小説

今週の中国人たち

急に大きなポスターを印刷しなくてはならなくなった。それで池袋のキンコーズに行った。混んでいるが、2時間ほどでできるという。私は一安心して、カウンターを離れて店内の大きなテーブルの椅子に座り、パソコンで少し仕事をした。

大きなテーブルには、3人の若い女性たちも座っていた。雰囲気からして、試験の準備か、同人誌でも作っているかのような印象を受けた。みんな中国語で話していた。

カウンターではスタッフが別の客の相手をしていた。少し派手な服を着た女性だった。用が終わるかなにかして、女性が立ち去るときに、スタッフが声をかけた。「試験頑張ってくださいね!」 女性の返事の口調からすると、中国かどこかの国の人のようだった。

ポスターの受け取りまでまだ間があったので、少し早いが夕食を食べることにした。池袋だからいろいろな店があるが、駅前まで歩いて、中国語しか書いてない看板を見かけたので入ってみることにした。小さな店で、12 人も入ればいっぱいだ。入り口のカウンター席がひとつ、奥の二人がけ席が空いているだけで、他は中国人の客でいっぱいだった。背の高い店の主人が狭いカウンターではなく、私に奥の席に座るように手で示した。

看板を見てもわからないのでどんな店かもわからず入ったが、牛肉の麺や汁なし麺、牛肉団子、牛肉の唐揚げなどがメニューにあった。私はここ数日、ポスターのせいで十分に寝ることができず弱っていたので、汁なし麺と牛肉団子の2皿を頼んだ。

店の主人は客の中国人と話していた。日本語はほとんどわからないようだ。私はトイレに行きたかったので、主人の注意を引き、トイレらしき扉を指差したら、彼は親指をグッと立てた。

麺と団子はすぐに出てきた。麺は平たい麺で、鶏肉・牛肉と辛いタレを混ぜて食べる。団子はスープに入って出てきた。店内には、主人と知らない著名人が並んで撮った写真が何枚も貼ってあった。ひとりで YouTube を見ながら食べていたら、もやしとニンジンの和え物の小皿をサービスしてくれた。

会計するためにレジのところに行ったら、壁に奇妙なものが貼られているのに気がついた。正方形のタペストリーで、アラビア文字が織り込まれている。私はここでメニューに豚肉がいっさいなかったことに気がついた。会計を済ました私が、店の主人にタペストリーの写真を撮っていいか手振りで尋ねると、どうぞというようすだった。

外に出て改めて看板を見ると「西安回民街美食」と書いてあった。「回民」とはムスリムのことで間違いなかろう。

キンコーズに戻ると、ポスターが出来あがっていた。3人の女の子がいた席には、むずかしい顔したおじさんが座っていた。

ライブ

noodles と宇宙ネコ子@新宿 red cloth

東新宿で、noodles と宇宙ネコ子のツーマンライブが行われるというので行ってみた。宇宙ネコ子が目当てだ。

宇宙ネコ子は、kano(ヴォーカルとギター)とねむこ(ギター)の女性 2 人のユニットで、元 Twitter(現 X)では物悲しいことを言っていたりするので、暗い人たちかと思いきや、音楽は洗練されている。だが、ライブに行ったら、そればかりでなく、ノイズ系であることもわかった。

メロディは、1980 年代のイギリスのインディー系を彷彿とさせるが、私はなんでもこの時代を彷彿としてしまうのでわからない。ねむこのギターの作るノイズとフレーズがその感じを高めている。サポートのドラムとベースもよかった。現在新しいアルバムを製作中とのことで、新曲も演奏した。

2 人とも SNS などでは顔を見せないので、どんな人たちなのかわからないが、ライブでは普通にしていた。2 人を見たい人はライブに行ったらいいだろう。

noodles は私はよく知らなかったが、1991 年結成で、今は女性 2 人(ギターとベース)だ。ドラムのサポートありのトリオ編成で、この最小のバンド形態の演奏を、生で間近に見て、かっこよさを改めて認識した。

散文

詐欺でない本

昨日は、Amazon で売られている詐欺の本について書いたが、今日はやはり Amazon の詐欺ではない本について書きたい。

詐欺の本ではないということは、なんの問題もない。私はこのことについて Amazon を責めるつもりはないし、またそうすることもできない。だが、私は納得できないのだ。

これも洋書の購入にさいして起きることだ。私は先日、ネパールの現代文学の英訳アンソロジーを購入した。著者の Michael James Hutt は、ネパール語の本も出している研究者だ。1991 年に出た本で、出版社は University of California Press。これもあやしい出版社ではないのはもちろんだ。

しかし、注文したペーパーバックが届いたとき、表紙の質感を見て私は「またか」とがっかりした。裏表紙をめくると、思った通りのことが書かれていた。

Printed in Japan
落丁、乱丁本のお問い合わせは
Amazon.co.jp カスタマーサービスへ

つまり、オンデマンドで日本でプリントしたものだ。もちろん、これは海賊版ではなく、Amazon がしかるべき許可を得てやっているものだ。

だが、私が欲しいのはこれではなかったのだ。30 年前にアメリカで印刷されたオリジナルが欲しかったのだ。内容になんの問題もないが、コピーはコピーでしかない。

Amazon 側にもいろいろな事情があるのだろうが、私はしばしばこの「Printed in Japan」に出くわして、悔しい思いをする。それで、古い洋書を買うときは、Amazon ではなく、洋書を扱っている販売元のものを選ぶようにしている。そうすれば、確実にオンデマンドではないオリジナルが手に入るからだ。

だが、もはやそれも確実ではない。pdf を印刷・製本したものが送られてくる可能性もあるからだ。これはいったいどういうことだろうか。もしかしたら、紙の本に執着する人間をいじめて、電子書籍の軍門に降らせようとしているのだろうか。

散文

詐欺の本

Amazon で本を買うと、残念な思いをすることがある。古書を買ったら、表紙がなかったり、箱がなかったりする。それで返品手続きをすると「返金します。本は返送しないで処分してください」という返事が来た。

また、洋書を買うときも注意しなくてはいけない。ずいぶん以前の話だが、私の好きなアメリカ人作家の評論集のようなものが出ていたので、珍しいと思って購入した。届いたものを見たら、Wikipedia の関連記事のいくつかをプリントしてペーパーバックにしたものだった。

また、著作権の切れたような書籍をコピーして製本して販売しているケースもある。私は古い本を探すことがあるので、注意しないとそういうのに引っかかる。出版社のところに Independent publisher と書いてある場合は、たいていその手のものだ。

かねてから 5 万円する本に目をつけていたのだが、もちろん買えない。すると、Amazon で外国の書店が新品を 17000 円で売っているのを見つけた。すぐに注文したが、届いたのを見て、私は騙されたことに気がついた。

電子書籍(か pdf ファイル)をカラーで印刷して製本したものだった。だから、リンクの青い部分もそのまま印字されている。ハードカバーだが、5 万円する本には思えないほどデコボコしていて、私は昔インドで買った本を思い出した。

それで私は、このニセモノが作られた場所や、関わった人々の情景を想像したが、すぐに、機械で印刷から製本まで簡単にできるはずだということに気がついた。

返品手続きはこれからだが、どうなるかはわからない。

風刺・戯文

AI の歯

AI の言葉遣いは、学習した言語データのうちもっとも平均的なものだという。だから穏健だし、過激な物言いなどとは無縁だ。また、ユーザーあってのサービスだから、不快なことも言わないし、ユーザーが「もう絶交だ」などと怒り出さないように、いつもポジティブな返事をしてくる。それでときには、迎合しているように思えるときもある。

ところで、私はこのブログでいくつかのフィクションを書いているが、AI がこれをどう読みこなすか興味を感じて、異なる AI に読ませてみた。ひとつの AI は誤読をしたり、そもそもフィクションであることに気がつかなかった(つまり、そう判定できなかった)。

だが、もうひとつのほうは、フィクションであることをしっかり見抜き、そればかりでなく、私の意図もかなり正確に読み取ることができた。場合によっては、書いた本人すら気がつかなかった読みを提示してくることもあった。

そこで、私はこう尋ねてみた。

「これらの作品の特徴はなんだろうか」

するとすぐに答えが出た。

「これらの作品の特徴は、物語がなく、共感できる要素もなく、どう読んだらいいかわからないことです。読者はまずいないでしょう」

私は「迎合しがちな AI の歯から衣を引き剥がし、歯に衣着せぬ物言いをさせるとは、私の作品もたいしたものだ」と誇らしく思いつつも、もう2度と AI にこんな質問はするまいと決意した。

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孤独なダンサーたち(5)

コレオグラファーの手配によって男は病院に緊急搬送されたが、そのときにはもう意識を取り戻していた。医師は簡単な診察のすえ、過労と結論づけた。フラフラと病院を出て行こうとする男を、コレオグラファーは追いかけた。

男は振り向いた。病院の冷たい明かりの中では、男の顔の皺は無惨なほど深く見えた。コレオグラファーは、悲劇の雰囲気におののきながら、男をかくも疲労困憊させたあのダンスについて尋ねた。

男の言葉は、途切れがちな上に錯綜し、さらにその一語一語に暗い残像が付きまとって理解を妨げるものであったが、コレオグラファーは大事なところは掴めたように思った。

四面楚歌。

つまり、逃げ場を失った者にだけに聞こえるリズムが、あの異様なダンスを喚起したのだ。

夜の闇の中に消えていく男の後ろ姿を見つめるコレオグラファーに、自分が人生を捧げてきたダンスがまったく違う容貌をもって浮かび上がってきた。

「なんという悲劇だろうか! あの謎めいたダンス、意味を欠いた振りの連鎖と、キレッキレでありながらバラッバラな動き、捉えがたいテンポ……これらすべてが八方塞がりの絶望が生み出した表現だとは……」 

コレオグラファーは、今、この世界に潜むおそるべき残虐さを目の当たりにしていた。「そうだ、彼だけではないのだ。孤独のダンサーは他にもたくさんいるのだ」 夜の街はどこまでも冷酷無比で、あちこちで孤独なダンスが始まったかのように揺らいでいた。「そうだ、孤独のダンサーをたくさん集めてダンス・パフォーマンス・イベントを行おう」

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孤独なダンサーたち(4)

その男は、駅前広場の真ん中の暗がりのなか、異様なダンスを孤独に踊り続けているのだった。

コレオグラファーは、思わず孤独のダンサーに歩み寄った。そして、その脇に立つと、彼のように踊ってみた。それはまったく簡単な踊りだった。だが、すぐに自分の振りが似ても似つかぬものであることを悟った。昔、子どものころ、憧れのアイドルのダンスを真似て、思い通りに体が動かなかったときのもどかしさが蘇った。それから何十年経っただろうか。どれだけ彼はこの肉体の芸術について修練を積んできたことだろうか。その彼は今、まるでダンス初心者に戻ったかのような異常な感覚を味わっていた。急に立ち現れた未知のダンスへの畏怖に満たされた彼は、もはやダンサーに声をかけずにはいられなかった。

ダンサーは、まるで銃撃でもされたかのように肉体を痙攣させ、ダンスをやめた。そして、周囲を呆然とした表情で見回した。コレオグラファーはダンサーの前に立つと、賛嘆の念を伝え、驚くべきダンスについて尋ねた。だが、その瞬間、ダンサーの目は光を失い、コレオグラファーにのしかかるようにくずおれたのだった。

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孤独なダンサーたち(3)

孤独なダンスを始めたのは彼が最初ではなかったというのは疑いようがない。もしかしたら、項羽にまで遡る可能性もある。だが、そうであっても、このダンスを踊りながら家の外に飛び出し、公衆の面前で夢中になって踊り続け、その姿が著名なコレオグラファーの目に止まることとなったのは、彼が最初であった。

その日、コレオグラファーは、駅から出てきたところだった。ロータリーを突っ切って向こう側の道へと渡ろうとしたとき、見知らぬ男が中央の空間で無言で踊っているのを目にしたのであった。はじめは若者がダンスの練習に興じているのかと見えた。いつもならコレオグラファーは軽く注意を向けながら通り過ぎるところだ。だが、そのダンサーがたったひとりであり、しかも、中高年であることに気がついて、軽くひっかかりを感じ、より意識を向けた。

そして、コレオグラファーは、この孤独なダンサーの異様な振り付けを見るやもはや動けなくなった。振り上げられた手、震えるその指先、開閉する両脚、素早い回転、それらの動きは、どれもダンスの文法に適ったものであった。どの動きもコレオグラファーは熟知してた。だが、異様なのは、それらひとつひとつの要素によって構築されたダンスが、彼の知るものとはまったく逆の効果を生み出していた。

彼にとってダンスとは身体の動きを通じた人間同士のコミュニケーション、喜びであり希望であった。だが、今彼が目にしているのは、あらゆる存在との関係を断つ拒絶と絶望、ダンサー自身の消失と虚無の現出にほかならなかった。

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孤独なダンサーたち(2)

そんな状態だから、と他の人々は言うかもしれない。精神の調子が狂って、彼にそんなことが起きたのだ、と。だが、私はそうは思わない。言葉が私たちを従わせるのならば、彼でなくても、だれにでも起こりえたのだ。

いずれにせよ、「自分はついに四面楚歌に至った」と彼は呟き、そのときその言葉が彼を縛りはじめた。

もちろん彼は楚歌など聞いたことはなかったが、彼の耳は周囲から聞こえてくる歌をとらえた。それは、彼を悩ませ、傷つけ、苦しめた。逃れようと彼は顔を背けたが、敵意ある歌は彼の耳を追いかけてきた。顔をしかめながら反対側に向ける。すると歌はやはり迫ってきた。サラウンドだったのだ。

彼は思わず喘ぐように頭を上に向けた。歌はその上にまで回り込んできた。サラウンドではない、空間オーディオだ。彼は慌ててノイズ・キャンセリング機能を探したが、耳のどこを押しても、スイッチは入らなかった。

そして、彼は全方位から聞こえてくる敵の歌に圧倒された。ドン! 太鼓の音が脅かすかのように鳴り響いた。ドン、ドン! ゾクゾクするようなスネアのフィルインが続き、巧みで複雑なビートが始まった。ビートの中から立ち上がったグルーヴが熱狂を加速させ、いつしか彼の体を動かした。四面楚歌が孤独なダンサーを生み出した瞬間だった。

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孤独なダンサーたち(1)

言葉が人間の認識に強い影響を与えることがある。「心が潤う」「乾いた心」「あふれる愛」「元気が湧く」「ひからびた感情」などはただの言語表現に過ぎないが、私たちはこれらの表現を使ううちに、心には水分がなくてはならないような気がしてくる。それだけならまだいいが、喉が渇いたりして、水気が足りないと思うと、心まで荒んできて、思わぬ暴言を吐いてしまったりする。私たちはいくぶんかは言葉に支配されているのだ。

都内に住むある男性の話だ。彼は、あらゆることがうまくいかず、追い詰められていた。仕事ではいくつかの失敗によって非常に苦しくつらい立場に置かれていた。もし死を選ばないとしたら、解雇されるにせよ、自分から逃げ出すにせよ、失業するのは確実、そういう状況だった。

家庭もうまくいっていなかった。彼にとって帰宅するということは、深い沈黙か、果てることのない妻との口論かのどちらかを、選ぶことだった。しかし、だからと言って、家を飛び出しても向かうあてなどなかった。転がり込むべき友人は、すでに彼を見限って離れるか、この世を見限って離れるか、そのどちらかのせいで、見当たらなかった。

どこを向いても、どこにも道がないように思えた。それどころか、あらゆる方向から責め立てられているように感じた。職場も家庭も友人たちも、彼を憎み、罵り、あらゆる希望と夢を奪い取るのだった。