男がどんな経緯でこの街角で暮らすようになったのか、そして、犬との関係がどのように始まったのか、私は知りたく思っていた。
男は、私の滞在するホテルのフロント係やガードとも挨拶する関係のようだった。だから、フロント係に聞けばなにか教えてもらえるかもしれなかった。私はいくどかその可能性について考えた。だが、いつもは話をしないフロントにそんな質問をするのはいかにも不自然だったし、たとえそれでなにか知り得たとしても、かえって味気ないような気がした。それに、私は男と犬のことを書こうとも思いはじめていた。ならば、そういう「取材」はなおさら悪趣味だろう。
ならば、本人から聞けばいいかというと、そうでもなかった。周りの人々とのやりとりからは、少し変わった人という印象を受けた。騒ぐわけでもなく、酒を飲むわけでもなく、いつも飄々としているが、だからといって、私にわかるように話してくれそうでもなかった。そもそも、用もないのに、ただ自分の好奇心を満たすためだけに、男に話しかけるのもイヤな感じだった。もっとも、私に車があって洗車を頼むというのならば話は別だ。だが、そうでない以上、男と犬の謎は、心の中でときおり取り出し、眺めるのがいちばんと思えた。
とはいえ、私と男のあいだに交渉といえるようなものがなかったわけではない。ある昼間、ホテル脇の小便臭い路地を歩いていると、すれ違いざまに「こんにちは」と声をかけられた。驚いて目を上げると、あの男が片手をあげている。私も慌てて挨拶を返した。このときの男は、黒いTシャツを着ていて、それで気がつかなかったのだ。数日はその姿のままだったように思う。
また、ある夜、ホテルの入り口に立っていると、少し離れたところの縁石に座っていた男が、私に声をかけてきた。
「バチャバチャ! バチャバチャ!」
彼の知るアジアの言葉のようだった。私は軽く頭を下げると、ホテルに引っ込んだ。