散文

笑い話の解説(終)

最後のポイントは、チュニジアの教育制度に関わることだが、これについては、baqarat-u-n「ある一頭の雌牛が」の -tun ほど自信を持っていうことはできない。なので、少しいい加減だ。

チュニジアはかつてフランスの植民地で、その時代はフランス語のほうが重要で、標準アラビア語の優先度は低かった。また、昔の日本でもそうだったように、学校に行くことは一般的ではなく、読み書きのできない大人も多かった。

しかし、一九五六年にフランスから独立すると、初代大統領となったハビーブ・ブールギーバ(ブルギバ)は西欧風の教育制度を導入した。これにより標準アラビア語が小学校でも教えられるようになった。もっとも、正確な時期は私にはわからないが。

私がこれから(ようやく)紹介する笑い話の舞台は、すでに言ったように、南部チュニジアのターウジュートという村だ。これを教えてくれた同村出身のSさんによれば、彼の子どものころの話だというから、一九六〇年代半ばごろのことのようだ。

ターウジュート村は、チュニジアでも数少ないベルベル語が残る村で、今は話者数は少なくなっているが、一九六〇年代にはもっと活発に話されていたことだろう。そこに、政府のお達しにより小学校ができ、標準アラビア語が教えられることになった。

学ぶのは小学生ばかりではない。Sさんによれば、読み書きのできない大人たちも子どもと机を並べて勉強したそうだ。先生は村の外から来た人で、ベルベル語はわからない。さてここから笑い話が始まる。


黒板に雌牛の絵が貼られている。先生が、子どもたち(と大人たち)の前でそれを指差し、ひとりの子どもに標準アラビア語で問いかける。

「マー・ハージヒ(maː haːðihi、これはなんですか)」

子どもは大まじめに答える。

「フーナーサトゥン(fuːnaːsa-tun)」


かわいらしい子どもの間違いだが、これを笑い話として今も語り継いでいるターウジュート村の人々も面白い。そして、チュニジアの中でもターウジュートという小さな村でしか通用しない笑い話について長々と書いてきた結果、もうあまり面白くなくなってきている私も、それに付き合ってくれたみなさんも面白い。

散文

笑い話の解説(4)

解説のポイントは残すところあと二つ。今回が山場だ。チュニジアでは標準アラビア語と方言が話されていると以前書いたが、そのほかにも使われている言語がある。代表的なものはフランス語で、標準アラビア語よりも役に立つ場合がある。

だが、この解説で取り上げるのは、チュニジアの限られた場所で使用されている少数言語、ベルベル語だ。アラビア語の遠い遠い親戚だが、まったく別の言語だ。前回出てきた「雌牛」はベルベル語では次のようにいう。

θaːfuːnaːsθ「雌牛」

これは、南チュニジアのターウジュートで使われている形で、ターウジュートはこの笑い話の舞台だ。θ は英語の third の th の音だ。雄牛の形と比べればわかるように、女性形は θ —— θ で挟み込んで作る。

aːfuːnaːs「雄牛」
θ-aːfuːnaːs-θ「雌牛」

このルールが飲み込めた人は、次は s-θ の発音にチャレンジしてほしい。私はできない。

それはともかく、この女性形の作り方が、笑い話の理解に必要だ。だが、ここまでくれば、私が紹介しようとしている笑い話がどんなものか見当のついた人もいるかもしれない。おそらくそれは正しい。なので、それだけじゃないぞ、ということを示すために、私は最後の解説でこの笑い話のかわいさも伝えたいと思う。

散文

笑い話の解説(3)

笑い話を理解するための次のポイントは、標準アラビア語と方言の違いだ。もっとも、説明する私にとってさいわいなことに、笑い話に関係するのは「雌牛」という単語だけだ。

標準アラビア語では「雌牛」は baqara という。チュニス方言では bagra だ。あまり大きく違わない。ただし、使い方の点では大いに異なる。標準アラビア語には格変化がある。格というのは、日本語の助詞「〜が」「〜を」「〜の」の役割に似たもので、この役割に合わせて語尾が変化する。具体的には次のとおり。

baqarat-u-n「ある一頭の雌牛が」
baqarat-a-n「ある一頭の雌牛を」
baqarat-i-n「ある一頭の雌牛の」

ここで「〜が」「〜を」「〜の」の違いに対応しているのが -u、-a、-i だ。末尾の -n はここでは「ある」に対応し、英語の不定冠詞の a に似ている。ちなみに方言では「〜が」だろうが「〜を」だろうがなんだろうが、いつも bagra だ。つまり格変化はない。

なお、この格変化は、アラビア語を学ぶ気のない人は覚える必要はない。また、アラビア語を学びたいと思っている人も覚える必要はない。なぜなら、アラビア語入門の最初の授業で学ぶことだから。-un が、いかにも標準アラビア語らしい語尾だということがわかれば十分。

だが、もうひとつ大事なポイントがある。baqara の後にいきなり出現した t だ。これは、この名詞の後に格語尾がついたり、別の名詞が続いたりすると出てくるものだ。この t にはいくつか意味があるが、ここでは女性名詞の印だとしておくと、次のポイントに進みやすくなる。

なお、この t は、方言の bagra にも隠れている。とはいえ、こっちのほうは笑い話には関係はない。

散文

笑い話の解説(2)

笑い話のための解説を書くと言ったが、実のところそれすらも不可能のように思われてきた。翻訳は原理的に不可能だというが、それと同じだ。しかし、私は特殊な人間ではない。私がわかることは、誰でもわかることだ。なので、完全な解説は不可能であるにしても、私がわかった程度には解説できる。

まず、チュニジアの言語状況だ。チュニジアではアラビア語が使われている。だが、アラビア語といっても、いろいろある。チュニジアの人々が普段使っているのは、一般にアラビア語の方言と呼ばれている言葉だ。いっぽう、標準アラビア語も使われている。これは一般的な書き言葉として使用されている。また、政治や宗教、メディアなどでは話し言葉としても用いられている。

標準アラビア語は、コーランの時代から受け継がれてきた言語で、いわば古典語だ。日本語でも話し言葉と書き言葉の違いはあるが、その差はそれほど大きくはない。標準アラビア語と方言の関係は、日本語に当てはめるならば、江戸時代の候文と現代の話し言葉の関係に似ている。日本語を話せるからといって、候文をすらすら読んだり書いたりはできないように、アラビア語方言を話せるからといって、標準アラビア語の読み書きが簡単だとはかぎらない。だから、ちょうど日本の子どもたちが学校で古典や漢文を学ぶように、チュニジアの子どもたちは、小学校から標準アラビア語を学ぶ。

ただし、日本では平安時代の言葉や漢文読み下し文で話している人はいない。いや、いるかもしれないが、あまり近寄りたくはない。しかし、標準アラビア語は違う。チュニジアでは、ニュースでは標準アラビア語で話しているし、新聞も出版物も標準アラビア語で書かれている。しかし、普通のチュニジア人が街角や家庭で標準アラビア語で会話をすることはまずない。日常会話は方言でないとおかしい。

こんなふうに、ある社会で二つの言葉が使われ、それぞれの使用場面がはっきり分かれている状況を、ダイグロシアと呼ぶ。笑い話の解説の最初のポイントが、このダイグロシアだ。ただ、この用語自体は、笑いの妨げになるので、すぐに忘れていい。

散文

笑い話の解説(1)

昔、子どものころ読んだジョークにこんなものがあった。

「ソビエトにおけるポルノの解禁はいつか?」

党指導部「段階的に進んでいる。すでにレーニンは帽子をとって演説を行っている」

正確には覚えていないがこんなものだったと思う。このジョークはそれほど難しいものではないが、それでもソビエトの権威主義的な体制、レーニンのこと、そしてそのヘアスタイル(もしくはその不在)について知っていなくてはならない。

ジョークというものは短いから、そのぶん、聞く方が文脈や前提となる知識を共有している必要がある。そうした共有がない場合に解説してしまうと、面白くなくなる。

私は先月チュニジアに滞在したときに、きわめて面白い笑い話を聞いた。そしてこの笑い話を人に話したくてしかたがない。だが、笑い話もジョークと同じで、その出来事に関係する知識がなくては笑えない。ここにその笑い話をそのまま書いてもいいのだが、それで笑える人はまずいないだろう。

だから、私は問題の笑い話を書く前に、あらかじめいくつか大事なことを書いておこうと思っている。もちろん、こうした解説によって笑い話が死ぬことはわかっている。笑い話やジョークというのは学びがあってはいけない。すでに学び、当然だと思っていることを揺さぶったり壊したりするのが、ジョークであり笑い話だ。

「ははあ、おかげさまでレーニンが禿頭だとはじめて知りました」などと感心されては笑えない。学びや感心はジョークの敵なのだ。

だから、私がこれから書く解説も、笑いにとっては利敵行為だ。なのでむしろこう言いたいくらいだ。解説を読んで、それから数週間後、もう解説をなかば忘れかけたころに笑い話のほうを読んでほしい、と。そうすれば笑えるかもしれない。そんなことをする人はいないだろうが、それくらい私は誰かにこの笑い話を楽しんでほしいのだ。

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(7)

 ビデオは、騒がしい場所で撮影したこともあり、聞き取りにくいところもあった。またそもそもわからない言葉もたくさんあった。そこで、今年の2月にスーサを訪問する時は、このビデオのインタビューや語りについてシェドリーさんに解説してもらおうと考えていた。

 2月21日に私はチュニスに着くと、シェドリーさんの友人のJさんにmessengerで連絡を取った。というのも、シェドリーさんはFacebookなどを使わないので。すると、Jさんからこんな返事が返ってきた。

 「シェドリーさんは亡くなりました」

 かくして、昨年の夏の映像記録はかけがえのないものとなったのであった。

 私はスーサに着くと、そのビデオをコピーしてJさんに渡した。映像編集の仕事をしているJさんは、ビデオを編集して、フダーウィーのフェスティバルで上映してくれるとのことだった。

 シェルギーさんのお墓に行きたいと思ったが、スーサの町から少し離れたところにあるというので、今回はやめにした。

 さて、他にフダーウィーの活動をしている方に会いたかったが、Jさんによれば今はスーサにはいないとのこと。そこで彼が紹介してくれたのが、フェスティバルの運営に関わっているLさんというスーサ文化委員会の方だった。Lさんは忙しいなか時間を割いて、フェステバルについて話してくれた。フェスティバルは、例年5月に行われるが、今年は、4月末に開催する予定だという。

 私はLさんにこう言ってみた。

 「僕もフダーウィーとして参加できませんか」

 ちょっと無謀な提案だったが、ありがたいことに快諾してくれた。フダーウィーのことを知りたいのなら、自分でやってみなくては、だ。語るのは日本の民話、そのチュニス方言版ということになった。そこで、今後の手はずなどを決めて、私はスーサを発ったのだった。

 しかし、このコロナだ。4月にチュニジアどころではなくなった。

 はなはだ精彩を欠く私の肩書にフダーウィーが加わるのはまだまだ先になるもようで、それまでは手洗い・うがい・換気に専念するほかあるまい。

(おしまい)

スーサのおしゃれなカフェ、Dar Kmar。ここもフェスティバル中はフダーウィーの舞台となる。
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(6)

 そこで、去年の夏のチュニジア調査のさい、スーサに行ってみることにした。スーサは、チュニジア第3の規模の都市で、それほど大きくはないが、やはり歴史のある都市だ。インターネットの記事によると、スーサの図書館がフェスティバルの運営に関わっているようだった。そこで、地図を見ながら図書館に行ってみることにした。だが、目当ての場所に行ってみても工事中の建物があるばかりでなにもない。しばらく歩いてから、近くのカフェで尋ねてみると、まさしくその工事中の建物が図書館なのだった。改築中というわけだ。

 これで手掛かりが失われたわけだが、歩き回っている最中に、スーサ文化委員会の建物を見つけたので、そこに行ってみることにした。

 建物に入ると、受付らしき人がいる。フダーウィーのフェスティバルとフダーウィーのことを尋ねる。受付の人がフェスティバルについて答え始めると、どこからか1人の年配の男性がふらりと現れて私のそばに立った。なんだめんどくさいジジイが出てきたな、と思う私に、受付の人はこういったのだった。

 「彼もフダーウィーだよ」

 私がフダーウィーに会ったのはこうした次第であった。

 この人はウェルギー・シェドリー(Ouerghy Chedly)という方で、俳優をされているとのことだった。つまり、俳優としての活動の一環として語り部としても活躍されているのであり、伝統的なフダーウィーとは異なる。

 しかし、それはちょうど遠野で語り部として活動されている方が昔の語り部とは異なるのと同じだ。つまり、一度廃れかけた語り部の文化を復興しようという世界的な潮流の中で捉えなくてはならない。

 そして、スーサで毎年開催されているフダーウィーのフェスティバルも、世界の語りの文化の交流発展の場として企画されたものとのことだった。期間中は、アラブ世界の語り部のみならず、ヨーロッパの語り部が、スーサの様々な場所でその話芸を披露する。

 また、語りに関するシンポジウムも開催され、研究発表もあるという。このフェスティバルは、北アフリカでは最初のもので、これまでに19回開催されてきた(ちなみに、ジャスミン革命で騒然としていた2011年には開催されなかったという)。

 さて、その翌日の2019年8月14日、シェドリーさんと彼の行きつけのカフェで会うことになり、その日の午前と、8月16日の午前、彼の友人たちに囲まれながら、フダーウィーについてお話を伺い、また、いくつかの物語をビデオで記録することができた。(つづく)

インタビュー中のシェドリーさん。

旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(5)

 アブデルアズィーズ・アルアルウィーというチュニジア人のジャーナリスト・作家がいる。彼は1930年代のチュニジアの近代文学運動(タハト・スール)グループのメンバーの1人であり、チュニジア独立後は、チュニジアのラジオのパーソナリティとして活躍した。特に、1950年代から60年代にかけてラジオ番組でチュニス方言で語った物語群は有名で、これらは彼が自ら聞いたり集めたりしたチュニジアの伝統的な物語からなる。彼の死後、これらの物語を採録した4巻本が出版されたほか、テレビドラマ化されたりし、また現在でもYoutubeなどでそのラジオ音源を聴くことができる。

 これらの物語がどのようなものかというと、子ども向けのおとぎ話もあるにはあるが、その多くが、大人向けの寓話や人情話、笑い話、宗教説話、謎解き物語、歴史物、現代物などで占められている。チュニジアの人々の暮らしや考えを知るためには格好の資料だが、なによりも読んでいてとにかく面白い。

 チュニジアには、かつてはフダーウィーという伝統的な語り部がいた。フダーウィーは、市の立つ日やお祭りの日、あるいはカフェで様々な物語を語るのをなりわいとしていた。現代人であるアルアルウィーは、職業的なフダーウィーではなかったが、彼の活動はこうした伝統に根ざしたものだ。

 チュニジアの伝統的な物語の出版は、アラビア語よりもむしろ、フランス語で多くなされており、その中にもいくつかフダーウィーに関する記述を見出すことができる。フダーウィーは、ラジオやテレビの普及により、姿を消していったとも書かれている。

 私はこのフダーウィーというものに会ってみたくなった。姿を消したというが、遠い田舎でひっそり語り続けているかもしれない。そこで、調査に協力してくれるチュニジア人に、今もフダーウィーがいるかどうか聞いてみた。その答えはといえば、

 「いないね。アルアルウィーがフダーウィーを殺したのさ」

 しかし、この「Video killed the radio star」ばりの言葉だって本当かどうか知れたものではない。私はさらにインターネットでいろいろ調べてみた。すると、チュニスから150キロほど離れたスーサという町で、毎年フダーウィーのフェスティバルが行われているというではないか。(つづく)

アルアルウィー物語集第1巻表紙(第2版)
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(4)

 イスラーム以後の歴史については、私はいくつかの王朝が入れ替わったことぐらいしかわからないが、ハフス朝のイブン・ハルドゥーン(14世紀)とその著書『歴史序説』ぐらいは知っている。チュニス生まれのこの大学者の銅像は、チュニスにきた人なら必ず目にするものの一つだ。もっとも最近は、その前に「I♡TUNIS」という無粋なモニュメントができて、その存在感は弱化しつつあるようだ。

かすむイブン・ハルドゥーン像

 この時期のチュニジアでもうひとつ大事なことがある。アル・アンダルース文化の流入だ。アラブ人はイベリア半島をイスラーム化し、壮麗な文化を築き上げたが、レコンキスタにより15世アルハンブラ宮殿で知られるグラナダが陥落すると、多くのスペインのイスラーム教徒たちが北アフリカに逃亡した。チュニジアもそうで、音楽や建築などさまざまなアル・アンダルース文化がこれらの「難民」たちによってもたらされた。

 難民といえば、もっと古い難民たちも北アフリカにはいる。それはユダヤ人で、かなり古い時代からディアスポラとして北アフリカの諸都市で暮らしてきた。これらの人々も、独自のアラビア語方言の話者で、チュニスのユダヤ人方言に関する研究書も出版されている。

 ハフス朝の後、チュニジアはオスマン帝国の支配下に入り、その結果、多くのトルコ語の語彙がチュニジアの言語に入ることとなった。19世紀後半からはフランスの植民地となり、これは1956年のチュニジア独立まで続いた。フランス語は、宗教以外のあらゆる分野、すなわち行政、文化、教育、出版などで用いられ、チュニジアの言語生活に大きな影響を与えた。それは現在でもそうで、フランス語が流暢に話せることは、あるレベル以上の社会生活を送るためには必須の能力となっている。

 ここで、これまで述べたことをまとめると、チュニジアの言語と文化は、単純に言えば、アラビア語とイスラームであるが、より詳細に見ると、それらは、ベルベル、フェニキア、ローマ、地中海(イタリア、ギリシャ、スペイン)、トルコ文化、フランス文化の影響の上に成立している、長い歴史と多様な背景を持つ文化であることがわかる。

 こうした文化的深みと多様性は、口承文芸の世界にも反映されていて、スペインやフランスの民話との類話もあれば、イソップ物語に似た動物物語もある。千一夜物語でおなじみのハールーン・アッラシードが、いかにもチュニジアらしい舞台背景の中で活躍するといった物語もある。また、ユダヤ人コミュニティで伝承されている物語も多く記録されている。(つづく)

ローマ時代のモザイク(スーサ考古学博物館)
旅・観察

現代のフダーウィー:チュニジアの語り部(3)

 イスラム受容後のチュニジアは、地中海の交易の中心地の一つとして繁栄することになるが、11世紀に、もう一つの大きな事件が起きる。それは、バヌー・ヒラールなどの遊牧民集団の侵入だ。私は歴史についてはわからないので、この事件の背景や影響について言うことはできないが、言語の観点なら少しは言える。

 7世紀にアラブ人がやってきた時、アラブ人は、北アフリカ最初のイスラーム拠点ケロワーンから、各地に都市を作り、広がっていった。そのため、チュニスも、アルジェリア・モロッコの古い都市も始めは似たようなアラビア語を話していたと考えられる。これらの方言は、都市方言(より正確には前ヒラール方言)と言われる。

 しかし、11世紀に侵入してきた遊牧民集団は別のアラビア語の話し手であった。これはベドウィン方言というアラビア語の一種であった。このベドウィン方言と都市方言の対立がアラビア語方言の大きな特徴で、両者の違いをごく大まかにいうと、ベドウィン方言のほうがいろいろと古い特徴を残している。

 さて、これらの遊牧民の侵入の結果、言語についていえば2つの変化が生じた。ひとつは、特にチュニジアで顕著だが、ベルベル人のアラブ化が進んだということだ。もうひとつは、遊牧民と都市住民との間で接触が生じた結果、都市方言がベドウィン方言の影響を受け、変質したことだ。

 しかも、遊牧民集団は複数の部族から成り、そのベドウィン方言も単一ではなかった。そのため、各地の都市方言は、自分たちが接触した遊牧民部族の言語の影響を受けることとなり、もともとは似ていた北アフリカの都市方言はそれぞれ異なる特徴を帯びるにいたった。これが、北アフリカの諸都市の方言に違いがあることの、大きな原因の一つとされている。

 チュニジアの方言についていえば、チュニジアはまさにリビア方言とアルジェリア方言の中間に位置づけられ、チュニジアの南部と北西部にはリビア全域に広がるバヌー・スライムという部族の方言の影響が、中部にはアルジェリア東部に広がるバヌー・ヒラールという部族の方言の影響が見られるという。

(つづく)