旅・観察

犬の友だち(4)

夜、遅い時間に水を買いに外に出た私は、男の新たな一面を目撃した。男は洗車をしていたのだった。スポンジで車を擦り、片手にもった大きなペットボトルから水を注ぎ、泡を洗い流していた。

チュニジアでは日本のように頻繁に洗車をしないから、埃だらけの車も多い。そもそも、洗車したら水没してしまいそうな古い車も走っている。そんな車事情でも、この男が洗車をして稼ぐだけの余地が残されていたのだ。男が働いているあいだ、犬は少し離れたところで丸まったり、のっそりと男の周囲を歩き回ったりしていた。

犬はまったく他の人に関心がないようだった。ちょうど私がそうであったように、初めて見る人は、汚れて焦茶に見えるのか、もともと焦茶なのかわからないこの大きな犬を怖がる。だが、犬が誰かに吠えかかったり、脅かしたりしたのを見たことがなかった。

もっとも、犬はしばしば大胆になった。道路の真ん中で横になるのだ。車が進入してきてもすぐにはどかない。悠々と立ち上がると、待っている車を尻目にゆっくりと道を開ける。そして、チュニスの運転手も、犬相手にクラクションを鳴らすなどということはしない。あれほど人間には鳴らすのに不思議といえば不思議だ。

ある午後、私は例の犬がやはり道の真ん中で座っているのを見かけた。周りにはあの男はいなかった。私は携帯を取り出すと、その犬の写真を撮った。男がいたらそんなことはしなかったろう。犬は私のほうを少し見て、目を瞑った。

旅・観察

犬の友だち(3)

このとき以来、犬と男という二つの存在が私の中で結びついた。思えば、駐車係をしている男の周りにはいつだって犬がいた。そして、犬が寝っ転がっているところでは、男がビールケースに座ってタバコを吸っているのだった。

ある夜、私は男がこう犬に話しかけているのを聞いた。犬は歩道に寝そべっている。

「かわいそうなチビめ! お前はいつまでそこにいるつもりなんだ?」

男は、犬を置いて、ホテルの脇の道に入っていった。だが、すぐに再び犬のところに戻ると、屈んで犬の前足を取った。

「かわいそうなチビめ!」

またあるとき、男が犬を置いて道を渡ってしまった。残された犬は歩道を行ったり来たりした。車にさえぎられて男を見失いでもしたかのようだった。犬は表通りのほうまで歩いていきさえした。私は「お前の友人はいつもの寝床にいるぞ」と思いながら見ていたが、やがて犬も気がついたのか、道を渡って、男のいるマットのそばにゴロンと横になった。

犬と男の間にいったいどういう出会いがあり、どういう物語があったのだろうか。チュニジアには農閑期に出稼ぎに行く人もいるそうだ。どこかの村からふたりしてはるばるやってきたのだろうか? 夕暮れの田舎道をとぼとぼ歩いたり、列車に乗ってそろって景色を眺めたり……。私はいろいろなことを考えた。

もうひとつ不思議なことがあった。日中、犬も男も姿を消すのだ。ふたりでどこかに行ってしまったのだろうか。それとも、昼間は別行動という、あんがいドライな関係性なのだろうか。男はどこかのカフェで仲間と過ごし、犬は路地裏で野良犬たちと雑談を、とそれぞれの社交生活を楽しんで……。

ある昼下がりのこと、もっとも暑い時間帯に私はホテルを出た。犬も男もいない。ただ日差しが車と道を焼いているばかりだ。すでに汗をかきながら、私は歩道を降りて車道に踏み出す。

そのとき私は、駐車された車の下に犬がいるのに気がついた。影の中、前足に顎を乗せ、そこから外を見ていた。

旅・観察

犬の友だち(2)

私はこの通りを毎日歩いていたから、酔っ払いや犬ばかりでなく、いろいろなものに気がついた。

ホテルの前には別の大きなホテルがあった。それは古いホテルで、正面は大通りのほうに面し、寂れた側面をこちらに向けていた。その側面の一部に、カフェの跡地があった。看板が掲げられ、シャッターが下ろされている。閉店してずいぶん経つようだった。

看板の下は、入り口で、少し空間がひらけていた。そこに、マットが敷かれ、ブランケットが丸められ、プラスチックのカップが置かれていた。誰かがここを寝場所としているのだった。

また、夜になるとホテルの脇の歩道に、ひとりの男が出現するのにも気がついた。短い髭を生やした細身の男で、いつも緑色のポロシャツを着ていた。私より年上に見えた。

男はビールケースを椅子にして座って、タバコを吸ったり、道行く人に声をかけたりしていた。観察しているうちにわかってきたのだが、駐車係をしているのだった。

例のレストランの客などがこの道に駐車しようとするときに、うまい具合に誘導し、さらには車を見張って、それで小銭を稼いでいるようだった。レストランの人や客たちと男がやりとりしているようすからは、彼が厚い信頼を勝ちえているのがうかがえた。あるとき、警察の車が彼のいるところに止まったので、私は「もしや?」と心配になった。警察車両から人が出てくる。男に声をかける。すると、駐車してあった車に乗って行ってしまった。「客」だったのだ。

ある日の昼間、ホテルに戻ろうとこの道に入ると、私はカフェの下のマットに、緑のポロシャツの男が寝ているのに気がついた。ブランケットにくるまって背を向けている。そして、彼の足元からちょっと離れたところに、あの犬がまるまって寝ていた。

旅・観察

犬の友だち(1)

ターウジュートからチュニスに帰ってきて、一日休んで、再びSさんからベルベル語を学ぶ日々がはじまった。

私の滞在していたホテルは、中級のホテルで、同じ宿泊費ならばもっといいホテルもあったが、私はここに決めていた。なぜなら、一階に静かな会議室があって、誰も使っていないときに無料で使わせてもらっていたから。そして、利用する人はめったにいないようだった。

ホテルにはドアマンがいた。しかし、私が入ろうとしてもドアを開けてくれるわけではない。黙って玄関脇の椅子に座って携帯を見ている。あるいは、外に立って、電話をしたり、ぼんやり眺めたりしていた。ドアを開けてくれないばかりでなく、無愛想で挨拶すらしてくれないのだった。

ホテルの前にはいつも人が出入りしている店があった。夜になると酔った男たちが大声で話している。レストランのようだが、そうは見えなかった。私はそこが悪徳の巣のように思っていたが、ネットで調べたらちゃんとしたレストランだった。だが、私は行こうとは思わなかった。チュニジアのレストランは、お酒が飲めるものとそうでないものがある。そして、お酒が飲める場所は、室内の空気の八〇パーセントほどがタバコの煙だ。とてもうるさいので、耳栓も必要だ。しかし、もしそんなことをしていたら、酔っぱらいに絡まれること必定だ。

ホテルとレストランの間の道路の両側は、隙間なく車が止まっている。その多くがレストランの客の車のようだった。私はレストランから出てくる酔客たちのようすを見て、自分が勘違いしていたことに気がついた。

ドアマンではなく、ガードだったのだ。観察していると、外で大声が聞こえたり、何か不穏な動きがあると、玄関の男がすぐに立ち上がって外に出るのがわかった。だから、別に私に愛想よくする必要などないのだ。

しかも、ホテルの外の歩道にはときどき、汚れた大きな犬が寝転んでいた。通行人は怖がって避けて通る。私も噛みつかれたらたまらないのでやはり避けて通った。