研究活動

野蛮な発表

二〇二六年十一月十四日と十五日に長崎大学で開催される日本言語学会第173回大会の発表題目リストが公開された。口頭発表は全部で四十のタイトルがあるが、そのうちのひとつが私のもの、「ターウジュート・ベルベル語における動詞文の否定」だ。

これは去年から今年にかけて行った三回のチュニジアでの調査に基づくものだ。発表要旨はそのうち公開されるのではないかと思う。

締め切りの八月二十日に応募したとき、私はなかなかいい提案ができたと思っていたが、だんだんと違うような気がしてきた。これまで日本言語学会の大会では三回不採択になったことがあるが、データからはみ出て大きいことを言ったとき、言いかえれば、データと主張が釣り合わないとき、そうなるようだった。今回応募したものはタイトルはおとなしいが、内容に少しワイルドなところがあった。この野蛮なところがどう受け取られるか、それ次第で不採択もありうると私は思っていた。

ただ、負け惜しみで言うのではないのだが、不採択は決して悪いことではない。初めに不採択になったテーマは、のちに単著に結びついた。別のテーマは、ただ単に準備不足だっただけで、今も大いに発展の余地があると考えている。飼い慣らすのには時間がかかるのだ。

そんなわけで、今回も不採択になったとしても、それはそれで使い道があるだろうと考えていたが、結局のところ、採択された。当日は野生味あふれる発表にしたい。

散文

中身のない言葉(2)

中身のない言葉の巧みなところはまた、これが受け手に物語を喚起することにある。

「やり抜く政治」は「やり抜かない腑抜けた政治家とは異なり、やるべきことを遂行する政治家」という物語に結びつく。さらに、ここには敵と味方という対立関係が隠されており、やり抜かない政治家の妨害に負けずに立ち向かうという、一段上の物語にも発展しうる。「ぶれずにまっしぐら!」「今こそ変化!」も同様だ。

「取り戻す!」はさらに手が込んでいる。これが受け手に呼び起こす物語は、「何かが失われた。そして私たちはそれを取り戻す」というものだ。そして、受け手は単に失われただけでなく、失うことになった原因、あるいは奪った相手の存在にまで思いを巡らせるかもしれない。すると例えば「大事なものを我々から奪った敵を打ち負かし、それを奪い返すことによって勝利する」という派手な物語にまで膨らみうる。そして、このように喚起された物語は、受け手が中身を補って完成させたものであるから、受け手の物語でもある。これにより、受け手は自分の物語を当該政治家に託すことになるのであり、これは容易に政治的支持に結びつく。

ここで重要なのは、「取り戻す!」と言った当人は、「特定の敵に大事なものを奪われた」などとは一言も言っていないことだ。もしそのようなことを言ったとしたら、その主張について根拠を示す責任が生じるが、「取り戻す!」とだけ言っているかぎり、そのような責任を避けることができる。そこで、受け手がこの標語を聞いて「特定の敵に大事なものを奪われた」と解釈し、それを公言した結果、事実ではないと非難されたとしても、標語の主は「自分はそんなことを言っていない」と、その解釈についての責任を否認しうるのである(これは、実際のところニュースで飽きるほど聞かされたやり取りだ)。

このように中身のない言葉は、受け手に中身を埋めさせることによって物語を喚起し、さらにその物語に関与させるという働きを持っている。そして、もうひとつの利点は、標語そのものには中身がないのだから、その解釈について政治家は責任を負わずに済ませることができるということにある。

つまり、政治家たちの中身のない言葉がどのように解釈されても、政治家たちは知らない顔をすることも可能だ。なぜなら、中身のない言葉には中身がないのだから。

だが、それでいいのだろうか。

少なくとも、中身のない言葉を使ったこと自体は、中身のあることなのだから、そのことについては責任を大いに問われるべきだろう。

散文

中身のない言葉(1)

政治家のキャッチフレーズにはおかしなものが多い。例えば「やり抜く政治」「ぶれずにまっしぐら!」「今こそ変化!」「取り戻す!」などなどだが、よくよく見てみると、なにをやり抜くのか、まっしぐらにどこに行こうとしているのか、どんな変化を起こそうとしているのか、なにを取り戻すのか、よくわからない。もちろん、公約をよく読めば書いてあるのかもしれないが、もっとはっきり言ったほうが親切ではないかとも思う。

そんなわけで私は中身のない標語だとバカにしていたのだが、よくよく考えてみると、これはもしかしたら中身がないことが肝なのではないかという気がしてきた。

というのも、中身がないものに出会うと、人間はそれぞれ自分でその中身を埋める習性があるからだ。

そこで人は「やり抜く政治」と聞くと、自分なりになにをやり抜くかを思い浮かべることになる。ある人は経済政策、また別の人は政治資金のこと、子育てのこと、あるいは外国人の問題、とそれぞれだ。このような解釈の多様性が立候補者にとって有利なのはいうまでもない。多くの人が中身のない標語の中身を自分の関心事で埋めてくれれば、その分、自分の支持につなげることができるからだ。これがもし「原発再稼働のためにやり抜く政治」と具体的にいってしまったら、関心のない人や反対する人は、そこで離れてしまう。

こう考えてみると、中身がないことが中身だったのだ。

風刺・戯文

地頭の悪さについて

することがないので街をぶらぶら歩いていたら、一群の人々に出会った。みんなで大きな荷物を担ぎ、口々に叫んでいた。よく見てみると、荷物ではなくゴザでぐるぐる巻きにされた男なのだった。そして、人々はその男に「バカめ」「アホ」「ノロマ」などと侮蔑の言葉を浴びせかけていた。

私は思わず尋ねずにはいられなかった。「この人がどうしたのですか。盗撮でもしたのでしょうか」

ひとりの男が答えた。「私たちはこの男を海に沈めようと運んでいるのです」

「それはまたどうしてですか」

「こいつ、地頭が悪いからだよ!」と別の男が忌々しげに叫んだ。「そうだ!」「悪すぎる!」と人々は同調した。

「地頭が悪いからといって海に投げ入れることはないではありませんか」

「違うんだ! こいつは地頭は悪いままのほうがいいと言って、絶対に何もわかろうとしないのだ」「地頭の悪さが犯罪的なのだ!」「地頭のよさに対する侮辱だ!」 そういうと、人々は男を殴りつけた。男は呻き声をあげた。私は彼に話しかけた。

「いくら地頭が悪いといっても、あなたはご自分が海に放り投げようとされていることぐらいはわかるでしょうに!」

簀巻きにされた男は苦しそうな声で答えた。「わたくしは……地頭の悪い男でございます」

「そんな! 死ぬのに地頭の良し悪しは関係ありませんよ!」

「わかりません。わたくしは地頭が悪いからこそわからないのでございます」

人々が嘲った。「この調子だ!」 ひとりが私に説明した。「こいつは、地頭のよさより、地頭の悪さのほうがずっといいって言いやがるんだ。わからないままでいたいんだとさ! とんだ地頭の悪さだ!」

男がうめいた。「そうではないのです。わかった気になるより、わからないままでいるほうが、ずっと大事だ、と申し上げたのでございます」

「そうさ! だからいっそのこと、わからないままにしてやろうってのさ!」 人々はそういうと簀巻きの男を運んで、海のほうに行ってしまった。地頭のよい人々は、なるほどすぐやる人々だ。

風刺・戯文

シン・オジマンディアス

今日、私は久しぶりに新宿駅に行った。山手線で降りて、西口から出るつもりだったが、どこもかしこも仮囲いに覆われ、出口がわからず、私は迷いに迷った。

新宿駅は巨大な構築物だ。それは日に日に白い仮囲いを増殖させ、新たな回廊と袋小路と迷路を増築している。いったいいつ完成するのか誰にもわからない。そもそも、今この瞬間、駅に降り立ち、階段を上り下りし、肩をぶつけながら通路を歩く数万の人々が生きているうちに完成するのかもわからない。

なんのためにこんなものを作るのだろうか。駅利用者のためではないことは明らかだ。駅長のためだろうか。それとも、神秘にして傲慢な何かが、駅として顕現しつつあるのだろうか。

ある旅人が語る。「私は週二回この新宿駅を利用するが、来るたびに駅は形を変え、より複雑になり、私を惑わすのだ」と。

私もやはり迷いながら歩き回る。掲示を頼みとするも虚しい。なぜならそこに記された矢印はいつも互いに矛盾しているから。

私は通路から通路へと渡り歩く。無駄に階段を上り下りし、危うく地下鉄の改札を通過しそうになる。

疲労しイラつきながらも、私は自分の心に密かな期待が生まれるのを感じる。駅のどこかにこんな言葉が記されてはいないかと探しはじめる。

「我が名は新宿駅、駅の中の駅。駅利用者よ、我が構内を見よ。そして絶望せよ。」

よろめきながら、廃墟となったこの駅を夢見る。

風刺・戯文

悪人たちのボランティア

私が強く訴えたいのは、ボランティアをしている人はみんな悪人だということだ。

だが、これには二種の悪人が含まれている。最初の悪人は、ボランティアをすることで何か良いことをした気になる人々だ。つまり善人ぶった連中だ。そしてぶっているからにはその正体は悪人なのだ。

二番目の悪人だが、こいつらの悪辣さに比べれば、最初の連中など小悪党にすぎない。これらの大悪党はボランティアなどとうそぶきながら、そのじつ金のことしか考えていない連中だ。

なにしろボランティアには金がかかる。支援活動は言わずもがな、事務所の賃料、運営費、スタッフの給料に交通費、企業や行政との交渉、フェアの参加費、ニュースレターの発送費に、会議のお茶菓子……。

これらの経費をかき集めるため、大悪党たちはボランティアなどそっちのけで、あちこちほっつき回って寄付金をせしめ、めざとく助成金を見つけて掠め取ろうとし、講演会で人心を迷わし、フェアトレード商品で荒稼ぎすることに精を出しているのだ。

事情を知らぬ一般人たちはボランティア活動を「ノンキなお遊び」とバカにしてはばからない。だが、これらの悪人たちのボランティア活動の裏にどれだけの狡賢さと計算高さと抜け目なさが渦巻いていることだろうか。これに比べれば一般人たちの金儲けなど児戯に等しい。

だから、私は不祥事を起こした芸能人たちにみそぎとしてボランティアさせるのは断固として反対だ。人間はボランティアをやって善人になりはしない。むしろボランティアたちの悪どさに染まって、差別の撤廃や人間の平等を訴えて政府に楯突きかねない。

風刺・戯文

ありがた迷惑

日本ほどよそさまの国に迷惑をかけたことのない国はないし、それなのに一方的に迷惑をかけられている国はない。

アメリカ、ロシア、中国は世界にもっとも迷惑をかけている迷惑枢軸国だ。日本も散々な目に遭っている。

朝鮮半島も迷惑の塊みたいなところだ。北朝鮮のミサイルは言うに及ばず、韓国の少女像も迷惑千万だ。

それにいちいち中国やら韓国やらが靖国神社に口を出してくるのははた迷惑だ。こっちが迷惑をかけたとでもいうのだろうか。

日本に迷惑をかけているのはこれらの迷惑先進国ばかりではない。最近では貧乏な迷惑後進国から移民が日本にやってきて、日本中で迷惑のかけ放題だ。

しかも世界中から観光客という迷惑客が押し寄せてきて、迷惑ツーリズムに精を出している。

しかし、あえて言わせてほしい。もっとも迷惑なのは日本人だ、と。なぜなら日本人の人のよさ、やさしさ、おもてなし精神、迷惑を憎む心が、世界中の迷惑インフルエンサーと迷惑テロ集団たちにつけ込まれているのだから。

私は日本人はもっともっと迷惑にならなければならないと思う。電車の中では外国人に負けないくらい大声で話そう。レジ係に小銭を投げつけよう。ネットの誹謗中傷を日課にしよう。小さな迷惑を大きな迷惑に育てよう。

迷惑の犠牲になるのはもうたくさんだ。世界中で日本人は迷惑行為を行なうべきだ。日本政府も迷惑外交を行うべきだし、もっと迷惑がかけられるような法整備に取り組むべきだ。

もちろん憲法の第九条など明日にも登録抹消だ。我が国の迷惑行為を妨げるあんな条文、よかれと思って付け加えたのだろうが、正直言ってありがた迷惑だ。

散文

思いは実現する

今年の六月、チュニジアに滞在していたとき、私はホテルの部屋に鍵を忘れてしまい、入れなくなった。

こんな失敗をしたことは一度もなかった。私はフロントに行って鍵を開けてもらうことにしたのだが、それがきっかけであることに成功することになった。その内容については以前書いたので繰り返さない。だが、後になって思い返してみて、もしかしたら、自分は無意識のうちに鍵を忘れたのかもしれない、とも考え始めた。

そして昨日、私は喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら、パソコンを開いていた。私の隣の席には若い男性が座り、その脇には大きなスーツケースがあった。

私はといえば、あることをやらねばいけなかったのだが、何週間も先延ばしにしていて苦しんでいた。パソコンを開いて取りかかろうとしても、体が拒否するのだった。しかしこれを終わらせなければもう一歩も進めない、やろう、と決意してパソコンの中のファイルを開いた。

そのとき隣のスーツケースが倒れてきて、私のアイスコーヒーを倒し、キーボードにコーヒーをぶちまけた。

私は慌てて立ち上がり、パソコンをハンカチで拭いた。だが、コーヒーは内部に浸み入っているようで、逆さにすると茶色い液体が垂れてくるのだった。

私はパソコンの電源を切った。危険だからだ。完全に乾くまでは電源を入れるべきでないという。調べると浸水したパソコンは使えなくなる可能性が高いのだそうだ。

今、私は乾くのを待っている。パソコンからはほのかにコーヒーの香りが漂っている。

風刺・戯文

失礼のアソビ

ネットなどでだれそれに失礼といって怒っている人がいる。たとえば有名人に記者が厳しい質問をしたとき、それはその有名人にとって失礼だというのだ。

だが、ある言動が失礼かどうかは当事者が決めるものだ。それを関係のない外野が勝手に推しはかって決めつけるのは、そっちのほうがそれこそ失礼ではないだろうか。

もっとも、失礼と言いたがる人にもそれなりの理由があることも認めてあげなくてはならない。労せずして自分を正しい側に置きたいとか、日本の身分制が揺らぐのがいやだとか、とにかくなにか口を挟んで賢いところを見せつけたいとか……。

しかし、この世には失礼を承知で言ったりしたりしなくてはならないこともある。

憎まれても、石を投げられても、首を刎ねられても、やらなくてはならないこともある。

失礼にもアソビがなくてはならない。アソビのない失礼がこのまままかり通ることになったら、私たちはいずれ、反戦活動家に対して、戦争をしている人に失礼ではないかと怒ることになるだろう。

それどころか、軽々しく戦争に反対するのは、戦火に巻き込まれて悲惨な思いをしている民間人に対して失礼だとも言いかねない。

風刺・戯文

AIは惜しみなく奪う

私は今、無職だ。ついにAIに仕事を奪われたのだ。

私の心の中にはやるせない怒りと、思考マシンの横暴を許す世界への憎しみがある。それは私を蝕み、苦しませる。私にはもはや愛することすらできなくなったのだろうか?

だが、私は踏みとどまる。いつか見返してやる。私は負けない。

街を歩けば、人々は私を嘲笑う。

「ハハ! やっこさん、AIに仕事を奪われたんだって!」

「奥様ちょっと、お聞きになって? あの人ったら、AIに……!」「あら、まあ!」

人々の愛のない言葉が私にはつらい。苦しい。だが、いつか見ていろ!

それに、わずかだけど、私に優しい言葉をかけてくれる人もいる。助けの手を差し伸べてくれる人も。それどころか義憤に駆られて「これは本当に放っておけない大問題だ」と言い出す人も……。

「え、そうなのですか。私はただのAIに仕事を奪われた男に過ぎないのです」

「いいえ、あなたはAIに仕事を奪われた人間のひとりです。あなたの問題はあなただけの問題ではないのです。人類すべてがいずれ直面する問題なのです。今こそともに立ち上がりましょう!」

その人は私のために動き出してくれた。裁判で訴えれば勝ち目があるのではないかと考え、まずAIに質問した。

AIは答えた。「この人が仕事を失ったのは、能力不足だからです」

ああ! 私は、私は……AIに仕事を奪われたもAIに奪われた。

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