苦い文学

日本人ファースト

日本人ファーストの党が政権を勝ち取ったとき、誰もが「本当の日本を取り戻すことができる」と欣喜雀躍した。

そして日本人ファーストの党は、私たちが期待した通りの政党だった。することなすこと日本人ファーストだったのだ。外国人は追放か処刑だし、なりすまし政治家も追放か処刑だ。日本人を貶してきたメディアと学術会議は A4 用紙で簀巻きにして日本海溝にボチャンだ。例の GHQ 謹製の憲法だって改憲どころの騒ぎじゃない。廃憲だ。これからは日本人ファーストが法律だ。日本人の日本人による日本人のための日本がここに実現したのだ。

そんなある日、政府から私たちのところに一通の通知が届けられた。

「日本人ファーストではないとの嫌疑につき直ちに出頭するように」

「これはなにかの間違いだよ」 私たちが我こそファーストとばかりに当局に駆け込むと、取り調べもなにもなく逮捕。由緒正しい日本人だといくら主張しても、日本人ファーストではない疑いの一点張りだ。裁判もなく有罪の判決が出た。

今、私たちはど田舎の収容所に入れられている。どんなに日本人だと言っても出してくれない。それどころか殴られる始末。

「日本人ファーストの国が日本人を殴るのか!」と怒鳴ると、看守たちは「よく聞け! ここは日本人の国じゃない! 日本人ファースト人の国だ!」と笑いながら死ぬまで殴る。日本人ファースト人ファーストだったのだ。

収容所では、朝の4時から夜の11時まで強制的に働かされる。私たちが作るのは米と野菜だ。純国産の食材を日本人ファースト人の食卓にお届けしています。

苦い文学

シェルター建設のはこび

ドイツ人たちが、ユダヤ人への恐怖と憎しみに駆り立てられて迫害と虐殺を始めたとき、少数の人々はユダヤ人を匿って命を救った。だが、そのせいで逆に、匿われたユダヤ人のみならず、その匿った人の家族全員が殺されることもあった。

今の世界は当時と同じような憎しみにゆっくりと炙られつつある。我が国でも「日本人ファースト」などといって日本人と日本人でない人をはっきりと区別するヘイト表現が大手を振って歩き出した。日本の国だから日本人が大事なのは当たり前だという人もいるかもしれないが、政治家がそんなことを言い出すのは、日本という国に住むすべての人々に対する責任放棄にほかならない。

政治家が責任を持つことを放棄した人々に何が起こるだろうか。外国人ならば強制送還だ、と簡単にいう人がいるが、これは実際には大変だ。おそらく、強制送還ならばまだ良心的だったと思われるようなことが起こるはずだ。殺してしまうほうがなんといってもいちばん楽なのだ。いずれにしても人狩りは避けられまい。

こうした暗い時代の到来に備えて、ひとりでも多くの人を匿えるようなシェルターの建設が必要ではないだろうか。そのシェルターでは、「日本人でない」とされた人々が、日本人ファーストの魔の手から守られ、いつか明るい時代が来るまでひっそりと生き延びるのだ。

私は自分自身が迫害される危険を省みず、シェルターの建設を決意した。持てる財のすべてを注ぎ込み、この度、ついにシェルターの完成にこぎつけたのだ。じつにすばらしく、美しいシェルターだ。一見の価値ありと自負している。ついては、シェルターの完成披露会を開催したい。ぜひたくさんの人においでいただき、実際にご覧いただきたい。日時と詳しい場所(地図つき)は追ってこのサイトで告知するつもりだ。

苦い文学

古本とおしゃれ

かつて、私の楽しみといえば、古本屋巡りだった。昔は、どんな街にも小規模な古本屋があちこちにあって、そのひとつひとつを訪ねるだけで、楽しい時間が過ごせたものだった。しかし、時代は変わった。街の古本屋は次々と姿を消し、古本屋巡りなど一部の地域のみでしか成立しなくなってしまった。

古本屋の中を歩き回り、古本に触れると、遠い過去や異なる世界が間近になったような感じがしたものだ。古本なら希望のものはネットでいくらでも買える。だが、この感覚は古本屋の中でしか味わえない。思えば、古本屋巡りとは、高雅で、そして安価な娯楽だったのだ。

だが、その古本屋巡りができなくなって何年経つだろうか。私にはもはやこのような高尚な楽しみの機会はない、と諦めていた。だが、そんなとき、私はおしゃれに出会った。

今では、休みのたびに、私はおしゃれな街を歩き回っている。下北沢、吉祥寺、自由が丘……これらのおしゃれな街に散らばる古着屋をひとつひとつ訪ね歩くと、昔、古本屋巡りをしていたときと同じ感覚、同じ喜びが湧き上がる。

ああ、棚に置かれたあのディスプレイ用の洋古書のタイトルはなんだろうか……おや、開きっぱなしの古い洋書の上に、ネックレスや指輪が並べられているぞ。これはなんの本だろうか……

こんな調子では、当分のあいだ古着屋巡りをやめられそうにない。

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不正行為

日本語能力試験(JLPT)は、日本語の能力を測定するテストで、高いレベルに合格すると、進学や就職に有利なため、しばしば替え玉受験やカンニングなどの不正行為が発生する。

受験の注意を見ると、イエローカード2枚もしくはレッドカード1枚で失格となるそうだ。どのような行為が対象となるかだが、これは普通のテストと変わらない。問題用紙を勝手に見たり、カンニングしたり、迷惑をかけたり、などだ。ただ、面白いのが「服や体に数字や文字などが書いてあったとき」だ。

うっかり日本語の書かれたシャツを着ていったら、失格になりかねないのだから、注意が必要だ。ただ、シャツなら脱げばなんとかなるかもしれないが、刺青の場合はどうなるのだろうか。国によっては刺青がそれほど特別なことではなく、誰もが目立つところに入れている文化もある。花や模様ならいいが、しっかり漢字で入っている人もいるかもしれない。そういう人がもし、JLPT に挑戦することになったらどうなるだろうか。試験監督に見咎められて、退場させられるのではないか。私はとても心配だ。

また、刺青ではないが、日本語学習者の中には、全身にお経が書いてある人もいるかもしれない。そういう人もどうなるのだろうか。試験監督に両耳だけもぎ取られて退場を命じられるのではないか。私はとても心配だ。

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第三次世界大戦

アメリカがイランを攻撃したとき、人々は「第三次世界大戦が始まった」と言い出した。

これに対して、別の人々は「第三次世界大戦はまだ始まっていない」と反論した。これは局地的な紛争に過ぎないというのだ。

また別の人々は別の角度から反論した。

「第三次世界大戦は始まっていないし、決して始まらない。なぜなら、第二次世界大戦の頃とは、世界のあり方も人の考え方も異なるのだから、第二次世界大戦と同じような意味で世界大戦はもう起こりようがないのだ」 そして、こう付け加えた。「次に起こるのは、シン世界大戦だ」

こうした動きに対して「もうとっくの昔に第三次世界大戦は始まっているのに、いまごろそんなことを言っているとは!」と憤慨する人が現れた。この一派の一部が過激化し「今は第五十三次世界大戦だ」と主張するに至った。

第三次世界大戦についてどのような立場を取るかは、いつのまにか、大きな政治問題となっていった。というのも、どんな形にせよ「起こった」状態のほうが都合のいい政治家と、「起こっていない」ほうが都合のいい政治家がいたからだ。

そんなわけで「起こった」派と「起こっていない」派との論争は激化し、いつしか第三次世界大戦に発展していった。

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激白記事

《記事タイトル》
【激白研究者が激白激減の原因を激白!】

《記事の内容》
・本記事は「激白」を研究する研究者が発表した「激白が激減した原因を明らかにした論文」について報じたものである。
・「激白」とは、辞書によれば「ニュースなどで取材された人が衝撃的な内容を隠さずにうち明けること」とされる。
・「激白」を報じた記事を「激白記事」と呼ぶ。
・論文では、この「激白記事」の出現回数を過去 30 年に遡って調査。
・その結果、2010年代初めから「激白記事」が激減していることが明らかになった。
・論文によれば、激白が激減した理由について4つの仮説があるという。

(1) 記者のレベルが低くなったため、激白を引き出せなくなったという説。
(2) 激白はどこかダサい人がしている印象があるため「激白ダサい」とする風潮が広がったためという説。
(3) SNS や 動画配信の普及により、過激な発言が一般的になったため、ちょっとやそっとの発言では激白にならなくなった、という説。
(4) 激白の減少には炎上の増加が関係している、という説。

・「いずれにしても、現代ほど激白の困難な時代はないと言えそうである。」と記者はまとめる。

《関連記事》
【激白研究者があの激白研究の捏造を激白!】

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『中車藝話』

『中車藝話』(築地書店、昭和十八年刊)は、明治から昭和初めにかけて活躍した歌舞伎役者、七代目市川中車の自伝だ。いつどこで、そしてどうしてこの本を買ったのか、自分でも覚えていないのだが、とにかくいつも本棚にあるので、このあいだ読んでみた。

そしたら、奇妙な話ばかり出てくる。もしかしたら、私が知らないだけで、誰でも知っているような話なのかもしれないが、面白かったので、そのいくつかを思いつくままに列挙しておく。

・市川中車は幕末から子ども役者を務め、いわゆる「どさまわり」を経験した人だが、そのどさまわりのとき、墓場で死体に噛みつかれた。
・14〜5歳のころ、パトロンに連れられて遊郭にいく。すると、花魁が役者に惚れて困るのでウチは役者を客にしない、と遊郭の主人に断られる。面目を潰されたパトロンが後日、現代のドラマでは決して放送できないような手段で仕返しする。
・深い仲になった花魁と心中しようとして、かえって別の心中を助ける。
・盲目の役者が化狸に導かれたという。
・出かける前に神棚に魂を置いていく役者がいたそうだ。
・亡くなった前妻が心霊現象を引き起こす。

私は歌舞伎のことなどまったくわからないので、芸に関する話はほとんど理解していないと思う。だが、それでも普通の読み物として十分に楽しめた。

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きっと

10代の人と話していて、ある約束について確認を求められた。私が「もちろん行く、きっとだよ」と答えると、その人は不審げな顔つきでこう返事をした。「え、絶対じゃないの?」

私は「絶対」のつもりで言ったのだが、ここで「きっと」の意味が違うのだということに気がついた。辞書で「きっと」を見るとこう書いてある。

・確実にそうなるだろうと予測しているさま。
・あることが確実に行われるさま。必ず。

漢字で書くと「屹度」「急度」だ。当て字ということだが、厳しそうな漢字からして「絶対だぞ」という感じがする。

だが、若い人はそうは受けとらなかったのだ。なぜなら、「きっと」はこんなふうに使われることも多いから。

「きっと彼は来るだろう」
「いつかきっと……」

「だろう」とか「いつか」と一緒に使われると、「絶対」よりも確実性が下がり「たぶん」に近くなる。この問題についてはネットでもいくつか意見があり、「たぶん」と感じる人のほうが多いようでもある。

もっとも、キットカットの「きっと勝つ」が「たぶん」では応援にならないから、「絶対」の感覚もまったくなくなってしまったわけではない。

それはさておき、私はこの「きっと」が、どちらともつかない場合があることにも気がついた。まずこれを見てほしい。

きっと君は来ない
ひときりのクリスマス・イブ

山下達郎はどちらの「きっと」で歌ったのだろうか。まず「来ない」と言い切っているからには「絶対」だろう。また山下達郎の世代からいっても「たぶん」ではなさそうだ。つまり、「絶対に来ない」と言っているのだ。

しかし、疑問がないわけではない。絶対に来ないとわかっている人がいったい、「ひとりきり」だの「まだ消え残る」だの未練がましく歌うものだろうか?

苦い文学

時間旅行

今回の旅は、カタール航空でドーハ経由でベルリンに行った。成田からドーハに向かう飛行機で私は携帯を充電しておきたくなった。

iPhone 15 なので、USB Type-C のケーブルで充電する。だが、座席のモニター周辺には昔の USB の差し込み口があるだけで、Type-C 用のはなかった。そんなわけで結局、充電することはできなかった。

だが、ドーハの空港に着いてみると、あちこちに充電する場所があった。Type-C 用のポートもあった。そして、ドーハからベルリンに向かう飛行機にも、モニターの下に Type-C 用接続口があった。

ベルリンでの滞在が終わり、私は再びドーハに向かった。飛行機の中で iPhone を充電しながら、ドーハの空港に着き、空港でも充電した。だが、日本行の飛行機の中では充電はできなかった。なぜなら、Type-C 用ポートがなかったからだ。

これはつまり、と、飛行機の中の私は考えた。時間を旅しているということではないだろうか。 Type-C が当たり前の世界と、昔の USB の長方形の差し込み口しかない過去の世界をドーハ経由で行き来しているのだから。

私はそれに気がつくと、スチュワーデスを呼んでコーヒーを持ってこさせ、タバコに火をつけた。

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AKI’O NAKANO

ベルリン自由大学で開催されたセム語方言学会議(Semitic Dialectology Conference)の口頭発表のうち、特筆すべきは、シリア語・アラム語の碩学、Werner Arnold 先生によるものだろう。それは 「中野暁雄のジュッブアディーンからの現代西アラム語による薪についてのテキスト(“Aki’o Nakano’s Western Neo-Aramaic Text from Ǧubbʿadīn about Firewood”)」と題されたものだ。

タイトルだけだとなんのことかわからないが、中野暁雄という研究者が現地で採取し、出版した現代西アラム語のジュッブアディーン方言の民族誌的テキスト集( “Ethnographical Texts in Modern Western Aramaic (1) (Dialect of Jubb’adin)” 1994)があり、そのテキストの「薪(firewood, p63)」と題されたセクションについての発表だ。

その発表の理由であるが、これはこのテキストのもつ大きな「問題」に起因している。このテキストはアラム語(の音韻表記)のみで、英語の語釈も訳もないので、ごく少数の研究者にしかわからないのだ。そこで Werner Arnold 先生が専門家として注釈と訳を試みたというわけだ(ちなみに同書では Arnold 先生の研究も参考文献として挙げられている)。

Arnold 先生によれば、このテキストは、他のアラム語資料には出てこない語彙が現れる貴重な資料ということであった。こういったものを出版した中野暁雄は実にすごい人であったのだ。

中野暁雄は 2008 年に亡くなったが、それまでにアラビア語方言、現代南アラビア語、現代アラム語、エチオピア諸語、ベルベル語などの言語の現地調査を行い、数々のテキストや語彙資料を出版した。そのため、これらの諸言語の研究者の集まる今回の会議では、その名前を知らぬものはないというほどであった。

日本から来た私はこの傑出した学者についていくども尋ねられた。そのたびに私は「中野先生の学生であった者です」と少しえばって答えた。