ライブ

STAYC@KT Zepp Yokohama

STAYC は 2020 年に結成された韓国のガールズグループで、初の日本版のフルアルバム発売に合わせて、今日、ショウケース・ライブが開催された。

STAYC の曲は、ASAP や RUN2U など、他のアイドルポップとは違う雰囲気があって以前からよく聴いていたが、私はどんな人たちが歌っているかも知らなかった。

プロデュースをしているのは、韓国でも有名な作曲家グループで、TWICE の初期の名曲にも関わっているそうだ。そういわれれば、STAYC の日本デビュー曲 POPPY(2022)も似た雰囲気のある曲だ。

私がこのグループをちゃんと認識したのは、去年の夏のシングル I WANT IT がきっかけだ。ポップでどこか懐かしいメロディにハマり、その夏もっとも聴いた曲のひとつになった。昨夏は外国に3週間ほど滞在したので、暇なときなどは YouTube でこの曲の動画を何度も見た。そして、6 人のメンバーを初めて知っただけでなく、この曲のフリの流れまで覚えてしまったのだった。

ショウケースというのは、K-pop 関連でよく聞くが、ファン・ミーティングと本格的なライブの中間ぐらいの感じで、ライブの合間にトーク、ゲーム、プレゼント抽選会なども行われた。司会は K-pop でお馴染みの古家正亨さんだ。観客は、1,000人ぐらいはいたかもしれない。若い男女が中心だが、私より年上らしき人もいた。全体としては、YouTube などで見る K-pop のイベント感があって、これも初めての私には楽しかった。

ライブでは、私にとって夏の思い出の I WANT IT を日本語バージョンで見ることができたのがよかった。ただ、名曲といってもいい ASAP がなかったのは残念だったが、これは次回のライブのお楽しみだ。

ショウケースらしかったのは、開始時にメンバー全員が客席から登場して観客を沸かせたことだ。私は 2 階席だったのでただ見ているだけだったが、アンコールのときには、2 人のメンバーが 2 階にも姿を現した。若い女性たちは大興奮していたが、私は紳士の威厳を保って振り返って見るだけにとどめた。

そのときに威厳を保ちすぎたせいか、背中がつってしまった。

風刺・戯文

リュック過激派

日本では電車の中でリュックを背負っている人はいちだん低く見られる。リュック所持者には誰もが命令していいことになっている。周囲のことを考えないならずものだとの評価が決まっている。混んでいる電車の中でリュックを背負っていると、周囲の憎悪の眼差しで、リュックが燃え上がりそうだ。だから、私たちは、リュックがアツアツになる前に慌てて胸で抱える。

ショルダーバッグや手提げカバンだって、リュックと同じくらい邪魔になるのに、誰も文句はいわない。これらのカバンはちゃんとした社会人の象徴だからだろう。いっぽう、リュックはといえば、今や働く大人だって使うのに、あいかわらず、ランドセルの仲間扱いだ。だから電車の中では、ランドセルは、ベビーカーについで居場所がないのだ。

私の友人のリュック愛好家が、こうした電車でのいわれなきリュック差別に腹を立て、過激な行動に出た。ホームで電車が来るのを待ち構えて、ドアが開いたとき、ショルダーバッグを投げ入れて、彼は叫んだ。「乗るのは、人間じゃなくて、このバッグだろ!」 昔のトンチ話に影響を受けたのだろう。

もっとも、うっかり者の彼はそのバッグに携帯と財布も入れていた。それで遠く離れた駅の遺失物係にはるばる行かねばならなかった。

さて、その彼がアフリカやらインドやらを旅して帰ってきた。長い旅をしたせいで、心境が変わったのだろうか。あれほど執着していたリュックも捨てて、今は頭に荷物を乗せて電車に乗っている。

風刺・戯文

イヤーワーム・フェス

イヤーワーム(耳の虫)とは、特定のメロディの一部が勝手に頭の中でぐるぐる回って止まらなくなる状態のことだ。誰にでも経験のあることだが、私はこんな名称があることを知らなかった。

イヤーワームはたいてい放っておけば消えてしまうので気にするまでもない。とはいえ、心配な場合には対処法もある。その曲をあえて最後まで聴いたり、他のことに集中したり、別の歌を歌ったりするのがいいという。

ネットを見ていると、何日も虫が居着いたせいで眠れなくなってしまったという人もいたし、イヤーワーム・フェスが開催されたという人もいた。

その人の体験談によると、しつこいイヤーワームを消そうとして、別の歌を頭に流したところ、曲が消えるどころか、2曲同時に頭の中で鳴り響く事態となったという。しばらくこの状態に耐えていたが、やがて驚くべきことに、3曲目が流れ始めた。ステージが急遽増設されたのだ。最終的には、メインステージと5つのサブステージからなるフェスが開催されることになった。

フェスではステージ間を効率よく移動するのが肝要だ。また、トイレや物販の列に下手に並んでしまった結果、目当てのアーティストを見逃したり、いい場所を確保できなかったりすることもある。

この人は、フェスは初めてではなかったから、そうした経験をもとに、スケジュール表片手に綿密な計画を立て始めた。するとそれがその人の注意をうまく逸らしたのか、音楽が消え去り、フェスもたちまち中止のやむなきに至ったとか。

風刺・戯文

中国の漢字 Part 2

最近の中国は日本に反抗的だ。どうしてだろうか。その秘密は漢字にあった。

まず日本語の「反」を見てほしい。何をおかしなことを言い出すのだ、と反抗的にならずに見てほしい。日本語の「反」の上の横棒は実に平らであることがわかるだろう。これは日本人が反抗するのにも、心が平らかであることと関係している。日本人は礼儀正しく、秩序を重んじるので、反抗するにしても、決して目上の人には反抗などしない。反抗するのは、自分より弱い相手だけだ。

ところが中国の「反」はどうだろうか。上の横棒が右上に向かって反っているではないか。まるでリーゼントにしてイキっているかのようだ。私たち日本人はこのヤンキーみたいな「反」に衝撃を受けずにはいられない。なぜなら、これは、穏やかで平和を愛する私たち日本人に対する明白な挑発行為だからだ。

私たち日本人は、このような厄介な漢字をちらつかせて、存立危機事態に持ち込もうとする隣人に負けてはならない。だが、それには、日本語の「反」は生ぬるすぎる、平穏すぎるのだ。

今こそ、中国に勝つために「反」の漢字を改めようではないか。上の横棒を、中国よりももっともっと上方に反り返らせよう!

散文

この世はなべて偽装難民

あらゆる難民は、基本的にすべて偽装難民だ。なぜなら、この世界のどこにも、この人は難民です、と証明してくれる場所はないからだ。そして、このような「身分保証」のないことこそが、難民の本質だ。だから、難民はいつでもどこでも偽装難民だと疑われる。そのように疑われる人こそ本当の難民なのだ。

正式のパスポートを持っているとはどういうことだろうか。そのパスポートに記された国家の国民であることを、国家が保証してくれるということだ。

だが、難民にはこうした身分保証はない。どこの国際機関もそうした身分保証を発行できない。それぞれの国がそれぞれの事情に従ってこれこれは難民であると決めるだけだ。そして、そこから抜け落ちる人が偽装難民となる。つまり、国は難民を決めると同時に、偽装難民をも決めているのだ。

この事情を知らない人だけが、偽装難民を非難することができる。だが、実際には政府を批判しているに過ぎないのだ(日本では与党の政治家がこれをするのだから恐れ入る)。そして、このような無知な人はこんなデタラメなことすら考え出す。すなわち、その難民とやらの出身国政府が責任を持って、自分の国の難民に「難民証明書」を出して、難民受け入れ国に通知すべきではないか、と。もっともな理屈だ。だが、もしその国にそんなまともなことができるのであるならば、難民など出やしないだろう。

私たちの国、日本では、こうした主張が本気で罷り通りかねない様相を呈している。今や、日本には難民は存在しない。すべての外国人が偽装難民扱いだ。もっとも、日本では外国人が必要なので、そう簡単に追い出すわけにはいかない。

そこで、私から提案したいのだが、難民ビザなどやめて、偽装難民ビザを出したらいいのではないか。日本人にかかればみんな偽装難民なのだから、通常の難民手続きよりもずっと簡単だ。それに、偽装難民ビザなのだから、誰も文句は言えない。

この偽装難民ビザが実現したら、たぶん、「本物」の難民が日本で暮らすために偽装難民になりすます偽装偽装難民が多発することだろう。

風刺・戯文

漂白の達人

衆院選のさなか、世界的な言語学者のスティーブン・ガルシア博士が来日し、都内を巡って精力的な言語調査を実施しました。

ガルシア博士は、意味の漂白(semantic bleaching)の研究で知られる世界的な学者です。意味の漂白とは「語がもともともっていた具体的な意味が弱まる、つまり漂白され、より抽象的・文法的な意味をもつようになること」とされます。

具体的な例としては日本語の「いる」があります。「いる」は「居る、存在する」という意味ですが、これが「雨が降っている」「電車が走っている」のように動詞の後にくると、ある動作が「進行している」という抽象的な意味を表すようになります。このとき「いる」からは「存在する」という具体的な意味は漂白されてなくなってしまっているのです。

「激しい選挙戦が行われているこの今の日本こそ、私が研究している意味の漂白の例を集めるのに最適なフィールドなのです」と、流暢な日本語を操るガルシア博士の前に、選挙カーが止まりました。早速、候補者たちの演説が始まります。

「日本を強く!」
「本気で改革!」
「全力で取り組みます」
「ぶれない姿勢!」
「未来を守れ!」

博士の顔が歓喜に輝きます。「どうです。これらの候補者たちの言葉は! どの言葉をとりあげても、意味がすっかり消え失せてます! まったく日本の政治家は意味の漂白の達人ですよ!」

調査を終えた博士は、「有権者の脳も漂白されているかも」という思いつきを検証するため、雑踏の中に吸い込まれていきました。

ライブ

スタンディング

スタンディングのライブでは、ライブのあいだじゅう立っていなくてはならない。これはけっこう大変だ。なので、整理番号にもよるが、早めに入場できたときは、私は前の方へと攻めていかずに、脇の壁に寄りかかったり、後方でバーか何かにもたれかかれる場所を選ぶこともある。

あるライブで、会場に入ると、ステージからちょっと離れたところに円柱があった。すでに先客がそれに寄りかかっている。これは格好の場所だ、と私はその隣に陣取ってライブが始まるのを待った。

次第に人が増えてきた。私の前にも人がどんどん入り込んでいるが、幸いにもメインのマイクまで視線を遮るものはなかった。これはいい、と思ってさらに待っていると、アナウンスが入った。

「本日はソールドアウト公演につき、多数のお客様が来場されます。ご入場の方は一歩前にお進みください」

周囲の人々が前に動きはじめた。私は円柱に体を押し付けて、寄りかかりポジションを死守した。だが、私の前に次から次へと背の高い人が入り込んできて、すっかり前が見えなくなってしまった。

私は「持てる人はその持てるもののせいで、変化に柔軟に対応できないことがある」と悔やんだが、もう遅い。

ライブが始まった。円柱に背中を押しつけて爪先立ちになれば、少しはステージが見えることがわかった。

風刺・戯文

素顔

「みなさんにとっては VTuber なんてもう当たり前でしょうが」と、その先生は学生たちに語りかけた。

「僕はこのあいだ孫に教わりまして。アニメかと思っていたら、あにはからんや、裏に人間がいて動かしているというんですね。コンピューターを使うとそういうことができるということなんですが、で、僕は聞いたんですね。後ろで動かしている人はどんな人なのか、顔とかわからないのか、と孫に聞いたんです。すると『これはこういうものだよ』と答えるのです。いや、でも、誰が動かしているか、気にならないの、としつこく聞いたんです。そしたら、孫はいかにも面倒くさそうに『ホントは誰とか考えないよ』というので、いや、そういうものなのかと感心してしまいました。背後に誰がいるのかとか、素顔はどうだ、だなんて詮索するのはもう意味がないのかもしれませんね。僕も見習いたいとは思いますが……」

こう前置きを終えると、先生は少し悲しそうに作家論の講義にとりかかった。

風刺・戯文

地球温暖化のためにできること

【あほうの党党首からのメッセージ】
高齢化が我が国にもたらすのは、社会保障費の増大です。つまり、年金・医療・介護という三重の社会保障費が政府の財政を圧迫するのです。

このままでは、高齢者の暮らしが危うくなるだけでなく、現役世代の負担もますます重くなるばかりです。

しかも、我が国の将来を左右するこの未曾有の事態に対して、与党はいうもおろか野党までもが、ただ手を拱いているだけなのです。もう、こんな政治家たちに我が国は任せられません。

私たちあほうの党は、この問題に真剣に取り組み、ついに解決する方法を見つけました。それは、地球温暖化です。みなさん、地球温暖化というと、なにやら悪いことのように思ってはいませんか? 氷山が溶けたり、砂漠が広がったり……こんなのはぜんぜん他の国のことです。我が国には関係ありません。それどころか、我が国にとっては実は地球温暖化はいいことずくめなのです。

だって、地球温暖化により、我が国が常夏の国となるのですから。こうなると、もう冬などないのです。夜、外で寝たって平気なのです。暖かいのですから! だから、高齢者にはあれやこれやのホームはもう不要です。道端でのんびりお過ごしいただければいいのです。しかも、いい陽気ですから、心も軽くなります。気分も上々です。病気なんかすぐに治ってしまうでしょう。医療費削減です。年金だっていりません。空き缶を置いておけば、道ゆく人がお金を投げ入れてくれるのですから。そう、必要なのは社会保障費なんかじゃなくて、敬老の精神だったのです! 

どうですか。地球温暖化で医療も介護も年金も不要となりました。地球温暖化のためにできること、きっとたくさんあるはずです。私たちあほうの党と一緒にがんばってみませんか。

【お知らせ】
大晦日の夜、「地球温暖化チャレンジ」を実施します。プログラムは、「本当は楽しい地球温暖化」「燃えないごみを燃してみよう!」「裸で野宿で温暖化を先取り!」など盛りだくさん。奮ってご参加ください! *防寒具は各自ご用意ください。

ライブ

Mei Semones@duo MUSIC EXCHANGE

日本にはたくさんのネパール人がいるが、いろいろな民族集団の人がいるので、ネパール語以外の言語を母語として話す人も多い。私はネパール人に会うと必ずそのことを尋ねるが、「母語はなんですか」と聞いてもわかってくれないこともある。そんなとき「家族の言葉はありますか」というと、たいていピンと来てくれる。つまり、母語、タルー語であれタマン語であれなんであれ、ネパール語以外の言語は公ではなく家につながるものとして理解されている。

アメリカのミュージシャンのメイ・シモネスの初の日本ツアーの最終公演が渋谷で開催されたのだが、見に行った私はときどきネパールのことを考えたりしていた。メイ・シモネスの曲は、ジャズとボサノバをベースに少しねじれたポップなメロディが乗るというもので、変わっているが聞きやすい。バンド編成は、彼女の弾くギターに、ベース、ドラム、バイオリン、ビオラというもの。面白いのは歌詞に英語と日本語の両方が使われていることだ。

メイ・シモネスは母親が日本人ということで、子どもの頃からたびたび日本の祖母の家に滞在したそうだ。だから、日本語を使うのは不思議でもなんでもないが、その日本語の歌詞が、日本の歌の歌詞とは少し違うように感じた。言葉が「子どもっぽい」のだ。

「今日のご飯なにかな 天ぷらとお豆腐とごまあえほうれん草 おばあちゃんの手作り」(Kabutomushi)

それはひとつにはこの Kabutomushi のように、日本語が子ども時代の思い出に結びついているということもあるかもしれない。だが、たとえば次のような歌詞を聞くとそれだけではないような気がしてくる。

「やりたいことやればいい いつもいつもいつも ピカピカ光る街 いつもいつもいつも」(Itsumo)

普通、日本人は子どものときは子どものように話すが、学校に行き、学生時代を終え、大人になると、大人のように話すようになる。私も子どもの頃の日本語は失くしてしまったが、メイ・シモネスの歌詞にはその失われた子どもの日本語が生きているように思えた。

これは英語で教育を受けた彼女にとって、日本語が「家族の言葉」であったことに関係があるのかもしれない。もちろん、私は彼女の日本語が子どもっぽいといっているわけではない。MC で彼女が話す日本語も普通のものだ。ただ、英語に比べて、日本語を「学校の言語」として経験していないぶん彼女は、日本人とは違った意味づけを日本語に与えていて、それを作品の本質的な部分として使っているように思った。そして、それがメイ・シモネスの曲を大いに魅力的にしている。

私はライブを聞きながらこんなことを考えていたが、それにしても、すばらしいギターを弾くメイ・シモネスはとてもかっこよかった。