帯びて登場するのも、もちろんキャラクターそのものにも機能はあるが、衣装と同じように余計なものを排除する機能があるものと思われる。いつもと同じ雰囲気だからこそ、観客は迷わずに集中することができる。

私は昨日、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない、と書いたが、芸人にもこれは当てはまる。漫才や漫談は演劇とは違うから、そのまま生身の人間がそこにいると勘違いしやすい。またそう勘違いさせるのが芸のうちでもある。しかし、そこにいるのは引き算によって作られた存在だ。

演技や芸というと特別なことのように感じられるが、やっていることは私たちにも関係のあること、つまり話を伝えるということだ。となると、私たちもまた、なにかを伝えようとするとき生身の人間でなくなっているのではないか、という気もしてくる。

ライブ

改良人形芝居ルネッサンス@浅草文化観光センター

一糸座は江戸時代からの伝統を受け継ぐ糸あやつり人形の劇団で、義太夫節に合わせた上演も行なっている。文楽の人形と違うのは、その名の通りひとりで糸を操って人形を動かす点と、人形遣いがセリフを言うところだ。

今回の演目は「三番叟」「八百屋お七、火見櫓の場」「鈴ヶ森」と新作人形浄瑠璃だ。新作は吉原の遊郭に行こうとする男の話だった。

このうち義太夫節が演奏されたのは「八百屋お七」と新作で、語りは竹本越孝、三味線は鶴澤三寿々という、私が習ったことのある先生方だ。これに望月太意三郎の太鼓が加わった。配置でいえば、右からは語りと三味線が聞こえ、左からは太鼓が鳴り響き、中央の舞台では人形たちが動いて話すというもので、小さい会場だったので目も耳ものびのびと楽しんでいた。

人形操作の巧みさにも驚いた。あんな複雑なことをしなくても生身で演じればいいのにと思うが、逆に人形だからいいのではという気もしてきた。それは人形にしかできないことがあるというのではなく、演劇の本質に人形があるのではないか。古典ギリシアの演劇ではマスクをかぶっていたというし、能もまたそうだ。生身では都合が悪いことがあるのだ。

通常の演劇で大事なのは、筋やテーマが明確に観客に伝わるように登場人物を動かすことだ。そのためにはまずある種の類型化とデフォルメが必要だ。これでわかりやすくなる。それから、観客が集中してくれるように、余計なものを捨てるのも大事だ。人形やマスクならば、生身の人間が簡単に隠すことのできない変化を見せないでおくことができる。人形やマスクによって生身の危うさを排除することで、演劇は初めて演劇になるのではないだろうか。

こういうと、生身の人間も演劇に出演しているではないか、と反論する人もいるだろう。だが、その生身の人間も、演技を通じて人形になっているのではないだろうか。もしかしたら、生身の人間が演じた舞台など、これまで一度もなかったのかもしれない。

旅・観察

代行バス(2)

まもなくバスは動きはじめた。姉ヶ崎駅を離れたバスは、ひらけた道路に出て長浦駅へと向かう。道路の右手には胴体の膨らんだ煙突や、窓のない巨大な建造物が立ち並び、見ていて飽きない。やがてバスはこの不思議な道から逸れ、姉ヶ崎よりも寂れた長浦駅に着いた。十五分はかからなかった。

バスのドアが開くと、やはり職員の方々がお出迎えだ。だが、乗客たちは急いでエスカレーターに向かう。私はのんびりした気分でいたが、乗客たちの動きを見て少し慌てた。電車の出発時間が近いのだ。姉ヶ崎駅と同じように専用のゲートを抜け、ホームに降りる。停車中の電車に乗り、私は木更津に向かった。

線路が使えないなどとはなんと不便だろうと思っていたが、そうでもなかった。帰りもそうで、木更津から長浦に着くともう姉ヶ崎行きのバスが待っていた。ただ、今度は帰宅する高校生でいっぱいだった。座れなかった年寄りの女性たちが「このバスに乗ったのは間違いだった」と悔やんでいた。私も立っていた。満員だったので暑くなり、上に着ていたシャツを脱いだ。

バスは姉ヶ崎に到着した。車窓から見ていると、やはりたくさんの職員たちが働いていた。鉄道会社の人、バス会社の人、それからたぶん市役所の人が道端に立ち、互いに合図を送り、足早に動いていた。これから忙しい夕方がやってくるのだ。バスを降りた私は高校生に囲まれながら、駅のエスカレーターに乗った。なぜか私は見送られているような感じがした。

姉ヶ崎駅のホームに着くと、次の千葉行きまで三十分あることがわかった。グムムと言いたいのを堪えて、階段の壁に寄りかかって静かに待った。

旅・観察

代行バス(1)

九月の末にやってきた台風のせいで千葉県内ではいくつかの鉄道路線に被害が生じている。私は今日、木更津方面に用があって出かけたが、内房線は姉ヶ崎と長浦の間で起きた土砂崩れのため、その区間だけバス輸送になっているという。

東京から高速バスに乗って木更津に行くことも考えたが、もう席がない可能性もある。私はどんなふうにバスが鉄道を繋いでいるかにも興味があったので、時間がかかるかもしれなかったが内房線で行くことにした。

十時前に千葉に着くと、ちょうど姉ヶ崎行きの電車が十時四分に出るというので乗る。二十五分後に姉ヶ崎に着く。ホームから改札口に上がると、職員が数名、乗客の案内をしていた。バス利用者には専用のゲートがあって、改札なしで通ることができる。出るとまず目につくのは「列車代行輸送 バスのりば」と書かれた表示と大きな赤い矢印だ。床面にも案内が貼られている。職員の動きと極太の赤い矢印のせいで、駅がソワソワしているように見えた。だが、乗客たちは普段通りだった。私は矢印に従って階段を降りてロータリーに出た。そこでは職員がバス乗り場のプラカードを掲げて立っていた。私はなんとなくうれしくなった。

広々としたロータリーには何台もバスが止まっていた。いつもはそんなことはしないのだが、思い切ってその女性の職員にどのバスか尋ねた。すると、向こうの入り口にあるバスを指差した。そのバスに向かって人々がパラパラと歩いているのが見える。バスに近づくにつれ、職員が増えた。

乗客の案内をする人、蛍光ベストを着たバスの誘導をする人、運転手、そしてバスの乗降口で切符や Suica をチェックする人、そしてなんだかわからないけど大事そうな人……。バスに乗ると私は席に座り、出発のときを待った。

散文

ラバー・ソウル・アンユースト

十月二日にビートルズの『ラバー・ソウル』のスペシャル・エディションが発売された。どんな内容かと曲目を見ていると気になるものがあった。

DISC 2 の十二曲目の「In My Life (Extract With Unused Organ Solo)」だ。この曲は印象的なチェンバロ風のソロでも有名だが、それをオルガンで弾いた別テイクがあり、その間奏部分だけを抜き出したものだ。括弧内を日本語にすれば「未使用オルガン・ソロ付きの抜粋」とでもなる。

私が気になったのはこの抜粋のカタカナ表記だ。Apple Music でも、ユニバーサル・ミュージック・ジャパンのサイトでも「イン・マイ・ライフ(エクストラクト・ウィズ・アンユースト・オルガン・ソロ)」となっている。

私は英語はよくわからないが、「未使用」という意味ならば、unused の s は z で発音するのではないかと思う。つまり「アンユーズド」だ。濁点のないアンユーストは普通「慣れていない」という意味だ。

よくよく考えてみると use は奇妙な単語だ。動詞ならユーズ、名詞ならユースだ。これはまだいいとしても、同じ used でも「〜を使った」のときはユーズド、「〜したものだ」とか「〜に慣れている」とかのときはユーストだ。

「〜したものだ」や「〜に慣れている」の used はいつも to が続く。そのときは、ユースト・トゥではなく、to とくっついてユースタとかユーストゥになってしまう(と辞書に書いてある)。これは後続する to に引っ張られてそうなったと考えるのが自然だ。しかしこうなるともう usedto で一語で、ユーズドとは別の語のような気もするが、よくわからない。

しかし、それにもましてわからないのは、大きな会社なのに、しかも誰もが知っている歴史的作品なのに、濁点なしという間違いが校正を通り抜けてそのまま世に出てしまったように見えることだ。もしかしたら私の英語の知識が乏しいだけということもありうるが、そのうちビートルズもヒートルスになるかもしれない。

散文

あぶない辞書

昔は単語ひとつ調べるのにも、分厚い辞書を取り出して、パラパラとページを繰って探し出さねばならなかった。また、学校に行くときは、辞書を何冊もリュックに入れて持ち歩かねばならなかった。しかし、今は腰にやさしい時代になった。スマートフォンひとつあれば十分で、アプリを開いて、単語を入力するだけで意味が出てくる。

とはいえ、紙の辞書と完全に「おさらば」というわけにはいかない。電子化されていない辞書も数知れない。また、何ページにもわたる項目を概観したり、あちこちのページにある複数の項目を同時に検討するときには紙のほうが便利だ。もっとも、こうした問題はいずれ技術的に解決されるのかもしれない(し、もうされているのかもしれない)。

この調子だと、おそらく何年後かには、紙の辞書を所持しているだけで不思議に思われる時代になっているだろう。それどころか、警察に捕まる可能性だってある。マリファナを巻くのにうってつけだからだ。

そんな危険な代物だが、私はいまだに紙の辞書を使うことも多い。そして、いつも思い出すことがある。

日本言語学会の会長を務めたこともある言語学者がいた。昔の人なので私は直接会ったことはないが、その当時を知る人がこんな話をしてくれた。

「その先生は、眼球が動かなくなっていたんだ……あるとき、そのことを先生に尋ねたら、メガネの奥から目をギロリとさせて『辞書の見過ぎだよ』って言ってたね」

散文

苦の世界(reprise)

一週間前、私は『宇野浩二全集』について「苦の世界」というタイトルで書いた。タイトルにはあまり意味はなく、宇野浩二の代表作を持ってきたにすぎない。内容はというと、古書サイトで目をつけていたのがAIに買われてしまったので、AIの魔の手から日本の文化を守るために、別の『宇野浩二全集』を探し出して買う、というものだ。

これはあくまでもフィクションで、もっともらしい理由にかこつけて物欲を満たそうとする、そういう人間について書いたのだった。だから、実際にはなにも買いはしなかった。

しかし、書き終わってから、私はなんとなく落ち着かなくなった。フィクションとはいえ、買ったと書いたことに引っかかりを感じていた。私は古書サイトを調べてみた。だが、気に入るようないい状態のものはなかった。しかし、たとえあったとしても買うつもりはなかった。ただ、あれば、「お気に入り」に登録しておこうかと思っていただけだった。

ふとオークション・サイトのことを思い出して、『宇野浩二全集』を探してみた。

するとあった。

しかも、非常に安く、そのわりに状態もよいのだった。私は最低価格で入札した。オークションで買い物をするのははじめてだった。他に入札者が現れないまま数日後、オークションは終了し、私は落札した。そして、今、『宇野浩二全集』は私の書架に並んでいる。

私ははじめ、もっともらしい理由をつけて欲しいものを買う人間について書いたのだった。それを書くこと自体がまた、私にとって、もっともらしい買う理由となったとは、いったい誰に想像できただろうか。

ライブ

整理番号の人(2)

150番まで呼び出しが進んだとき、ある変化が起きた。入り口のスタッフがこんなことを言い出したのだ。

「ここからは5番ずつお呼びします。では、151番から155番までの方」

入場を待つ人々の群れから、五人の姿がバラバラと離脱し、入場口に吸い込まれていった。これはいったいどういうことだろうか、と私はいつも思う。早い番号は丁寧に迎え入れられるのに、後の方ではザルでひとまとめに掬われて放り込まれるのだ。

わ、私たちは同じ料金を払っているのだ! こんな十把一絡げの扱いを受けるいわれはない! すると誰かが反論する。早い番号を取るのに苦労した人は報われるべきではないか?

違う! これは抽選だ! 番号が遅いのは私のせいではない!

いや、結局のところ、もう会場のいい場所は埋まっていることだろう。いまさら順番など関係ないのかもしれない……。そうだ、もうどこだっていい。249番に宿る場所などないのだ。

「200番からは10番ずつお呼びします。もう少し前にお詰めください」

私はさらに前に出た。目の前にスタッフが立っていた。

「241番から250番までの方!」

私はすばやく群を抜け、他の誰よりも早くスタッフに携帯をかざすと、1番で入場口を通過した。