研究

遠い道のり

チュニジアのベルベル語は、話す人が少なくなっていて、そのうちなくなるかも、という人もいる。私はこの言語の勉強を始めたばかりなので、なんとも言えないが、辞書も文法書もないので、ひとつひとつ調べなくてはならない。私の目標は文法書を書くことだが、Sさんはそんな私を助けてくれている人だ。

チュニジアのアラビア語で「布製の大きな袋」という意味のシュカーラという語がある。これをベルベル語でなんというかSさんに尋ねると、該当する単語を教えてくれた。私はそれをアラビア文字で書き取り、その下に日本語で「大きなふくろ」とメモをした。あとで見返したら「大きなふから」と書かれていた。シュカーラに引っ張られていたのだ。文法書への道のりは遠いと言わねばならない。

Sさんはベルベル語が母語だが、普段はチュニジアのアラビア語で生活している。そんなわけで単語がすぐ出てこないことも多いが、すぐに同居しているお母さんに電話で確認してくれる。しかし、なにかの事情で電話が繋がらないこともある。そんなときはわからない点はそのままにしておいて、あとで聞くことにしている。

あるとき「〜の間に」という単語をSさんが思い出せないことがあった。そこで、いつものように電話すると、Sさんの家族が出て、お母さんに取り次いでくれた。実はその前に何度か電話をかけたが繋がらなかったので、不明な単語がいくつかあった。問題の単語を教えてもらうと、私たちはノートを見返し、わからない単語をお母さんにひとつひとつ教えてもらった。

そして、Sさんが電話を切り、もう一度「〜の間に」の問題に返ったとき、私たちはその単語をすっかり忘れていることに気がついた。

ありがたいことにすぐに電話をかけて確認してくれたが、道のりはまだまだ遠いと言わねばならない。

苦い文学

感じるゾーン

ベルリンに行くため、空港の搭乗ゲートに着くと、もうボーディングのアナウンスが始まっていた。

女性スタッフがボードを掲げて、ビジネスクラスと子連れの家族に搭乗を促していた。しばらくすると、エコノミークラスの搭乗も始まった。女性スタッフが Zone 1 と記されたボードを見せて回る。該当する人々が席から立ち上がり、たちまち列ができた。

私は搭乗券を見た。Zone 4 と書いてある。まだまだ先だと思いながら、空いた席に座った。カウンターに向かう人々を見ていると、列の脇に立つひとりの男に目が止まった。

その男は見た目は普通の旅人のようだった。だが、私の目にいかにも異様に思われたのは、その赤みを帯びた顔とうつろな目つきであった。さらに観察すると口をもごもご動かして、「アッ」とか「ハッ」とか小声で言っているようだった。

この不審な男に気を取られている間に、新たな案内が始まった。女性スタッフが「Zone 1 & Zone 2」というボードを手にやってきた。

そのとき、さらに異様なことが起きた。例の男はそのボードを見るや、手で自分の胸を押さえたのだった。その顔はさらに赤みを帯びた。興奮しているのだ。体がワナワナと震えている。男は恍惚とした表情で自分の胸を手で覆っていた、いや、遠目からもわかるくらい強く握っていた。

そして、Zone 3 のボードを持ったスタッフがやってくるころには、次に何が起きるか、私は理解していたように思う。男は自分の腹に手を当てた。ここが Zone 3 なのだ! 手はその Zone を激しく掻きむしった。興奮の喘ぎがはっきりと聞こえた。顔は紅潮し、その目はまるで飴のようだった。

Zone 4 の番が来たとき、男の身に起きたことについては、なにもいうことができない。というのも、私は恐るべきカタストロフィの予感に居ても立ってもいられなくなり、ボードがやってくる前に列に並んでしまったからだ。ただ、Zone 4 のボードを持った女性スタッフが私の並ぶ列を通り過ぎていったとき、自分の背後でなにかが倒れる音と「ゾォオォンン……」という歓喜とも苦悶ともつかぬ呻きを聞いただけだ。

小説

道を渡りし者(12)

「柏木達也先生!」と野上市長が大声で招くと、鉢巻をした老人が人々の間から出てきた。

「えー先生は」と市長が監修に向かって話し出した。「我が市の教育委員会で長らく……植樹祭の時は……それで昨年は勲章を……現在は名誉市民として……されている方であります。では、先生、開会の辞を……」

「開始!」 柏木先生は市長が語り終えないうちにバカでかい声で叫んだ。

もっとも、私は開始などしない。横断歩道の前でただ立っているだけだ。野上章雄はといえば、次から次へと猛スピードで通り過ぎていく自動車の中に飛び出そうと、足を出したり引っ込めたりしている。見ている私もヒヤヒヤするくらいだ。

観客たちは「今だ!」とか「気をつけろ!」とか勝手なことを叫んでいる。だが、急に「あーあ」といっせいに嘆息した。信号が青になったのだ。章雄は一歩後ろに下がり、軽くジャンプしたり、肩を回したりしている。

何人かのおどけ者たちが、青信号の横断歩道に飛び出して、ふざけて踊ったり、奇声を上げたりした。ハーフタイムショーだ。

だが、青信号が点滅しだした瞬間、ひょうきん者たちも大慌てで歩道にかけ戻る。そして、赤の時代が到来した。再び道路は、自動車とトラックとダンプのけたたましい轟音と無慈悲な地響きで満たされる……。

章雄は歩道の端に立ち、肩を落とし、挑むような格好で、交通に意識を集中している。体が左右にゆっくりと揺れる。そして、すっと短く息を吸い込むと、意を決し、足を前に踏み出した。だが、そのとき、背後から数名の男が彼に飛びかかり、黒い袋をかぶせた。

観衆から声にならない叫びが上がる。何が起きたか飲み込めず私も呆気に取られている。誰かが叫んだ。「あそこ! 向こう! 渡ったんだ!」 全員が道路の向こうを見る。

章雄が立っているではないか! 赤信号を渡ったのだ。観客たちは大歓声を上げる。勝利だ! 市長の息子が奇跡を起こした! 拍手が鳴り響く。

向こう側の章雄は私たちに手を振っている。そして、背を向けると軽やかに走り去っていった。

「勝負あり!」 柏木先生が宣言した。と同時に、市長が私の方を向いた。私はこのときだ、とばかりに、すがりつこうとした。だが、そうする前に、市長が怒鳴った。

「こいつだ! このペテン師を殺せ!」

人々が私につかみかかり、歩道にひき倒した。「八つ裂きにしろ!」 私は手足を引っ張られまいと、必死にもがく。すると、歩道に転がされていた黒い袋がむくむくと立ち上がるのが見えた。それは「やめろ! やめろ!」と叫んだ。袋がはねのけられ、章雄が姿を現した。

風刺・戯文

ヒトが木から降りたワケ

《人類が地上に降りた理由、新説発表》

初期人類がどうして木から降りて地上で暮らし始めたのか、霊長類文化リサーチセンターの吉田三郎博士が新説を発表した。およそ 900 万年前にアフリカ熱帯林で木の形態に生じた変化が、地上に降りたきっかけとなったことを、樹木の化石の分析によって裏付けた。研究内容は、今日にも学術誌『サイエンティフィック・ベンチマーク』に掲載される。

ヒトがいつ地上で二足歩行の生活を始めたのかは、これまでもさまざまに議論されてきた。吉田博士は、「そもそもなぜ樹から降りたのか」という疑問を解明するため、900 万年前の樹木の化石を比較検討し、樹木に生じた形態的変化が、ヒトを樹上生活から「排除」したことを明らかにした。

「これらの化石からわかるのは、当時の樹木が、わざとらしく突起に覆われていたり、取ってつけたような手すりや仕切りがあったり、意地悪く鋭く斜めになっていたり、つるつるだったりと、ヒトがのんびりと寝そべったり、ゆっくりと休めないような形状に進化していたことです」

このことから、ヒトはおよそ 900 万年前に樹上生活を諦めて、地上生活を始めざるをえなくなったと考えられるという。吉田博士は、この樹木の変化がヒトに与えた影響をより明確にするために、現在、東京都内の駅や公園のベンチの調査を始めている。(ザンゲー通信)

苦い文学

惑珍問答(下)

兵六「それは、先生、この度、摂衆寺にやつてきた惑珍和尚といふお坊様のことでございませう」

先生「それがいつたいなんの関係があるのだ」と、丑松のはうに身を向け、その腕を掴む。「むむ、二の腕がひどく腫れてゐるやうだが」

兵六「ひどく厳しいお坊様でして、丑松めがうつかり近づいたところ、警策でぱしりとやられたのでございます」

先生「そんな番犬みたやうな坊主がいるものか。しかし、二回目がどうだとも言つてゐたやうだが」

兵六「は、滝行のことでございますな。惑珍和尚への粗相を恥じて、丑松が二度ばかり滝に打たれたと話しておりました」

先生「だが、丑松は熱があるやうではないか。副反応だとか言つてゐるのが聞こえたが」

兵六「それにてございます。無理に滝に打たれたせいか風邪を引いたやうで、これは福観音という観音様にお参りにいかねば、と話しておりました」

先生「では、これはどうだ。お前たちが、なんとか三度まで済ましたいもの、と言つているのをはつきり聞いたぞ」

兵六「丑松めの振る舞いがあまりに愚かであつたため、仏の顔も三度までと、戒めましてございます」

先生「むう、左様なれば、もう何もいふまい」

国柄先生、立ち上がり、部屋から去る。兵六・丑松、やれやれと顔を見合わせる。

丑松「いやもう、生きた心地もしないとはこのことだ。兵六のおかげで、なんとか先生に怒られずにすんだ」

兵六「ああ、ひどくがつかりした」

丑松「まつたく、ワクチンだけに」

兵六「こんな苦労は」

丑松「早えところ」

兵六「打ち止めに」

兩人「してもらいてえもんだなあ」

ひやうし 幕