風刺・戯文

第二次世界観戦争

アニメや漫画に「この世界観にはついていけない」とか「この世界観にはハマれない」などと言う私たちは、貧乏人や家のない人、ひどい病人や難民を見ても「この世界観はちょっと……」というようになった。

さらには、隣国の偉い人を見ても「なんだこの世界観は」などと私たちは呆れてた。だから、私たちの首相がそのあたりピーンときて、やたらと世界観を大切にしだした。それで、ついに隣国の世界観にまで文句をつけたとき、私たちは喝采を送ったんだ。

で、隣国ときたら、私たちを激しく非難。しょうもない世界観のくせに引き下がるどころか、挑発してくるってのか。おたがい睨み合っているうちに、最初の銃弾がどちらかの陣営からか発射され、誰かが死んだ。世界観戦争が始まったってわけ。

開戦の知らせに、私たちは小躍りして喜んだけど、だんだん様子が違ってきた。食べ物もないし、毎日タダ働きだ。文句をいうと殴られる。誰かが「この世界観にはついていけない」と言ったら、警察がやってきて、そいつをどこかに連れて行った。だから、私たちはこの世界観に慣れるしかなかった。

戦争は終わる気配もなく、やがて私たちはみな前線に送り込まれた。世界観と同じように、戦場にも慣れるかと思ったけど、そんなことはなかった。銃火のなか、死体に囲まれ、傷に苦悶しながら、私たちが無言で思い続けたのは「この世界観にはついていけない」ということばかり。

私たちも近く、戦場で殺されるはず。そして、その死の瞬間にもやはり「この世界観にはついていけない」がいくども脳裏をよぎることだろう。

でもさ、私たちはいつ世界観から置き去りにされたっての。

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風刺・戯文

文学のリマスター

リマスターとは、現代の最新技術を用いて、昔の音源や映像の音質や画質を向上させることだ。音楽であれば、デジタル化、音圧調整、ノイズ除去などによって、音を補正すると、クリアで迫力のある音に生まれ変わる。

映像のリマスターも同じで、解像度を高くしたり、傷やノイズを無くしたり、色調を鮮やかに補正することだ。YouTube などには、古い作品とリマスター後の映像を並べ、その違いをはっきりと示してくれる動画もたくさんある。古い映画やアニメ・ドラマが、まるで最新の作品のようにキレイに見えるのだ。

このリマスターの手法を、文学にも応用できないか、と私はかねてから考えていた。そして、いろいろ試行錯誤した結果、ついに小説のリマスターに成功した。解像度を 8K にまで高め、独自に開発した AI を活用してノイズを消去し、色調も可能な限りオリジナルに近いものを目指した。リマスターしたのは、あの名作、夏目漱石の『それから』のラストシーン。ぜひ、クリアになったイメージと、美しい色彩を味わってほしい。

【修復前】
烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。

【8K AI リマスター後】
烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。

風刺・戯文

足繁く通いすぎて

神経質というか屁理屈屋というか、とにかく厄介な人が東京に来て、その人を食事に連れて行かねばならなくなった。私はネットで見つけた良さげなレストランを提案することにした。「ここなんてどうでしょうか、有名人が足繁く通う名店とのことです」と言ったら、その人が怒ること怒ること。ひとしきり罵り喚くと気が済んだのか、彼はこんなことを話しだした。

……僕はね、この「足繁く」って言葉の使われ方にもう我慢ならんのだ。これは、ある場所に頻繁に行くという意味でしかないのだが、今では、さっきの「有名人が足繁く通う名店」みたいに、気取った連中が、有名人とやらにあやかって自分を演出するために使うクリシェになってしまった。それこそ、ボロ靴、しかも歩き方のせいで片方だけすり減ったってくらい摩滅してしまったんだ。それでだね、僕はここ数年、毎日、SNS かなんかのコメント欄にこんな書き込みをして、「足繁く通う」を正気に帰らせようとしているんだ。

「テロリストが足繁く通うアジト」
「卑劣な盗撮魔が足繁く通う駅」
「麻薬中毒者が足繁く通う公衆便所」

その人はこう捲し立てると顔を紅潮させながらつけ加えた。「こんなふうに僕は毎日、言葉を世界に送り出しているのだ。まるでちょっとしたオウィディウスみたいじゃないか、『悲しみの歌』で自分の本をローマに送り出したところがね」

私は「どうかこの男も、そのローマの詩人みたいに首都から追放されるように!」と内心祈りながら、いちばん近くにある汚くてまずい店に彼を案内した。言葉に対する感覚とは逆に、舌は粗雑なようで、うまいうまいと貪っていた。

音楽

Friday I’m in Love

「Friday I’m in Love」は、イギリスのバンド The Cure が 1992 年に発表した曲だ。バンドの代表曲というばかりでなく、この時代のロックを象徴する一曲といっていいほどの名曲だ。

一聴すると、金曜日からの週末のウキウキした恋の歌という印象を与える。だが、専門的に見ると、ことはそう簡単ではないらしい。この度、英語学者、詩人、文芸評論家、音楽研究家などの専門家が一堂に会し、この曲の歌詞について徹底的に討論をするシンポジウムが開催された。

意外で、そして面白いことに、「Friday I’m in Love」というタイトル自体からしてそもそも大きな問題を孕んでいるというのだ。どうしてかというと、「Friday」の文法的な役割が不明確なのだという。つまり、この「Friday」は、目的語としても(「私は金曜日を愛する」)、時の副詞としても(「金曜日に私は愛する」)、トピックとしても(「金曜日は私は愛する」)、呼びかけとしても(「金曜日よ、私は愛する」)、あるいはそのどれにも解釈できる要素として、読めるのだそうだ。

シンポジウムでは、このタイトルばかりでなく、歌詞の一節「It’s Friday, I’m in love」についても議論された。また、英語史やドイツ語やデンマーク語などの例も引き合いに出されるなど高度に専門的な内容であった。私にはとても面白かった。

とはいえ、このシンポジウムには成功とは言い難い面もあった。というのも、開催されたのが金曜のお昼からであったため、夕方になるにつれて専門家たちはみなソワソワし始め、そのうちみんな消えてしまったからだ。開催するならば、火曜日か水曜日がよかったのではないか。

風刺・戯文

世界観戦争

私たちは世界観が大好きだ。「魔法が現実に存在する世界」「記憶が貸し借りできる世界」「愛が禁止された世界」「同じ一日を何度も繰り返す世界」などなど、面白い世界観がなくてはもう生きていけないほどなのだ。

だけど、どんな世界観でもいいというわけでもない。つまらない世界観だってある。とくに私たちの世界観を邪魔する世界観は最悪だ。たとえば「私たちをきらいな人が幅を利かせている世界」とか、そんな世界観にはついていけない。それで私たちは、自分たちの世界観を守るために、不愉快な世界観の撲滅に立ち上がった。

私たちの世界観が、不快な世界観とがぶつかって、摩擦が生じ、ついに火が着いた。世界観の戦争がはじまったのだ。別の世界観も次々と巻き込まれて、世界世界観戦争の様相を呈しきてきた。世界中で燃え盛る戦火のせいで、もう世界そのものが消滅しそうなほど。だけど、私たちはまったく気にしてない。なぜなら、世界がなくても世界観はなくならない、そんな世界観だから。

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散文

ビルマ人とユダヤ人

この間、日本に暮らすビルマ人とご飯を食べた。焼肉屋で働く彼は忙しくて、なかなか会うことができない。年末前の最後の休みを私との時間に割いてくれたのだった。そのとき、彼が最近関わった仕事について聞いた。

50 人ほどのユダヤ人(イスラエルの人かどうかはわからない)が、日本にやってきたのだという。しかし、ユダヤ教には食べ物について厳しい決まりがある。すべてのユダヤ人が厳格に守るかどうかは別として、このご一行はその辺りはちゃんとしていたいらしかった。なので、日本の食べ物をそのまま出すわけにはいかない。

そこで、東京のホテルに滞在中の 2 日間、専門の料理人が用意されることになった。その仕事の話が、私の友人のところに来たのだという。彼は肉の専門家なので肉料理を担当した。そのホテルの厨房を借りて、ユダヤ人が食べてもいい牛肉を、ユダヤ人が飲んでもいいワインでじっくり煮た料理、つまり牛肉のワイン煮を作って出したのだそうだ。

他にも料理人が 2 人いた。ひとりは寿司を担当したが、もうひとりはわからない。そして、その 2 人も、都内の飲食店で働くビルマ人だった。

3 人ともビルマ人というのが面白い。もちろん日本人がまったく関わっていないということはないだろうが、ほとんどの日本人が知らないなか、東京で思いもよらぬ関係とビジネスが成立していたことに、私は興奮を感じる。

そしてまた、この 2 日間で友人に支払われたという 10 万円についても、興奮を禁じえない。

風刺・戯文

私の私

あなたの私はあなたですか。それとも私ですか。私の私は私です。なのにどうしてあなたは私なのですか。

あなたの私はあなたで、私の私は私、そうおっしゃるのですか。つまり、私の私が私で、同時にあなたの私があなたの私ということになるのですか。おかしいではないですか。私の私が私なら、あなたの私は私の私ではないですか。

違うとおっしゃるのですか。私の私も、あなたの私も、同じ私だというのですか。ですが、私はあなたではないですし、あなたは私ではないです。なのに同じ私とは変ではありませんか。

みんな、同じ私を使っている、というのですか。私はみんなのもの、誰でも使える。そんなことありますか? 理屈がわかりません、まったくわかりません。

あ、いや、わかりました。私はみんなもの、というのは、私の私は私のもの、あなたの私はあなたのものだけれども、私の私がないときに、あなたの私を私の私として使ってもいいということか。これはいい。私に 1 万円ください。あなたの 1 万円はたぶん私の 1 万円だから。

風刺・戯文

海外のニュース

国内のニュースで悲惨な出来事、たとえば幼い子どもが犠牲になった犯罪や事故のニュースを見ると、私たちは心を痛め、悲しい気持ちになる。それどころか、いてもたってもいられなくなり、激しい怒りを感じる。そして、ときには私たちの怒りの矛先は、事態をそこまで放置していた地方行政や、政府に対して向かう。

ところが、海外のニュースは違う。子どもたちが犠牲になっても国内のニュースほどには心は動かない。アメリカでどんな衝撃的な銃撃事件が起きても、もう飽き飽きしてあまりピンとこない。ウクライナでたくさんの子どもたちがロシアに誘拐されても、ガザでたくさんの人々が飢えに苦しんでいても、遠い出来事なのでけっこう平気でいられる。

私たち日本人のこうした性質に配慮したせいか、最近では海外のニュースにこんなものまで入れられるようになった。

「日本に逃げてきた難民が直面する差別」
「日本生まれの子どもが日本語しか話せないのに強制送還」

私たちはこんなニュースを見ても、ちっとも悲しかない。なぜなら遠い海外のニュースだからだ。そのうち、日本で外国人が殺されたり、日本で外国人を標的にしたテロが起きたりしても、海外ニュース扱いになるだろう。

いや、日本が外国と戦争しても、海外ニュースになるだろう。そのとききっと、国内ニュースは楽しいことばかりにちがいない。

小説

反対側のドアが開きます

都内の電車で奇妙なできごとが発生した。ある特定の車両だけ乗客がいなくなるのだ。どういうことかというと、その車両に乗ると、乗客はひとりひとり前後の車両に移動していき、やがて無人になってしまう。

しかも、移動した乗客たちには一様に異常な振る舞いを見せた。すなわち、誰もが苦しげな表情でぶつぶつなにやら繰り返すばかりなのだ。この「症状」は下車するまで続くことも明らかになった。鉄道エンジニアたちが、車体を調査したが、異常な点は見当たらなかった。駅長が、もはやこれはお祓いをするほかない、と諦めはじめたとき、白い制服を着た駅員たちが姿を現した。「我々は異常現象究明部です。非科学的な対応をする前に、我々に任せてください」

駅長が「もうエンジニアたちが徹底的に調べたのだ」というのも聞かずに、白駅員たちは勝手に、問題の車両に乗り込み、聞いたこともないような掛け声をあげて、奇怪な機器を振り回していた。駅長たちは呆れながら見ていたが、10 分もしないうちに、白駅員が叫んだ。「これだ!」

異常の原因が明らかになったというのだ。白駅員が駅長たちを車両に呼んだ。

「これを見てください」と白駅員は乗降ドアの上の電光掲示板をさし示した。「実際に運行中のときのプログラムのまま、案内が流れるようにしてもらいましょう」 電光掲示板に「次は東京」と表示され、次の瞬間、「反対側のドアが開きます」に切り替わった。

「これです! さあ、急いで反対側のドアを見てください!」

駅長は振り返って反対側のドアの上の掲示板に目を向け、思わず「あっ」と叫んだ。なぜならそこにも「反対側のドアが開きます」と記されていたから。

そして、これを見た瞬間、駅長はもう一度、反対側の掲示板を見ずにはいられなかった。

「反対側のドアが開きます」

そして、駅長は反対側を見た。

「反対側のドアが開きます」

頭の中で「反対側のドアが開きます」がぐるぐると回り出し、駅長は「ま、真ん中のドア」とうわごとのように繰り返しながら、ふらふらと車両を連結するドアのほうに歩いていき、隣の車両に姿を消した。

風刺・戯文

物語を紡ぐ

先生が私たちに物語を紡いで見せるとき、私たちはこれ以上なく元気と勇気が湧いてくる。自分たちが、まだ故郷と家族を愛せるということを知って、涙が止まらなくなる。それもそのはず、先生の物語は時間をかけて丁寧に紡がれたものなのだから。

そんなとき、ひとりのみすぼらしい男が私たちの輪の中に入り込んできた。そいつは、先生の話をしばらく聞くと、せせら笑ってこういった。

「史実もへったくれもないじゃないか。嘘ばっかりだ」

私たちは落ち着き払って言い返した。「むしろあなたのほうが嘘つきでは」

すると怪しい男は、先生の物語の間違いとやらをひとつひとつ指摘し始めた。聞くに耐えない言葉だった。

「先生の紡いだ物語にケチをつけるとは、私たちの敵だな」と私たちが迫ると、男は平然としていった。「私は、その先生とやらが紡いだひどい物語をみなさんの前でほどいているに過ぎない。そもそも、こんな物語を広めるほうが敵だ」

私たちはもはや我慢ができず、男を組み伏せ、ロープで縛り上げた。

「このロープを先生の紡いだ物語だと思え! ほどけるものならほどいてみろ!」

私たちは湖に行き、男を沈めた。