散文

カレンの笊(手首結びの儀式3)

若者たちは、会場の前に並べられた机の上に、竹製の大きな丸い笊を置いていった。その笊には「手首結びの儀式」に使われるものが置かれていた。中央には竹筒があり、その中には水が入れられていた。筒を取り巻くように五種の品が並べられている。バナナ、青い葉で包んだ餅米、餅米を握ったもの、サトウキビを五センチほどの長さに切ったもの、カレン語でホーイと呼ばれる葉だ。さらに白、青、赤の糸の束と木べらとハサミが置かれていた。

セレモニーが始まる前に、私はこれらの品々の意味を友人に尋ねた。水は生命に必要なもの、バナナは力、餅米関係の二品は団結、サトウキビは節があるので成長、葉っぱは繁殖を意味しているとのことだった。糸の色にも意味があるが、昔のことははっきりわからないと言いつつも、白は純潔だと、キリスト教徒カレン人の彼がどう理解しているかを教えてくれた。

木べらについて聞くと、これで笊の縁を叩いて、良い「ソウル」を取り戻し、悪い「ソウル」を追い出すのだという。ソウル(soul)であって、精霊(spirit)ではないのが私には興味深かったし、友人が「これは昔の人の考えだよ。はずかしいけど」と距離をとっていたのも面白かった。

さて、机の上に笊が並べられると、別の行列が作られた。今度は若いカレン人だけでなく、カレン人の年長者や日本人などのゲストが加わっている。別の友人が私を呼んで列に加わるよう指示し、こう言った。

「他の人を見てやれば大丈夫だよね」

「大丈夫ですよ」と私は適当に答えた。

列は会場の中央を通って、前に並べられた机に到着する。机にはいくつも笊が置かれていて、向かい合うように椅子が置かれている。私を含めたゲストはステージ側の椅子に座り、反対側の椅子には若いカレン人の男女が座った。私と二人のカレン人の間には笊がある。

私は重大な勘違いをしていたことに気がついた。

私は手首結びの儀式をしてもらう側ではなく、若者にする側の席に座らされていたのだった。大丈夫じゃなかった。

散文

カレンの角笛(手首結びの儀式2)

セレモニーが始まるまでの間、私は会場をぶらぶらと歩いて、写真を撮ったりした。正面の脇に台があり、カレン伝統の楽器、太鼓やシンバル、角笛などが並べられていた。人々はその前に立ち、紐のついた角笛を肩からぶら下げたりして、記念写真を撮っていた。

角笛とは、水牛の黒い角で、表面には模様やメッセージが彫られている。中は空洞になっていて、側面に穴が開けられている。そこから吹き鳴らすのだ。

この角笛は、カレン民族のシンボルのひとつで、カレンドラムという青銅製の大きな太鼓と共に、旗などに描かれているのをよく見かける。

私はこの角笛に思い出がある。二〇年以上前に、ビルマに行ったときの話だ。私はヤンゴンのインセインという地区にいた。そこはキリスト教徒のカレン人がたくさん住んでいるところで、私はカレン人の友人に案内してもらい、教会などを見て回った。そのとき、彼は私を小さな店に連れて行ってくれた。カレン人の伝統的な衣装などが売られていた。

そこにカレンの角笛があった。友人はその角笛を取り上げると、珍しがる私のために、穴に口をつけて息を吹いた。

すると、笛の根元と先端から小さな虫がわらわらと出てきた。私たちは笑ってしまったが、虫が巣食うくらい放置されていたようだった。ビルマ軍事政権下ではカレン人の集いはかなり制限されていたから、もしかしたら需要がなかったのかもしれない。

そして、ようやくセレモニーが始まった。会場の前方には横に机が並べられ、若いカレン人たちが男女ペアになって列を作った。先頭に立つ若者が、角笛を鳴らした。虫は出てこなかったし、意外に柔らかい音がした。

散文

カレンの服(手首結びの儀式1)

今日、曳舟文化センターで「カレン伝統の手首結びの儀式」というものがあった。これだとなんだかわからないが、日本在住のカレン民族が集まって行う伝統儀式で、手首に紐を巻きつける行事だ。こうした形で会場を借りて大々的に日本で開催するのは二年目だという。

大ホールにいっぱいのカレン人が集まり、色とりどりの伝統的な衣装を身につけていた。ほとんど私の知らない若い人ばかりだった。私の古くからの友人も何人か参加していたが、その友人の子どもたちよりも、みな若いのだった。

受付も若い人たちが座っていて、私の手に白い糸を巻いてくれた。丸いシールをもらい、服の上に貼る。十時半に集合とあったが、準備が終わらないのかなかなか始まらない。私は家から持ってきたカレンの民族衣装を取り出して着た。

民族衣装といってもそれほど難しいものではない。いわゆる貫頭衣で、頭からかぶるだけだ。私がいつも着る服は赤で、緑と黄色の房がついている。他の人は青や白などいろいろだ。そのとき、私の友人がやってきた。特別な機会だから他の服を用意してくれるという。彼の服は虹色で、初めて見るデザインだ。かっこいい。彼はしばらくどこかに服を取りに行った。戻ってきて、私に差し出した。

赤い服だった。

礼を言いながら受け取ると、彼の妻がやってきて笑いながら何か言った。「別の色にしてあげたら」と言ってくれたのだろう。友人は再び立ち去り、白と黒の渋めの服をもってきてくれた。

散文

普遍人間発生装置(8)

説明とは、説明が必要なものと、そうでないものの区別の上になされる。

川端康成の『雪国』の冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は説明の必要もないほど明瞭に思えるが、実際には説明が必要だ。「国境」を明らかに通過したのに、どうして入国審査がないのだろうか? 「長いトンネルを抜ける」とは、トボトボと歩いて通り抜けたということだろうか? それとも自動車だろうか? それに雪国とは? もしかしたら北海道のことで、青函トンネルのことか?

もちろんこうした疑念は、先を読むにつれ解消されていくのだが、これ自体がひとつの文学的な技法だとしても、だからといって「これはこういう文学的技法です」などという説明が必要なわけでもない。このような文がそのままで成立しうるのも、そうした説明が不要であるような読者に向けて書いているからだ。そうした読者の想定があるからこそ、なにを説明すべきか、逆にいえばなにを説明しなくて済むかが決まってくる。

読者をどう想定するかは、説明のレベルを左右する。一般には、知識・文化・社会経験を共有していれば、余計な情報は書かなくて済む。また理解力の程度や理性の働きが「普通」であれば、余計な説明を省くことができる。

ただし、想定される読者像は、時代、文化、国によって異なる。なぜなら、作者は、通常、自分と同じ背景を共有するものとして、読者を想定するから。また、ジャンルや分野によっても異なる。なぜなら、あるカテゴリーの著述の作者は、そのカテゴリーの前提となっている読者像を想定して書くから。

この読者の想定という点が、書かれた物語と、原稿なしに語られる物語との大きな違いだ。語りにおいては聞き手を想定する以前に、具体的な聞き手が目の前にいるのだから、実際の反応を見て、それに合わせて修正し続けることで、よりよく物語を語ることができる。

しかし、書き言葉においてはそのようなリアルタイムでの軌道修正ができないため、どのような読者を想定するかが、説明文にとっていちばん重要な問題となる。

散文

普遍人間発生装置(7)

古くから物語というものが記録されてきたが、今それらを読むと、わかりにくいことが多い。それはひとつには、文字として記録することは簡単ではなかったから、余計な説明は削らざるをえなかったためだろう。またもうひとつには、その記録の読者にとっては説明など不要なことが、現代ではわかりにくくなっているからでもあろう。そのため、古代の物語を読む場合、いろいろな情報を補って読まねばならないし、それでもわからないこともある(もっとも、翻訳で読む場合は事情が違う。しばしば訳者の解釈によって読みやすくなっているから)。

説明文が物語に組み込まれるためには、まず書記技術が発展し、より多くの文字が手軽に書ける環境が整う必要があった。それと同時に、もうひとつ重要な契機が存在する。それは不特定の読者の存在だ。もしも、記録者にとって文字記録の読者が、決まった相手、生活や慣習を同じくする相手であるならば、文字記録に説明は必要ない。というのも、その記録がどのような背景で書かれたのかは自明だから。例えば、メソポタミアでごく初期の文字記録が、経済活動や行政の記録から始まったのも、そうした理由も関わっていよう。

しかし、さまざまな人の生活の場としての都市が成立し、一定の教養層が生まれ、さらに文字記録が、重たい石碑や石板だけではなく、より軽く、持ち運びが容易な媒体(パピルス、羊皮紙、紙など)へと広がっていくと、書き手の想定しない人々にも記録が届く可能性が出てくる。もちろんそうした不特定の読者は、初めは規模は小さく、基本的には同じ文化圏に属していたにしても、そのような読者を想定するということ自体が、書き方を変えることになる。

それは、自分の想定しない読者がテクストを理解できるようにするために、説明文を増やすことだ。だが、この増加は二つの点において制限がかかっていた。ひとつはすでに述べたように、どんなに書字が簡単になったとしても、際限なく説明文を増やせるわけではないということだ。そしてもうひとつの制限は、説明のレベルだ。ここで、どのような読者を想定するか、という問題が出てくることになる。

散文

普遍人間発生装置(6)

物語に挿入される説明文は、ひとつだけではなく、いくつでもつなげることができる。さらに、説明文の後に、別の物語を語る物語文が現れることもありうる。だが、実際にはこうしたことはあまり起こらない。

というのも、それは物語の聞き手にとって負担になるから。中断されたままの物語の情報を維持しながら、長い説明や別の物語を聞くのは、まさに苦痛だ。そこで聞き手は、この明らかな脱線をやめさせようと語り手に働きかけたり、これみよがしにあくびをしたり、思い切って席を立ったりすることになる。そして、語り手がうまく要望を受け入れてもとの物語に戻った場合には、もしかしたら、それまでの物語を思い出すために、話が途切れたところまでのあらすじを手短に話してくれるように頼むかもしれない。

だが、こうしたことは、つまり語り手と聞き手のやり取りは、本や文書などにおいては起こりえない。話の筋を忘れたとしても、読み手は書き手に助けを求める必要はない。ただ前のページを見返せばいいだけだ。

そこで、書かれたテクストにおける説明文は、話し言葉のときとは異なる特徴を持つことになる。それは長さだ。説明文が何ページ続こうと、読み手は戻って参照する箇所さえわかれば、話の筋を見失うことはない。もちろんこれは極端な話で、そのせいで結局、読み手は本を放り出す可能性もある。

だが、書く場合には説明が増えざるをえない事情もある。前の方で述べたように、話し言葉に付随する多くの情報は、文字にしたとたん失われるから、そのぶん、情報を増やさねばならないからだ。

話せば簡単に済むことも、文字にすると意外に多くのことを書かなければならないし、時間もかかる。そんなわけで、メールよりも電話が楽という人がいるのも当然のことだ。

ところで、書き言葉において情報を増やすといっても、これはいつでもどこでもできることではない。説明文の増加のためには、少なくとも文字を書くことそのものに、たいして労力がかからない環境が成立していなくてはならない。

大昔の碑文がたいてい言葉少なでわかりにくいのは、摩滅や欠損のせいばかりでない。文字をケチらざるをえない事情があったのだ。

散文

普遍人間発生装置(5)

説明文が物語の時間の流れを止めるというのは、これが、その時間から独立した説明を導入するからだ。「川は穏やかに流れ、囁くような水の音は心浮き立つようでした」という文の働きは、おばあさんの行為、川の様子、桃の出現という出来事の継起を作るのではなく、おばあさんの行為から桃の出現へという物語の流れをいったん止めて、川の描写を挿入することにある。

説明の「なお、当時は男は山に行き、女は川に行くのが一般的な就業形態でした」も、コメントの「これはおそらく、洗濯機がないか、洗濯機を使わないエコな暮らしを実践していたものと推察されます」も、同じように物語の時間を止めることで挿入される。

そして、説明文のもうひとつの特徴は、物語文とは動詞の形・文型などの点で異なるということだ。まず動詞の形からいうと、物語文は物語を進める文だから、基本的には動詞は過去を表す形になる。つまり、日本語ならばたいていの場合「〜した。〜した。」と過去形の連続によって、出来事の継起が表される。いっぽう、説明文は「〜する、している」という非過去形となることが多い。また「〜していた」という過去になる場合もあるが、その場合は出来事というよりは、何かの属性を表している(すなわち「川は穏やかに流れた」ではなく「川は穏やかに流れていた(そういう川だ)」)。

さらに、文型の点でも違いがある。物語文は出来事を表すため基本的には動詞が述語となる。いっぽう、説明文では形容詞や名詞が述語となる。このような文法形式は、同時にまた、物語文と説明文を区別し、両者の混同を防ぐという役割を果たしている。

説明文と言語形式の関係でもうひとつ大事なのは、説明文の導入と終了を、言語的な標識で明示することがあるということだ。説明の例における「なお、当時は」の「なお」は説明文がここから始まるということを、またコメントの例における「それはともかく」は説明文が終わったということを示す標識として機能している。

物語を語るさいには、こうした物語文と説明文の双方が必要だ(これは物語論で出てくる物語の筋を担う前景と、それ以外の背景にゆるく対応している)。カッコ、なお、この()も説明文の標識だが、普通、話し言葉ではあまり活用しない、カッコとじ。

散文

普遍人間発生装置(4)

ここで説明について考える。

物語は大きく分けると三つの部分によって構成される。登場人物たちの行動などの出来事を述べる文、登場人物の会話(という出来事)、それ以外の部分だ。最初の二つは基本的には前後関係がある出来事であり、時間の流れの中に継起的に位置づけることができる。

単純な物語は基本的には出来事を継起的に述べるだけで成立する。そこで、継起的に出来事を述べる文を、物語文と呼ぶことにする。

「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。すると、川から大きな桃が流れてきました」

これは典型的な物語文だ。もっとも、ただ単に出来事を継起的に述べているだけでなく、実際には「語り初めの構文」とおじいさんとおばあさんを対比させる構文も含まれているので単純ではないが、それでも「おばあさんが川に行く」と「桃が流れてくる」という出来事の継起をそこに見ることができる。

この例には会話は現れないが、発言自体ひとつの出来事なので、ひとまずは物語文に含めておくことにする。

さて、それ以外の部分というのは、出来事(のある側面)についてなにかを述べる部分だ。これにはいろいろとあると思うが、主なものは出来事に関わる人物や状況の描写、出来事についての説明、出来事の評価(コメント)だ。ここではまとめて説明文と呼ぶことにする。それぞれ例をあげよう。

描写
「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。川は穏やかに流れ、囁くような水の音は心浮き立つようでした。すると、川から大きな桃が流れてきました」

説明
「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。なお、当時は男は山に行き、女は川に行くのが一般的な就業形態でした。すると、川から大きな桃が流れてきました」

コメント
「むかし、むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。ある日のこと、おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました。これはおそらく、洗濯機がないか、洗濯機を使わないエコな暮らしを実践していたものと推察されます。それはともかく、おばあさんが川で洗濯をしていると、川から大きな桃が流れてきました」

これらの説明文には共通する特徴が少なくとも二つあるが、そのひとつは、出来事が継起する物語の時間を止めることだ。

散文

普遍人間発生装置(3)

次のような文も私にとっては悩みの種だ。

「どうしようもないわ」

「わ」は、女性言葉の「わ」と、男性が呆れて「どうしようもない」というときの「わ」のどちらにも解釈できる。いずれにせよ、文字だけではわからない。

このように書き言葉は、話し言葉を完全には写しとることができない。だが、そのかわり、言葉そのもので補うことができる。例えば、形容詞や副詞、動詞などで描写することがそれだ。

高い声で話した。
キッパリ言った。
ボソボソとつぶやいた
黙った。

また、先ほどの「しないわ」の場合では、「彼は言った」とか「彼女は困惑した」のような説明を加えれば、解釈に困らない。イントネーションもまた「!」や「?」を使わずとも、「と驚いた」とか「と尋ねた」とかの補足があれば問題はない。さらにイントネーションや声の質、強さなどで表される微妙なニュアンスも、副詞や文末表現の使用によって、ある程度は伝達可能だ。

おそらく〜と思われる
〜かもしれない
きっと〜はずだ

こうした補助的手段を活用することで、元来はイントネーションなどを表すことができなかった書き言葉が、イントネーションから独立した文体を獲得していく。

さらに、話し言葉にはもっと複雑な情報が含まれている。誰が、どこで、どういう状況で、なにを前提にその言葉を言ったかという情報だ。相手が目の前にいて、状況を共有していれば言わずもがなのこうした情報が、文の理解に不可欠なこともある。そうした場合、書き言葉ではこうした情報を明示するための説明が増えていく。

これらの説明こそが、やがて書き言葉を話し言葉とは別の道を歩ませることになる。

散文

普遍人間発生装置(2)

また、アクセントだけでなくイントネーションも表記することはできない。「来る」にも、いくつものイントネーションがあり、それによって意味が変わってくる。なにかが来るのを見て言う「来る」も言い方によって、来るものが危険なもの、痛み、意外なものなどに変わる。「来ないほうがいいよと言っているのにそれでも来たいのか」という呆れた「来る」もあれば、「来ないでと願っていたが結局、来てしまうのか」という諦めの「来る」もある。もちろん、疑問や誘いの「来る」にもいろいろあるだろう。これらのニュアンスを表すためにいくつかの補助的記号が発達している。次のようなものだ。

「来る。」
「来る!」
「来る?」
「来る……」
「来る……?」
「来るー」
「来る〜」

いろいろあるが、どれも具体的なイントネーションを伝えるわけではない。イントネーションや発音の記号に見えるが、実際には言葉の解釈を指示する記号としての役割のほうが強い。その意味では、むしろ「(笑)」や「www」といったものの仲間だし、さらにいえば顔文字やスタンプの使用にも関係している。

アクセントやイントネーションのほかに、文字にするとなくなってしまうものはたくさんある。声の質、高さや強さ、速さや間の取り方などがそれだ。これらは文字を太くしたり、フォントを変えたり、サイズを大きくしたり、下線を引いたりして、なんとなくは指示することはできる。スタンプは表情や身振りを書き言葉で指定しようとする努力のひとつであるが、これも記号に過ぎない。また、距離や息遣いなどはそもそも無理なようだ。しかし、いずれにせよ、こうした手段を使えば使うほど、一般的な書き言葉のイメージから外れていくことは確かだ。