旅・観察

わからないままに

私はSさんに二〇二五年の二月に出会い、ベルベル語を教えてもらうことになった。さらに八月にもう一度、そして今回、今年の六月にも引き続き教えてもらった。

Sさんはベルベル語は母語だが、普段はアラビア語を使う。家でもベルベル語をいつも使っているわけではない。そのせいか、教えてもらっていても、言葉が出てこないことがある。そうしたとき、Sさんはお母さんに電話して確認してくれる。

もっとも、電話をして向こうが出る前に、思い出してくれることもよくある。いずれにせよ私は、Sさんに教わる言葉にも、不確かなものが含まれているのではないかと思っていた。

しかし、チュニスに戻ってきたとき、Sさんはこんなことを話してくれた。それは「泥棒」という言葉のことで、以前、私はそのベルベル語の単語を教えてもらったことがあった。

「泥棒をベルベル語でなんていうか、村の人たちは知らなかったよ。忘れてしまったんだ」

もちろん、これは村人全員に当てはまるわけではないと思うが、村の中でもすでに言葉が失われはじめているとしたら、Sさんがときどき思い出せないのも、それ自体が今のこの言語の姿なのかもしれない。

ジェルバ島から、チュニスに帰る長い道中で、Sさんが言った。

「みんな少しずつ言葉を忘れていき、少しずつ失われていく。私たちだって、わからない言葉を母に尋ねるけど、もし母がいなくなったらどうする? わからないことはもうわからないままになってしまうんだ」

私がこれまでに、この言語についてSさんから学んだことはほんのわずかなことだ。しかも、間違いもたくさんあると思う。だが、それでもわからないままになるよりはマシではないだろうか。

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水と言語

今回の訪問で、もうひとつ気づかされたのは水の問題だった。

ベルベル語の話者の減少は、住民の流出と村の過疎化によるものと、私はただ漠然と捉えているに過ぎなかった。その背景に水不足があることには思いいたらなかった。水不足が村の生活を徐々に脅かし、これが人々を村から離れさせる。そして、私たちがターウジュート村だけでなく近隣の村でも見たように、空き家をひとつまたひとつと増やしているのだ。

「昔は緑がいっぱいで、雨もたくさん降った。家では羊を四〇頭も飼っていた。だが今は放牧のための草も生えていない。どの家にも、果物も野菜もふんだんにあったけど、今はマトマータから運んできた野菜を買わなくてはならない」とSさん。

村に最初に入ったとき、Sさんに甦ったのも水の記憶だった。「昔はここに水が溜まってプールみたいになっていたもんだ」 だが、Sさんが指差したその場所は、太陽の光の下で乾き切っていた。

また、ジェルバ島の陶芸工房でSさんはベルベル語の「粘土」を思い出し、子どものころに使ったきりだと語ったが、後でこう付け足してくれた。

「もう雨が降らないから、村では土が粘土になることなどない。こうやって言葉がなくなっていくんだ」

どうして水がなくなるのか、私は詳しい事情はわからない。思いつくのは地球温暖化ぐらいだが、それも東京の夏のひどい暑さからの類推に過ぎない。だが、ターウジュート村、そして周辺の村の水不足はここ数十年のあいだに起きたことだという、Sさんの印象をもとに判断するならば、まんざら無関係ともいえないように思う。

私は、ターウジュートという小さな村を訪問したに過ぎなかったが、そこで起きていることは、来る前には思いもよらなかった広がりを持っていた。

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村から帰ってきて

ターウジュート村に行く前、私は村では人々が自分の言葉で活発に話しているさまを想像していた。私はビルマのカレン人やカチン人の村に行ったことがあるが、それと同じだろうと、なんとなく思い込んでいた。そこでは人々は自分の母語で挨拶し、会話し、雑談し、祈っていた。

しかし、ターウジュート村では私は異なる印象を受けた。Sさんのおじの家の集まりで主に使われていたのはアラビア語だった。

それにはいろいろな理由が考えられる。客である私たちに気を遣っていてくれたのかもしれないし、あるいは男たちで話すときはアラビア語を使うのがより自然なだけなのかもしれない。そして、ターウジュートのベルベル語は、もっと家庭的な雰囲気のときに使われるのかもしれない。

それがどんな理由であれ、ベルベル語が使用される場面は、当初の私の想定よりもかぎられているように思えた。もちろん、わずか数時間の滞在でわかるものではない。だから、あくまでも仮定の話に過ぎないが、この仮定にもとづいて私は二つのことを考えた。

ひとつは、この言語が置かれている状況の深刻さだ。もしも、使用されるのがほとんど家庭にかぎられるとしたら、さらに縮小していくこともありそうだ。Sさんはチュニスで暮らしているが、子どもはベルベル語を話すことはできない。村でも同じような状況がいずれ起きるかもしれない。私は実のところ、これとは逆の事態、つまり村では言語が十分に維持されていると想定していたのだった。

もうひとつは、もしベルベル語が私的な領域でだけ使用されるのだとしたら、そこに私が近づいて、そこで直接学ぶのは、少なくとも今の私には不可能だということだ。

これは私の力不足であるかもしれない。だが、単に実力の問題だけでもないように思う。誰かの暮らしの中に入ろうとすることが、何かを壊してしまう可能性もある。

ともあれ、今回の訪問は、Sさんがいてはじめて可能になった。もしいなかったら、私は村を外から眺めるしかなかっただろうし、こうした感想を抱くこともできなかったろう。それは大きな違いだ。そうした違いを積み重ねていくうちに、もしかしたら、もう少し深く理解できる場所に立てる日が来るかもしれない。

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割れ物

やがて主人が姿を現した。年配の男性で、白いTシャツに白い作業ズボンを履いている。Sさんが私を指してベルベル語を学んでいるというと、話しかけてくれた。

陶器づくりを見せてくれるという。工房の奥の部屋から運んできた粘土を作業台に置いて両手でこねる。表面を親指でなめすように押しながら気泡を潰し、異物を丁寧に取り除いていく。粘土がまるでパン生地のように見えたが、私がやったらすぐに手が痛くなるだろう。

Sさんと主人は最初、少しベルベル語で会話をしていた。すると、Sさんが興奮気味に私に声をかけた。主人の言葉から、子どもの頃、ベルベル語で粘土をなんと呼んでいたか思い出したのだ。

「何十年もこの言葉を口から出したことはなかったよ」

粘土の準備が終わると、主人は台の向こうにあるろくろの前に座り、足で回しはじめた。

昔はこの辺りに小さな窯元が何百とあったそうだ。しかし、今、残っているのは十軒しかないという。ガッラーラのベルベル語について聞くと、こんな答えが返ってきた。

「話しているのは老人だけだよ。若い人はみんなアラビア語を使っている」

だんだんとガッラーラがターウジュートと重なり始めた。

主人は、たちまちのうちに粘土を高さ五〇センチほどの壺に作り上げ、目の前の台に置いた。再びろくろが回転し、小さな壺ができあがる。主人はそれを逆さにして壺の上に載せた。蓋だったのだ。さらに、主人はもうひとつ壺を作り上げた。

私はこの主人の実演のお礼として、売店で何か買って帰ることにした。彩色されたカップや皿が手頃そうだった。工房で作ったものかSさんに確認してもらうと、違うという。主人の作品はみな大きな壺や花瓶だ。ほとんどが素焼きで、飾りやお土産というよりも生活に密着したものだ。

大きな壺はオリーブや干しいちじくや干し肉などの保存食を入れておくのに使ったのだそうだ。だが、今は冷蔵庫がある。窯元が減っているのも、そうした壺を使う生活が、昔のものになりつつあるからなのだろう。

私は小さな急須を見つけ、それを買うことにした。八ディナール。払おうとするとSさんが手で制して十ディナール札を出した。

主人がお釣りを渡そうとすると、Sさんは感謝して断った。「二日もひとりもお客が来ないことがあるっていうからそうしたんだ」と後でSさんが教えてくれた。

割らずに日本に持って帰れたらいいと思う。

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ジェルバ島へ

翌朝、私たちはマトマータを出て、ジェルバ島に向かった。

ジェルバ島もまた、いくつかの村でベルベル語が使われている。マトマータ地域よりもずっと話者人口が多いという。

ジェルバ島はチュニジア有数の観光地でもあるが、私たちが行くのはガッラーラというベルベル語の村だ。せっかく南部に来たのだからと、Sさんが立ち寄ることにしてくれたのだ。村にはSさんの友人がいた。

マトマータからおよそ二時間の道のりで、ローマ時代にまで遡るという橋を通ってジェルバ島に渡る。ガッラーラに入る。マトマータやターウジュートよりはずっと大きいし商店も並んでいる。村というより町だ。私たちはSさんの友人に会う予定で、待ち合わせ場所に向かっていた。Sさんは途中で車を止めて、道を歩いている若者にアラビア語で道を尋ねる。それから、ベルベル語に変えた。若者もベルベル語で答えた。

「町ではみんなベルベル語を話すかい、と聞いたら、みんなそうだ、と言っていたよ」と、車を運転しながら教えてくれた。私は興奮を禁じえなかった。

Sさんの友人は私たちをある陶器店に案内してくれた。ベルベル語を話す人がやっている店だという。車を停め、店の敷地内に入ると、巨大な素焼きの壺、梅干しを漬けられそうな壺、用途のわからない陶器が所狭しと並べられ、積み重ねられていた。売店の屋根や庇に壺が置かれ、外壁は陶器が埋め込まれている。

しかし、主人は不在のようだ。名前を呼ぶが誰も出てこない。私たちは売店や右隣にある焼きがまを見て回る。

少し離れたところに工房もあった。まるで穴倉みたいだ。中に入ると、やはり壺が所狭しと並べられている。奥の部屋には粘土の塊が置かれている。呼んでも誰も返事をしない。Sさんの友人が看板に記されている電話にかける。

すると、工房の作業台に置かれた携帯電話が明滅した。電話を置きっぱなしで留守にしているのだ。

売店も開けっぱなしだ。主人がいないまま、私たちは売店の中に入り、壺や花瓶を見る。

「チュニスでこんなことしていたら、瞬く間に店が空になってしまうよ」とSさんが笑った。

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理由

水の問題はターウジュート村だけではない。周辺の村でも同じだそうだ。

日本でもどこでもそうだが、結婚式は大きなイベントだ。チュニジアの昔話の結びには、幸せに結ばれた王子とお姫様の結婚式は七日間続き、さらに七日間続きました、といった定型句がよく出てくる。これに続いて、そのあいだ町の人々は料理をしませんでした、という文句も出てくることがある。つまり、結婚式の間は、町中の人々に食事がふるまわれるのでその必要がないということだ。

二週間というのはおとぎ話の誇張だが、今でも七日間おこなう地方もあるそうだ。ターウジュート村周辺にもその伝統は続いているとのことだが、ある村で最近あった結婚式は三日間だけだったという。なぜなら、食事をふるまうためには水が必要だから。

またあるベルベル語の村では、毎年一週間の祭りが開催される。その期間、村はチュニスやフランスから里帰りする家族や、一緒にやってきた友人たち、その他観光客でにぎわう。

村にとっては年に一度の書き入れ時だ。レストランでは、伝統的な料理が提供される。カフェはほとんど二十四時間営業だ。このときだけ使われる特別な宿泊施設もあって、そこらのホテルより高い。

だが、水がなくなった。水も出なければ、シャワーも浴びられない、そんなところに遊びに来る観光客はいない。村は貴重な収入源を失い、住民たちの暮らしはますます厳しくなる。村を離れる人も出てくる。

ターウジュート村を後にしたSさんと私は、山地にある村をいくつか通り過ぎたが、崩れかけた空き家をよく目にした。ターウジュートにあるSさんの家も同じだ。

水がなくなると、人がいなくなる。この村の言語が消えつつある理由のひとつに、私はようやく気がついた。

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断水

私たちが訪れたとき、ターウジュート村は断水中だった。村では水道が止まることはよくあることのようだった。山地にあるので、低地の観光地で水をたくさん使うと上がってこなくなる。そういう話なのだが、今はオフシーズンだ。結局のところ、村人たちにも原因はわからないらしい。

水の問題を解決してもらおうと、行政にも働きかけたが、うまくいかなかった。ある村人が専門家を連れてきて、水脈を見つけて井戸を掘ってもらった。「国が何もしてくれないから、結局自分たちで解決したよ」とSさん。

そもそも南部は雨もほとんど降らず、水の乏しい地域だ。昔から雨水を貯水して使う生活を送ってきた。貯水槽はどの家にもある。詳しいことはわからないが、地下の空間に水が溜まるようになっているようだ。井戸と貯水槽があるから、断水でもやっていける。

Sさんのおじの家にいるあいだ、私はトイレを使わせてもらった。「水が流れないときは、バケツの水を使ってください」 そういわれたので私は、用を済ますと、バケツに浮かぶカップで水をすくって便器に注いだ。四杯ほどでやめた。何事も完璧を目指すとよくない。

トイレを出ると洗面台がある。昼食の後、そこで私は「兄」と一緒に手を洗った。洗面台の上にたらいが置かれ、水が入れてあった。「兄」は液体の石鹸を手にちょっと垂らして、たらいの水で手をゆすいだ。「弟」も同じようにした。

ソファのある部屋で歓談していると、村の子どもがペットボトルの水を運んできて、グラスと一緒にテーブルの上に置いた。1.5 リットルのペットボトルは冷蔵庫から出てきたばかりで、水滴が表面に浮かんでいた。家の主人が蓋を開け、グラスに水を注ぎ、私の前に置いた。

私は感謝し、水を飲んだ。そのときSさんが私に言った。

「飲んで大丈夫かい? それは貯水槽の水だよ」

私はペットボトルの水を見た。外の光が透けて見えた。私はもう一口飲んだ。

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ひとつの皿

私が村でどんなものを見たか、どんな人に会ったかは、ここではあまり書かない。Sさんのおじの家に招かれると、そこには朝食が準備してあった。

ホテルですでに食べたので「二度目の朝食だ」とSさんが笑う。

テーブルの真ん中に平皿が置かれ、薄い黄色の液体が入っている。これはオリーブオイルとシャーミーヤという甘い胡麻のペーストを混ぜたものだ。家の主人がパンをちぎってそれをつけて食べる。私も同じ皿からパンですくって食べた。二度目だというのに食べ過ぎてしまった。

それからソファのある部屋に移動する。別の親戚たちが集まってきて、歓談をしている。みな老人だ。ターウジュート村に限ったことではないが、村にいるのは老人と子どもばかりだ。若い人や働ける人はガベスやチュニスに行ってしまった。帰ってくるのは夏休みだけだ。

私がベルベル語を勉強していると聞くと、老人のひとりが喜んで「あなたと私は兄弟だ」と言ってくれた。かなり年の離れた「兄弟」に若干ひっかかりを覚えたが、あたたかい言葉だ。

お茶を出してくれた。小さなグラスに甘いお茶が入っている。アーモンドを入れた「緑の茶」や、濃くて苦味のある「赤い茶」を飲む。

話しているといい匂いが漂ってきた。テーブルが運ばれてくる。昼食だ。

真ん中に大皿がある。山盛りのスパゲティの上に細長いピーマンとじゃがいもを揚げたもの、そして肉の塊が乗っかっている。大皿の脇には、パンと、サラダの皿、オムレツの皿、焼き肉の皿が置かれている。山羊の肉だそうだ。

四人で大皿を囲むように座る。フォークを渡される。老人のひとりがフォークで大皿のパスタを巻いて食べはじめた。私も同じ皿にフォークを突っ込んで食べた。日本流に麺をすすらないように注意して食べたが、ときどき忘れてしまった。

隣に座る私の「兄」が気を遣って、私の手の届かないところにある焼肉やオムレツ、パンを次から次へと取ってくれた。私も次から次へと口に入れ、お腹いっぱいになった。

昼食後、私たちはこの家を後にした。強い日差しのなか、村を歩いて一周し、車に乗ってマトマータに戻った。

後で、Sさんは「あのとき私たちはいったい何杯お茶を飲んだ?」と笑った。

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入り口

ターウジュート村の入り口に聖者廟がある。白い建物で、屋根のドームが緑色に塗られている。私たちの車はそこからさらに周囲をぐるりと回って村にたどり着いた。

道と村の間に広がる窪みを指してSさんがいう。「思い出した。昔はここに水が溜まってプールみたいになっていたんだ」

Sさんが村を離れたのはまだ子どものころだ。その時以来、帰ったのは一度しかない。それも日帰りだった。彼にとっては二度目の里帰りということになる。ただし、家はずっと無人のままだ。

「家は荒れ放題だ。おじが羊と山羊をそこで飼ってるよ」

車は村の中の坂道を登っていく。緩やかな丘の斜面に石造りの家が積み重なっている。子どもがパンを抱えて歩いていた。Sさんは、斜面に立つ一軒の家の前に車を停めた。車を降りる。

その家の入り口は道路より高いところにあって、短い階段があった。入り口の小さなバルコニーのようなところに五歳ぐらいの男の子がいて、鉄の柵に寄りかかっていた。Sさんによれば、おじのひ孫だそうだ。

Sさんは男の子のところに行き、話しかける。ターウジュートの言葉で、お父さんはどうした、というようなことを尋ねた。高いところにいる男の子は、鉄柵に体を押しつけながら、なにやらもごもご言っている。

私は長い間、チュニジアでベルベル語を学ぶことができないかと考えてきた。そして、昨年ついにSさんと出会い、一緒にチュニスでベルベル語を記録する機会を得た。今回の滞在で合わせて四週間ほどになる。その間、私はSさんが電話でお母さんとベルベル語でやり取りするのは聞いていた。しかし、目の前でベルベル語が使われているのを見るのは初めてだった。

入り口に立つまでにずいぶんと時間がかかったように思う。

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ターウジュートへの土産

翌日の朝、私たちはターウジュートに向かって出発した。マトマータを出る前に、Sさんは八百屋でスイカとメロンを買い、食料品店でクッキーとジュースを買った。村へのお土産だ。

私たちが夜を過ごしたマトマータは、地中海に面した街ガベスから南西に向かう道路を一時間ほど進んだところにある。車はさらにその道を西に進む。十キロほど進むと、タマズラットという小さな村がある。この村でもベルベル語が話されている。

道をさらに西に向かうと、南部の都市ドゥーズに至る。また、タマズラットを起点に北に進む道もある。ターウジュートに向かう道だ。曲がりくねった山道を三〜四キロ進むとターウジュートに着く。

その道中、iPhone の地図を見ながら私は、ターウジュートの先にはなにがあるのか、Sさんに尋ねた。というのも道はそこで終わっていたから。

「なんにもないよ」と笑う。

同じベルベル語が話されている村でもタマズラットは違う。ガベスとドゥーズを結ぶ道の途中にあり、車が行き来し、観光バスも通る。大きな家もある。しかし、ターウジュートは通過点にもならない。行き止まりだ。そんな場所にベルベル語が生き残っている。

タマズラットに近づいたとき、Sさんが水を買い忘れたと言った。タマズラットで車を止め、Sさんは店に水を買いに向かった。車で待っていると、Sさんが一リットル半の水を十二本ぶら下げて出て来るのが見えた。私はてっきり自分の飲み水を買いに行ったのかと思っていたが、お土産だったのだ。

そういえば、前日の夜、ターウジュートでは断水が一週間続いているとSさんが話していた。ペットボトルの水がお土産になる場所に私たちはやってきたのだ。