旅・観察

犬の友だち(終)

日曜日の午前、いつものようにホテルの会議室で私はSさんにベルベル語を教えてもらった。勉強を終えて、私たちが会議室を出ると、フロント係が言った。

「明日から金曜日まで会議室の予約が入っているので、もう使えませんよ」

私は会議室に、いつもはないプロジェクターやプリントが置いてあったのを思い出した。夕方や夜は空いているか、と尋ねたがはっきりとはわからないようだった。

私はホテルを移ることにした。というのも、会議室が使えないのならば、ここにいても意味はないから。それに、会議室はなくても、もっと安くて、設備や朝食がいいホテルもある。さいわい、そのホテルを予約することもできた。

その晩、買い物に行こうと部屋を出た私は、うっかり鍵を部屋に忘れてしまった。これでは入れない。エレベーターで降りて、フロントに行く。そこには以前の滞在から顔馴染みのスタッフがいた。

私が部屋から閉め出されてしまったことを告げると、スタッフは「ちょっと待ってください。一緒に行きましょう」と、マスターキーを取りに行った。

私はエレベーターの前で待ちながら、もしあの男と犬について尋ねるならば、今以上に自然な機会はない、と考えた。スタッフがやってきて、私たちはエレベーターに乗った。そして、少し間をおいて私は尋ねた。

「ホテルの外にいつも男の人がいますね」

スタッフはすぐに答えた。

「犬と一緒にいる人? 彼はあなたのことを友だちだと言ってましたよ」

スタッフは鍵を開け、私は愉快な気持ちで部屋に戻った。先日、あの犬の写真を撮ったとき、私はブログの素材にしようかと軽く考えていた。だが、やめた。友だちにはそんなことをしないものだ。

旅・観察

犬の友だち(5)

男がどんな経緯でこの街角で暮らすようになったのか、そして、犬との関係がどのように始まったのか、私は知りたく思っていた。

男は、私の滞在するホテルのフロント係やガードとも挨拶する関係のようだった。だから、フロント係に聞けばなにか教えてもらえるかもしれなかった。私はいくどかその可能性について考えた。だが、いつもは話をしないフロントにそんな質問をするのはいかにも不自然だったし、たとえそれでなにか知り得たとしても、かえって味気ないような気がした。それに、私は男と犬のことを書こうとも思いはじめていた。ならば、そういう「取材」はなおさら悪趣味だろう。

ならば、本人から聞けばいいかというと、そうでもなかった。周りの人々とのやりとりからは、少し変わった人という印象を受けた。騒ぐわけでもなく、酒を飲むわけでもなく、いつも飄々としているが、だからといって、私にわかるように話してくれそうでもなかった。そもそも、用もないのに、ただ自分の好奇心を満たすためだけに、男に話しかけるのもイヤな感じだった。もっとも、私に車があって洗車を頼むというのならば話は別だ。だが、そうでない以上、男と犬の謎は、心の中でときおり取り出し、眺めるのがいちばんと思えた。

とはいえ、私と男のあいだに交渉といえるようなものがなかったわけではない。ある昼間、ホテル脇の小便臭い路地を歩いていると、すれ違いざまに「こんにちは」と声をかけられた。驚いて目を上げると、あの男が片手をあげている。私も慌てて挨拶を返した。このときの男は、黒いTシャツを着ていて、それで気がつかなかったのだ。数日はその姿のままだったように思う。

また、ある夜、ホテルの入り口に立っていると、少し離れたところの縁石に座っていた男が、私に声をかけてきた。

「バチャバチャ! バチャバチャ!」

彼の知るアジアの言葉のようだった。私は軽く頭を下げると、ホテルに引っ込んだ。

旅・観察

犬の友だち(4)

夜、遅い時間に水を買いに外に出た私は、男の新たな一面を目撃した。男は洗車をしていたのだった。スポンジで車を擦り、片手にもった大きなペットボトルから水を注ぎ、泡を洗い流していた。

チュニジアでは日本のように頻繁に洗車をしないから、埃だらけの車も多い。そもそも、洗車したら水没してしまいそうな古い車も走っている。そんな車事情でも、この男が洗車をして稼ぐだけの余地が残されていたのだ。男が働いているあいだ、犬は少し離れたところで丸まったり、のっそりと男の周囲を歩き回ったりしていた。

犬はまったく他の人に関心がないようだった。ちょうど私がそうであったように、初めて見る人は、汚れて焦茶に見えるのか、もともと焦茶なのかわからないこの大きな犬を怖がる。だが、犬が誰かに吠えかかったり、脅かしたりしたのを見たことがなかった。

もっとも、犬はしばしば大胆になった。道路の真ん中で横になるのだ。車が進入してきてもすぐにはどかない。悠々と立ち上がると、待っている車を尻目にゆっくりと道を開ける。そして、チュニスの運転手も、犬相手にクラクションを鳴らすなどということはしない。あれほど人間には鳴らすのに不思議といえば不思議だ。

ある午後、私は例の犬がやはり道の真ん中で座っているのを見かけた。周りにはあの男はいなかった。私は携帯を取り出すと、その犬の写真を撮った。男がいたらそんなことはしなかったろう。犬は私のほうを少し見て、目を瞑った。

旅・観察

犬の友だち(3)

このとき以来、犬と男という二つの存在が私の中で結びついた。思えば、駐車係をしている男の周りにはいつだって犬がいた。そして、犬が寝っ転がっているところでは、男がビールケースに座ってタバコを吸っているのだった。

ある夜、私は男がこう犬に話しかけているのを聞いた。犬は歩道に寝そべっている。

「かわいそうなチビめ! お前はいつまでそこにいるつもりなんだ?」

男は、犬を置いて、ホテルの脇の道に入っていった。だが、すぐに再び犬のところに戻ると、屈んで犬の前足を取った。

「かわいそうなチビめ!」

またあるとき、男が犬を置いて道を渡ってしまった。残された犬は歩道を行ったり来たりした。車にさえぎられて男を見失いでもしたかのようだった。犬は表通りのほうまで歩いていきさえした。私は「お前の友人はいつもの寝床にいるぞ」と思いながら見ていたが、やがて犬も気がついたのか、道を渡って、男のいるマットのそばにゴロンと横になった。

犬と男の間にいったいどういう出会いがあり、どういう物語があったのだろうか。チュニジアには農閑期に出稼ぎに行く人もいるそうだ。どこかの村からふたりしてはるばるやってきたのだろうか? 夕暮れの田舎道をとぼとぼ歩いたり、列車に乗ってそろって景色を眺めたり……。私はいろいろなことを考えた。

もうひとつ不思議なことがあった。日中、犬も男も姿を消すのだ。ふたりでどこかに行ってしまったのだろうか。それとも、昼間は別行動という、あんがいドライな関係性なのだろうか。男はどこかのカフェで仲間と過ごし、犬は路地裏で野良犬たちと雑談を、とそれぞれの社交生活を楽しんで……。

ある昼下がりのこと、もっとも暑い時間帯に私はホテルを出た。犬も男もいない。ただ日差しが車と道を焼いているばかりだ。すでに汗をかきながら、私は歩道を降りて車道に踏み出す。

そのとき私は、駐車された車の下に犬がいるのに気がついた。影の中、前足に顎を乗せ、そこから外を見ていた。

旅・観察

犬の友だち(2)

私はこの通りを毎日歩いていたから、酔っ払いや犬ばかりでなく、いろいろなものに気がついた。

ホテルの前には別の大きなホテルがあった。それは古いホテルで、正面は大通りのほうに面し、寂れた側面をこちらに向けていた。その側面の一部に、カフェの跡地があった。看板が掲げられ、シャッターが下ろされている。閉店してずいぶん経つようだった。

看板の下は、入り口で、少し空間がひらけていた。そこに、マットが敷かれ、ブランケットが丸められ、プラスチックのカップが置かれていた。誰かがここを寝場所としているのだった。

また、夜になるとホテルの脇の歩道に、ひとりの男が出現するのにも気がついた。短い髭を生やした細身の男で、いつも緑色のポロシャツを着ていた。私より年上に見えた。

男はビールケースを椅子にして座って、タバコを吸ったり、道行く人に声をかけたりしていた。観察しているうちにわかってきたのだが、駐車係をしているのだった。

例のレストランの客などがこの道に駐車しようとするときに、うまい具合に誘導し、さらには車を見張って、それで小銭を稼いでいるようだった。レストランの人や客たちと男がやりとりしているようすからは、彼が厚い信頼を勝ちえているのがうかがえた。あるとき、警察の車が彼のいるところに止まったので、私は「もしや?」と心配になった。警察車両から人が出てくる。男に声をかける。すると、駐車してあった車に乗って行ってしまった。「客」だったのだ。

ある日の昼間、ホテルに戻ろうとこの道に入ると、私はカフェの下のマットに、緑のポロシャツの男が寝ているのに気がついた。ブランケットにくるまって背を向けている。そして、彼の足元からちょっと離れたところに、あの犬がまるまって寝ていた。

旅・観察

犬の友だち(1)

ターウジュートからチュニスに帰ってきて、一日休んで、再びSさんからベルベル語を学ぶ日々がはじまった。

私の滞在していたホテルは、中級のホテルで、同じ宿泊費ならばもっといいホテルもあったが、私はここに決めていた。なぜなら、一階に静かな会議室があって、誰も使っていないときに無料で使わせてもらっていたから。そして、利用する人はめったにいないようだった。

ホテルにはドアマンがいた。しかし、私が入ろうとしてもドアを開けてくれるわけではない。黙って玄関脇の椅子に座って携帯を見ている。あるいは、外に立って、電話をしたり、ぼんやり眺めたりしていた。ドアを開けてくれないばかりでなく、無愛想で挨拶すらしてくれないのだった。

ホテルの前にはいつも人が出入りしている店があった。夜になると酔った男たちが大声で話している。レストランのようだが、そうは見えなかった。私はそこが悪徳の巣のように思っていたが、ネットで調べたらちゃんとしたレストランだった。だが、私は行こうとは思わなかった。チュニジアのレストランは、お酒が飲めるものとそうでないものがある。そして、お酒が飲める場所は、室内の空気の八〇パーセントほどがタバコの煙だ。とてもうるさいので、耳栓も必要だ。しかし、もしそんなことをしていたら、酔っぱらいに絡まれること必定だ。

ホテルとレストランの間の道路の両側は、隙間なく車が止まっている。その多くがレストランの客の車のようだった。私はレストランから出てくる酔客たちのようすを見て、自分が勘違いしていたことに気がついた。

ドアマンではなく、ガードだったのだ。観察していると、外で大声が聞こえたり、何か不穏な動きがあると、玄関の男がすぐに立ち上がって外に出るのがわかった。だから、別に私に愛想よくする必要などないのだ。

しかも、ホテルの外の歩道にはときどき、汚れた大きな犬が寝転んでいた。通行人は怖がって避けて通る。私も噛みつかれたらたまらないのでやはり避けて通った。