散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(5)

こうしてみると、ワイルドの bitter / bitterness への態度は、sorrow とは大違いだとわかる。sorrow のほうは、丁重に扱い、キリストのもとまでご案内しているのに対して、bitter はといえば、to pluck it out of mine だ。それどころか、ダグラスに味わわせようとすらしていると私には読める。

sorrow と bitter / bitterness の待遇の違いは、実のところ、表記にも表れている。いくつかの重要概念を、まるで固有名詞のように大文字で始めるのが『獄中記』の特徴のひとつだ。sorrow もすでにいくつかの例文で示したように、文頭だけでなく語中でも Sorrow となる。他の例としては Love, Art, Life, Hate などがある。重要なのは、これがワイルドの書き癖ではないということだ。つまり、悲しみの哲学に関係のない場所では sorrow は普通名詞として扱われるのである。

いっぽう、私が弁護してやまぬ bitter / bitterness は、決して大文字で始められることはない。これは明らかに、ワイルドが Sorrow や Love などの高尚な概念群へとこれらの苦い語を昇進させていないということだ。

なお、ここで私が読んだ版について一言しておく。それは Penguin Classics の Colm Tóibín 編の De Profundis and Other Prison Writings (2013) であり、注には Wilde’s letter is printed here exactly as he wrote it と記されている。すなわち、ここで問題にしている大文字小文字の区別もワイルドの原稿にあると見ていいだろう。ただし、De Profundis の古い版、特に最初のバージョンは完全版でもなく、また原稿を忠実に再現したものでもないようだ。

なんにせよ、この版を読むかぎり、ワイルドの sorrow と bitter / bitterness の扱いは明らかに違う。だが、ここで別の反論が生まれてくる。なるほど、この二つの語にいちじるしい待遇の違いがあることはわかった。だが、それにいったいなんの問題があるのか。どの語をどう扱おうと、雇用主たるワイルドの自由ではないか、と。

だが、これに言い返すのは簡単だ。例の一文がここで効いてくる。

The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.

つまり、「なんであれ realise してみせます」というのがワイルドの社是であるのなら、bitter / bitterness の小文字扱いもこの社是の観点から監査する必要がある。労基法があるから解雇するにもルールがあるのと一緒だ。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(4)

『獄中記』 での bitter / bitterness にはいろいろな用法があるが、ここでは主要なものとして次の三つを挙げたい。

1)投獄に至るまでの過程や獄中生活の厳しさの bitter

even in the most bitter periods of my imprisonment

2)取り去るべきものとしての bitter
ワイルドがこの点についてもっとも明瞭に書いているのは次の文だ。

I don’t write this letter to put bitterness into your heart but to pluck it out of mine.

また、心に bitterness を抱いて出獄するくらいなら、物乞いをしたほうがマシだともいう。

I am quite candid when I tell you that rather than go out from this prison with bitterness in my heart against you or against the world I would gladly and readily beg my bread from door to door.

さらにキリスト論においては、bitterness の解消がキリストの効能だと述べるにいたる。

Humanity, which is the spirit of Love, the spirit of the Christ who is not in Churches, may make it, if not right, at least possible to be borne without too much bitterness of heart.

3)ダグラスに対する bitterness
bitter / bitterness はしばしばダグラスに向けられるものとして言及されている。いずれも、ダグラスに対しては bitterness のない状態でいたい、ということを宣言するものだ。

My own griefs and bitterness against you I forgot.

And the first thing that I have got to do is to free myself from any possible bitterness of feeling against you.

しかし、次のような言葉も出てくる。

My words may perhaps be often too bitter to you.

さては、I don’t write this letter to put bitterness into your heart とはいうものの、実は、ダグラスに bitterness を押し付けようとしているのでは? そんな疑念を私が抱くに至ったのも無理からぬことといえよう。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(3)

『獄中記』のもうひとつの中心は sorrow の哲学だ。これは獄中生活で、自分の「悲しみ」を意味づける過程で生まれたものだが、ワイルドはこれを「behind Sorrow there is always Sorrow」と生の根源的な意味とまでみなすに至った。

さらに、「Where there is Sorrow there is holy ground」と宗教的な意味づけを行い、ついには悲しみを「the whole life of Christ – so entirely may Sorrow and Beauty be made one in their meaning and manifestation」とまで高め、独自のキリスト論を展開している。

キリスト論としては、ちょっと自分に都合よく解釈しすぎのような気もしないではないが、私はキリスト教はよくわからないので、判断はできない。いっぽう、悲しみという観点からはとても魅力的なのはわかる。なぜなら、私を含め多くの人は悲しみを味わっているので、その経験が実は神聖であったと聞かされて悪い気のしない人はいないからだ。

だから、私がここで反論したいというのはこの「悲しみ論」そのものではない。私が反論したいのは、ワイルドの不公平さについてだ。『獄中記』には、この Sorrow に負けないほど執拗に繰り返されるにもかかわらず、Sorrow のように思想の高みに据えられていない言葉がある。私はワイルドに代わってこの言葉を擁護し、そうしなかったワイルドに反論したい。

その言葉は、bitter / bitterness だ。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(2)

realise には「認識する」「実現する」などの意味があるが、『獄中記』ではこの語に「表現(expression)として実現する」という意味も担わせている。ワイルドは芸術家だから、この「表現」とは芸術的表現でもあるが、後半で展開されるキリスト論では生き方に近くなる。いずれにせよ、生きるということを深く考え、理解した上で、ひとつの形を与えることといえる。こうした観点からすれば『獄中記』自体もワイルドによる Whatever is realised のひとつだと捉えることができる。

もっとも、『獄中記』で語られるのは、そうした深い思索ばかりではない。アルフレッド・ダグラスについてはそうとう辛辣に非難しているし、自らの不幸への嘆きもいくども繰り返される。責められるべきはダグラスばかりではないだろうし、苦悶の叫びにもそれなりの自己演出もあろうかと思う。

だが、罪とすらいえない行為で、ひとりの人間が名声と財産と家族と自由を失い、破滅に追いやられたということは、それがワイルドであろうと誰であろうと、痛ましいことだ。

それにしても、『獄中記』で驚かされるのは、自分を破滅に追いやった理不尽さへの追及ぶりだ。文章は長く粘着的で、言うべきことを言い尽くそうとする執念深さがある。

私も理不尽な思いをしてきたが、忘れるように努めている。徹底的に反論をして相手を打ちのめしてやりたいとも思うが、それには莫大なエネルギーと時間が必要だ。そんなことに費やす暇はない。

おそらくワイルドも、刑務所に入れられなければこんな長い手紙を書こうなどとはしなかっただろう。実際には釈放から三年後に病没してしまうが、投獄されなければ、長生きして別の作品をたくさん書いていたかもしれない。これもまた痛ましいことだ。

散文

ワイルドの『獄中記』を駁す(1)

一八九七年、レディング監獄に収監されていたオスカー・ワイルドは、のちに De Profundis(深淵より)と呼ばれることになる長い手紙を書いた。

手紙は、アルフレッド・ダグラスという若い貴族に宛てたもので、ワイルドはこの若者との「重大な猥褻行為」により有罪となり、二年の懲役刑の判決を下されていたのだった。

日本語ではこの手紙は『獄中記』と呼ばれる。それもあながち間違いとはいえない。ワイルドは監獄から他にも手紙をたくさん書いているが、De Profundis は長さ、内容、文体の点でそれらの手紙とはまったく異なるから。これは、ワイルドによる、自らの破滅を招いた関係についての徹底的な究明(もしくは弁明)であり、また、監獄での日々にいくども繰り返されたに違いない悔悟に形を与えたものである。

「形を与えた」と私が書いたのには意味がある。というのも、「形を与える」ということは、『獄中記』の中心的な思想のひとつに関わっているからだ。ワイルドはそれを、次のように記している。

The supreme vice is shallowness. Whatever is realised is right.

この文句は、私が数えたかぎりでは『獄中記』で四回繰り返される。簡単にいえば「上っ面に流されずに真面目に生きろ」ということだが、正確に翻訳しようとすると難しい。

散文

押しボタン式(#2)

「押しボタン式」と標識のある横断歩道を渡ろうとして、信号機の下部の装置を見ると、すでに「お待ちください」と表示されている場合がある。赤信号を待っている人は誰もいないから、先にボタンが押されていたわけではないのだ。

私は事情はよくわからないが、押しボタン式には、押さねばならないものと押さなくてよいものがあるようだ。

だが、外国観光客が、このタイプの信号に遭遇したらどう思うだろうか。誰もいない横断歩道で「お待ちください」と表示されているのを見て、「ああ、日本人はなんと親切なのだろうか。道を渡る人のために、誰かがボタンを押しておいてくれるのだ」と感心するかもしれない。さらにはこんなふうに決意するかもしれない。「よし、いったいどんな日本人がこんなことをするのか、絶対に突き止めてやるぞ」

その観光客に時間の余裕と探究心とがある場合、物陰に身を潜めて信号機周辺を見張りだしかねない。親切な日本人が出現する決定的瞬間を撮影すれば、TikTok でバズるかも、という欲まで出てくるおそれもある。もちろん、いつまで待ってもそんな日本人は現れない。しかし、それがかえって日本という国の神秘性を深め、この暇な外国人は畏敬の念に打たれることだろう。

もっとも、私は日本社会の一員だから、そんな荒唐無稽な想像はしない。ただこんなふうに思うだけだ。ボタンを押そうとする人を戸惑わせるために、誰かがイタズラをしたのだ、と。

散文

新しいアトラクション

このあいだニュースで、東京ディズニーランドで一日遊んだら、途方もない金額になる、と言っていた。しかも、お金持ちにしか買えない高価なプレミアムチケットがあって、どんなアトラクションも待ち時間なく乗ることができるのだという。そんなものを買えない一般人にとっては夢の国になったのだ。普通の家庭の子どもたちが行けないようでは、将来的に入場者数も先細りになるばかりでは、という意見もあった。しかし、日本の子どもはいずれゼロになるのだから、ディズニーとしても早々に見切りをつけたということだろう。

このまま富裕層だけがディズニーランドに入れるということになれば、どんなことが起きるだろうか。私たち貧困層の中にもディズニーランドに行きたいという人はいるはずだ。そうした人たちは、おそらくディズニーランドに密入国することになろう。

これは楽しみばかりでなく実益もある。というのも、ディズニーランドのほうが日本よりもはるかに稼げるから。給与も日本よりも高いし、富裕層からチップも降り注ぐしで、いつしかシンデレラ城の地下にある縫製工場や、イッツ・ア・スモールワールドの奥のキッチンは不法キャストで溢れかえる。

オリエンタルランド共和国政府だって手をこまねいているわけではない。不法就労者の逮捕に精を出すだろうし、国境や海岸では、真夜中にミッキー・マウスやミニーたちが不審な越境者をライフルで撃つ音が聞こえる。

そして、ディズニーランドの一区画に巨大な収容所が建設されることになる。そこで不法キャストたちは集団生活を送りながら、強制送還のときを待つのだ。このアトラクションの待ち時間がどれくらいかはわからない。

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AIを使いこなす

AI関係の高額なセミナーの広告を見ると、こんなことが書いてある。

「AIを使ってみたいけど何からしていいかわからない方必見!」

AIに聞けばいいのでは、と思う。また、こんな広告もある。

「まだ間に合う! 話題のAIをこれから学ぶ方のための、無料オンライン入門セミナーを開催!」

間に合うとは? 無料セミナーの申し込みについてかもしれないが、ここではAIに関する知識や技術について焦らせているようにも読める。「時代遅れになる前に!」というわけだ。

なぜ間に合わないといけないのか。それはわかりきっている。

「AIに仕事を奪われる側ではなく、AIを使いこなす側になりたい方はすぐに!」

これは、どの広告にも書いてあるような言葉だが、AIを学ばないと無職になるというのだ。だが、AIを使いこなしても無職になる可能性は考慮に入れられていないようだ。

もうひとつおかしな点がある。仕事を奪うのはAIではない。雇用主が奪うのだ。雇用主がAIを使いこなした結果、経営合理化なり人員削減なりが成功し、被雇用者の職が奪われたのだ。もっとも、AIについてまったく知らなくても、首切りは簡単だが。

それはともかく、人の仕事を奪えるということは、本当にAIを使いこなしているということになるのだろうか。逆に、AIを使うことによって、被雇用者の仕事を守り、さらに、他の多くの人々に仕事を作ることこそが、本当にAIを使いこなすということなのではないだろうか。

AIによって、今まで雇えなかった人にどんな仕事を作れるか。仕事を奪う奪われるで考えるよりも、ずっと有意義なテーマだと思う。

とはいえ、こんなテーマの高額セミナーの広告が回ってきたら、それはそれで要注意だ。

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燃えよハムレット

英語の戯曲を読んでいたら、人が出入りを表すト書きが、動詞・主語の語順になっていた。

Enter Hamlet

これで「ハムレット登場」ということになるのだそうだ。英語は普通、主語・動詞の語順なので、これはどういうことかと辞書を調べたら、「Hamlet enters」と同じ意味だが、脚本に特有の書き方で、命令文なのだという。だが、それでもどうして動詞が前に来て、それが命令になるのかはわからない。フランス語とかラテン語とかを見る必要がありそうだ。

それはともかく、ブルース・リーの Enter The Dragon も、私は長年、「龍に入る……とは?」と疑問に思っていたが、この脚本的用法からきているのだという。Wikipedia を見ると、「龍が乗り込む」というような中国語の表現がもとになっているそうだ。

また、Wikipedia では、これが邦題で『燃えよドラゴン』となったのは、司馬遼太郎の『燃えよ剣』のタイトルからの影響だと書かれていた。

『燃えよドラゴン』はもちろん世界中の誰もが知る映画だ。私はこれが他の言語でどんなふうに翻訳されているか、Wikipedia で調べてみた。わからない言語も多いが、Enter を燃やしているのは日本だけのようだ。それにあきたらず、日本ではデブゴンまで燃やしてしまった。


Enter Hamlet.

Hamlet: To think, or not to think…feel!

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都会の公園

このあいだ用があって、青山だか赤坂だかよくわからない場所に行った。道も広くてキレイな街だったが、暑い日で太陽の光に灼かれながら歩いていると目が回ってきた。そんなとき公園を見つけた。高層ビルの隙間に隠された小さな森のようだった。

足を踏み入れると、頭上から涼しいミストが降り注いできた。まるで公園があいさつをしてくれたかのようだった。私は爽やかな気分になり、木々の作る影に安らぎを感じながら、ベンチに腰をかけた。疲れた足を伸ばし、どこかから聞こえてくるせせらぎの音に耳を傾けた。

公園のなかは、美しい人々が散策していた。みな自然の色をした柔らかい服を着ていた。私は自分の安っぽい服が恥ずかしくなった。天使のような子どもたちが、笑い声を上げながら、木洩れ陽の中を駆け回っている。私は自分の町の公園のことを考えた。

そこでは、木はみんな枯れていて日陰もなかった。土埃が舞い、地面はひび割れていた。子どものかわりに喫煙者と酔っ払いと変質者がノビノビしていた。

そのとき、ひとりの男が向こうからやってきた。男の服はくすんでいて、ズボンの膝のあたりは真っ黒になっていた。男はフラフラと歩きながら、私のベンチの隣にあるゴミ箱の前に立った。その扉を開け、カゴからひとつずつ中身を取り出して調べはじめた。新聞、ペットボトル、紙屑、何かの容器……。

神様かもしれない、と私は想像する。