散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(終)

ワイルドの悲しみの哲学では bitter / bitterness がのけ者にされていた。そのせいで、多少ばかり甘くなっちゃあいないかい、それが本当の realise かい、というのが私の論駁の趣旨だ。その点では、ワイルドの言葉をもじって、こう言ってやりたいぐらいだ。

Whatever is not realised is bitter.

が、だからと言って私は『獄中記』に苦味がないといっているわけではない。ただ、思想にまで昇華されていないだけで、実際のところ、bitter / bitterness でいっぱいなのだ。その意味では、realise されているかもしれない。もっとも、これはワイルドが意図したことではなかっただろう。

さて、bitter / bitterness の物語は、実は『獄中記』の後も続く。出獄後、ワイルドは刑務所の改善のために二通の手紙を書き、新聞で公開されている。手紙は、刑務所内の子どもと精神を病んだ人の処遇の改善などを強く訴えるもので、二通目はとくに「DON’T READ THIS IF YOU WANT TO BE HAPPY TODAY」という見出しで掲載されたほど、刑務所内の「胸糞」な事情が書かれている。これらの手紙も、刑務所内の bitterness にワイルドが与えたひとつの形といえるかもしれない。

現実から生まれた苦さは、現実から離れたとたん別物になる。苦さに苦いまま形を与えるのが、苦い文学とするならば、『獄中記』は、bitter / bitterness を甘く realise できなかったせいで、逆説的に苦い文学となった。私としては、この作品を、苦い文学認定図書第一号としたい。

つきましては、認定シールをお送りするので、レディング監獄の門にでも貼ってください。

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ワイルドの『獄中記』を駁す(6)

ワイルドは sorrow については、ひとつの思想にまで発展させ、そうすることによって形を与えた。しかし、bitterness についてはただこれを取りのぞこうとしているだけで、realise しているようには見えない。もちろん、そうした形での表現もあっていいと思うが、問題なのはそれが right かということだ。

ここで sorrow と bitter / bitterness の違いを考えてみる。sorrow がまず感情の名であるのに対して、bitter / bitterness には、感情を表すときにも「苦い」という味覚が残っている。味覚は現実に対する反応であるから、現実を無視して勝手に甘くすることはできない。つまり、苦さは苦いまま、ワイルドの言い方を借りるなら、苦さの裏には苦さしかない。

いっぽう、ワイルドは悲しみの裏には悲しみしかない、というがどうだろうか。ワイルドが大文字で始まる Sorrow をキリストに結びつけたとき、悲しみの裏にある種の甘さが隠れてはいないだろうか。もし realise するということが、悲しみを美化し、甘くすることでもあるのなら、それは本当に right と呼べるのだろうか。

ここにおそらく bitter / bitterness 追放の弊害がある。というのも、苦さのない悲しみは、容易に現実から乖離し、見栄えよく加工できてしまうから。要するに、苦さを手放してしまったことで、悲しみを shallow なものにしてしまったのだ。だからこそ、ワイルドのキリストは悲しくそして美しい。苦虫を噛み潰したようなキリストはそこからは出てこない。だが、いくど起こしても眠ってしまう弟子たちに呆れたときのイエスが苦々しい顔をしていなかったと、誰がいえよう。

すでに述べたように、私は悲しみの哲学そのものに反対しているわけではない。ただその realise に苦さという現実を忘れちゃあいませんか、と苦言を呈したいだけなのだ。

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ワイルドの『獄中記』を駁す(5)

こうしてみると、ワイルドの bitter / bitterness への態度は、sorrow とは大違いだとわかる。sorrow のほうは、丁重に扱い、キリストのもとまでご案内しているのに対して、bitter はといえば、to pluck it out of mine だ。それどころか、ダグラスに味わわせようとすらしていると私には読める。

sorrow と bitter / bitterness の待遇の違いは、実のところ、表記にも表れている。いくつかの重要概念を、まるで固有名詞のように大文字で始めるのが『獄中記』の特徴のひとつだ。sorrow もすでにいくつかの例文で示したように、文頭だけでなく語中でも Sorrow となる。他の例としては Love, Art, Life, Hate などがある。重要なのは、これがワイルドの書き癖ではないということだ。つまり、悲しみの哲学に関係のない場所では sorrow は普通名詞として扱われるのである。

いっぽう、私が弁護してやまぬ bitter / bitterness は、決して大文字で始められることはない。これは明らかに、ワイルドが Sorrow や Love などの高尚な概念群へとこれらの苦い語を昇進させていないということだ。

なお、ここで私が読んだ版について一言しておく。それは Penguin Classics の Colm Tóibín 編の De Profundis and Other Prison Writings (2013) であり、注には Wilde’s letter is printed here exactly as he wrote it と記されている。すなわち、ここで問題にしている大文字小文字の区別もワイルドの原稿にあると見ていいだろう。ただし、De Profundis の古い版、特に最初のバージョンは完全版でもなく、また原稿を忠実に再現したものでもないようだ。

なんにせよ、この版を読むかぎり、ワイルドの sorrow と bitter / bitterness の扱いは明らかに違う。だが、ここで別の反論が生まれてくる。なるほど、この二つの語にいちじるしい待遇の違いがあることはわかった。だが、それにいったいなんの問題があるのか。どの語をどう扱おうと、雇用主たるワイルドの自由ではないか、と。

だが、これに言い返すのは簡単だ。例の一文がここで効いてくる。

The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.

つまり、「なんであれ realise してみせます」というのがワイルドの社是であるのなら、bitter / bitterness の小文字扱いもこの社是の観点から監査する必要がある。労基法があるから解雇するにもルールがあるのと一緒だ。

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ワイルドの『獄中記』を駁す(4)

『獄中記』 での bitter / bitterness にはいろいろな用法があるが、ここでは主要なものとして次の三つを挙げたい。

1)投獄に至るまでの過程や獄中生活の厳しさの bitter

even in the most bitter periods of my imprisonment

2)取り去るべきものとしての bitter
ワイルドがこの点についてもっとも明瞭に書いているのは次の文だ。

I don’t write this letter to put bitterness into your heart but to pluck it out of mine.

また、心に bitterness を抱いて出獄するくらいなら、物乞いをしたほうがマシだともいう。

I am quite candid when I tell you that rather than go out from this prison with bitterness in my heart against you or against the world I would gladly and readily beg my bread from door to door.

さらにキリスト論においては、bitterness の解消がキリストの効能だと述べるにいたる。

Humanity, which is the spirit of Love, the spirit of the Christ who is not in Churches, may make it, if not right, at least possible to be borne without too much bitterness of heart.

3)ダグラスに対する bitterness
bitter / bitterness はしばしばダグラスに向けられるものとして言及されている。いずれも、ダグラスに対しては bitterness のない状態でいたい、ということを宣言するものだ。

My own griefs and bitterness against you I forgot.

And the first thing that I have got to do is to free myself from any possible bitterness of feeling against you.

しかし、次のような言葉も出てくる。

My words may perhaps be often too bitter to you.

さては、I don’t write this letter to put bitterness into your heart とはいうものの、実は、ダグラスに bitterness を押し付けようとしているのでは? そんな疑念を私が抱くに至ったのも無理からぬことといえよう。

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ワイルドの『獄中記』を駁す(3)

『獄中記』のもうひとつの中心は sorrow の哲学だ。これは獄中生活で、自分の「悲しみ」を意味づける過程で生まれたものだが、ワイルドはこれを「behind Sorrow there is always Sorrow」と生の根源的な意味とまでみなすに至った。

さらに、「Where there is Sorrow there is holy ground」と宗教的な意味づけを行い、ついには悲しみを「the whole life of Christ – so entirely may Sorrow and Beauty be made one in their meaning and manifestation」とまで高め、独自のキリスト論を展開している。

キリスト論としては、ちょっと自分に都合よく解釈しすぎのような気もしないではないが、私はキリスト教はよくわからないので、判断はできない。いっぽう、悲しみという観点からはとても魅力的なのはわかる。なぜなら、私を含め多くの人は悲しみを味わっているので、その経験が実は神聖であったと聞かされて悪い気のしない人はいないからだ。

だから、私がここで反論したいというのはこの「悲しみ論」そのものではない。私が反論したいのは、ワイルドの不公平さについてだ。『獄中記』には、この Sorrow に負けないほど執拗に繰り返されるにもかかわらず、Sorrow のように思想の高みに据えられていない言葉がある。私はワイルドに代わってこの言葉を擁護し、そうしなかったワイルドに反論したい。

その言葉は、bitter / bitterness だ。

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ワイルドの『獄中記』を駁す(2)

realise には「認識する」「実現する」などの意味があるが、『獄中記』ではこの語に「表現(expression)として実現する」という意味も担わせている。ワイルドは芸術家だから、この「表現」とは芸術的表現でもあるが、後半で展開されるキリスト論では生き方に近くなる。いずれにせよ、生きるということを深く考え、理解した上で、ひとつの形を与えることといえる。こうした観点からすれば『獄中記』自体もワイルドによる Whatever is realised のひとつだと捉えることができる。

もっとも、『獄中記』で語られるのは、そうした深い思索ばかりではない。アルフレッド・ダグラスについてはそうとう辛辣に非難しているし、自らの不幸への嘆きもいくども繰り返される。責められるべきはダグラスばかりではないだろうし、苦悶の叫びにもそれなりの自己演出もあろうかと思う。

だが、罪とすらいえない行為で、ひとりの人間が名声と財産と家族と自由を失い、破滅に追いやられたということは、それがワイルドであろうと誰であろうと、痛ましいことだ。

それにしても、『獄中記』で驚かされるのは、自分を破滅に追いやった理不尽さへの追及ぶりだ。文章は長く粘着的で、言うべきことを言い尽くそうとする執念深さがある。

私も理不尽な思いをしてきたが、忘れるように努めている。徹底的に反論をして相手を打ちのめしてやりたいとも思うが、それには莫大なエネルギーと時間が必要だ。そんなことに費やす暇はない。

おそらくワイルドも、刑務所に入れられなければこんな長い手紙を書こうなどとはしなかっただろう。実際には釈放から三年後に病没してしまうが、投獄されなければ、長生きして別の作品をたくさん書いていたかもしれない。これもまた痛ましいことだ。

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ワイルドの『獄中記』を駁す(1)

一八九七年、レディング監獄に収監されていたオスカー・ワイルドは、のちに De Profundis(深淵より)と呼ばれることになる長い手紙を書いた。

手紙は、アルフレッド・ダグラスという若い貴族に宛てたもので、ワイルドはこの若者との「重大な猥褻行為」により有罪となり、二年の懲役刑の判決を下されていたのだった。

日本語ではこの手紙は『獄中記』と呼ばれる。それもあながち間違いとはいえない。ワイルドは監獄から他にも手紙をたくさん書いているが、De Profundis は長さ、内容、文体の点でそれらの手紙とはまったく異なるから。これは、ワイルドによる、自らの破滅を招いた関係についての徹底的な究明(もしくは弁明)であり、また、監獄での日々にいくども繰り返されたに違いない悔悟に形を与えたものである。

「形を与えた」と私が書いたのには意味がある。というのも、「形を与える」ということは、『獄中記』の中心的な思想のひとつに関わっているからだ。ワイルドはそれを、次のように記している。

The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.

この文句は、私が数えたかぎりでは『獄中記』で四回繰り返される。簡単にいえば「上っ面に流されずに真面目に生きろ」ということだが、正確に翻訳しようとすると難しい。

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押しボタン式(#2)

「押しボタン式」と標識のある横断歩道を渡ろうとして、信号機の下部の装置を見ると、すでに「お待ちください」と表示されている場合がある。赤信号を待っている人は誰もいないから、先にボタンが押されていたわけではないのだ。

私は事情はよくわからないが、押しボタン式には、押さねばならないものと押さなくてよいものがあるようだ。

だが、外国観光客が、このタイプの信号に遭遇したらどう思うだろうか。誰もいない横断歩道で「お待ちください」と表示されているのを見て、「ああ、日本人はなんと親切なのだろうか。道を渡る人のために、誰かがボタンを押しておいてくれるのだ」と感心するかもしれない。さらにはこんなふうに決意するかもしれない。「よし、いったいどんな日本人がこんなことをするのか、絶対に突き止めてやるぞ」

その観光客に時間の余裕と探究心とがある場合、物陰に身を潜めて信号機周辺を見張りだしかねない。親切な日本人が出現する決定的瞬間を撮影すれば、TikTok でバズるかも、という欲まで出てくるおそれもある。もちろん、いつまで待ってもそんな日本人は現れない。しかし、それがかえって日本という国の神秘性を深め、この暇な外国人は畏敬の念に打たれることだろう。

もっとも、私は日本社会の一員だから、そんな荒唐無稽な想像はしない。ただこんなふうに思うだけだ。ボタンを押そうとする人を戸惑わせるために、誰かがイタズラをしたのだ、と。

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新しいアトラクション

このあいだニュースで、東京ディズニーランドで一日遊んだら、途方もない金額になる、と言っていた。しかも、お金持ちにしか買えない高価なプレミアムチケットがあって、どんなアトラクションも待ち時間なく乗ることができるのだという。そんなものを買えない一般人にとっては夢の国になったのだ。普通の家庭の子どもたちが行けないようでは、将来的に入場者数も先細りになるばかりでは、という意見もあった。しかし、日本の子どもはいずれゼロになるのだから、ディズニーとしても早々に見切りをつけたということだろう。

このまま富裕層だけがディズニーランドに入れるということになれば、どんなことが起きるだろうか。私たち貧困層の中にもディズニーランドに行きたいという人はいるはずだ。そうした人たちは、おそらくディズニーランドに密入国することになろう。

これは楽しみばかりでなく実益もある。というのも、ディズニーランドのほうが日本よりもはるかに稼げるから。給与も日本よりも高いし、富裕層からチップも降り注ぐしで、いつしかシンデレラ城の地下にある縫製工場や、イッツ・ア・スモールワールドの奥のキッチンは不法キャストで溢れかえる。

オリエンタルランド共和国政府だって手をこまねいているわけではない。不法就労者の逮捕に精を出すだろうし、国境や海岸では、真夜中にミッキー・マウスやミニーたちが不審な越境者をライフルで撃つ音が聞こえる。

そして、ディズニーランドの一区画に巨大な収容所が建設されることになる。そこで不法キャストたちは集団生活を送りながら、強制送還のときを待つのだ。このアトラクションの待ち時間がどれくらいかはわからない。

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AIを使いこなす

AI関係の高額なセミナーの広告を見ると、こんなことが書いてある。

「AIを使ってみたいけど何からしていいかわからない方必見!」

AIに聞けばいいのでは、と思う。また、こんな広告もある。

「まだ間に合う! 話題のAIをこれから学ぶ方のための、無料オンライン入門セミナーを開催!」

間に合うとは? 無料セミナーの申し込みについてかもしれないが、ここではAIに関する知識や技術について焦らせているようにも読める。「時代遅れになる前に!」というわけだ。

なぜ間に合わないといけないのか。それはわかりきっている。

「AIに仕事を奪われる側ではなく、AIを使いこなす側になりたい方はすぐに!」

これは、どの広告にも書いてあるような言葉だが、AIを学ばないと無職になるというのだ。だが、AIを使いこなしても無職になる可能性は考慮に入れられていないようだ。

もうひとつおかしな点がある。仕事を奪うのはAIではない。雇用主が奪うのだ。雇用主がAIを使いこなした結果、経営合理化なり人員削減なりが成功し、被雇用者の職が奪われたのだ。もっとも、AIについてまったく知らなくても、首切りは簡単だが。

それはともかく、人の仕事を奪えるということは、本当にAIを使いこなしているということになるのだろうか。逆に、AIを使うことによって、被雇用者の仕事を守り、さらに、他の多くの人々に仕事を作ることこそが、本当にAIを使いこなすということなのではないだろうか。

AIによって、今まで雇えなかった人にどんな仕事を作れるか。仕事を奪う奪われるで考えるよりも、ずっと有意義なテーマだと思う。

とはいえ、こんなテーマの高額セミナーの広告が回ってきたら、それはそれで要注意だ。

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