散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(3)

『獄中記』のもうひとつの中心は sorrow の哲学だ。これは獄中生活で、自分の「悲しみ」を意味づける過程で生まれたものだが、ワイルドはこれを「behind Sorrow there is always Sorrow」と生の根源的な意味とまでみなすに至った。

さらに、「Where there is Sorrow there is holy ground」と宗教的な意味づけを行い、ついには悲しみを「the whole life of Christ – so entirely may Sorrow and Beauty be made one in their meaning and manifestation」とまで高め、独自のキリスト論を展開している。

キリスト論としては、ちょっと自分に都合よく解釈しすぎのような気もしないではないが、私はキリスト教はよくわからないので、判断はできない。いっぽう、悲しみという観点からはとても魅力的なのはわかる。なぜなら、私を含め多くの人は悲しみを味わっているので、その経験が実は神聖であったと聞かされて悪い気のしない人はいないからだ。

だから、私がここで反論したいというのはこの「悲しみ論」そのものではない。私が反論したいのは、ワイルドの不公平さについてだ。『獄中記』には、この Sorrow に負けないほど執拗に繰り返されるにもかかわらず、Sorrow のように思想の高みに据えられていない言葉がある。私はワイルドに代わってこの言葉を擁護し、そうしなかったワイルドに反論したい。

その言葉は、bitter / bitterness だ。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(2)

realise には「認識する」「実現する」などの意味があるが、『獄中記』ではこの語に「表現(expression)として実現する」という意味も担わせている。ワイルドは芸術家だから、この「表現」とは芸術的表現でもあるが、後半で展開されるキリスト論では生き方に近くなる。いずれにせよ、生きるということを深く考え、理解した上で、ひとつの形を与えることといえる。こうした観点からすれば『獄中記』自体もワイルドによる Whatever is realised のひとつだと捉えることができる。

もっとも、『獄中記』で語られるのは、そうした深い思索ばかりではない。アルフレッド・ダグラスについてはそうとう辛辣に非難しているし、自らの不幸への嘆きもいくども繰り返される。責められるべきはダグラスばかりではないだろうし、苦悶の叫びにもそれなりの自己演出もあろうかと思う。

だが、罪とすらいえない行為で、ひとりの人間が名声と財産と家族と自由を失い、破滅に追いやられたということは、それがワイルドであろうと誰であろうと、痛ましいことだ。

それにしても、『獄中記』で驚かされるのは、自分を破滅に追いやった理不尽さへの追及ぶりだ。文章は長く粘着的で、言うべきことを言い尽くそうとする執念深さがある。

私も理不尽な思いをしてきたが、忘れるように努めている。徹底的に反論をして相手を打ちのめしてやりたいとも思うが、それには莫大なエネルギーと時間が必要だ。そんなことに費やす暇はない。

おそらくワイルドも、刑務所に入れられなければこんな長い手紙を書こうなどとはしなかっただろう。実際には釈放から三年後に病没してしまうが、投獄されなければ、長生きして別の作品をたくさん書いていたかもしれない。これもまた痛ましいことだ。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(1)

一八九七年、レディング監獄に収監されていたオスカー・ワイルドは、のちに De Profundis(深淵より)と呼ばれることになる長い手紙を書いた。

手紙は、アルフレッド・ダグラスという若い貴族に宛てたもので、ワイルドはこの若者との「重大な猥褻行為」により有罪となり、二年の懲役刑の判決を下されていたのだった。

日本語ではこの手紙は『獄中記』と呼ばれる。それもあながち間違いとはいえない。ワイルドは監獄から他にも手紙をたくさん書いているが、De Profundis は長さ、内容、文体の点でそれらの手紙とはまったく異なるから。これは、ワイルドによる、自らの破滅を招いた関係についての徹底的な究明(もしくは弁明)であり、また、監獄での日々にいくども繰り返されたに違いない悔悟に形を与えたものである。

「形を与えた」と私が書いたのには意味がある。というのも、「形を与える」ということは、『獄中記』の中心的な思想のひとつに関わっているからだ。ワイルドはそれを、次のように記している。

The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.

この文句は、私が数えたかぎりでは『獄中記』で四回繰り返される。簡単にいえば「上っ面に流されずに真面目に生きろ」ということだが、正確に翻訳しようとすると難しい。