旅・観察

ベルベル語の調査とその後(4)

凍えるほど寒い古い建造物の一角でベルベル語の調査をしながら、私がひしひしと感じていたのは、尿意だった。体力を削るという点でも、人間の尊厳を奪うという点でも切ない尿意だった。

ラマダーン中だから、私たちのいるカフェは開いていなかった。だから、トイレは使えなかった。建物の外に出ても開いている店はない。つまり、私は調査の間中、トイレに行くことはできなかった。

建物の底冷えが尿意とタッグを組んだこの状況は、私の調査に影響を与えた。ホテルからこの調査場所まで徒歩で 15 分、つまり、往復で 30 分だ。移動に要する時間と私の膀胱のサステナビリティからすると、調査に許された時間は 3 時間というところだ。

これを短いと思う人は、膀胱がまだ柔軟なのだ。とこしえにそうあれかしと願うばかりだ。

なんとか調査を終えた私は、毎日、ホテルまでの帰路を急ぐ。だが、ここに陥穽がある。あまり急いではいけないのだ。なぜなら、焦りはかえって尿意を目覚めさせてしまうから。

「今日はいい天気だな。途中で本屋に寄ろうかな……」などと、尿意をときには欺き、ときにはあやしながらチュニスの大通りを歩く。ホテルに着く。ドアを押し開け、鍵を受け取り、階段をゆっくり登る。部屋の前に立ち、鍵を鍵穴に差し込む。しゃにむになってガチャガチャしだす……。

私が言語学の概説書を書くとしたら、この問題にまるまる 1 章さくことだろう。

(写真:猫たち)

旅・観察

ベルベル語の調査とその後(3)

閉め出されたというのは、2025 年 3 月 1 日、チュニジアでラマダーンが始まったからだ。日中は断食するから、ほとんどの店は閉めてしまう。それで、カフェにいることもできなくなった。

そこで、S さんが連れていってくれたのは、やはりメディーナの中にある「シャーシーヤ作りの市場」という屋根つきの商店街だった。古い建物で起源は 17 世紀に遡るという。シャーシーヤというのは縁なしの赤い帽子で、その店が集まっている。

そこに、通路を利用したカフェがあった。ラマダーン中なので店はやっていないが、一部のテーブルや椅子は出しっぱなしだ。ここを利用しようというのだ。

ラマダーン中の市場は薄暗く、がらんとして、仕事をしている人もいない。ときどき、大声を響かせながら通る人もいるが、それ以外は、猫が数匹すみっこでじっとしているだけだ。

これは絶好の場所と、さっそく私は S さんを前に、調査を始めたのだが、次第にある問題が私を悩ませ始めた。

寒いのだ。

チュニスの 3 月は、日差しが強いので暖かいように感じるが、気温は日本と変わらない。古い建物の冷たい石の床の上ではもっと冷える。私は震え出した。寒さに体を縮こまらせながら、なんとかその日の調査を済ませる。ホテルに戻ったときには風邪気味だった。

この寒さはつらいものだったが、やがて私を切ない状況にも追い込みはじめた。

(写真:シャーシーヤ作りの市場)

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ベルベル語の調査とその後(2)

つらいことの第一は、場所だ。言語調査は、音声を聞き取ったり、録音したりしなくてはならないから、静かで、落ち着いた場所でやるのがいちばんだ。会議室とか、研究室とか、贅沢を言わせてもらえば、海の見えるホテルの一室とか……。

私の場合は、初顔合わせをしたあのカフェが調査場所となった。これは決して悪くない。以前、外の石段に座って調査したのに比べれば、ずっとマシだ。カフェだから、コーヒーも水も飲める。それに、調査用紙が突風に吹き飛ばされないようにクリップでしっかり挟んでおく必要もない。

とはいえ、カフェはカフェだ。壁掛けのテレビはいつもつけっぱなしだ。私はカフェを隅から隅まで調べ、音が届かない死角の席を見つけ、そこを使うことにした。もっとも、先客がいて、テレビの真下の席にせざるをえない日もあった。カフェは午後になると、放課後の高校生がグループでやってきた。離れた席から楽しげな笑い声が聞こえてきて、録音レベルと私の心を乱した。

だが、これが別のカフェだったら、スピーカーから爆音が流れ、いかつい男たちが大声で話している。ジョークに笑いこけながら、互いに手をバチーンと打ち鳴らしている。それに比べれば、このカフェは調査向きだ。日を追うに連れ、S さんとのやりとりもしっくりしてきた。

だが、調査 4 日目、私たちはこのカフェから閉め出された。

(写真:カフェの中)

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ベルベル語の調査とその後(1)

私の本格的なベルベル語の調査は、2025 年 2 月 25 日のお昼から始まった。調査といっても S さんに言葉について質問するだけだ。しかも、最初は録音だけしてノートすら取らなかった。後で音声起こしをしようと考えていたのだった。

しかし、みかねた S さんがアラビア文字で書いてくれるようになった。それで私もアラビア文字でノートを取ることに決めた。

どんなことを聞くかというと、「私」、「頭」、「ニワトリ」、「食べる」、「飲む」などの基本的な語彙や、動詞の活用、「昨日、雨が降った」とか「庭に二羽ニワトリがいる」とかの簡単な文だ。「明日、雨が降るだろう」とか「ニワトリはいなかった」とかも調べる。

調査は、2 月 25 日から、帰国日の 3 月 7 日まで続いた。ただし、途中で 2 日休んだので、実際には全部で 9 日だ。1 日は S さんの都合、もう 1 日は帰国前日の 3 月 6 日で、これは私の都合だった。調査は 1 日 3 〜 4 時間で、終わるとホテルに戻って、録音を聞き直しながらひたすら書き起こす作業になる。

この 9 日間は、ベルベル語を調べる楽しみと興奮に満ちていた。だが、そのいっぽう、つらく切ないこともあった。3 月 6 日に休まなきゃいけなかったのだって、ちょっとした事件があったせいだ。

(写真:チュニスのメディーナの風景)

旅・観察

ベルベル語に出会う(5)

私はいくつかの単語を尋ねてみた。すると S さんは、ひとつひとつ答えながら、「これは私の出身のターウジュート村ではこういう。でも、他の村では違う言い方をする」と説明してくれた。

「水はなんと言いますか」

「水は、アマーン。アルジェリアでもモロッコでも、どこのベルベル語でもこれは同じだ」

他の地域のベルベル語についても経験豊富なようだ。さらに、チュニジアのベルベル人の生活や考え方についても教えてもらった。

「たとえばあなたのようなよそ者がターウジュート村に行っても、誰も挨拶もしないよ。ましてや笑いかけたりなど絶対にしない。それが習慣なのだ」

「でも、ベルベル人同士なら笑ったりするでしょう」

「ベルベル人は笑わない。だからジョークも存在しない」

「ほんとかな」と思うが、チュニス暮らしの長い S さん自身は、笑わないわけではない。軽薄なところのない、落ち着いた男性だ。S さんこそまさに、ベルベル語の先生を頼むにふさわしい人のように思えた。

私たちは、調査の条件について簡単に取り決めをして、2 時間の「初顔合わせ」を終えた。明日から、念願のベルベル語の調査が始まるのだ。

(写真:カフェの風景)

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ベルベル語に出会う(4)

待ち合わせ場所は、チュニスのメディーナの中のカフェだった。携帯の地図情報を見ながら、曲がりくねった道を進む。いくどか行ったり来たりして、目的のカフェに着いた。メディーナによくある古い住居を改装したカフェで、柔らかい光が白い床に薄い影を投げかけていた。

奥のほうにクッションの敷かれた小部屋があった。B さんの姿が見えた。隣に男性が 2 人、体をくっつけて座っていた。年配の男性と若い男性だ。

私が 3 人を前にして腰掛けると、B さんは、年配の男性を S さんと紹介してくれた。彼は、大きな目で私をじっと見た。

それから、会話が始まった。若い男性は息子だった。学校で英語を勉強しているので、通訳の役に立とうかと、連れてきてくれたのだそうだ。S さんは、英語は話せない。だが、フランス語は話せるし、ドイツの留学経験もあるので、ドイツ語もできる。

「一緒にドイツに行ったチュニジア人の誰も ich の発音ができなかった。けど、私はすぐできた。なぜならこの音はアラビア語にはないけど、ベルベル語にはあるからね」

私がこの音を真似すると、「そう、それだ」と感心してくれる。もっとも、種明かしをすれば、私にできないわけがないのだ。なぜなら日本語の「ヒ」と同じ音なのだから。

(写真:カフェの風景、2025 年 2 月 24 日撮影)

旅・観察

ベルベル語に出会う(3)

その団体は、日本語教室のほかに、地域の外国人が講師となる語学教室も運営していた。フランス語教室もあって、こんなふうに書かれていたのだ。

「講師はチュニジア出身の A さん」

名前はアラブ風の名前だし、チュニジア人がフランス語を教えても不思議はない。

私はこの人に会わねばと決心した。というのも、私はそのころチュニジア訪問の計画を練っていたが、コロナによって環境が変わったため、人間関係を作り直す必要があったからだ。

そこで、ある日曜日、私は A さんの教室を訪問し、2 人のチュニジア人を紹介してもらった。そのひとりを通じて私はガベスを訪問することができた(これはすでに書いた)。そして、そのもうひとりである B さんは、私にタターウィーンの友人を紹介してくれたばかりでなく、ついにベルベル語の話者と引き合わせてくれたのだった。

それは 2025 年 2 月 24 日のことだった。私は B さんにベルベル語のことで紹介をお願いしていたが、もしダメだったときは再び南部に行って以前の知り合いにあたってみようと考えていた。そこで、その日朝早く、駅に行って 13 時発のガベス行きのチケットを買った。ホテルに戻って、引き払う準備もした。

すると、B さんから電話がかかってきた。ベルベル語話者との顔合わせのセッティングができたという。午後 4 時に待ち合わせだ。

私はホテルのフロントに延泊を告げるとともに、チケットを持って駅に急いだ。払い戻しできないと言われた。1,200 円ばかり無駄になった。私は気にしなかった。

(写真:チュニジアのサラダ、2025 年 2 月 24 日撮影)

旅・観察

ベルベル語に出会う(2)

私のベルベル語との出会いは、さかのぼれば、私とカレン人との関係にはじまる。カレン人は、ビルマの民族のひとつで、内戦のため国を出ざるをえない人も多い。

私がカレンの人々と出会ったのは、1990 年代の半ばの東京で、その後、タイの難民キャンプやビルマ国内のカレン人の地域に一緒に行くまでの関係になった。

カレン人には、日本人と同じように、さまざまな祭りがある。そのうちもっとも大事なもののひとつは「カレン新年祭(カレン・ニュー・イヤー)」というお祭りで、カレン人の暦にしたがって、毎年、年末か年始のどこかで開催される。

日本では 1990 年代末から毎年カレン新年祭が開催されている。カレン新年祭で大変なのは、会場探しだ。安くて広い会場にたくさん人を招きたい、歌とダンス、食事を楽しみたい、そしてあわよくばお酒も飲みたい、というのがこのお祭りだが、年末年始の東京にそんな都合のよい会場はない。安い会場があったとしても、「音楽はダメ」とか「飲食禁止」などなかなか難しい。このお祭りを運営するのは、在日カレン人の有志だが、いつも会場選びに困っていた。

2022 年の暮れに行われたカレン新年祭の会場も、そんな苦労の末に見つかった場所だ。公共施設なので、お酒は飲めないし、東京から遠いのは難点だが、会場の準備に協力してくれた団体は、カレン人の状況をよく理解していた。

というのも、その地域には第三国定住事業で日本にきたカレン人の難民たちも暮らしていて、その団体が日本語教育支援を行なっていたからだ。

私がこうしたことを知ったのは、お祭り当日にその会場に着いてからだが、そのとき、団体の責任者から活動案内を渡された。そこに、気になる情報があった。

(写真:今年のカレン新年祭、赤羽)

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ベルベル語に出会う(1)

私にとって、チュニジアのベルベル語を学ぶというのは、長年の夢であった。とはいえ、それは 2 つの点で難しかった。ひとつは私自身の能力の問題だ。チュニジアでベルベル語を学ぶためには、この言語と言語学の知識に加えて、アラビア語やフランス語で意思疎通ができるだけの語学力もなくてはならない。これは私には無理だ。

だが、能力のことは、あまり深刻に悩んでもしかたがない。完璧な人などいないし、できなくてもとにかくやってみれば、どうにかなるかもしれない。しかし、もうひとつの問題はそういうわけにはいかなかった。ベルベル語を教えてくれる人がいなかったのだ。これは心の持ちようでどうにかなるものではなかった。

私はチュニジアで誰かに会うたびに、ベルベル語を教えてくれる人はいないかと尋ねたが、思うようにはいかなかった。だが、2025 年 3 月、ついに私はその人に出会うことができた。

この出会いについて語るのが、この文章の目的だ。もっとも、そのために私は少し回り道をしなくてはならない。ビルマ(ミャンマー)のカレン人という民族について話すところから始める必要があるのだ。

(写真:ドゥウィーラート周辺の風景)

旅・観察

ベルベル語への旅(7)

ラマダーン中、人々は日中は静かにしていて、夜になると外出する。この期間は、どこでもお祭りでにぎやかだ。移動式の遊園地は夜まで開いていて家族連れや若者たちでいっぱいだし、その周りにはお菓子の屋台が並んでいる。私たちも真夜中までカフェで過ごした。3 人で屋外のテーブルに座っていると、急に辺りが騒がしくなった。風が吹いてきて、落ち葉やゴミが舞う。椅子が倒れる。砂嵐だ。外にいた客たちは皆飲み物を持ってカフェの中に駆け込んだ。

サハラ砂漠の入り口、タターウィーンならではの光景だ。この砂嵐のことを南部ではカッサーヒー(kaθθaːħiː)と呼ぶそうだ。標準的な辞書には載っていないから、方言的な語彙だろう。

ラマダーン中は皆、宵っぱりだ。そして、朝も早い。なぜなら、日の出前までに食事をしなくてはならないから。カフェから帰ってきた私たちは、日の出前の食事までのあいだ、同じ部屋で雑魚寝することになった。

そして、「3 日間の滞在中、一度もシャワーを浴びられず」というのは、日本のように毎日入浴する習慣がないからだ。空気が乾燥しているので汗をかくこともない。それに、ムスリムは礼拝のたびに顔と手足を水で清めるので、シャワーを頻繁に浴びる必要もない。ただ、ムスリムではない私だけが、砂埃と垢にまみれていった。

タターウィーンで 4 人の友人たちと過ごした 3 日間は、いつも自由というわけにはいかず、ある種のアドベンチャーになったが、そのぶん忘れ難い経験となった。3 月 26 日、夜行バスでチュニスに戻るときも、友人たちとの別れに寂しさを感じずにはいられなかった。もっとも、朝早くチュニスに到着し、運よく 9 時にホテルにチェックインできた私は、真っ先にシャワールームに飛び込んだ。

ガベスでは、ほんの少しとはいえベルベル語の話者と交流することができたが、タターウィーンではそのような機会はほとんどなかった。とはいえ、ベルベル人の住居や遺跡を見て回ることができたのは、今思い返しても貴重な体験であった。

この南部の旅から 1 年後の 2025 年 3 月、私はひとりのベルベル語話者と出会い、ようやく本格的な調査を開始した。そのことについては別のタイトルで書こうと思う。

(写真:砂嵐の様子)