散文

阿弥陀胸割異聞

「阿弥陀胸割」とは、昔の語り物のひとつで、落ちぶれた姉と弟の物語だ。

ある金持ちがいて、その息子が病気でもう死にそうときた。医者がいうには、病気を治すには、同い年の娘の生肝が必要なのだという。そこに現れたのが、姉と弟。姉は条件にぴったりだ。金持ちが事情を話すと、姉は、弟の面倒を見てくれるならばと、引き受ける。

息子の病が重くなると、金持ちは姉と弟のいる阿弥陀堂に人をやり、姉を殺し、生肝を取らせる。その生肝を食べた息子はたちまち回復だ。後になって、阿弥陀堂に行ってみると、姉と弟が無傷で寝ている。その傍らには、胸が割れて血に染まった阿弥陀仏が。なんと身代わりになってくれたのだ……。

私はこの物語を読んで、ひらめいた。

実は私の友人で焼肉屋で働く男が、禁制のレバ刺しを内緒で食べさせてやると誘ってくれたのだ。私としては行きたいのはやまやまだったが、運悪く当局に踏み込まれたりしたら、厄介なことになるのではと二の足を踏んでいた。

だが、万が一そんな事態になっても、もう大丈夫。持参の胸の割れた阿弥陀像を当局に見せて「生肝はこっちの」と主張すれば、なんとか切り抜けられそうではないか……。

散文

灼熱の地

7 月末から 2 週間、チュニジアに行って、いつものように調査を行う予定だ。今回、私が期待しているのは、チュニジア南部で話されているマイノリティ言語の調査だ。「期待している」というのは、必ずしも思ったとおりにいかないこともあるからだ。

調査そのものをどこで行うかもまだ流動的だ。チュニスで腰を据えてするのもいいが、南部に行って実際の生活を学びながらというのもいい。

ただ、問題は暑さだ。「夏に南部に行く」と私がチュニスの人に言うと誰もが口を揃えて「やめろ」と止めるぐらいの暑さだ。私が行こうと思っている村では、45 度を超えるそうだ。

だからその村の人は昼は外に出ない。朝早く起きて朝の 9 時までに放牧を終わらせてしまう。それから家に帰って、夕方の 5 時まで寝るそうだ。村に 3 つしかない食料品店も朝 9 時に閉まってしまう。だから買い物もそれまでに済ましてしまうのだそうだ。

そんなところに行って、人々に迷惑をかけずに調査ができるものなのか、私はわからない。そもそも私の体力が持つだろうか。そう思って、今のチュニジア南部の最高気温を調べてみた。

東京のが高かった。

もちろんチュニジアのほうはこれから上がるのだろうが、にしても大丈夫な気がしてきた。

散文

カレンのバーベキュー

日本に暮らすビルマのカレン人が、今日7月20日、葛西臨海公園でバーベキューの集いを開催した。私も誘われたので、行くことにした。100人ぐらい来るとのことだが、本当にそんなにくるのかわからない。チケットを見ると11時から開始というので、20分ぐらい前に行ってみたら、カレンの服を着た数名の人がたむろしているだけだった。これから準備を始めるらしい。

炎天下のなか、近くの木陰で待っているとだんだん人がやってきた。知り合いのカレン人も次々とやってきて、テーブルを広げたり、グリルに炭を投入して火をおこしたりしている。私はそのそばでぼんやりみていた。

するとカレンの若い人が私にウチワを渡してくれた。とても暑かったので私が思わず「ありがとう」というと、「なにを言ってるのかな」という顔つきで私をみて、それからグリルに目をやった。火をおこすためのウチワだったのだ。それから私はしばらくのあいだ、ウチワでグリルを扇ぎ続けた。ぼーっとつっ立っているよりはるかにマシだった。

そのうち、人々は肉やソーセージを焼き出した。この頃には私は自分のテーブルに移っていた。テーブルは15〜6ぐらい用意されていて、それぞれのテーブルに最低でも6人ぐらい座っていたから、100人というのは本当のようだ(子どももたくさんいた)。私はテーブルに座ると、あとはもうなにもせずひたすら肉やエビやソーセージを食べ続けた。ときどき、古い友人を見つけると会いに行って挨拶をした。

ある時から、私の席の向かいに、若いカレンの男が座っていた。背が高くていかにも健康そうだ。大きな声で話し、シャツのはだけた胸元からタトゥーが見えた(これはカレン人だけでなく、若いビルマ人がよくいれている)。

私は最初、彼のことを知らない人だと思っていたが、だんだん彼のことを思い出した。だが、確証がなかった。彼の手をこっそり見た。というのも、彼は手に特徴があるということを聞いていたから。だが、その手は焼かれたエビを掴んだり、お皿を他の人に渡したり、忙しく働いていて、よくわからなかった。

そこで思い切って私は名前を聞いてみた。彼は教えてくれたが、覚えのない名前だった。私はさらに尋ねた。

「前に会ったことありましたか?」

「私は会ったことがあると思います」 そこで私はもう間違いないと思って「M さんの息子さんでは?」と確認すると、若者はそうだと答えた。M さんはずいぶん前に亡くなったカレン人難民だ。入管に 3 年も収容されていて、私は何回か面会に行ったこともあった。

「そうですか!」と私はうれしくなった。M さんの葬儀のとき、当時未成年だった彼はビルマから日本にやってきて、そのまま難民として日本にいることになったのだった。思えばそのときから彼にほとんど会ったことがなかった。

「M さんとは友達でしたよ」と私がいうと彼は「お父さんに顔が似ているとみんなよく言います」と笑った。

この時になってはじめて、私が彼の手の特徴に気がついたのは、思えば不思議なことだ。彼は曲がった親指の持ち主だ。

散文

ブディジョー

タイのメーソートで、子どもの施設をやっている牧師が日本にやってきた。彼はビルマ出身のカレン人で、ビルマの少数民族の子どもたちのために働いているのだった。昨年の2月、タイからビルマの戦争地帯に行ったとき、私はその人にお世話になったので、食事に招待した。

お店は巣鴨にある焼き鳥屋で、これもカレンの人がやっているお店だ。このお店については別に書くが、とにかく繁盛している。私が待ち合わせの時間より早く行くと、店の主人が大きなウリをくれた。

ビルマ語でブディというのだが、日本語でなんというかわからない。見た目はくびれのない青いひょうたんのようでもある。その実は冬瓜に似ているが、もっと硬い。

主な食べ方は2つある。ひとつは鶏肉と炒めるというものだ。もうひとつは、スティック状に切って、天ぷらのような衣をつけて揚げる食べ方だ。こっちはビルマ語でブディジョーという。

天ぷらにする前に、水分を飛ばすために天日干しにするといいとのこと。私はブディジョーがおいしいのは知っていたが、とても食べ切れる大きさではない。もらったはいいがどうしようと考えているうちに、知っているビルマ人の学生にあげようと思いついた。

重いブディを持っていったら、喜んでくれた。その上、次の日にはブディジョーをお裾分けしてくれた。しかも、自家製の辛いツケダレまでついている。とてもおいしいので、私は調子に乗って食べすぎて、お腹が痛くなってしまった。

散文

古本とおしゃれ

かつて、私の楽しみといえば、古本屋巡りだった。昔は、どんな街にも小規模な古本屋があちこちにあって、そのひとつひとつを訪ねるだけで、楽しい時間が過ごせたものだった。しかし、時代は変わった。街の古本屋は次々と姿を消し、古本屋巡りなど一部の地域のみでしか成立しなくなってしまった。

古本屋の中を歩き回り、古本に触れると、遠い過去や異なる世界が間近になったような感じがしたものだ。古本なら希望のものはネットでいくらでも買える。だが、この感覚は古本屋の中でしか味わえない。思えば、古本屋巡りとは、高雅で、そして安価な娯楽だったのだ。

だが、その古本屋巡りができなくなって何年経つだろうか。私にはもはやこのような高尚な楽しみの機会はない、と諦めていた。だが、そんなとき、私はおしゃれに出会った。

今では、休みのたびに、私はおしゃれな街を歩き回っている。下北沢、吉祥寺、自由が丘……これらのおしゃれな街に散らばる古着屋をひとつひとつ訪ね歩くと、昔、古本屋巡りをしていたときと同じ感覚、同じ喜びが湧き上がる。

ああ、棚に置かれたあのディスプレイ用の洋古書のタイトルはなんだろうか……おや、開きっぱなしの古い洋書の上に、ネックレスや指輪が並べられているぞ。これはなんの本だろうか……

こんな調子では、当分のあいだ古着屋巡りをやめられそうにない。

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『中車藝話』

『中車藝話』(築地書店、昭和十八年刊)は、明治から昭和初めにかけて活躍した歌舞伎役者、七代目市川中車の自伝だ。いつどこで、そしてどうしてこの本を買ったのか、自分でも覚えていないのだが、とにかくいつも本棚にあるので、このあいだ読んでみた。

そしたら、奇妙な話ばかり出てくる。もしかしたら、私が知らないだけで、誰でも知っているような話なのかもしれないが、面白かったので、そのいくつかを思いつくままに列挙しておく。

・市川中車は幕末から子ども役者を務め、いわゆる「どさまわり」を経験した人だが、そのどさまわりのとき、墓場で死体に噛みつかれた。
・14〜5歳のころ、パトロンに連れられて遊郭にいく。すると、花魁が役者に惚れて困るのでウチは役者を客にしない、と遊郭の主人に断られる。面目を潰されたパトロンが後日、現代のドラマでは決して放送できないような手段で仕返しする。
・深い仲になった花魁と心中しようとして、かえって別の心中を助ける。
・盲目の役者が化狸に導かれたという。
・出かける前に神棚に魂を置いていく役者がいたそうだ。
・亡くなった前妻が心霊現象を引き起こす。

私は歌舞伎のことなどまったくわからないので、芸に関する話はほとんど理解していないと思う。だが、それでも普通の読み物として十分に楽しめた。

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タトゥイーン

今年の2月末から2週間ほど、チュニジアのチュニスに滞在したとき、ベルベル語の話者に会って、その言葉を教えてもらう機会を得た。

ベルベル語というのは、かつて地中海世界の南側(つまりエジプトや北アフリカ、サハラ)で広く話されていた言語で、現在もモロッコやアルジェリア、ニジェールやマリではかなりの話者がいる。しかし、チュニジアではアラブ化が進み、南部の一部の地域とジェルバ島にわずかに話者がいるのみだ。

教えてくれたのは、チュニス在住の60代の男性だ。ベルベル語にもいろいろあるが、この人のベルベル語は、南部のとある村の方言だ。とても親切な方で、私はずいぶん多くのことを学ぶことができた。そのうちのひとつが、「目」に関するものだ。

「目」は、この男性のベルベル語では ṯīṭ(スィート)という。複数形は ṯīṭāwīn(スィーターウィーン)だ。彼がいうには、この複数形が、チュニジア南部の有名な町 タターウィーン(taṭāwīn)の由来だそうだ。

チュニジアの他のベルベル語では ṯ は t になることが多いので、地名のタターウィーンがベルベル語の ṯīṭāwīn もしくは tīṭāwīn に関係しているというのはありそうな話だ。

さて、このタターウィーンは、世界的な有名な場所でもある。チュニジア南部はスターウォーズの撮影の地として知られるが、主要な舞台のひとつである惑星タトゥイーン(Tatooine)は、この地名からきている。

惑星タトゥイーンは砂漠ばかりの厳しい星だ。これは2つの太陽があるためで、とにかく暑さが苛烈なのだ。この惑星に移住してきた人類には、空に浮かぶ2つの太陽がまるで両の目のように見えた。そこから、目の複数形でこの星を呼ぶようになったと伝えられる。

散文

義太夫一日体験教室(語りコース)

午後の語りコースは、竹本越孝先生で、題材は『卅三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』の「木遣音頭の段」。「命の恩人平太郎と夫婦になった柳の精お柳の子別れを描く」というもので、私は知らなかったが、有名な場面らしい。

はじめに先生が、鶴澤駒治先生の三味線をつけて、語ってくださったが、さすがに迫力のある声だ。この段を、参加者全員で先生の真似をしながら少しずつ実際に語っていく。正座してお腹に力を入れ、声を正面に「ぶつける」要領ということで、みんな大きな声を出したが、お腹で出すというのが難しく、私は咳き込んでしまった。

語りは、詞(人物のセリフ)、地合(メロディ)、イロ(詞と地合の中間)からなり、その区別が重要だ。さらに、詞なら人物に合わせた口調もじっくり考えなくてはならない。また、地合の調子というか、伝統的なリズムも、今の音楽の感覚でやると、すぐに先生のお手本とずれてしまうので難しい。この義太夫のリズム感覚を身につけるのはそうとう大変そうだ。

私は浄瑠璃というとほとんど読むばかりだが、こうやって自分でやってみると、読むだけではわからないことがたくさんあることに気づかされ、面白いと思った。

あと、楽しかったのは、ときおり先生が、芸についての話をされたことで、鶴澤駒治先生が血を流しながら練習していたとか、八十を超えて体力的に衰えた師匠でも義太夫を語ると元気になって食欲が出てくるとか、義太夫でもなんでも日本の伝統音楽は正座でないと力が入らないとか、同じ正座でも語る方は姿勢を変えたりすることもあるが、三味線の方はずっと同じ姿勢なので大変だとか、こういう話は実際聞いていて飽きないが、これもよかった。

さて、体験コースの後は、5月から全8回の入門コースもあるということで、私もいちおう申し込んである。

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義太夫一日体験教室(三味線コース)

正座のことばかり書いて、肝心の内容についてはほとんど触れなかった。

義太夫一日体験教室は三味線コースと語りコース、各90分の2コマからなり、お昼を挟んで午前と午後に分かれる。参加者の定員は各コース12名程度で、私のように両方出る人もいる。性別・年齢もさまざまで、演劇関係の人もいるようだった。

三味線コースは、実際に正座をして三味線をもち、演奏を体験することができる。教えてくださるのは、鶴澤駒治先生で、そのほかに、二人のアシスタントがそれこそ手取り足取り教えてくれる。初めて三味線を持つ私は、バチの握り方もわからない。そういうのも、アシスタントの方が教えてくれる。また、先生が目の前で実際に演奏してくれるのもとてもよかった。

自分で弾いてみて三味線がそれなりに音を出してくれるのにも感動した。とはいえ、爪で押さえるべき弦を、私はギターのようについつい指の腹で抑えてしまい、なかなかいい音が出なかった。

練習したのは「ソナエ」という出だしのフレーズ、「三重」という語りの終わりなどに出てくるフレーズ、場面の変わり目に出てくる「ヲクリ(の一部)」で、初めは簡単そうだが、だんだんと難しくなってくる。最後の方は混乱したが、あくまでも「体験」なので私としては気分が味わえればいいという感じだ。(つづく)

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新男の正座

義太夫一日体験教室の会場に入ると、「三味線コース」用の三味線と座布団が並べられていた。座布団があるのは心強い。先に来ている参加者はみな正座をして待っているようだったが、私はできるだけ正座を始める時間を先延ばしにしたかったので、座布団の上であぐらをかいた。しかし、それでもしばらく座っていると、足が痛くなり、痺れてきた。正座以前の問題であった。はたして90分耐えられるのか、不安になってきた。

だが、結局のところ、私は耐えしのぐことができた。もちろん急に正座ができるようになったわけではない。ひとつには、講師の先生が、現代人の足事情を十分に斟酌した上で、こまめに足を伸ばす時間を与えてくれたことによる。そしてもうひとつは、他の参加者にとっても正座はやはり苦痛だったことが大きい。私ばかりではなかったのだ。

そして、他の人々のつらそうな声や足を伸ばしたときの安堵の声を力に私は、足の指を立てて尻を浮かせたり、少し足を崩したりして、できるだけ楽な姿勢をとることができたのであった。

午後は「語り」コースで、このときは、持ってきたクッションを使って、さらに楽な姿勢で過ごすことができた。だが、休憩で足を伸ばしたとき、私は思わず苦悶の声を上げた。左足の内腿がつってしまったのだ。

私はかなり慌てた。左側の内腿がつると、必ず右側の内腿がつる。そうなると、もう身動き取れなくなり、苦しみながらのたうち回ることになる。この場でそんな醜態は晒せない。

しかし、不思議なことに、左内腿の痙攣は伝播せず、しばらくすると落ち着き、再び正座ができるようになった。まさしくおみくじの「くるしみありたる後次第によろしきかたちなり」どおりの成り行きで、私は帰るときに感謝の印としてお賽銭でも入れようかと思ったが、忘れてしまった。(おわり)