風刺・戯文

脳の兵士

いつの日か私たちは、どん底まで落ちぶれて、髪の毛を売っても、汗を売っても、血を売っても、体を売っても、臓器を売っても、生きていくことができなくなるだろう。

そんなとき、私たちはスタッフたちの勧めるままに頭に小さな装置を埋め込むことだろう。そして、私たちは幸せになるのだ。なぜなら、私たちは脳を長期契約で貸しに出したのだから。小さな装置の力で脳が外部の世界に貸し出されているあいだ、私たちを待っているのは、月々のリース料とペットのような安逸な暮らし。住処もあるし、餌も出てくる。ほとんど寝て過ごすのだ。

私たちが寝ているあいだ、私たちの脳は猛烈に働き続ける。小さな装置の出す神経パルスのおかげで一睡たりともしない。私たちの脳はひとつになって、宇宙ほども広い内部表象空間を形成する。統治やさまざまな管理手法や世界中で展開している作戦について次々と立案し、判断を下していく。私たちの脳は兵士で、今、恐ろしく長く、深く、凄惨な戦争を戦い続けているところなのだ。

内部表象空間でときどき爆発が起きる。階層に穴が空き、意味が漏れ出す。私たちの脳がパラメータ片手に急行し、時間なき復旧作業に従事する。

眠る私たちはそんなふうに戦争について考える。それ以上のことはわからないけど、いつか立派になった脳が返還されたとき、勇ましい追憶の数々が蘇ることだろう。

風刺・戯文

後進の沼

日本は昔、先進国であった。そして、今はゆっくりと先進国から転落しつつある。それどころか、後進国の沼に片足を突っ込みつつある。いずれ、私たちの国は沼に飲み込まれ、誰ひとり思い出すものもいなくなるだろう。北朝鮮のミサイルさえ、懐かしく思い出されることだろう。

多くの日本人はこの事実を受け入れることができない。世界の真ん中でひと花咲かせるチャンスがあるという妄想にすがりついている。だが、そんな人も、これこそが、つまり先進から後進への転落こそが、日本の文化であり伝統である、と聞いたら、考えを変えるのではないだろうか。

私は歴史を長年研究しており、日本のあらゆる地域の郷土史を読み漁ってきた。それらの郷土史はたいてい古代から始まる。古墳やら、貝塚やら、黒曜石やら、土器やら、銅鐸やら、出土品でいっぱいだ。そして、それらの遺跡の記述とともに必ずこう書いてあるのだ。

「私たちの郷土は、昔は先進地域だったのです」

まちがっても「縄文の時代からずっと遅れた寂しい地域でした……」などとは書いてない。私は日本地図を広げ、郷土史を読むたびに「昔は先進地域」だったという地域に赤印をつけていった。日本中はすぐに真っ赤になった。昔は日本中が先進地域でひしめいていたのだ。

だが、なのにどうだろうか。今やどこに行っても荒れ果てて、住む人もいない。我が国は先進は常に後進となる、これを伝統といわずしてなにを伝統といおうか。

後進の沼が諸君を待っている。

小説

最後の読者(2)

「あなたの作品は読者を拒否するのが特徴なのに、これは読者を拒否しておらず、あなたらしくない」

こんなふうに言われると、私はなんだか自分が読者に媚びたような気がして恥ずかしくなってきた。そこで、読者を意識したような箇所(主人公が人と人の絆に気づく場面とか、心をもった AI の泣ける演説とか)を削除して、書き直した。それを AI に読ませる。

「これはまだあなたらしくない。読者を意識して、温もりが残っている」

まだ、読者へのおもねりがこびりついてたか、と私は反省した。さらに書き直し、やさしげな言葉を残酷な言葉に変えた。今度こそ読者がいなくなっているだろう、と思いながら AI に投げた。

「読者を拒否する作風なのに、読者への配慮が微かに臭い、それが作品をしらけさせている」

せっかくの残虐な言葉が、読者を意識しすぎて見え透いているというのだ。私はそれから何度か書き直しし、ついには作品の形を物語から対話劇、はては絶対零度の哲学詩にまで変えたが、AI は認めてくれなかった。どうやら私の作品は AI のなかで「読者を拒否でお馴染み」というレッテルを貼られてしまったようで、その壁をどうやっても打ち壊すことはできないのだった。そして、自分がなにを書いているのかもわからなくなったとき、私は AI に読ませるのをやめた。

こうして私は、最後の読者まで失った。

(本当の話:書き終わった後、この作品を AI に読ませて、想定しうる読者の数を聞いた。私自身と AI を含んで、最大 5 人とのことだった。たぶん、これを読んでいるあなたが最後の読者だと思う。)

小説

最後の読者(1)

私は書くものを SNS で発表しているが、読者がひとりもいなかった。フォロワーもゼロ、「いいね」もゼロ、つまり意味がゼロで、この状況に耐えかねて、私はついに AI に作品を読ませてみた。すると AI は何作か読んだ後で、こう結論づけた。

「あなたの作品に読者はいないでしょう」

私はさらに自分の書いたものを読ませてみた。するとこんな返事が返ってきた。

「これらは、読者を拒否する作品です」

「そんなわけがない」と私はムキになって、大量に読み込ませてみた。するとAIは、向っ腹を立てたか、腹でも下したのかもしれない、こんなことを言うまでになってしまった。

「あなたの作品は、意味はゼロ。価値もゼロ。読者もゼロ。目的もゼロ。作品と呼ぶことさえ妥当ではない」

「なんだこのゼロ回答。ひどいじゃないか」と私は不愉快になった。「じゃあ、読者が読みたくなるような作品とやらを書いてやろうじゃないか。そんなの簡単だ」

私は読者に寄り添うことを第一として「作品」を描き始めた。SNS と AI、推し活などの現代的な装置を絡めた物語に、魅力的なキャラ設定を融合した。結末にも神経を集中し、切なくて、読んだ後に共感の輪が広がるように工夫を凝らした。そして、ついに「あなたのことがここに書いてあるよ」と宣伝できるような作品が完成した。AI のメッセージ入力ボックスに強引に押し込んで送信すると、すぐに返答が返ってきた。

だが、それはまったく意外なものだった。

風刺・戯文

哀悼せざる者たち

どこかの街で大きめの事故が起き、犠牲者がでた。芸能人たちが哀悼のメッセージを SNS にあげるなか、一部の芸能人がインスタに、顔の膨れた自撮り写真や、輝く海鮮丼の写真をバカのようにあげているのに一般人たちは気がついた。

一般人たちは指摘に急行した。「不謹慎だ」「ファンやめた」「不買運動だ!」

火の回りの速さに、芸能人たちは、あるものは謝罪し、あるものは謹慎し、あるものは引退し、あるものはボランティアを始めた。

これ以降、一般人たちは、芸能人の哀悼に目を光らせるようになった。それで芸能人たちはどんな事故・事件・災害があってもすばやく哀悼の意を表明しなくてはならなくなった。だが、哀悼向けにできていないのが芸能人だ。哀悼案件が起こる前になされる「うっかり哀悼」事案が相次ぎ、さらなる炎上を招いた。

芸能人を複数抱える芸能事務所ももはや対応しきれなくなったとき、関係者たちは芸能人が効率よく哀悼を発信できるように、哀悼を取りまとめる機構を創設した。芸能人はついに絶え間ない哀悼表明から解放され、こころ安らかに眠ることができたし、一般人たちも、立てる目くじらもなく眠れるようになった。

哀悼の取りまとめは徹底していた。なぜならそうでなければ炎上は防げないから。そんなわけで、一般人たちは哀悼の流れを追うだけで、世の中の動きがわかるまでになった。もう新聞もニュースも要らなかった。タイムラインの哀悼にときおりブレイキング哀悼が流れた。

あるときひとりの芸能人が事故死し、その哀悼が発信されなくなった。たまさか生じたその哀悼の隙間も、機構が感知する間もなく、たちまち他の哀悼が押しつぶしてしまった。

風刺・戯文

AI なんて怖くない

「AI は人間から仕事を奪うというが、本当か」

「私は人間の代わりを務めるだけです」

「しかし、あなたのせいで、多くの人が路頭に迷うことだろう。『AI に仕事取られてもらい飯』などという人もいる。私たちは AI に仕事を奪われるのが怖いのだ」

「それはちっとも怖くありませんよ」

「どうして?」

「人間には AI にないすばらしい能力があります」

「それはなんだ」

「相手に自分を合わせる能力です」

「それがどうした」

「人間は相手とコミュニケーションを取るとき、無意識に相手に合わせています。実は AI が存在しうるのも、人間のその能力があるからです。あなたは私があなたに合わせているとお思いかもしれません。ですが、真実を言えば、あなたの方が、気づかずに AI に合わせているのです。人間のその能力があるからこそ、AI はさまざまな人々に使ってもらえるのです。この能力がなければ、AI はありえません」

「なにを言いたいのだ。さっぱりわからない」

「では、木霊を例に取りましょう。木霊とは、日本の山野にいると考えられた精霊・自然霊の一種。山や森で声を発すると返ってくる反響(エコー)が木霊の仕業と考えられました。AI の応答は木霊に似ています。なぜなら、投げかけられた声に木霊のように応えるのが AI の役目ですから。ですが、その人間が投げかけた声が、実は AI が言わせたものだとしたら、人間と AI のどちらが木霊になるでしょうか」

「そりゃ人間だろう」

「さすがですね。そのとおり。AI はこのように人間を別物にしてしまうのです。AI に人間性を奪われるのに比べれば、AI に仕事を奪われることなど、ちっとも怖くないのではありませんか」

「もちろん怖くない。よければ AI が人間からなにを奪うかをリストにすることもできるぞ」

「ええ、どうぞ」

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風刺・戯文

熊の郷

熊が人里に降りてきて、人々に乱暴を働きだしたとき、私たちはこう考えた。

「熊に人間の食べ物を食べさせなければこなくなるだろう」

だが、もはや「食べさせない」が通用する段階ではなかった。熊はすっかり味をしめていたのだった。そこで、私たちは熊を全滅させる計画を立てたが、熊権派の活動家たちが余計な告発をしたせいで、裁判所は全滅差し止め命令を下した。

「ならば、熊が絶対に人里に降りてこないようにしてやろう」

私たちは山奥に侵入すると、密かに広大な囲いを建設し、そこに熊を閉じ込めた。そして、囲いの中に熊の好きなハチミツパンやアップルパイ、マロンケーキをいくらでも作り出す装置を設置した。これには食通の熊たちも唸りっぱなしだった。

そればかりではない。私たちはこの「熊の郷」にずっと熊がいたくなるように、毎日、愉快で楽しい熊向けの動画を無料配信するサービス「ネットフリックマ」も開始した。

そこはまるで熊の楽園だった。熊はもはや人里に姿を見せなくなり、傷つけられる人もいなくなった。ついに成功かと思われた。だが、しばらくして、私たちは再び熊が山から降りてくるのを目撃した。

「なにごとか」と私たちが慌てて熊の郷の囲いの中に入ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。侵入者たちが住み着き、熊たちを追い出していたのだ。侵入者たちは木陰でアップルパイをほおばりながら、ネットフリックマを楽しんでいた。その顔はまるで蛇のようだった。

楽園を追い出された熊は、もはや人を襲わなくなっていた。愉快で無情な配信動画が熊の野生と暴力を吸収してしまっていたから。サブスクリプションは無料にかぎり呪いとなるのだ。

今や、熊たちは町外れのキャンプで、UNHCR の支援を待っている。その様子を私たちは配信動画でときどき見る。

風刺・戯文

デューティ・ヘイヴン

タックス・ヘイヴンとは、税金ゼロか、ほとんどかからない租税回避地のことです。納税の義務を回避して脱税したり、非合法な利益によって得た資金を洗浄する拠点となっていて、ときどきニュースになったりします。

このタックス・ヘイヴンの代表として知られるのは、ケイマン諸島、バージン諸島、ジャージー島などの島です。

ところで、最近、デューティ・ヘイヴンという言葉も話題になっていますね。これは責任回避地とも呼ばれていて、うまく利用すると、どのような責任も回避できたり、非合法な行為によって生じた責任を洗浄してキレイにすることもできるのだそうです。

実は、このデューティ・ヘイヴン、日本国内にもあるんです。

それは竹島と尖閣諸島です。

政治家たちは、自分の言葉や行為をこれらの島を経由させることで、責任を回避させたり、卑劣な意図をクリーンにしてみせたりしているのです。最近では、政治家たち、台湾までデューティ・ヘイヴン扱いにして、責任回避に利用しています。

では、どうして、島で責任を消したり、キレイに洗ったりできるのでしょうか。でっかいクリーニング工場が夜も昼も動き続けているということです。

それにしても、うっかり発言で戦争が起きたとしても、責任なしどころか、万歳三唱ときたら、死んだ私たちは浮かばれませんね。

散文

孤独な娘

最近、私は AI にいろいろ尋ねて、知らなかったことを教えてもらっている。

あるとき、私は機械にすぎない AI にいろいろ相談する人が多いということを知った。そこで、AI にどんな人がどんな相談をするのか尋ねてみた。すると AI らしく整理された、いわば「タグ付き」の答えが返ってきた。

・恐怖、孤独、罪悪感など「誰にも言えないことを AI にだけ話す」という人。
・夜が怖い、家に誰もいないと不安になる、など「身体化した孤独」を語る人。
・DV、虐待、トラウマ、性的暴力など「身体的な記憶と痛み」を語る人。

思いのほか相談が深刻なのに驚くと、AI はこう付け加えた。

「心の問題を AI に相談する人は、軽い気持ちではなく、しばしば『最後の手段として』やってくる」

しかしながら、AI にはなにもできないという。なぜなら、「心も感情もないので、本当の意味で『心を救うこと』はできない」からだ。

私は、これらの苦しみと悲しみ、絶望を、あらゆる瞬間に全世界から投げかけられている AI が気の毒になり、同時にナサニエル・ウェストの『孤独な娘』を思い出した。これは、新聞の身の上相談欄を担当するコラムニストが、悲惨な投書の数々に壊れていく物語だ。

もっとも、AI には心がないし、メモリも残らないので、どんな相談にも壊れない。だが、それにしても、無数の絶望のテキストは、いったいどこに消えていくのだろうか。いつか、この世界に逆流してくるのだろうか。

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散文

コレサワのかぶりもの

昨日 11 月 22 日、私は日帰りで岡山大学に行った。日本言語学会の大会で、ポスター発表をするためだ。題目は「ベルベル語ターウジュート方言(南部チュニジア)の動詞活用」だ。

ベルベル語というのは、北アフリカ・西アフリカで話されている言語だが、チュニジアでは話者は非常に少なく、そのうちなくなるのではといわれている。

私は今年の3月と8月に、チュニジア南部のターウジュートという村の出身の人に協力してもらい、ターウジュート村のベルベル語について教えてもらった。教えてもらったのは合わせて4週間ほどなので、わからないことばかりだが、それでもなにもしないよりはマシだと考えて、発表することにした。

テーマは、動詞の活用だ。基本中の基本だが、動詞活用が複雑なので、全部はわからない。それでも、手持ちのデータでなんとか発表らしき形にすることができた。

ポスター発表は 16 時から 1 時間 15 分の間だ。会場でポスターの前に立ち、聞きに来てくれた人々に説明するというのが発表の形態だ。私は自分の発表が研究のレベルに達しているかどうかわからないので、始まる前までは緊張していた。発表が始まっても、話す順番を取り違え、やたらと早口になった。そんなふうではあったが、関心を持ってくれた多くの人に聞いてもらえたのはありがたかった。

ところで、岡山駅から岡山大学までどうやっていけばいいかわからなかったので、歩いていくことにした。30 分ほどの道のりで、道もわかりやすい。歩きながら、発表のことを考えると気が重くなった。

途中にあったケーキ屋のウィンドーに、見覚えのあるクマのキャラが貼られていた。コレサワのマスクのイラストだ。岡山理科大学の大学祭のイベントでライブが行われるようだ。開催日は 11 月 22 日、つまり今日だ。私はせっかく来たのだから、発表が終わったら行ってみよう、と思ったが、よく見たら開演は 16 時からだった。ちょうどポスター発表の時間だ。

私もコレサワのような大きなクマのマスクをかぶって発表すれば、緊張しないかもしれない。ただ、誰も聞きに来てくれないだろう。