旅・観察

チュニジアのベルベル語(4)

ベルベル語の本を手に入れた話のついでにいえば、チュニジアのベルベル語は (a) のガフサ東部では消滅したと考えられている。2 つのベルベル村があり、そのうちのひとつ、セネッドのベルベル語の文法書が 1911 年に出版されている(正式な書名は “Étude sur la Tamazir’t ou Zenatia de Qalât es-Sened”)。著者は Provotelle というフランス人だ。分厚い文法書ではないが、この地域のベルベル語の実態を伝える、ほとんど唯一の文献かもしれない。

私がこの本を手に入れたのも、チュニスの本屋だった。もう 20 年前のことだ。新刊と古書を売っている本屋で、チュニジアで刊行されたフランス語の本が並ぶコーナーで見つけたのだった。製本も緩くなっていて、すぐにもバラバラになりそうだった。もしかしたら 1911 年から買い手を待っていた可能性だってある。私はためらうことなく購入した。そして、その本は私の書架のどこかでさらに長く待たされることとなった。

だが、昨年のこと、その本が急に引っ張り出された。なぜなら、私は運よく、チュニジアのベルベル語を学ぶ機会を手に入れたからだ。この「運よく」を説明するには、まだ触れていなかった (b) のガベス西部マトマータのベルベル語の話に戻らねばならない。

旅・観察

チュニジアのベルベル語(3)

(d) のジェルバ島は、古代から名の知られた場所で、現在も夏になると観光客でいっぱいだ。私は昔、バスツアーで数時間立ち寄ったことがあるだけだ。また、2023 年の夏に、急にジェルバ行きを思い立って、チュニスの旅行代理店に駆け込んだら、ハイシーズンで航空券はなかった。どうせ、ホテルもレストランもお高いんでしょ、と諦めた。

そんなわけで、私にジェルバでの見聞はないに等しいが、一般には、チュニジアの中でも独自の文化をもつ土地として知られている。ベルベル人がいて、ベルベル語がまだ使われているということだけでなく、ユダヤ人のコミュニティも古くからある。また、あるチュニジア人作家は、ジェルバ人は見栄っ張りなので客間だけを豪華にする、などという話を愉快そうに語っている。

ヨーロッパでもよく知られた観光地なので、ジェルバのベルベル語はチュニジアの他の地域よりも関心を集めてきた。本格的な文法書はないが、論文はそれなりにある。最近でも、ジェルバのガッラーラのベルベル語で物語を記録した本が出版されている(しかも YouTube で音声も聞ける)。

私がこの本を手に入れたのは、チュニスのバルシャローナ広場前の本屋だ。チュニジアのアラビア語方言の本を探していると言ったら、「面白い本があるぞ」と、店主が勧めてくれたのだ。ベルベル語を調べ始める前のことだったが、こういうものは、その時に買わなければ、次に手に入るかどうかわからない。

(写真:ジェルバのベルベル語の物語集の表紙から。上から順にアラビア文字表記ベルベル語、アラビア語、ティフィナグ文字表記ベルベル語)

旅・観察

チュニジアのベルベル語(2)

チュニジアのベルベル語話者数は正確には不明だ。人口の 1 %にあたる 12 万人とする説もあるが、新しい研究では、その半分ぐらいだとされている。6 万人としても少ないが、もうひとつ重要なのは、チュニジアのベルベル語は、ひとつの言語ではないということだ。いくつもの変種があるため、個々の話者数はもっと少なくなる。

チュニジアのベルベル語は、南部のいくつかの小地域にのみ残っている。だいたい以下の 4 つの地域に分けられる。ガフサ、ガベス、タターウィーンはいずれも南部の都市で、ジェルバ島は有名な観光地だ。

(a) ガフサ東部(トゥマーグルト、セネッドの 2 つの村)
(b) ガベス西部のマトマータ(ズラーワ、ターウジュート、タマズラットの 3 つの村)
(c) タターウィーン(シュニンニー、ドゥウィーラートの 2 つの村)
(d) ジェルバ島(6 つの村)

このうち (a) のベルベル語はすでに消滅してしまったといわれている。もっとも、私自身で確かめたわけではないので、断言はできない。いずれにしろ、現在、ベルベル語が使われているのは (b) 〜 (d) ということになる。(c) のタターウィーンのベルベル語話者は、先行研究を見るかぎり、数百人規模のようだ。私自身、2024 年の 2 月、現地の友人とシュニンニーとドゥウィーラートを旅したとき、ひとりのベルベル語話者に出会ったことがある。

(写真はシュニンニー・ドゥウィーラート間の風景。2024 年 2 月撮影)

旅・観察

チュニジアのベルベル語(1)

ベルベル語は北アフリカを中心にサハラ砂漠に広がる地域で話されている言語グループだ。使用領域が広大で、交流も限定的なため、各地のベルベル語は独自の発展を遂げてきた。なので、ひとつの言語というよりも、ゆるやかにつながる大きな言語グループといったほうがいい。

もともと北アフリカはベルベル語話者の地域であった。とはいえ、地中海沿岸はフェニキア、ギリシア、ローマと古くから文明が発達した地域だったから、ベルベル人たちはさまざまな民族からの影響を強く受けてきた。

「ベルベル語」というのも、ギリシア語の「バルバロイ」に由来するという。この語は「言葉のわからない野蛮人」のような意味があるため、各地のベルベル人たちはそれぞれもっとふさわしい名称を使用している。

ベルベル人の社会を大きく変えることになったのは、7 世紀のアラブ人の到来と、それにともなうイスラームの受容だ。アラビア語話者であるアラブ人が北アフリカに定住するようになり、アラビア語の使用も広がっていった。アラビア語は、ベルベル語に比べて宗教的にも、文化的にも、経済的にも優位であったから、各地のベルベル人もアラビア語を話すようになり、ベルベル語は徐々に使用領域を減らしていった。

この過程は現在も進行中であるが、さいわいにもモロッコやアルジェリアではまだ大きなベルベル語社会が存続している。また、この 2 つの国ではベルベル語の地位の向上も進み、それぞれのベルベル語が活発に使用されるようになっている。

もっとも、アラブ化が進んだ結果、すでに消滅したベルベル語も多い。また今現在でも、話者数が減少しているベルベル語使用地域もある。そうした地域のひとつが、チュニジアの南部だ。

(写真はチュニジア南部の都市、ガベスの日の出)

ライブ

戸川純@東京キネマ倶楽部

先週行った Todd Rundgren よりも、私にとっては付き合いの長い戸川純のライブ「jun togawa “birthday” live 2026」に行った。

中学生のころの私のアイドルで、これまで一度もライブに行ったことがないのが不思議だが、子どものころと同じ感覚のままで、別世界にいる人のように思っていたからかもしれない。

今回は、64 歳の誕生日を記念するライブであったが、残念なことに、足を悪くしたせいで座ったままの歌唱だった。だが、前半最後の曲で立ち上がって歌ったときは、その声と迫力に思わず震えた。椅子に座っているよりもはるかに大きく見え、存在感がまったく違うのだ。

後半は、彼女の切り抜きを集めていた中学生の私が繰り返し聞いた「蛹化の女」「母子受精」「レーダーマン」、そしてアンコールの締めに「パンク蛹化の女」といううれしい選曲だった。

座っていたせいで最初は精彩を欠くように思えたが、MC で足の診察について医者のことをやたら愚痴ったり、高い声が出なくて「ごめんなさい」と謝ったりするのも、最後には戸川純の存在そのものに吸収されてしまった。サブカルという枠で音楽が聴かれた時代から、その枠そのものが消えたサブスクの現代まで、ステージに立ち続けている人になにをいうことがあろう。

今年もたくさんライブをするということなので、次は彼女がもっとステージを動き回れるようになるときに行くことに決めた。

ライブ

第 77 期義太夫節実践コースの受講生

義太夫節の実践コースの「三味線」と「語り」コースの内容について多少書いてきたが、受講生については触れないままだった。どんな人が参加したか少しまとめておく。

まず「語り」コースからいうと、16 人の受講生のうち、男性は私を含め 3 人だった。若い人もいたが、30 代から 50 代が中心だと思う。

基本的には文楽・浄瑠璃と歌舞伎が好きな人が多い。だから、先生方のちょっとした一言や裏話を楽しみ、ふとやってみせた一場面に感激している人も多かった。実際、目の前で聞くこと自体、最初は感動する。

受講生のなかには、地元の伝統芸能としての浄瑠璃に関わっている人、俳優や声優として活躍している人、音大の学生もいた。プロの演劇人はさすがに声の出し方が違うが、義太夫節の声の使い方は独特なので、そのまま通用するものではないというのも興味深かった。声が出せるということ自体、やはり一つの素質ではあるのだが、そこから先は、うまくコントロールできるかが大事なのだそうだ。

私はといえば、浄瑠璃や歌舞伎は観るよりも読む中心で、しかも演技経験ゼロなので、受講生としては少し変わっていたと思う。

三味線コースは 7 人で、私と同じように「語り」と両方とっている人もいたし、「三味線」だけという人もいた。みな何らかの形で三味線の経験があり、若い頃に三味線弾きの修行をしたという男性もいた。

「エレキ弾いたことあっし、三味線もできんじゃね?」と軽い気持ちで受講したのは私くらいで、非常に苦労した。だが、教室のあたたかい雰囲気のおかげでなんとか最後まで行きつき、無事に第 77 期の修了証をもらうことができた。

ライブ

義太夫節「語り」コース

義太夫協会主催の義太夫教室実践コースには、「語り」と「三味線」の 2 つのコースがある。三味線のことはこれまでに書いてきたので、今回は「語り」について少し書く。

語りのコースは二人の先生が隔週で交互に担当される。竹本越孝先生は『菅原伝授手習鑑 寺入りの段』、竹本京之助先生は『生写朝顔話』の薬売りの場面だ。

受講生は 16 人。最初は全員で少しずつ語りを練習する。義太夫節はどんなに大きな声を出しても怒られない、というのが先生方の教えだが、腹から声を出すのはそう簡単ではない。やがて、卒業発表会が近づくと、それぞれが一人で語る担当パートを割り当てられる。

「寺入りの段」での私の担当は、寺子屋主人の妻が、大騒ぎしている子どもたちを嗜めるセリフだ。一度、竹本越孝先生の前でやってみたら、女性が言っているようには聞こえなかったのだろう、「猛獣使いじゃないんだから」と評された。これには大笑いしてしまった。

また、「生写朝顔話」は、笑い薬の効能を語る口上が中心だ。「(この笑い薬を飲むとお腹の中に生まれた)笑いの玉が、ヤ、コロ、ヤ、コロ、コロコロ、コロコロコロ」と玉が転がって笑いを生み出す様子を語る場面がある。この部分を全員一人一人語ってみるということになった。

私の番が来ておっかなびっくりやってみたら、竹本京之助先生から「コロ」が疑問になっているとの指摘があった。それは私の自信のなさによるものだが、疑問を持ちながら転がる玉もあるまいと、やはり大笑いしてしまった。

どちらも実に的確なコメントで、納得しつつも、笑わずにはいられない。芸の奥深さに感心しながらも、楽しく学ぶことができた。

語りの授業には、三味線の脇弾きの先生もいて、先生や受講生の語りに三味線をつけてくれる。太夫は三味線を聞きながら語りを進めていくのだが、どのタイミングで語りを入れるかが非常に難しい。これが義太夫節のノリの大変なところで、スッとノレる人もいれば、私のようにフライングしたり、慌てて遅れてついていったりする人もいる。

私は義太夫節の勉強をもっぱら言語学上の関心から始めた。だが、本物の芸に触れるうちに、私は言語のさらに奥にある身体的なノリに突き当たった。義太夫節のこの固有のノリはどのように身につけられ、継承されてきたのだろうか。この問いに答えられるかどうかはさておき、大声を出して練習してみると、楽しいばかりでなく、言葉の見方まで変えてくれた「語り」コースであった。

ライブ

黙ってお三味を弾いてくれ(おまけ)

*タイトルはフランク・ザッパのギター・インスト・アルバム「黙ってギターを弾いてくれ(Shut Up ’n Play Yer Guitar)」のもじり。三味線ではなく「お三味」としたのは、語呂を合わせるため。この言い方はたまたま耳にしたものを使っただけで、義太夫教室で使われているわけではない。

*本文では触れなかったが、「太棹メドレー」の曲目と順番は「ソナエ」「オクリ」「三重」「木のぼり」「めりやす」「わし」「三番叟、鈴の合方」「行列」「野崎村」。先生が準備してくださった三味線独特の記法の「楽譜」を見ながら練習するので、(ある程度は)楽譜を読み解けるようになるのも、このコースの良いところであった。

*卒業発表会の前日は、一の糸(いちばん太い弦)、二の糸(その次に太い弦)を自分で張り替えてくるようにとの宿題。ギターの弦とは違うのでおっかなびっくりやってみる。いちばん細い三の糸は、少し特殊なので、当日、先生方が張り替えてくれた。

*今回の卒業発表会で着用した黒の着物はレンタル。肩衣(クラウス・ノミの上着風)と袴は義太夫協会が用意してくれたもの。襦袢や帯、足袋などは自分で購入したが、これは思わぬ出費であった。着付けは、若い先生方がしてくださった。あまり着崩れしていないので「着物が合っている」と言われた作者は元をとった気分になったとか。

*三味線は義太夫協会から月々 5,000 円でレンタルされたもので、卒業発表会後、返却した。三味線は扱いも難しく、練習も大変だったが、なくなってみると、少しさみしい。

ライブ

黙ってお三味を弾いてくれ(終わり)

前にも書いたが、掛け声は難しい。

みんなの音を揃えるためのものだが、鶴澤三寿々先生の掛け声を聞くと、それだけではない。体が三味線と一緒に歌っていて、音と音の間にその声が漏れ出たものが、掛け声になった、という感じだ。「音が鳴っていないときも休みではない」というのは先生の言葉だが、そのあいだも体は演奏を続けているのだ。

もちろん私はそんな境地には至るべくもない。そこで私が案じた作戦はといえば……

とにかく大きい声を出す。もう恥ずかしいだなんていってらんない。

毎日の練習でも、卒業発表会前日の最後の練習でも、私は声を張り上げることに集中した。鋭くもなければ、キレが良いわけでもなかった。ノリを生み出すかも怪しい。掛け声に気を取られて、手が止まる。だが、声のデカいは七難隠すだ。

そして、卒業発表会の日がやってきた。浅草公会堂第 2 集会室、定員 50 名。開場は 11 時半だ。幕が引かれた舞台に、肩衣に袴姿の私たちは並んで正座をする。先生方が私たちの前後を立ち回り、着物の襟や肩衣を直してくれる。「開演 1 分前!」と声が上がる。幕が上手から下手へと引かれていく。私たちは、三味線を棹の付け根に手を添えて、頭をほんの少し下げている。

舞台のいちばん右側にいる私の前を幕が通る。幕が開いたのだ。「とおおざいいい、とおおざいいい」と独特な声が呼ばわり、チョン、と柝が鳴る。

私たちは頭を上げ、姿勢を正し、三味線を構える。私は心を決める。

「ハッ!」

12 分ほどの演奏の後、幕が引かれた。私たちは舞台の裏から外の廊下に出る。「出入り口で三味線をぶつけないように!」と声が飛ぶ。三味線を大事に抱えながら、なかば夢見ごこちで廊下を歩いていく。別の三味線の先生から「掛け声よかったよ!」と褒められた。

ライブ

黙ってお三味を弾いてくれ(7)

卒業発表会まであと一ヶ月というころ、毎日の練習の甲斐あって、私はようやく合奏のジャマをしない程度に弾けるようになった。うまく弾けないところもたくさんあるが、「間違えても、間違えてないという顔で弾くのが大事」という三寿々先生の教えを胸に刻んでやるしかない。

だが、そんなとき、とんでもないことが持ち上がった。

義太夫教室の卒業発表会は、私たち第 77 期受講生だけでなく、過去の卒業生たちも演奏を披露する場だ。第 46 期の卒業生という大ベテランも参加する。プロとして活躍している太夫や三味線演奏家もサポートとして出演する。単なる素人の出し物ではない。義太夫節の伝統をつなぐ場だ。

プログラムを見ると、最初の演目は「太棹メドレー」とある。つまり、私たちの演奏だ。メドレーでは、短い曲を 9 曲、7 人の受講生が順番に掛け声を担当することになっていた。私は、2 番目の曲と、最後の曲の担当だ。

ところが、1 曲目の掛け声担当の方が、体調の問題で参加できなくなった。それで、代わりを務めることになったのが私だ。

これが何を意味するかというと……

伝統ある卒業発表会の、最初の演目の、最初の掛け声、つまり大事なイベントの開幕を告げる「ハッ」を、私が発するということになったのだ。

震え上がったのはいうまでもない。