散文

地獄の言語学入門(7)

さて、これらの三学者が退場するやいなや立ち上がったのは、音響音声学者、心理言語学者、コーパス言語学者であった。実験設備やコンピュータが不可欠なこれら諸分野の学者たちは、仲間である私の主張に対して猛然と反論を……(写本に数行の欠落あるか)……かくて私の親身の説得により、(学者たちは)それぞれの立派なラボへと退却していったのであった。

以上、とんだエラスムス的脱線であったが、これも獄中の学としての言語学の優位性を明らかにするためには仕方のないことであった。

だが、ここで我が所説に重大な欠陥のあることを、ただちに諸君に打ち明けねばならない。

それは AI である。近年の AI の発展は目覚ましく、賛否はあれども言語研究のあり方を大きく変えてしまった。そのせいで、言語学系の国際学会といえば、必ず「AI 時代の言語」的なメインテーマがなければ格好がつかなくなってしまったほど。AI について無知な私はたいへん肩身の狭い思いをさせられているのだが、それにもかかわらず、この AI の存在こそが、獄中の学としての言語学の優位を揺るがしかねない、ということを認めるにやぶさかではないのである。

ここで私がこんなことをいうと、諸君がこう反論するのが目に見えるようだ。

「AI こそ、獄中に持ち込めないものの最たるものではないか。いかに AI が言語学に重要な洞察をもたらすとはいえ、言語学こそが獄中の学の華であるという私たちの信念は揺るがない!」

私はこのような説に対して猛然と反論するであろう。

「諸君は、今後さらに AI が進化しないとでも考えているのか? そして、近い将来、DX 化した強制収容所で、AI 看守をうまくおだてれば、実験やコーパスのデータ処理をしてもらえるかも、という可能性も考えないのか?」と。

私は頭の堅い人間ではないのだ。

散文

地獄の言語学入門(6)

「さて、この私は、数学者の自慢とする理性とやらにも一言言わねばならない。数学者はこの理性が普遍的であることをエラく鼻にかけているようだが、その普遍性こそが、まさに獄中の学としての欠陥となるのだ。

というのも、理性が万人の共有するものであるのならば、ただ一人の天才がその理性の探究と行使に打ち込めば良いだけの話であり、なにも他の有象無象がこの理性にかかずらう必要などないのである。そのような無駄な営みにわざわざ首を突っ込む愚か者はいるだろうか? ゆえに、万人が投獄されうる万人投獄説に立脚する獄中の学として、数学はまことに楽しみの薄いものとなるのである。

ところが、言語学はこの普遍的な理性を相手にするものではない。皆さんは、この世界にいったいどれだけ言語があるとお考えであろうか。七千ほどであろうか? いや、違う。かの韓国の大作家キム・ヨンファン先生がいみじくも言い当てたように、この世界には人間の数だけ言語があるのだ(なお、先生は韓国ドラマの登場人物である!)。

つまり、言語とは社会的な存在ではあるにしても、個人にも深く根ざす存在なのであり、その個人の生育歴、経験、思考、職業、社会生活によって千差万別に変わりうるのである。それだから、理性のように人任せにしておけばいいものではない。それはなによりもまず自分の言語なのであるから、じっくりと観察すれば、自分にしか気がつきえないこと、自分にしか言えないことが必ず見つかるものなのである。それは数学の新定理を発見することよりもはるかに容易なのだ。

すなわち、言語学とは、普遍性よりも個別性がものをいう学なのであり、これゆえに、言語学は、万人が刑務所で喜びとともに研究にいそしむ学として、数学よりも徹頭徹尾ふさわしいのである!」

数学者をここまでやっつけたからには、哲学者も神学者も、私はたった一言で薙ぎ払うことができた。

「哲学者よ、哲学が獄中での継続的な研究に不向きであることは、その祖たる人物が投獄されるや否や自ら毒杯をあおったことによりすでに証明済みである! そして神学者よ! もしも神がいればこんな刑務所などあろうはずもないのだから、アクィナスだか秋茄子だか知らないが、そんなものは捨てて、ロマンス言語学に打ち込むが良い!」

かくして私は、これらの学者たちを、それぞれがもともと安住していた独断の眠りへと追い払ったのであった。

散文

地獄の言語学入門(5)

私が、刑務所で研究を続けることができるのはひとり言語学者のみだと、大胆にも宣言したとき、三人の学者が憤然として立ち上がり、抗議を始めた。

数学者と哲学者と神学者であった。

これらの尊敬すべき三学者たちは、自らの研究対象を極めるのに必要なのは、ただ人間に備わった理性のみであり、この理性こそ人間が行住坐臥、同伴しているものに他ならぬと断言し、こう言ってのけた。

「かるがゆえに、これらの学こそ、刑務所の中であろうとどこであろうと遂行できる普遍的な学なのである。高貴なる学の三姉妹と呼ばれるのもまったくもって当然なのだ」

そして、三人は口を揃えて「なんじゃ、言語学とかいう下賎の学は、言語とかいうただの道具の学、大工の修行にすぎぬではないか!」と嘲笑し、罵倒のかぎりを尽くしたのであった。

これに対し、冷静にも私は即座に以下の反論を行った。

「数学者よ、なるほど数学とは汝の言いし如く、全人類が分かち持つ理性を基盤としてなされる学問である。しかしながら、その理性において数の神秘を解き明かすには、複雑な数式を操る技術的卓越性が不可欠である。だが、この技術的卓越性こそが、数学をこそ、かえって刑務所内における遂行不可能の学たらしめているのである。

なんとなれば、数式を巧みに操り、黒板いっぱいに書き散らすには、天才的な知能が必要だからだ。しかるに、言語の分析とは、まず現象学的な観察であり、いかなる知識も先入見もなく始められる学的実践である。もちろん、観察のコツや視点を学ぶことは重要であるにしても、かりにそれがなかったとしても、観察する習慣とその蓄積によって、誰でも十分に興味深い研究を成しうるのだ。それはちょうど、下手くそな日曜大工でも、頑張ればなんとか使い物になる棚を作ることができるようなものだ。

換言すれば、数学は一部の天才の業であるが、言語学は万人に開かれた知の技術なのだ。だからこそ、私は訴える。刑務所が万人に開かれた時代だからこそ、万人が言語学を学ばねばならぬ、と」

そして、私は悠々と自分の頭を指さした。「いまだ得心しない様子の諸氏に、決定的な証拠をお見せしよう。日々言語学研究に打ち込むこの頭脳は、いまだかつてサインとコサインの違いを受け入れたためしがないのだ!」

青ざめた数学者たちを前に、私が展開したさらなる反論は、よりいっそう奇妙で驚くべきものであった。

散文

地獄の言語学入門(4)

刑務所の中の天文学者が星を見ようとして監獄の重苦しい天井に妨げられるとき、言語学者は自分の言語をじかに観察している。言語学者が探究すべき宇宙は頭の中にあるのだ。

動物学者が独房の中でジャングルの動物たちを夢見ているとき、言語学者はその隣の独房で自分の舌を動かして音声学的観察をじかに行っている。

独房の中、入破音の調音練習を延々と繰り返す言語学者を見て、看守たちは大慌てで、所長に「第 1857 号に精神異常の兆候あり」という報告を上げることだろう。

だが、言語学者ができることはこれだけではない。刑務所は他者の言語の格好の観察場所でもある。

文学研究者たちが、刑務所の図書サービスで目当ての資料を探すのを諦めたとき、言語学者は看守と囚人のやり取りに密かに耳を傾け、批判的談話分析と社会言語学に関する第一級の資料を発見したと小躍りすることだろう。

国際情勢から遮断された獄中の政治学者たちがフラストレーションを募らせているとき、言語学者は同じブロックの囚人たちの話す方言、スラング、専門用語に心躍らせている。言語学者がいるところ、そこはすでにフィールドワークの現場なのだ。

とりわけ終身刑の言語学者は、刑務所内の言語変化のメカニズムの解明に腰をすえて取り組むことだろう。その粘り強い探究心は、刑務所内で「無罪」が「有罪」へと変わる通時的意味変化を明らかにしてみせるのだ。

しかも、言語学者お得意の古代文字の解読の機会すらある。言語学者は牢獄の片隅に刻まれた乱雑な線刻文字を苦労して読み解き、それが「助けてくれ」という絶叫であることを突き止める。

そして、言語学の優位を示すこれらのリストに、もっとも優雅なものをひとつつけ加えよう。それは、看守たちが「きりきり歩けっ」と囚人たちを銃殺場に連行しようとしているときだ。他の分野の研究者が迫り来る死の恐怖に、うなだれたり、反抗したり、泣いたり喚いたりするなか、ひとり言語学者だけは平然と、逍遥するが如く歩いていくことができる。

なぜなら、「きりきり歩く」と「きりきり痛む」と「きりきりまい」の「きりきり」が、同じなのか違うのか、その分析に夢中だからだ。

銃口を前にしても目隠しなどいらないくらいだ。

散文

地獄の言語学入門(3)

研究には、なにが必要だろうか。理系ならば、データが必要だ。そしてデータを集めるための観測機器、実験道具、データ処理のためのコンピュータもなくてはならない。これらは刑務所内では決して手に入らないものだ。

では、文系ではどうだろうか。心理学にしても、社会学にしても、経済学にしても、理系と同じだ。データがなくてはなにもならない。そして、その他の法律・政治・哲学・文学は、文献がなくては手も足も出ない。

あらゆる研究には対象があり、その対象を捉えるための環境が必要だ。だがどんな研究であれ、刑務所内に必要なものを持ち込むことはできない。たったひとつ、言語学をのぞいては。

なぜなら、言語学の研究対象は、言語そのものであり、言語学者自身がその言語の使用者であるからだ。

言語学者はどんなに厳重な牢獄でも、言語を難なく持ち込むことができる。刑務所のどんなに高い壁も、恐ろしい番犬の群れも、激しく動き回るサーチライトも、見回り兵たちの銃撃も、言語を怯ませることはできない。

言語は、囚人たる言語学者の頭の中にすっぽり収まって、頭蓋骨に護送されながら、堂々と正面から検問を突破する。

散文

地獄の言語学入門(2)

そんなふうに思うようになったきっかけは、現在の日本、そして社会を取り巻く状況の変化にある。ロシアでも、アメリカでも、中国でも、今や自由の価値は下落してしまった。日本も例外ではない。円安とともに、自由安も進行しつつある。

国旗の扱いからしてそうだ。日本では、国旗の持ち方ひとつで刑務所に入れられるようになるという。そんなことで投獄されるのだとしたら、やがてもっとつまらないことでもそうなっていくのは間違いない。

しかも、少子高齢化の先進国、日本では、社会のいたるところで労働力が不足している。これを補うには、外国人の労働力が不可欠だ。なのに日本人ときたら、政治家とジャーナリストが旗ふって、外国人を憎み、放逐することばかりに精を出している。このぶんでは、職業選択の自由など悠長なことはいってられない。必要な労働を国民が担うしかなくなるのも時間の問題、つまり、強制的な労働だけが解決策だ。

ここで私たち慎み深い日本人は先人の知恵に学ばずにはいられない。ありがたいことに投獄と労働力を一挙に賄う手段を先輩たちが考えてくれていた。強制労働キャンプだ。

この便利な施設が、日本全国津々浦々で誘致され、競争入札され、建設されていくことだろう。そして、できればできるほど、投獄する理由もますます増えていく。

私はこの状況にもういてもたってもいられなくなった。日本人のために勇を奮って声を上げることにした。

全国民よ、言語学を学べ、と。

なぜなら、言語学こそが、刑務所の中でも支障なく研究を続けることのできる唯一の学問だからだ。

散文

地獄の言語学入門(1)

この世界に学び、身につけるべきことは数あれど、そのうちでも私が学んだといえるのは言語学だけだ。もっとも、専門家というほどでもないが、それでも学んだことには変わりはない。

言語学というと、一般にどのようなイメージを持たれているのだろうか。私にはよくわからない。そもそも興味をもつ人は少ないし、学べる場所もかぎられている。だから、なにが面白いのかさっぱりだろう。こんなありさまだから、役に立つとも、有益だとも思われてはいない。

それに、近ごろでは AI にすっかりお株を奪われてしまった。言語学が言語の奥義を極めることにありとすれば、それはもうペラペラと倦むことなく喋り続ける AI によって実現してしまったのだ。いまさら言語学になんの用があろうか。しかも、こいつときたら、何ヵ国語でも話すことができる。言語学どころか、語学すら不要になってしまったのだ。

確かに、このありさまでは、言語学などまず学ぼうとは思わないだろう。世間的にいえば、それはもう時代遅れで無意味な学問なのだ。いや、それでいい。学問などそのようなものだ。そもそも全員が全員、価値を理解する必要などない。一部の人だけで十分だ。私はそんな心持ちでいたのだった。

だが最近、私は考えを改めた。言語学をこのような低い地位に放置しておくことは、実はこれからの社会にとってたいへん有害なのだ。(つづく)

散文

保証人のポロシャツ

何年か前、カレン人の友人から、在留期間更新許可申請書の身元保証人を頼まれた。何度もしていることなので、拒む理由はない。待ち合わせの場所に行き、近くの喫茶店で署名を済ませると、紙バッグに入った服を渡された。

ユニクロに勤めているその人は、良さそうな服をみつくろって、お礼としてくれたのだった。ユニクロにはほかにもビルマ難民の知人が働いている。

紙袋の中には、真っ白なポロシャツが入っていた。もらったはいいものの、私はこのポロシャツを何年も着なかった。なぜなら、私は服を必ず汚すから。とくに食事中は危険だ。食べ物たちときたら反抗的なのか、いつも私の服やズボンを汚そうと狙っている。

しかし最近、私はこの白いポロシャツを着はじめた。食事のときは、汚れてもいいシャツに着替えればいいからだ。それに気がついて以来、何度も着るようになった。自信がついて、都内にまでポロシャツのまま行ってみたりした。そして、いつの間にか、目立つところに黒い汚れがついていた。

先日、その友人から連絡があった。更新が近づき、また身元保証人になってほしいというのだ。私はそのポロシャツを着た。汚れがうっすらと残っていたが、そのまま会いにいった。その人が待ち合わせ場所に来たとき、私は自分の服を指して、着てきたことを示したが、ピンときていないようだった。

新たな申請書に署名をした。今度も紙袋をもらったが、白い服は入っていなかったので安心した。

散文

和をもって

このブログのどこかで書いたと思うが、ある人が論語の「四十にして迷わず」について、こう言った。

「こんなことをわざわざ言うからには、孔子は四十になっても迷ったのだ。だから、孔子に及びもつかない私たちが四十を過ぎて迷うのも無理もない。むしろ、大いに迷ったっていいのだ」

この解釈が正しいかどうかわからないが、実際のところ標語は、その逆の事態がはびこっているから意味を持つ。「闇バイトに注意」という警告も、闇バイトが蔓延していなければ意味がない。

聖徳太子は「十七条憲法」の第一条で「和を以て貴しとなす」と定めた。これを根拠に、日本人には和の精神があったと主張する人もいるが、事情はむしろ逆だ。当時の日本人に和の精神などなかったから、聖徳太子はこりゃ和がどうしても必要だ、と憲法のトップに据えたのだ。

その後、結果として、日本人の精神に和が根づいたということもあったかもしれないが、それはあくまでも後世の発展であって、オリジナルの日本精神はアンチ和寄りなのだ。

いや、そんなことあるわけない、当時から日本人が和に生きていたから、太子がそうまとめたのだ、と反論する人もいるかもしれない。

しかし、ほかならぬ聖徳太子の逸話が、これが間違いであることを示している。

もしも、人々が和合し、発言するのにも互いに譲り合うくらいだったなら、聖徳太子は十人の話を同時に聞き分ける特殊能力を鍛える必要などなかっただろう。

苦労してんだ、太子だって。

散文

渋谷カート祭り

昨日は午後からずっと渋谷にいた。夜の Spotify O-nest でのライブのことは書いたが、その前に会場から歩いてすぐにあるユーロスペースで 15 時から開催されたイベント「ラブレターズの非常階段腰掛け男」にも行っていた。ラジオ番組「ラブレターズの階段腰掛け男」が開催したイベントだ。

イベントが終わったのが、16 時半で、O-nest のライブの開場が 18 時すぎだから、時間がある。私は渋谷の街を少し歩いた。私にとっての渋谷は、洋書とレコードの街だったが、今は来る用事もなくなった。ライブ会場があるので来ないこともないが、いつも夜なので、昼間の渋谷は物珍しかった。

ゴーカートが列をなして道路を走っていった。愉快な着ぐるみを着た外国人観光客だ。日本の映画のサムライやニンジャを見たら、日本でサムライやニンジャをやってみたくなるのは当たり前だ。だから、マリオカートを見て、渋谷でカートに乗っても当然という世界基準の理屈だ。

もっとも、たいていの日本人はそうは思わない。なぜなら、江戸時代には誰もマリオ・カートなどには乗っていなかったから。

とはいえ、外国人観光客が今のように渋谷を走り回る時代も、いずれ終わるのだろう。この厄介なカートもいつか姿を消すのだ。

そのとき、私たちはこのカートすら懐かしむ可能性だってある。

外国人の扮装をした子どもをカートの神輿に乗せ、威勢のよい掛け声とともに町じゅう練り歩く「渋谷カート祭り」だって、いつか開催されることだろう。