旅・観察

犬の友だち(3)

このとき以来、犬と男という二つの存在が私の中で結びついた。思えば、駐車係をしている男の周りにはいつだって犬がいた。そして、犬が寝っ転がっているところでは、男がビールケースに座ってタバコを吸っているのだった。

ある夜、私は男がこう犬に話しかけているのを聞いた。犬は歩道に寝そべっている。

「かわいそうなチビめ! お前はいつまでそこにいるつもりなんだ?」

男は、犬を置いて、ホテルの脇の道に入っていった。だが、すぐに再び犬のところに戻ると、屈んで犬の前足を取った。

「かわいそうなチビめ!」

またあるとき、男が犬を置いて道を渡ってしまった。残された犬は歩道を行ったり来たりした。車にさえぎられて男を見失いでもしたかのようだった。犬は表通りのほうまで歩いていきさえした。私は「お前の友人はいつもの寝床にいるぞ」と思いながら見ていたが、やがて犬も気がついたのか、道を渡って、男のいるマットのそばにゴロンと横になった。

犬と男の間にいったいどういう出会いがあり、どういう物語があったのだろうか。チュニジアには農閑期に出稼ぎに行く人もいるそうだ。どこかの村からふたりしてはるばるやってきたのだろうか? 夕暮れの田舎道をとぼとぼ歩いたり、列車に乗ってそろって景色を眺めたり……。私はいろいろなことを考えた。

もうひとつ不思議なことがあった。日中、犬も男も姿を消すのだ。ふたりでどこかに行ってしまったのだろうか。それとも、昼間は別行動という、あんがいドライな関係性なのだろうか。男はどこかのカフェで仲間と過ごし、犬は路地裏で野良犬たちと雑談を、とそれぞれの社交生活を楽しんで……。

ある昼下がりのこと、もっとも暑い時間帯に私はホテルを出た。犬も男もいない。ただ日差しが車と道を焼いているばかりだ。すでに汗をかきながら、私は歩道を降りて車道に踏み出す。

そのとき私は、駐車された車の下に犬がいるのに気がついた。影の中、前足に顎を乗せ、そこから外を見ていた。

旅・観察

犬の友だち(2)

私はこの通りを毎日歩いていたから、酔っ払いや犬ばかりでなく、いろいろなものに気がついた。

ホテルの前には別の大きなホテルがあった。それは古いホテルで、正面は大通りのほうに面し、寂れた側面をこちらに向けていた。その側面の一部に、カフェの跡地があった。看板が掲げられ、シャッターが下ろされている。閉店してずいぶん経つようだった。

看板の下は、入り口で、少し空間がひらけていた。そこに、マットが敷かれ、ブランケットが丸められ、プラスチックのカップが置かれていた。誰かがここを寝場所としているのだった。

また、夜になるとホテルの脇の歩道に、ひとりの男が出現するのにも気がついた。短い髭を生やした細身の男で、いつも緑色のポロシャツを着ていた。私より年上に見えた。

男はビールケースを椅子にして座って、タバコを吸ったり、道行く人に声をかけたりしていた。観察しているうちにわかってきたのだが、駐車係をしているのだった。

例のレストランの客などがこの道に駐車しようとするときに、うまい具合に誘導し、さらには車を見張って、それで小銭を稼いでいるようだった。レストランの人や客たちと男がやりとりしているようすからは、彼が厚い信頼を勝ちえているのがうかがえた。あるとき、警察の車が彼のいるところに止まったので、私は「もしや?」と心配になった。警察車両から人が出てくる。男に声をかける。すると、駐車してあった車に乗って行ってしまった。「客」だったのだ。

ある日の昼間、ホテルに戻ろうとこの道に入ると、私はカフェの下のマットに、緑のポロシャツの男が寝ているのに気がついた。ブランケットにくるまって背を向けている。そして、彼の足元からちょっと離れたところに、あの犬がまるまって寝ていた。

旅・観察

犬の友だち(1)

ターウジュートからチュニスに帰ってきて、一日休んで、再びSさんからベルベル語を学ぶ日々がはじまった。

私の滞在していたホテルは、中級のホテルで、同じ宿泊費ならばもっといいホテルもあったが、私はここに決めていた。なぜなら、一階に静かな会議室があって、誰も使っていないときに無料で使わせてもらっていたから。そして、利用する人はめったにいないようだった。

ホテルにはドアマンがいた。しかし、私が入ろうとしてもドアを開けてくれるわけではない。黙って玄関脇の椅子に座って携帯を見ている。あるいは、外に立って、電話をしたり、ぼんやり眺めたりしていた。ドアを開けてくれないばかりでなく、無愛想で挨拶すらしてくれないのだった。

ホテルの前にはいつも人が出入りしている店があった。夜になると酔った男たちが大声で話している。レストランのようだが、そうは見えなかった。私はそこが悪徳の巣のように思っていたが、ネットで調べたらちゃんとしたレストランだった。だが、私は行こうとは思わなかった。チュニジアのレストランは、お酒が飲めるものとそうでないものがある。そして、お酒が飲める場所は、室内の空気の八〇パーセントほどがタバコの煙だ。とてもうるさいので、耳栓も必要だ。しかし、もしそんなことをしていたら、酔っぱらいに絡まれること必定だ。

ホテルとレストランの間の道路の両側は、隙間なく車が止まっている。その多くがレストランの客の車のようだった。私はレストランから出てくる酔客たちのようすを見て、自分が勘違いしていたことに気がついた。

ドアマンではなく、ガードだったのだ。観察していると、外で大声が聞こえたり、何か不穏な動きがあると、玄関の男がすぐに立ち上がって外に出るのがわかった。だから、別に私に愛想よくする必要などないのだ。

しかも、ホテルの外の歩道にはときどき、汚れた大きな犬が寝転んでいた。通行人は怖がって避けて通る。私も噛みつかれたらたまらないのでやはり避けて通った。

旅・観察

モロヘイヤ

チュニジアの名物料理に、モロヘイヤがある。モロヘイヤと肉が入ったシチューだ。チュニジアのモロヘイヤの食べ方は少し変わっている。日本だとモロヘイヤのよさは粘り気だが、これがチュニジアの人の口に合わないのだという。だから、納豆のネバネバなどは食べられない、と日本に住んでいたチュニジアの人が言っていた。

そこで、モロヘイヤから粘り気をなくした料理が誕生した。乾燥させたモロヘイヤの粉末を、肉と一緒に徹底的に煮込むのだそうだ。そうすると粘り気がなくなるのだという。煮込んであるから、濃厚な味になる。色は深緑、いや黒に近いこともある。

とはいえ、めったに食べられない。いつでもどこでもあるものではないらしい。手間がかかるからかもしれない。この間、チュニスのレストランの前を通ったら、ボードにモロヘイヤと書いてあった。ちょうど昼時だったので入って注文した。

平皿にドロリとした深緑の液体が入っている。これがモロヘイヤだ。料理は出てくるが、スプーンなどはくれない。一緒に出てくるパンを使って、すくったり、押しつけたり、肉をつぶしたりして食べるのだ。チュニジア人には簡単だが、これは非常に難しい。パンを何切れ食べても、シチューは減らない。しかも肉の塊もある。こいつにパンだけでどう立ち向かったらいいかもわからない。

このままではパンだけでお腹いっぱいになってしまう、と私は、お店の人にスプーンをお願いした。スプーンですくって食べ始める。またたく間に、シチューも肉もなくなってしまった。

周りでは人々がお昼を食べている。男の二人づれ、女性の一人客、夫婦、みんなゆっくり食べている。私はなんだか味わわずに食べてしまったような気がして、スプーンなど頼まなければよかった、と思った。

旅・観察

イブン・ハルドゥーンの像

チュニスの目抜通りの起点、古いカテドラルの前に小さな広場があって、イブン・ハルドゥーンの大きな立像がある。チュニスを観光する人は必ず通る場所だ。

イブン・ハルドゥーンは昔の偉い人だ。チュニス出身で、今でも読まれるような本を書いた。日本語訳もある。

ジャスミン革命前はその像が立っているきりで、私は何度か写真を撮った。革命後に行くと、イブン・ハルドゥーン像の前に「I ♡ TUNIS」という残念なモニュメントがいつの間にかできていた。イブン・ハルドゥーン像の写真に必ず入り込むので、私は写真を撮るのをやめた。

それからしばらくして「I ♡ TUNIS」が像の後ろに移動させられた。今では像の前に軍用車が止まっている。銃を持った兵士がその周りに立っている。面倒なことになりそうなので、私は写真を撮るのをやめた。

Sさんが、このイブン・ハルドゥーン像についての逸話を話してくれた。有名な彫刻家がこのチュニジアのシンボルといってもいい作品を任された。台座から足、そしてその上の胴体へと彫っていく。そして、ようやく顔に取りかかろうというときになって、彫刻家は気がついた。イブン・ハルドゥーンの顔がわからない、と。記録などないのだ。

彼は結局、鏡を見ながら自分の顔を彫った。

完成して、当時の大統領であるブルギバの前でお披露目することになった。ブルギバはイブン・ハルドゥーン像を見るや、隣にいる彫刻家の顔を指して、「お前の顔じゃないか」といったそうだ。

旅・観察

自動車の修理

チュニジアのピーマンは日本でいうシシトウを大きくしたような形をしている。辛いものが多いので、ピーマンといったらいいのか、大きい青唐辛子といったらいいのか、よくわからない。油で揚げたものがクスクスなどの料理の上に載っていることがよくある。表面の皮を剥いて食べることもあるようだ。また、グリルして皮を剥いたピーマンを、やはりグリルしたトマトなどと一緒に潰して食べる。これはサラータ・マシュウィーヤといって、直訳すると「焼きサラダ」だ。チュニジアに行けば、誰でも必ず食べる料理だ。

さて、Sさんが仕事で車を借りなければいけなくなった。

友人の車を借りる予定だったのだが、それが故障してしまったのだという。どういう故障かというと、詳しくはわからないが、水が漏れてくるのだという。おそらくラジエーターとかの話だろう。

その友人が町工場に車を持って行ったら、整備士がこんなことを言ったという。

「これを修理する特別なやり方を教えてあげよう。まずピーマンの粉を用意する。それから水が漏れる箇所にその粉を入れる。すると水漏れの穴をその粉が塞いでくれる。これで問題ない」

Sさんはこの話をすると「さすがに日本でもピーマンで車を修理しないだろう」と笑った。

旅・観察

わからないままに

私はSさんに二〇二五年の二月に出会い、ベルベル語を教えてもらうことになった。さらに八月にもう一度、そして今回、今年の六月にも引き続き教えてもらった。

Sさんはベルベル語は母語だが、普段はアラビア語を使う。家でもベルベル語をいつも使っているわけではない。そのせいか、教えてもらっていても、言葉が出てこないことがある。そうしたとき、Sさんはお母さんに電話して確認してくれる。

もっとも、電話をして向こうが出る前に、思い出してくれることもよくある。いずれにせよ私は、Sさんに教わる言葉にも、不確かなものが含まれているのではないかと思っていた。

しかし、チュニスに戻ってきたとき、Sさんはこんなことを話してくれた。それは「泥棒」という言葉のことで、以前、私はそのベルベル語の単語を教えてもらったことがあった。

「泥棒をベルベル語でなんていうか、村の人たちは知らなかったよ。忘れてしまったんだ」

もちろん、これは村人全員に当てはまるわけではないと思うが、村の中でもすでに言葉が失われはじめているとしたら、Sさんがときどき思い出せないのも、それ自体が今のこの言語の姿なのかもしれない。

ジェルバ島から、チュニスに帰る長い道中で、Sさんが言った。

「みんな少しずつ言葉を忘れていき、少しずつ失われていく。私たちだって、わからない言葉を母に尋ねるけど、もし母がいなくなったらどうする? わからないことはもうわからないままになってしまうんだ」

私がこれまでに、この言語についてSさんから学んだことはほんのわずかなことだ。しかも、間違いもたくさんあると思う。だが、それでもわからないままになるよりはマシではないだろうか。

旅・観察

水と言語

今回の訪問で、もうひとつ気づかされたのは水の問題だった。

ベルベル語の話者の減少は、住民の流出と村の過疎化によるものと、私はただ漠然と捉えているに過ぎなかった。その背景に水不足があることには思いいたらなかった。水不足が村の生活を徐々に脅かし、これが人々を村から離れさせる。そして、私たちがターウジュート村だけでなく近隣の村でも見たように、空き家をひとつまたひとつと増やしているのだ。

「昔は緑がいっぱいで、雨もたくさん降った。家では羊を四〇頭も飼っていた。だが今は放牧のための草も生えていない。どの家にも、果物も野菜もふんだんにあったけど、今はマトマータから運んできた野菜を買わなくてはならない」とSさん。

村に最初に入ったとき、Sさんに甦ったのも水の記憶だった。「昔はここに水が溜まってプールみたいになっていたもんだ」 だが、Sさんが指差したその場所は、太陽の光の下で乾き切っていた。

また、ジェルバ島の陶芸工房でSさんはベルベル語の「粘土」を思い出し、子どものころに使ったきりだと語ったが、後でこう付け足してくれた。

「もう雨が降らないから、村では土が粘土になることなどない。こうやって言葉がなくなっていくんだ」

どうして水がなくなるのか、私は詳しい事情はわからない。思いつくのは地球温暖化ぐらいだが、それも東京の夏のひどい暑さからの類推に過ぎない。だが、ターウジュート村、そして周辺の村の水不足はここ数十年のあいだに起きたことだという、Sさんの印象をもとに判断するならば、まんざら無関係ともいえないように思う。

私は、ターウジュートという小さな村を訪問したに過ぎなかったが、そこで起きていることは、来る前には思いもよらなかった広がりを持っていた。

旅・観察

村から帰ってきて

ターウジュート村に行く前、私は村では人々が自分の言葉で活発に話しているさまを想像していた。私はビルマのカレン人やカチン人の村に行ったことがあるが、それと同じだろうと、なんとなく思い込んでいた。そこでは人々は自分の母語で挨拶し、会話し、雑談し、祈っていた。

しかし、ターウジュート村では私は異なる印象を受けた。Sさんのおじの家の集まりで主に使われていたのはアラビア語だった。

それにはいろいろな理由が考えられる。客である私たちに気を遣っていてくれたのかもしれないし、あるいは男たちで話すときはアラビア語を使うのがより自然なだけなのかもしれない。そして、ターウジュートのベルベル語は、もっと家庭的な雰囲気のときに使われるのかもしれない。

それがどんな理由であれ、ベルベル語が使用される場面は、当初の私の想定よりもかぎられているように思えた。もちろん、わずか数時間の滞在でわかるものではない。だから、あくまでも仮定の話に過ぎないが、この仮定にもとづいて私は二つのことを考えた。

ひとつは、この言語が置かれている状況の深刻さだ。もしも、使用されるのがほとんど家庭にかぎられるとしたら、さらに縮小していくこともありそうだ。Sさんはチュニスで暮らしているが、子どもはベルベル語を話すことはできない。村でも同じような状況がいずれ起きるかもしれない。私は実のところ、これとは逆の事態、つまり村では言語が十分に維持されていると想定していたのだった。

もうひとつは、もしベルベル語が私的な領域でだけ使用されるのだとしたら、そこに私が近づいて、そこで直接学ぶのは、少なくとも今の私には不可能だということだ。

これは私の力不足であるかもしれない。だが、単に実力の問題だけでもないように思う。誰かの暮らしの中に入ろうとすることが、何かを壊してしまう可能性もある。

ともあれ、今回の訪問は、Sさんがいてはじめて可能になった。もしいなかったら、私は村を外から眺めるしかなかっただろうし、こうした感想を抱くこともできなかったろう。それは大きな違いだ。そうした違いを積み重ねていくうちに、もしかしたら、もう少し深く理解できる場所に立てる日が来るかもしれない。

旅・観察

割れ物

やがて主人が姿を現した。年配の男性で、白いTシャツに白い作業ズボンを履いている。Sさんが私を指してベルベル語を学んでいるというと、話しかけてくれた。

陶器づくりを見せてくれるという。工房の奥の部屋から運んできた粘土を作業台に置いて両手でこねる。表面を親指でなめすように押しながら気泡を潰し、異物を丁寧に取り除いていく。粘土がまるでパン生地のように見えたが、私がやったらすぐに手が痛くなるだろう。

Sさんと主人は最初、少しベルベル語で会話をしていた。すると、Sさんが興奮気味に私に声をかけた。主人の言葉から、子どもの頃、ベルベル語で粘土をなんと呼んでいたか思い出したのだ。

「何十年もこの言葉を口から出したことはなかったよ」

粘土の準備が終わると、主人は台の向こうにあるろくろの前に座り、足で回しはじめた。

昔はこの辺りに小さな窯元が何百とあったそうだ。しかし、今、残っているのは十軒しかないという。ガッラーラのベルベル語について聞くと、こんな答えが返ってきた。

「話しているのは老人だけだよ。若い人はみんなアラビア語を使っている」

だんだんとガッラーラがターウジュートと重なり始めた。

主人は、たちまちのうちに粘土を高さ五〇センチほどの壺に作り上げ、目の前の台に置いた。再びろくろが回転し、小さな壺ができあがる。主人はそれを逆さにして壺の上に載せた。蓋だったのだ。さらに、主人はもうひとつ壺を作り上げた。

私はこの主人の実演のお礼として、売店で何か買って帰ることにした。彩色されたカップや皿が手頃そうだった。工房で作ったものかSさんに確認してもらうと、違うという。主人の作品はみな大きな壺や花瓶だ。ほとんどが素焼きで、飾りやお土産というよりも生活に密着したものだ。

大きな壺はオリーブや干しいちじくや干し肉などの保存食を入れておくのに使ったのだそうだ。だが、今は冷蔵庫がある。窯元が減っているのも、そうした壺を使う生活が、昔のものになりつつあるからなのだろう。

私は小さな急須を見つけ、それを買うことにした。八ディナール。払おうとするとSさんが手で制して十ディナール札を出した。

主人がお釣りを渡そうとすると、Sさんは感謝して断った。「二日もひとりもお客が来ないことがあるっていうからそうしたんだ」と後でSさんが教えてくれた。

割らずに日本に持って帰れたらいいと思う。