散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(3)

『獄中記』のもうひとつの中心は sorrow の哲学だ。これは獄中生活で、自分の「悲しみ」を意味づける過程で生まれたものだが、ワイルドはこれを「behind Sorrow there is always Sorrow」と生の根源的な意味とまでみなすに至った。

さらに、「Where there is Sorrow there is holy ground」と宗教的な意味づけを行い、ついには悲しみを「the whole life of Christ – so entirely may Sorrow and Beauty be made one in their meaning and manifestation」とまで高め、独自のキリスト論を展開している。

キリスト論としては、ちょっと自分に都合よく解釈しすぎのような気もしないではないが、私はキリスト教はよくわからないので、判断はできない。いっぽう、悲しみという観点からはとても魅力的なのはわかる。なぜなら、私を含め多くの人は悲しみを味わっているので、その経験が実は神聖であったと聞かされて悪い気のしない人はいないからだ。

だから、私がここで反論したいというのはこの「悲しみ論」そのものではない。私が反論したいのは、ワイルドの不公平さについてだ。『獄中記』には、この Sorrow に負けないほど執拗に繰り返されるにもかかわらず、Sorrow のように思想の高みに据えられていない言葉がある。私はワイルドに代わってこの言葉を擁護し、そうしなかったワイルドに反論したい。

その言葉は、bitter / bitterness だ。