realise には「認識する」「実現する」などの意味があるが、『獄中記』ではこの語に「表現(expression)として実現する」という意味も担わせている。ワイルドは芸術家だから、この「表現」とは芸術的表現でもあるが、後半で展開されるキリスト論では生き方に近くなる。いずれにせよ、生きるということを深く考え、理解した上で、ひとつの形を与えることといえる。こうした観点からすれば『獄中記』自体もワイルドによる Whatever is realised のひとつだと捉えることができる。
もっとも、『獄中記』で語られるのは、そうした深い思索ばかりではない。アルフレッド・ダグラスについてはそうとう辛辣に非難しているし、自らの不幸への嘆きもいくども繰り返される。責められるべきはダグラスばかりではないだろうし、苦悶の叫びにもそれなりの自己演出もあろうかと思う。
だが、罪とすらいえない行為で、ひとりの人間が名声と財産と家族と自由を失い、破滅に追いやられたということは、それがワイルドであろうと誰であろうと、痛ましいことだ。
それにしても、『獄中記』で驚かされるのは、自分を破滅に追いやった理不尽さへの追及ぶりだ。文章は長く粘着的で、言うべきことを言い尽くそうとする執念深さがある。
私も理不尽な思いをしてきたが、忘れるように努めている。徹底的に反論をして相手を打ちのめしてやりたいとも思うが、それには莫大なエネルギーと時間が必要だ。そんなことに費やす暇はない。
おそらくワイルドも、刑務所に入れられなければこんな長い手紙を書こうなどとはしなかっただろう。実際には釈放から三年後に病没してしまうが、投獄されなければ、長生きして別の作品をたくさん書いていたかもしれない。これもまた痛ましいことだ。