こうしてみると、ワイルドの bitter / bitterness への態度は、sorrow とは大違いだとわかる。sorrow のほうは、丁重に扱い、キリストのもとまでご案内しているのに対して、bitter はといえば、to pluck it out of mine だ。それどころか、ダグラスに味わわせようとすらしていると私には読める。
sorrow と bitter / bitterness の待遇の違いは、実のところ、表記にも表れている。いくつかの重要概念を、まるで固有名詞のように大文字で始めるのが『獄中記』の特徴のひとつだ。sorrow もすでにいくつかの例文で示したように、文頭だけでなく語中でも Sorrow となる。他の例としては Love, Art, Life, Hate などがある。重要なのは、これがワイルドの書き癖ではないということだ。つまり、悲しみの哲学に関係のない場所では sorrow は普通名詞として扱われるのである。
いっぽう、私が弁護してやまぬ bitter / bitterness は、決して大文字で始められることはない。これは明らかに、ワイルドが Sorrow や Love などの高尚な概念群へとこれらの苦い語を昇進させていないということだ。
なお、ここで私が読んだ版について一言しておく。それは Penguin Classics の Colm Tóibín 編の De Profundis and Other Prison Writings (2013) であり、注には Wilde’s letter is printed here exactly as he wrote it と記されている。すなわち、ここで問題にしている大文字小文字の区別もワイルドの原稿にあると見ていいだろう。ただし、De Profundis の古い版、特に最初のバージョンは完全版でもなく、また原稿を忠実に再現したものでもないようだ。
なんにせよ、この版を読むかぎり、ワイルドの sorrow と bitter / bitterness の扱いは明らかに違う。だが、ここで別の反論が生まれてくる。なるほど、この二つの語にいちじるしい待遇の違いがあることはわかった。だが、それにいったいなんの問題があるのか。どの語をどう扱おうと、雇用主たるワイルドの自由ではないか、と。
だが、これに言い返すのは簡単だ。例の一文がここで効いてくる。
The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.
つまり、「なんであれ realise してみせます」というのがワイルドの社是であるのなら、bitter / bitterness の小文字扱いもこの社是の観点から監査する必要がある。労基法があるから解雇するにもルールがあるのと一緒だ。