散文

カレンの糸(手首結びの儀式5)

手首に糸を結ぶやり方は、私の前に座る若者が教えてくれた。まず、笊の上に載っている品々を相手の手にひとつずつ載せる。次に、白赤青の三本の糸を取り上げる(儀式が始まる前に私たちは三本セットになるように準備しておいた)。

その三本の糸の両端を持ち、糸の真ん中の部分を竹筒の中に垂らして、水に浸す。それから、濡れた部分を相手の手首につけ、糸で撫でるようにして水をつける。そして、手首に糸をぐるぐる巻いて、縛り、残った部分をハサミで切る。

簡単だ。私はまず前に座る二人の若者にこの儀式を施した。二人が立ち去ると、別の若者たちがやってきて、私は儀式に取り掛かった。私を含めた儀式係は一〇名ぐらいいて、一列に並んでいた。私たちはいわば長老役を任されていたのだった。その長老たちの前に若者たちが並び、次から次へと座った。何度も糸を巻きつけているうちに私は慣れてきて、しまいには催し物で出店をやっているかのような気分になった。手際も良くなって身のこなしも軽やかだった。

そこにカレンの青年がやってきた。私がその手に品々を乗せ、手首に糸を巻きつけようとすると、彼は餅米の握りから米粒を摘んで、頭になすりつけた。私が糸を巻きつけ、余りをハサミで切ると、彼はまたその糸の切れ端を摘んで、竹筒の水に浸し、糸で頭を濡らした。

これがより正式なやり方らしい。隣の人を見ると確かにそうしていた。すでに何人もの若いカレン人に不完全な儀式を施してしまっていた私は、申し訳なく思った。

だが、これらの若者たちにとっては、私の存在などたいした意味もないことに気づき、結局、どうということもないだろうと思った。

散文

カレンの木べら(手首結びの儀式4)

私たちが会場の前方で座っていると、入れ替わり立ち替わりスピーチが始まった。初めはビルマ語、次に別の若者が出てきてスゴー・カレン語で話し始める。その次は西ポー・カレン語、さらに東ポー・カレン語と続く。これはこういう式典ではよくあることで、同じ内容をビルマ語とそれぞれのカレン語で繰り返すのだ。

カレン語はこの三つ以外にもたくさんあるが、話者が多いのはこの三つなのだそうだ。カレン人の集いなのにビルマ語が使われるのは、カレン人以外のゲストもいたからでもあるが、そもそもカレン語の話せないカレン人もいるからだ。

さて、カレン語でのスピーチの最後に日本語でのスピーチもあった。あらかじめ準備した原稿をカレン人の若者が読み上げる。十分に分かりやすい日本語だ。

内容は手首結びの儀式とそれに使われる品々の説明だ。これは儀式の前に友人に教えてもらったのとほとんど変わりはなかった。また、私が少し不思議に思った soul だが、スピーチでも「良い魂」「悪い魂」と言っていた。もしかしたら、カレンの文化では、魂は体内にずっと留まっているものではなく、外に出て良くなったり悪くなったりするものなのかもしれない。もっとも、私が誤解している可能性はある。

なんにせよ、長いスピーチの時間は終わり、いよいよ儀式の開始となった。初めに木べらを取り、笊の縁をトントン叩く。どういうリズムで叩けばいいかわからないので、隣の人を見ながら叩く。私の左隣にいるのは、カレン人の女性で以前から知っている人だ。右隣の男性は知らない人だが、私と同じように戸惑っているところを見るとカレン人ではなさそうだ。私は女性の方を見ながら合わせて叩く。その向こうでも横一列に並んだ人々が叩いている。

この調子なら、私が間違って「悪い魂」を引き寄せたとしてもたぶん害はないだろう。

散文

カレンの笊(手首結びの儀式3)

若者たちは、会場の前に並べられた机の上に、竹製の大きな丸い笊を置いていった。その笊には「手首結びの儀式」に使われるものが置かれていた。中央には竹筒があり、その中には水が入れられていた。筒を取り巻くように五種の品が並べられている。バナナ、青い葉で包んだ餅米、餅米を握ったもの、サトウキビを五センチほどの長さに切ったもの、カレン語でホーイと呼ばれる葉だ。さらに白、青、赤の糸の束と木べらとハサミが置かれていた。

セレモニーが始まる前に、私はこれらの品々の意味を友人に尋ねた。水は生命に必要なもの、バナナは力、餅米関係の二品は団結、サトウキビは節があるので成長、葉っぱは繁殖を意味しているとのことだった。糸の色にも意味があるが、昔のことははっきりわからないと言いつつも、白は純潔だと、キリスト教徒カレン人の彼がどう理解しているかを教えてくれた。

木べらについて聞くと、これで笊の縁を叩いて、良い「ソウル」を取り戻し、悪い「ソウル」を追い出すのだという。ソウル(soul)であって、精霊(spirit)ではないのが私には興味深かったし、友人が「これは昔の人の考えだよ。はずかしいけど」と距離をとっていたのも面白かった。

さて、机の上に笊が並べられると、別の行列が作られた。今度は若いカレン人だけでなく、カレン人の年長者や日本人などのゲストが加わっている。別の友人が私を呼んで列に加わるよう指示し、こう言った。

「他の人を見てやれば大丈夫だよね」

「大丈夫ですよ」と私は適当に答えた。

列は会場の中央を通って、前に並べられた机に到着する。机にはいくつも笊が置かれていて、向かい合うように椅子が置かれている。私を含めたゲストはステージ側の椅子に座り、反対側の椅子には若いカレン人の男女が座った。私と二人のカレン人の間には笊がある。

私は重大な勘違いをしていたことに気がついた。

私は手首結びの儀式をしてもらう側ではなく、若者にする側の席に座らされていたのだった。大丈夫じゃなかった。

散文

カレンの角笛(手首結びの儀式2)

セレモニーが始まるまでの間、私は会場をぶらぶらと歩いて、写真を撮ったりした。正面の脇に台があり、カレン伝統の楽器、太鼓やシンバル、角笛などが並べられていた。人々はその前に立ち、紐のついた角笛を肩からぶら下げたりして、記念写真を撮っていた。

角笛とは、水牛の黒い角で、表面には模様やメッセージが彫られている。中は空洞になっていて、側面に穴が開けられている。そこから吹き鳴らすのだ。

この角笛は、カレン民族のシンボルのひとつで、カレンドラムという青銅製の大きな太鼓と共に、旗などに描かれているのをよく見かける。

私はこの角笛に思い出がある。二〇年以上前に、ビルマに行ったときの話だ。私はヤンゴンのインセインという地区にいた。そこはキリスト教徒のカレン人がたくさん住んでいるところで、私はカレン人の友人に案内してもらい、教会などを見て回った。そのとき、彼は私を小さな店に連れて行ってくれた。カレン人の伝統的な衣装などが売られていた。

そこにカレンの角笛があった。友人はその角笛を取り上げると、珍しがる私のために、穴に口をつけて息を吹いた。

すると、笛の根元と先端から小さな虫がわらわらと出てきた。私たちは笑ってしまったが、虫が巣食うくらい放置されていたようだった。ビルマ軍事政権下ではカレン人の集いはかなり制限されていたから、もしかしたら需要がなかったのかもしれない。

そして、ようやくセレモニーが始まった。会場の前方には横に机が並べられ、若いカレン人たちが男女ペアになって列を作った。先頭に立つ若者が、角笛を鳴らした。虫は出てこなかったし、意外に柔らかい音がした。

散文

カレンの服(手首結びの儀式1)

今日、曳舟文化センターで「カレン伝統の手首結びの儀式」というものがあった。これだとなんだかわからないが、日本在住のカレン民族が集まって行う伝統儀式で、手首に紐を巻きつける行事だ。こうした形で会場を借りて大々的に日本で開催するのは二年目だという。

大ホールにいっぱいのカレン人が集まり、色とりどりの伝統的な衣装を身につけていた。ほとんど私の知らない若い人ばかりだった。私の古くからの友人も何人か参加していたが、その友人の子どもたちよりも、みな若いのだった。

受付も若い人たちが座っていて、私の手に白い糸を巻いてくれた。丸いシールをもらい、服の上に貼る。十時半に集合とあったが、準備が終わらないのかなかなか始まらない。私は家から持ってきたカレンの民族衣装を取り出して着た。

民族衣装といってもそれほど難しいものではない。いわゆる貫頭衣で、頭からかぶるだけだ。私がいつも着る服は赤で、緑と黄色の房がついている。他の人は青や白などいろいろだ。そのとき、私の友人がやってきた。特別な機会だから他の服を用意してくれるという。彼の服は虹色で、初めて見るデザインだ。かっこいい。彼はしばらくどこかに服を取りに行った。戻ってきて、私に差し出した。

赤い服だった。

礼を言いながら受け取ると、彼の妻がやってきて笑いながら何か言った。「別の色にしてあげたら」と言ってくれたのだろう。友人は再び立ち去り、白と黒の渋めの服をもってきてくれた。

散文

KNUのゲスト(終)

議長もそうだが、若い幹部も英語ができる。なので英語で話してもいいよ、と私は言われていたが、カレン人たちの集いで、そんなことをするのは場違いなような気がしていた。それもあって私は黙っていたのだが、若い幹部がビルマ語で話すので、近くにいた遺恨ある人が私のために通訳をはじめた。すると、私の隣に座る別の若いカレン人も通訳しだした。私はこの「同時同時通訳」に混乱しつつも、二人のおかげでKNUの若きリーダーとの関係構築の実現に至った。

シメの冷麺やユッケジャンスープが出てきて、飲み放題もラストオーダーになった。私たちは席を立ち、議長と幹部を囲んで記念写真を撮った。私は昔、集会などの後にこういう記念写真をよく撮ったものだった。とはいえ、これはただの記念写真ではない。入管での難民審査で、政治活動の証明として提出するのに必要な写真でもある。

あるとき、なにかの集会の最後に集合写真を撮ることになった。私が写真を撮ろうと思って前に立つと、たくさんの人が自分の携帯でも撮って欲しいとカメラを渡してきた。私はカメラを自分の前に並べ、ひとつひとつ撮っていった。会場にはあの遺恨ある人もいたが、私に渡すのをためらっているようだった。私はとても怒っていたので、声をかけずに済ました。

焼肉屋の会場では、若者たちが議長の隣に並び、写真を撮りあっていた。私もゲストたちの隣に並んで写真を撮ってもらった。そして、遺恨ある人も隣に並んだ。今はビザもあるし、必要ないようにも思えたが、私は写真を撮った。

私たちは店を出て、会計が済むのを街灯の下で待っていた。ひとり五千円だというので、財布から出そうとすると、旧友のひとりが私を制した。財布に手を伸ばして損をした格好だ。このとき初めて私は議長に話しかけ、自分のカレン名を伝えた。これは日本のカレン人にもらったもので、スゴー・カレン語を話す人には必ず受ける鉄板ネタだ。これで少しは覚えてもらえたかもしれない。

会計が終わり、ゲストたちと別れると、私たちは池袋駅に向かって歩きだした。私は遺恨ある人と少し話をした。別れ際に彼女は「みんな歳をとったね」と言った。

散文

KNUのゲスト(3)

若いカレン人のひとりが私たちのテーブルで次から次へと焼肉を焼き、議長を含めみんなの取り皿にのせてくれた。私は悪い気がして「焼くよりもどうか食べてください」と言うと彼は「私は肉は食べないので」と答えた。遠慮なく食べた。

さて、この日は、二十年来の付き合いのカレン人が何人かいた。付き合いというか、一緒に日本でカレン人のための活動を作ってきた人たちだ。そして、そのうちのひとりと私は過去に遺恨があった。遺恨の内容は書かない。私にも言い分があり、相手にも言い分がある。ただ、私は集まりにその人がいたのを見て面倒だと思い、できるだけ近づかないようにしていた。相手もそう思ったのか、話しかけてはこなかった。

焼肉を食べながら私は、別のカレン人の友人に尋ねた。「議長たちのスケジュールはどうなっているんですか?」 だが、私の日本語がうまく理解できないようだった。私は言い直した。「いつ来て、いつ帰るんですか」

すると、遺恨あるカレン人が口を挟んだ。「それがわからない。今日だって急に集められた。だから困ってるよ」

議長たちを招待した団体は別で、そことの連絡がうまく行っていないとのことだった。目的については私は聞かなかったが、日本在住のカレン人や他の活動家と会ったり、日本政府の偉い人と交渉したりするのだろう。

議長はほとんど飲まなかったし、そもそも私たちのテーブルでは議長以外は誰も飲まなかった。そういう年長者の席だったが、若いKNU幹部のいるテーブルのほうは違った。若い人たちが座り、ビールがたびたび運ばれていった。

ロース、カルビに始まった焼肉は、レバー、ホルモンと続き、やがてシーフードになった。もっとも、焼いてくれていたカレン人がこれでようやく食べ物にありつけたかどうかはわからない。というのも、この時には人々は席替えをはじめ、私も若いKNU幹部のいるテーブルに移っていたから。若い幹部のほうはなかなか陽気な人で、私たちは何度も握手したり、乾杯したりした。

散文

KNUのゲスト(2)

だが、断るわけにはいかない事情があるのに気がついた。

というのも前日の日曜日、カレン人の大事なイベントがあり、私はそれも誘われていたのに断っていたからだ。イベントにはKNUのゲストが出席することも知らされていたし、友人が誘ってくれたのは私を紹介したいからだということもわかっていた。結局のところ、私は行くと返事をしたが、それは、むしろこの友人の厚意を二度も断りたくなかったからだ。

そして、池袋の焼肉屋に集まったのは、十三人の在日カレン人と私。しばらくすると友人が、近くのホテルからKNUのゲストを連れてきた。若いカレン人たちが入り口に立って、歓迎の花束を渡した。

会場は広めの個室で、お店も少しだけ高めだ。この店の系列店で働くカレン人がセッティングしてくれたのだという。

ゲストはKNU議長と若い幹部で、二つある大テーブルに別々に座った。私は議長の近くに座らされた。やがて、肉が出てくる。議長は日本酒を飲んでみることにしたようだった。

私は名前ぐらいは伝えたが、実際には議長と話すことはない。私は最近のビルマの状況については疎いので、あまりくだらない質問をしたくはなかった。

また、私はKNUの人を何人も知っていたが、そこで、あの人知ってる、この人知っている、KNUについてこんなこと知ってるなどと、KNU議長相手に釈迦に説法をおっ始めるほどバカではない。

それに、KNU内部にもいろいろな考えと立場がある。私を助けてくれた人が、別の人にとっては裏切り者だったりする。だから、余計なことは言わないのがいちばんだ。

そして、私については自分で言わなくても周りのカレン人がどんどん説明してくれた。これで十分だし、そもそもゲストと話すべきなのは、私ではない。他のカレン人、特に若い人たちだ。

そういうわけで私は、焼肉を食べるのに集中した。

散文

KNUのゲスト(1)

日本にはビルマから来たカレンの人々がいる。カレンの人々のすべてかどうかわからないが、多くがビルマ政府の迫害を経験し、難民として日本に逃れてきた。

ずいぶん昔にカレン人の政治団体がビルマで結成された。日本語でカレン民族同盟(KNU)という。ビルマは現在、さまざまな民族と内戦中だが、KNUはその中でも古株だ。もっとも、KNUは政府のようなもので、戦うのはその下にあるカレン民族解放軍(KNLA)だ。KNUは、他民族との協力・調整、ビルマ政府との交渉、日本政府などとの協議を行うほか、カレン難民の救援などいろいろな活動を行っている。

日本にいるカレン人の多くは、もちろん人によると思うが、KNUに対しては原則的には肯定的に捉えているように思う。というのも、カレン人の利益と希望を代表するもっとも大きな組織だからだ。また、身近な人がKNUの関係者や軍関係者であったりすることもある。ただし、KNU自体も長い歴史のあいだ大きな間違いを犯してきた。なので、多くの人はKNUを頼みの綱とするが、無条件に信頼しているというわけではない。その内情や行動についてはかなり厳しい目で見ているように思う。

私は日本のカレン人とのつき合いも長く、タイ・ビルマ国境の難民キャンプやビルマ国内のカレン人地域にもずいぶん行ったことがある。その過程で、KNUのさまざまなレベルの人々と会い、話す機会を持った。KNUの歴代の議長にも会ったことがある。もっとも、私は偉い人の前だと緊張してしまうので、ほとんど話さなかった。

カレン人地域に行ったのは二〇二四年二月が最後だ。この時は友人のカレン人とともにタイ側から国境を越えてビルマの紛争地域に入った。近くで鉄砲の音が聞こえるような場所だったが、私たちはわりに呑気に過ごした。その時も、友人の親戚のKNU兵士と一緒に行動した。

最近の私は在日カレン人の集まりにあまり顔を出してはいないが、この月曜日、友人から急に連絡が入った。

「今夜、KNUの議長たちと池袋で焼肉を食べるから来てくださいね」

急に言われても困るので私は断ろうと思った。

散文

カレン・ニューイヤー 2026(2)

今年のカレン・ニューイヤーは 12 時に始まって 17 時まで続く。前半は式典で、カレン人の歴史や文化に関するスピーチや、ダンス・歌などが行われていた。後半は私はいなかったのでわからないが、おそらく他のビルマ関係の団体のスピーチなどもあったに違いない。

ダンスはカレン人の伝統的な集団舞踊で、若い人たちが中心になって練習してきたものだ。大阪にもカレン人のコミュニティがあって、その若者たちが東京にやってきてダンスを披露していた。

私は若い人はほとんど知らないが、古い友人たちにはたくさん会えた。そのうちの何人かは壇上に上げられ、在日カレン人のための長年の活動に対する感謝として若いカレン人たちから記念品を贈呈されていた。これは、功労者の顕彰というよりも、若い人たちが増えたので、これまで日本で活動してきた年長の人々を知ってもらおうという意味で企画されたとのことだ。

私は式典のあいだ、舞台の前や、ときには舞台裏に入り込んで写真を撮ったりしていた。舞台裏の袖のミキサー台のところに友人がいた。横に座ってカレン・ニューイヤーにつきものの食事について尋ねた。

「食事は 4 階で食べる。このホールでは食べることができないから」と残念そうな様子だったので「でも、いいじゃないですか。これだけの人が集まったんだから」と私は言った。

彼が残念に思っていたのは、本当は、同じ場所で食べて、みんなで楽しむのがこのお祭りだったからだ。しかし、東京ではそんな会場は見つからない。20 年以上前、日本のカレン・ニューイヤーがまだ内輪の集まりだったとき、私たちはバンドで演奏して、歌ったり、食べてたり、飲んだりしたものだった。だが、もはやそんなときは来ないだろう。日本のカレン人コミュニティはそんな段階にまで成長したのだ。

そうだとしても、今、東京のどこかで、別の国の別のグループが、かつてのカレン人のように、小さなお祭りを楽しんでいる、それは間違いないように思われる。