小説

時代にログインできない男たち(終)

医師は、物腰の柔らかい男で、私よりずっと若く見えた。丁寧に私の血圧を測り、胸に聴診器を当てた。それから、診察台に横にならせた。心電図の検査に使うような計器を持ってきて、そこから伸びる線を私の胸部と手足に装着した。すぐに結果がプリントアウトされた。

医師はその結果を見ながら診断を告げた。

「ずいぶん前にサポート終了になっているようですね。もちろん、パスワードを処方することはできるのですが、ログインしたところで、アップグレードはできません。そもそも、ログインしても、適切に動作するかもわかりません」

「ですが、ログインができるというのならば、せめて、ログインだけでも……」

「ここにおいでになる多くの方がそうおっしゃいますし、私もそうできればいいと思うのですが、実際は無理なのです。周辺デバイスとの接続もできませんし、ソフトウェアもまず動かないので、できることがほとんどなくなってしまうのです。それどころか、フリーズの危険もあります。まずは、時代から離れてゆっくり療養されることをお勧めします」

「いや、それでは意味がないのです。たとえアップデートできなくても、たとえフリーズしたとしても、会社がログインしろと言った以上はしたいのです。仕事を失いたくはないのです」

「フリーズの結果、強制終了されることもあるのですよ」

「でも、その場合は労災が適用されますよね?」

「ふむう」と医師は唸ると、カルテにパスワードの処方を書き入れたが、私などもういないかのようにふるまいはじめていた。

小説

時代にログインできない男たち(2)

翌日、私は仕事を休んで近所の病院に行った。「パスワードを忘れたのです」と受付にいうと、外来で待つようにと言われた。そこにはすでに何人もの男たちが長椅子に腰掛けて待っていた。

私は男たちのようすを窺い見た。携帯をじっと見つめている男もいれば、黙って目を瞑っている男もいた。どの男たちも不幸そうで、その額には深い皺があった。私も同じように見えたにちがいない。誰かが深いため息をついた。それに釣られて、いくつかのため息が連鎖した。

ああ、私たちがどれだけ陰鬱だったとしても、それは無理からぬことであった。パスワードがないとは、時代にログインできないということであり、時代にログインできないということは、人間としての尊厳も、地位も、価値も、職も失うということであったから。すべてを失って生きるつらさを考えれば、いっそのこと世界からログアウトしてしまうほうが楽かもしれなかった……

男たちは次から次へと診察室に呼ばれていった。そして、私の後にも次から次へと陰気な男たちがやってきた。私は診察室から出てくる男たちのようすを注意深く見ていたが、どの顔も入ったときと同じく暗いままで、時代にログインできたと喜んでいるようすなど微塵もなかった。

「これは簡単なことではないぞ……」とますます気が滅入る。と、診察室から声がして私の名を呼んだ。

小説

時代にログインできない男たち(1)

「あなたのような中高年男性は、すきあらば昔をなつかしもうとするし、目を離せば今と女性と外国人に対するヘイトスピーチに夢中になっているという具合で、たいへん評判が悪いのです」とカウンセラー。

「どうしてだと思いますか? それはズバリ、時代にログインできていないからです。考えてもみてください。OS でもアプリでも、アップデートするときにはログインが必要でしょう。あなたがアップデートできないのは、この今という時代にログインできていないからなのです」

「先生、私はずいぶんパッチを当ててきたように思うのですが……」と私。

「お黙りなさい! こんなひどい脆弱性は見たことがない。私が言っているのは、メイジャー・アップデートのことです。これは絶対に時代にログインしなくてはできませんから、すぐに取りかかってください」

私はカウンセラーの部屋を出て、自分の机に戻るとさっそくログイン用のパスワードを記した紙切れを探したが、どこにもなかった。

風刺・戯文

涙は下に流れる

私たちは年齢を重ねると涙もろくなる。子どもが健気に歌っている姿や、若者が成長しようともがいている姿、それどころか、犬がしゃにむにおもちゃを追いかけている姿にさえ、私たちは涙を流すようになる。

その理由については、経験を積むことによって共感力が高まり、また、加齢によって感情の抑制が緩んだためだとされる。とはいえ、ここでひとつ注釈を加えるとすれば、私たちはなんでも共感するわけではない。どんな健気なものも心を動かすのではないのである。

例えば、自分よりも年上で地位が上の老人が頑張っていても、涙は流れない。つまり、自分よりも下の存在が健気に頑張っている姿にかぎり心打たれるのだ。だから、年上の老人でも、瀕死の病人やホームレスだったりして、自分よりも下だとみなせる場合は、私たちは涙を流さないものでもない。涙はいつも下向きに流れるのだ。

さらに、もうひとつ注釈を加えるとすれば、私たちが涙を流す健気な対象は、私たちが干渉できない位置にいなくてはならないということだ。私たちは健気な姿にどんなに涙を流したとしても、その対象にアドバイスをしたり、手助けをしたりはしない。なぜなら、そうすることは、私たちの美しい涙の邪魔になるから。これは、私たちが動画を見て涙を流すことを心から愛していることの理由でもある。

こうしたことを考えると、宇宙人が地球に来ないことの理由がはっきりする。人類よりもはるかに進んだ宇宙人は、地球を眺めて「最近涙もろくなって」などと言いながら、人類の健気な姿を見るだけで満足しているのだ。

風刺・戯文

カップ麺の蓋

もう自分の人生は終わりだという思いに圧倒され、どこにも進む道を見出せないとき、私はいつもカップ麺を作る。

「作るだって? 蓋を開け、スープなどを入れて、お湯を注ぐだけじゃないか」 そう思う人もいるかもしれない。だが、カップ麺で本当に大事なことは、その後、つまり、紙の蓋を閉じた後に始まるのだ。

私はその閉じられた蓋を見ながら、カップ麺の歴史に思いを馳せる。それは常に失敗の歴史だった。

まず開発者たちが行ったのは紙の蓋に紙の爪をつけることだった。それをカップのフチで折り曲げておけば、蓋が閉じたままになると考えたのだ。だが、このいかにも成功しそうな目論見も、紙の蓋の反発力に打ち勝てないことがが明らかになった。そこで、カップ麺の開発者たちは紙の爪を大きくしたり、2つ、3つに増やしたりした。しかし、それでも蓋を抑えておくことはできなかった。

そこである開発者たちはシールならば紙の蓋を制することができるのではないかと考えた。これは確かによい案に思えたが、愚かにも開発者たちは蓋止めシールをカップ麺の包装フィルムに付属させてしまった。その結果、どんなことが起きただろうか? カップ麺を作ろうとする消費者たちが、この有用なシールに気づかずに、包装フィルムと一緒に捨ててしまう事故が続発したのだった。現在では、この蓋止めシールは一部のごく少ないカップ麺に残存するのみであり、絶滅するのも時間の問題となっている。

こうした事態を前にして、追い詰められた開発者たちが恐ろしい蛮行に走るのは避けられなかった。彼らはスープ後入れなどという奇怪な調理方法を編み出し、そのための「後入れスープ」などというものを開発して、蓋の上に置くように指示したのだ。しかも彼らは「後入れスープを蓋の上に置くと、スープが温まって美味しくなる」などという甘言でもって、消費者に蓋の抑圧に手を貸すよう促したのだ。なんと卑怯なことであろうか。

だが、それも失敗に終わる……。と、そんなことを考えているうちに、3 分がたってしまう。私は、カップ麺の蓋の上に乗せていた例の後入れスープ、そして後入れスパイス(そうなのだ、連中はこんなものまで案出したのだ)を取り除く。

その瞬間、ほら! 紙の蓋がいくつもの爪にも関わらず、そしてスープによる加重にも関わらず、自ら開いたではないか! まるで不死鳥のように! カップ麺の紙の蓋には、きっと不屈の魂が宿っているのだ。そうだ、私もだ。どんなに押さえつけられても立ち上がろう!

すっかり元気を取り戻した私は、カップ麺の蓋をゴミ箱に捨てて、麺をすすりだす。