散文

ぜんぜん

私たち日本人にとって「全然」は心の支えだ。なぜなら、この言葉ひとつで、自分の自尊心を高めることができるからだ。

というのも、日本人の頭の中では「全然」はいつも「ない」と結びつくものと決まっていて、「全然ある」など間違った日本語を使う人間を、気持〜ちよく批判させてくれるからだ。なので、日本人はいつも「全然」の使い方に注意を怠らない。

しかし、「ない」でない「全然」はかなり昔から用例があると言われている。なので、間違いとは言い切れない。しかも「全然ある」という言い方にも、ちゃんと否定の論理が働いている。つまり「全然ある」などの表現は、たいてい「(あなたの思っていることは)全然(あり得ない、むしろ)ある」という文脈で用いられる。「全然」は相手の頭の中の想定について「ない」と言っているのだ。だから「全然ある」とか「全然食べるよ」とかは全然間違いではない。

ところで、私は一昨年、タイからビルマに入国して、カレン人の紛争地域を旅した。同行してくれたのは在日カレン人だった。その彼と今日、会ってご飯を食べた。彼は一昨年訪問した場所について日本語でこういった。

「あそこはあの時は行けたけど、今はもう戦争で、全然あぶないよ」

私たちの否定じゃない「全然」が外国人の日本語でも活躍してた。全然いい。

風刺・戯文

中国の漢字

最近、私は YouTube などで、日本語の字幕の漢字が中国の漢字になっているのに気がついた。例えば「直」だ。この漢字が、左側の縦棒がなくなり、さらに、下の横棒が上の「目」の下辺と一体化してしまうという中国の漢字なっているのだ。また、糸編もそうだ。下の「小」の部分が3つの点になってしまう。これも中国の書き方だ。

よく考えたら、これは怖いことではないだろうか。なぜなら、中国が日本に侵入してきている紛れもない証拠だからだ。私がこういうと、こんなふうに反論してくる人がいる。

「いえ、それは中国のせいではなく、パソコンや携帯の設定のせいですよ。設定を変えれば日本の漢字が表示されるようになるんじゃないですか」

いや、たとえそうだとしても問題は、そのまま使っている人がたくさんいるということなのだ。こうしたいいかげんな人々のせいで、中国の漢字がもう取り返しのつかないほどまん延してしまっているのだ。

「まさか」と思う人もいるかもしれない、だがまさかどころではない。例えば、「一」をみてほしい。果たしてこれは日本の漢字だろうか。いや、すでに中国の「一」が日本の「一」になりすましているのではないか。こう考えると、私はもうなにもかもが疑わしく思えてくる。もはや「日本人」も、実は中国人なのではないか?

いや、それどころか、この「私」も?

散文

見えないカッコ

私はビルマ語は読めないが、一時期、ビルマの難民関係の必要で、ビルマ語で書かれた文書をたくさん見る機会があった。それらは、政治団体の声明や論説であったり、手書きの記録だったりした。そのとき気がついたのは、しばしば数字が( )に入れられていることだった。ちなみに、ビルマ文字には、アラビア数字とは違う数字があって、カッコに入っているのはそれだ。

日本語でも、(1)、(2)、と項目の番号をつけるときや、名前の後に年齢を入れるときなどにカッコが使われるが、ビルマ語ではそれだけではないようで、「(10)周年」などと書いてあることもある。

私はビルマ語の書記法はわからないが、こうしたカッコの使い方は義務というわけではなく、数字の視認性を高めるため、それほど公的ではない文書や手書きなどで使われているようだ。

さて、私の知り合いのビルマ人が、私に日本語で書いた文を見てほしいと言ってきた。見ると、数字がカッコで囲まれている。私は笑いながら「これはビルマ語のやり方では?」というと、相手はピンときていない様子だ。

そこで、私は紙に「(6)」と書き、「ビルマ人はよくこう書くけど、日本語ではこう」と「6」と書いた。相手はそれでもピンときていない。

「だから」と私は紙に書いた「(6)」の両脇の「( )」に線を引いて消してみせた。「こういうこと」

相手はようやく理解したようだった。そして、私と一緒に笑ったのだった。

つまり、このとき知人のビルマ人は、私がカッコをペンで消してみせるまで、「( )」の存在に気づかず、「(6)」も「6」も同じように見えていたのだ。だが、この見えないカッコは、私がその人の目の前で消してみせることで初めて姿を現したのだ。

これはビルマ人の習慣の話であるけれど、私にもきっとあるのに見えていないものがあるはずで、誰かがそれを消してくればいいと思う。

風刺・戯文

第二次世界観戦争

アニメや漫画に「この世界観にはついていけない」とか「この世界観にはハマれない」などと言う私たちは、貧乏人や家のない人、ひどい病人や難民を見ても「この世界観はちょっと……」というようになった。

さらには、隣国の偉い人を見ても「なんだこの世界観は」などと私たちは呆れてた。だから、私たちの首相がそのあたりピーンときて、やたらと世界観を大切にしだした。それで、ついに隣国の世界観にまで文句をつけたとき、私たちは喝采を送ったんだ。

で、隣国ときたら、私たちを激しく非難。しょうもない世界観のくせに引き下がるどころか、挑発してくるってのか。おたがい睨み合っているうちに、最初の銃弾がどちらかの陣営からか発射され、誰かが死んだ。世界観戦争が始まったってわけ。

開戦の知らせに、私たちは小躍りして喜んだけど、だんだん様子が違ってきた。食べ物もないし、毎日タダ働きだ。文句をいうと殴られる。誰かが「この世界観にはついていけない」と言ったら、警察がやってきて、そいつをどこかに連れて行った。だから、私たちはこの世界観に慣れるしかなかった。

戦争は終わる気配もなく、やがて私たちはみな前線に送り込まれた。世界観と同じように、戦場にも慣れるかと思ったけど、そんなことはなかった。銃火のなか、死体に囲まれ、傷に苦悶しながら、私たちが無言で思い続けたのは「この世界観にはついていけない」ということばかり。

私たちも近く、戦場で殺されるはず。そして、その死の瞬間にもやはり「この世界観にはついていけない」がいくども脳裏をよぎることだろう。

でもさ、私たちはいつ世界観から置き去りにされたっての。

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風刺・戯文

文学のリマスター

リマスターとは、現代の最新技術を用いて、昔の音源や映像の音質や画質を向上させることだ。音楽であれば、デジタル化、音圧調整、ノイズ除去などによって、音を補正すると、クリアで迫力のある音に生まれ変わる。

映像のリマスターも同じで、解像度を高くしたり、傷やノイズを無くしたり、色調を鮮やかに補正することだ。YouTube などには、古い作品とリマスター後の映像を並べ、その違いをはっきりと示してくれる動画もたくさんある。古い映画やアニメ・ドラマが、まるで最新の作品のようにキレイに見えるのだ。

このリマスターの手法を、文学にも応用できないか、と私はかねてから考えていた。そして、いろいろ試行錯誤した結果、ついに小説のリマスターに成功した。解像度を 8K にまで高め、独自に開発した AI を活用してノイズを消去し、色調も可能な限りオリジナルに近いものを目指した。リマスターしたのは、あの名作、夏目漱石の『それから』のラストシーン。ぜひ、クリアになったイメージと、美しい色彩を味わってほしい。

【修復前】
烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。

【8K AI リマスター後】
烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。

風刺・戯文

足繁く通いすぎて

神経質というか屁理屈屋というか、とにかく厄介な人が東京に来て、その人を食事に連れて行かねばならなくなった。私はネットで見つけた良さげなレストランを提案することにした。「ここなんてどうでしょうか、有名人が足繁く通う名店とのことです」と言ったら、その人が怒ること怒ること。ひとしきり罵り喚くと気が済んだのか、彼はこんなことを話しだした。

……僕はね、この「足繁く」って言葉の使われ方にもう我慢ならんのだ。これは、ある場所に頻繁に行くという意味でしかないのだが、今では、さっきの「有名人が足繁く通う名店」みたいに、気取った連中が、有名人とやらにあやかって自分を演出するために使うクリシェになってしまった。それこそ、ボロ靴、しかも歩き方のせいで片方だけすり減ったってくらい摩滅してしまったんだ。それでだね、僕はここ数年、毎日、SNS かなんかのコメント欄にこんな書き込みをして、「足繁く通う」を正気に帰らせようとしているんだ。

「テロリストが足繁く通うアジト」
「卑劣な盗撮魔が足繁く通う駅」
「麻薬中毒者が足繁く通う公衆便所」

その人はこう捲し立てると顔を紅潮させながらつけ加えた。「こんなふうに僕は毎日、言葉を世界に送り出しているのだ。まるでちょっとしたオウィディウスみたいじゃないか、『悲しみの歌』で自分の本をローマに送り出したところがね」

私は「どうかこの男も、そのローマの詩人みたいに首都から追放されるように!」と内心祈りながら、いちばん近くにある汚くてまずい店に彼を案内した。言葉に対する感覚とは逆に、舌は粗雑なようで、うまいうまいと貪っていた。

音楽

Friday I’m in Love

「Friday I’m in Love」は、イギリスのバンド The Cure が 1992 年に発表した曲だ。バンドの代表曲というばかりでなく、この時代のロックを象徴する一曲といっていいほどの名曲だ。

一聴すると、金曜日からの週末のウキウキした恋の歌という印象を与える。だが、専門的に見ると、ことはそう簡単ではないらしい。この度、英語学者、詩人、文芸評論家、音楽研究家などの専門家が一堂に会し、この曲の歌詞について徹底的に討論をするシンポジウムが開催された。

意外で、そして面白いことに、「Friday I’m in Love」というタイトル自体からしてそもそも大きな問題を孕んでいるというのだ。どうしてかというと、「Friday」の文法的な役割が不明確なのだという。つまり、この「Friday」は、目的語としても(「私は金曜日を愛する」)、時の副詞としても(「金曜日に私は愛する」)、トピックとしても(「金曜日は私は愛する」)、呼びかけとしても(「金曜日よ、私は愛する」)、あるいはそのどれにも解釈できる要素として、読めるのだそうだ。

シンポジウムでは、このタイトルばかりでなく、歌詞の一節「It’s Friday, I’m in love」についても議論された。また、英語史やドイツ語やデンマーク語などの例も引き合いに出されるなど高度に専門的な内容であった。私にはとても面白かった。

とはいえ、このシンポジウムには成功とは言い難い面もあった。というのも、開催されたのが金曜のお昼からであったため、夕方になるにつれて専門家たちはみなソワソワし始め、そのうちみんな消えてしまったからだ。開催するならば、火曜日か水曜日がよかったのではないか。

風刺・戯文

世界観戦争

私たちは世界観が大好きだ。「魔法が現実に存在する世界」「記憶が貸し借りできる世界」「愛が禁止された世界」「同じ一日を何度も繰り返す世界」などなど、面白い世界観がなくてはもう生きていけないほどなのだ。

だけど、どんな世界観でもいいというわけでもない。つまらない世界観だってある。とくに私たちの世界観を邪魔する世界観は最悪だ。たとえば「私たちをきらいな人が幅を利かせている世界」とか、そんな世界観にはついていけない。それで私たちは、自分たちの世界観を守るために、不愉快な世界観の撲滅に立ち上がった。

私たちの世界観が、不快な世界観とがぶつかって、摩擦が生じ、ついに火が着いた。世界観の戦争がはじまったのだ。別の世界観も次々と巻き込まれて、世界世界観戦争の様相を呈しきてきた。世界中で燃え盛る戦火のせいで、もう世界そのものが消滅しそうなほど。だけど、私たちはまったく気にしてない。なぜなら、世界がなくても世界観はなくならない、そんな世界観だから。

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散文

ビルマ人とユダヤ人

この間、日本に暮らすビルマ人とご飯を食べた。焼肉屋で働く彼は忙しくて、なかなか会うことができない。年末前の最後の休みを私との時間に割いてくれたのだった。そのとき、彼が最近関わった仕事について聞いた。

50 人ほどのユダヤ人(イスラエルの人かどうかはわからない)が、日本にやってきたのだという。しかし、ユダヤ教には食べ物について厳しい決まりがある。すべてのユダヤ人が厳格に守るかどうかは別として、このご一行はその辺りはちゃんとしていたいらしかった。なので、日本の食べ物をそのまま出すわけにはいかない。

そこで、東京のホテルに滞在中の 2 日間、専門の料理人が用意されることになった。その仕事の話が、私の友人のところに来たのだという。彼は肉の専門家なので肉料理を担当した。そのホテルの厨房を借りて、ユダヤ人が食べてもいい牛肉を、ユダヤ人が飲んでもいいワインでじっくり煮た料理、つまり牛肉のワイン煮を作って出したのだそうだ。

他にも料理人が 2 人いた。ひとりは寿司を担当したが、もうひとりはわからない。そして、その 2 人も、都内の飲食店で働くビルマ人だった。

3 人ともビルマ人というのが面白い。もちろん日本人がまったく関わっていないということはないだろうが、ほとんどの日本人が知らないなか、東京で思いもよらぬ関係とビジネスが成立していたことに、私は興奮を感じる。

そしてまた、この 2 日間で友人に支払われたという 10 万円についても、興奮を禁じえない。

風刺・戯文

私の私

あなたの私はあなたですか。それとも私ですか。私の私は私です。なのにどうしてあなたは私なのですか。

あなたの私はあなたで、私の私は私、そうおっしゃるのですか。つまり、私の私が私で、同時にあなたの私があなたの私ということになるのですか。おかしいではないですか。私の私が私なら、あなたの私は私の私ではないですか。

違うとおっしゃるのですか。私の私も、あなたの私も、同じ私だというのですか。ですが、私はあなたではないですし、あなたは私ではないです。なのに同じ私とは変ではありませんか。

みんな、同じ私を使っている、というのですか。私はみんなのもの、誰でも使える。そんなことありますか? 理屈がわかりません、まったくわかりません。

あ、いや、わかりました。私はみんなもの、というのは、私の私は私のもの、あなたの私はあなたのものだけれども、私の私がないときに、あなたの私を私の私として使ってもいいということか。これはいい。私に 1 万円ください。あなたの 1 万円はたぶん私の 1 万円だから。