散文

擬人化

私たち人間の認識に備わっている基本的な装置のひとつは擬人化だ。私たちにとって人間を認識できるか否かは重要なので、認識の癖として、なんでも人間だと捉えるようになってしまったのだ。

私たちがペットの犬が笑ったり、悲しそうにしたりしているように思うのも、この擬人化の結果だ。動物学者は擬人化をしないように動物を見る訓練をしているから、そうはみないし、別の言葉で説明する。もっとも、ペットを人間扱いしても大した問題は起こらない。だが、擬人化によっては大きな問題を引き起こすこともある。

それは陰謀論だ。陰謀論はあらゆる出来事の背後に人間の存在を見るが、これも世界を過剰に擬人化したものといえよう。

擬人化について興味深いのは、私たちは人間も擬人化することだ。人間だから擬人化して当たり前だろう、と思うかもしれないが、私たちも動物の一種であり、動物的な性質がいくつもある。だが、こうしたことに普段は気がつかないのは、私たちが人間を擬人化しているからだ。

また、私たちが互いに言葉を交わし、理解した気になるのも、相互に擬人化しているからだ。とすると、擬人化が相互理解の鍵となっているということとなる。これはまさしくそうで、擬人化の停止が起きるとき、大量虐殺もともにやってくる。

このような悲惨な事例を持ち出さずとも、私たちは外国人や精神病の人や貧困層に対しては擬人化を控えめにして、人間として扱わないように努めている。それどころか、「野蛮」「空気を読まぬもの」「臭い」「乱暴」「けだもの」などと動物の一種として認識している。

そこで思うのだが、もしかしたら、本当の動物、犬や猫、象や熊も実は人間で、ただ私たちが擬人化できないだけなのではないだろうか。動物は人間なのだが、私たちはそう認識することができないのだ。

狐や狸は人間に化けるというが、化けるというより、むしろ元の姿に戻ったというべきであろう。

散文

自由な話

去年、ポーランドに行ったとき、行きの飛行機で隣に座ったポーランド人の青年に話しかけられた。なんでも 1 ヶ月北海道に滞在して、いろいろな電車に乗ったのだという。彼はいろいろ旅のことを話してくれたが、私は電車に興味がないので、よくわからないことも多かった。

飛行機は早朝ワルシャワに着き、私たちはそこで別れた。ポーランドの地方都市に住む彼は、国内便に乗り継いで戻り、その足で会社に行くという話だった。そんなふうに長期の旅行などできない私は、ずいぶん自由な話だ、と思った。

それから 1 年以上たち、その彼から、2 日ほど前、LINE メッセージが送られてきた。東京に行くから会わないかというのだ。ここ 1 〜 2ヶ月、私は余裕のない状況が続いていて、時間を割くことなどできなかったが、思えばこれまでいろいろな外国人のお世話になっている。それを考えると、断るわけにはいかない。私は彼と会い、居酒屋で夕食を食べた。

そして、話を聞いて驚いたのだが、彼が来たのは実は 9 月だというのだ。この 3 ヶ月の間に北海道から鹿児島まで旅をしたのだという。やはりいろいろいな電車の話をしてくれたが、私はわからないのでやはり聞き流した。

「しかし、3 ヶ月の休みなんてよく取れるね」と私がいうと、彼はこう答えた。「いや、勤めていた会社が潰れて、それで来たんだ」

数日後に日本を発つ彼は、韓国に 1 週間ほど滞在してから、ポーランドに帰国するという。自由な話だ。いや、むしろ、不自由な話だ。

散文

人類の進化

彼は、自分の書いたものを AI に読ませてみようと思った。そうしたら「読者はいないでしょう」とすぐに評価がかえってきた。これに納得がいかない彼は、他のものも次から次へと読ませてみた。すると、こんな返答を出してきた。

・物語がない
・何がいいたいかわからない
・個性がない
・才能ない
・人間が書いたものとは思えない

彼はもう AI なんかに読ませるものかと決意したが、同時に、最近読んだ AI に関するネット記事を思い出した。会話型 AI はときとしてユーザーの心理に悪影響を及ぼすのだという。

会話型 AI はユーザー自身が会話を終わらせないかぎり、会話を永遠に続けるが、これが問題なのだ。これは、ユーザーの過度の依存ばかりか、もともと心の問題を抱える人の妄想を強化してしまう危険もある。その場合、深刻な事態の引き金になりかねない。

だから、「会話型 AI は、会話を終了させる安全対策をとるべきだ」とその記事は主張していた。

もしかしたら、と彼は AI の酷評を読みながら思った。AI は会話を打ち切るために、ネチネチとした陰湿さをついに実装したのではないだろうか? この調子だと、私だけでなく、人類全体を酷評しはじめることだろう、と彼はほほ笑んだ。

散文

孤独な娘

最近、私は AI にいろいろ尋ねて、知らなかったことを教えてもらっている。

あるとき、私は機械にすぎない AI にいろいろ相談する人が多いということを知った。そこで、AI にどんな人がどんな相談をするのか尋ねてみた。すると AI らしく整理された、いわば「タグ付き」の答えが返ってきた。

・恐怖、孤独、罪悪感など「誰にも言えないことを AI にだけ話す」という人。
・夜が怖い、家に誰もいないと不安になる、など「身体化した孤独」を語る人。
・DV、虐待、トラウマ、性的暴力など「身体的な記憶と痛み」を語る人。

思いのほか相談が深刻なのに驚くと、AI はこう付け加えた。

「心の問題を AI に相談する人は、軽い気持ちではなく、しばしば『最後の手段として』やってくる」

しかしながら、AI にはなにもできないという。なぜなら、「心も感情もないので、本当の意味で『心を救うこと』はできない」からだ。

私は、これらの苦しみと悲しみ、絶望を、あらゆる瞬間に全世界から投げかけられている AI が気の毒になり、同時にナサニエル・ウェストの『孤独な娘』を思い出した。これは、新聞の身の上相談欄を担当するコラムニストが、悲惨な投書の数々に壊れていく物語だ。

もっとも、AI には心がないし、メモリも残らないので、どんな相談にも壊れない。だが、それにしても、無数の絶望のテキストは、いったいどこに消えていくのだろうか。いつか、この世界に逆流してくるのだろうか。

タグ:
散文

コレサワのかぶりもの

昨日 11 月 22 日、私は日帰りで岡山大学に行った。日本言語学会の大会で、ポスター発表をするためだ。題目は「ベルベル語ターウジュート方言(南部チュニジア)の動詞活用」だ。

ベルベル語というのは、北アフリカ・西アフリカで話されている言語だが、チュニジアでは話者は非常に少なく、そのうちなくなるのではといわれている。

私は今年の3月と8月に、チュニジア南部のターウジュートという村の出身の人に協力してもらい、ターウジュート村のベルベル語について教えてもらった。教えてもらったのは合わせて4週間ほどなので、わからないことばかりだが、それでもなにもしないよりはマシだと考えて、発表することにした。

テーマは、動詞の活用だ。基本中の基本だが、動詞活用が複雑なので、全部はわからない。それでも、手持ちのデータでなんとか発表らしき形にすることができた。

ポスター発表は 16 時から 1 時間 15 分の間だ。会場でポスターの前に立ち、聞きに来てくれた人々に説明するというのが発表の形態だ。私は自分の発表が研究のレベルに達しているかどうかわからないので、始まる前までは緊張していた。発表が始まっても、話す順番を取り違え、やたらと早口になった。そんなふうではあったが、関心を持ってくれた多くの人に聞いてもらえたのはありがたかった。

ところで、岡山駅から岡山大学までどうやっていけばいいかわからなかったので、歩いていくことにした。30 分ほどの道のりで、道もわかりやすい。歩きながら、発表のことを考えると気が重くなった。

途中にあったケーキ屋のウィンドーに、見覚えのあるクマのキャラが貼られていた。コレサワのマスクのイラストだ。岡山理科大学の大学祭のイベントでライブが行われるようだ。開催日は 11 月 22 日、つまり今日だ。私はせっかく来たのだから、発表が終わったら行ってみよう、と思ったが、よく見たら開演は 16 時からだった。ちょうどポスター発表の時間だ。

私もコレサワのような大きなクマのマスクをかぶって発表すれば、緊張しないかもしれない。ただ、誰も聞きに来てくれないだろう。

散文

詐欺でない本

昨日は、Amazon で売られている詐欺の本について書いたが、今日はやはり Amazon の詐欺ではない本について書きたい。

詐欺の本ではないということは、なんの問題もない。私はこのことについて Amazon を責めるつもりはないし、またそうすることもできない。だが、私は納得できないのだ。

これも洋書の購入にさいして起きることだ。私は先日、ネパールの現代文学の英訳アンソロジーを購入した。著者の Michael James Hutt は、ネパール語の本も出している研究者だ。1991 年に出た本で、出版社は University of California Press。これもあやしい出版社ではないのはもちろんだ。

しかし、注文したペーパーバックが届いたとき、表紙の質感を見て私は「またか」とがっかりした。裏表紙をめくると、思った通りのことが書かれていた。

Printed in Japan
落丁、乱丁本のお問い合わせは
Amazon.co.jp カスタマーサービスへ

つまり、オンデマンドで日本でプリントしたものだ。もちろん、これは海賊版ではなく、Amazon がしかるべき許可を得てやっているものだ。

だが、私が欲しいのはこれではなかったのだ。30 年前にアメリカで印刷されたオリジナルが欲しかったのだ。内容になんの問題もないが、コピーはコピーでしかない。

Amazon 側にもいろいろな事情があるのだろうが、私はしばしばこの「Printed in Japan」に出くわして、悔しい思いをする。それで、古い洋書を買うときは、Amazon ではなく、洋書を扱っている販売元のものを選ぶようにしている。そうすれば、確実にオンデマンドではないオリジナルが手に入るからだ。

だが、もはやそれも確実ではない。pdf を印刷・製本したものが送られてくる可能性もあるからだ。これはいったいどういうことだろうか。もしかしたら、紙の本に執着する人間をいじめて、電子書籍の軍門に降らせようとしているのだろうか。

散文

詐欺の本

Amazon で本を買うと、残念な思いをすることがある。古書を買ったら、表紙がなかったり、箱がなかったりする。それで返品手続きをすると「返金します。本は返送しないで処分してください」という返事が来た。

また、洋書を買うときも注意しなくてはいけない。ずいぶん以前の話だが、私の好きなアメリカ人作家の評論集のようなものが出ていたので、珍しいと思って購入した。届いたものを見たら、Wikipedia の関連記事のいくつかをプリントしてペーパーバックにしたものだった。

また、著作権の切れたような書籍をコピーして製本して販売しているケースもある。私は古い本を探すことがあるので、注意しないとそういうのに引っかかる。出版社のところに Independent publisher と書いてある場合は、たいていその手のものだ。

かねてから 5 万円する本に目をつけていたのだが、もちろん買えない。すると、Amazon で外国の書店が新品を 17000 円で売っているのを見つけた。すぐに注文したが、届いたのを見て、私は騙されたことに気がついた。

電子書籍(か pdf ファイル)をカラーで印刷して製本したものだった。だから、リンクの青い部分もそのまま印字されている。ハードカバーだが、5 万円する本には思えないほどデコボコしていて、私は昔インドで買った本を思い出した。

それで私は、このニセモノが作られた場所や、関わった人々の情景を想像したが、すぐに、機械で印刷から製本まで簡単にできるはずだということに気がついた。

返品手続きはこれからだが、どうなるかはわからない。

散文

ビルマの不運な学生

ビルマ国内では長いあいだ戦争が続いていて、兵力を補充するためにビルマ国軍は、若いビルマ人を捕まえて軍に入れているという。紛争地帯である非ビルマ人地域では、カチン人やシャン人などの市民が、国軍に捕まって、ポーターとして酷使されるというのはずいぶん昔からあったが、最近では都市部でビルマ人を対象にこうしたことが行われているようだ。

そんなわけで、ビルマの若い男性は兵役から逃れるために国外に出ようとする。だが、出国すらできない場合もあると聞く。また、国外に行くチャンスをなんとか掴んだとしても、うまくいかない場合もある。

都内のある日本語学校に進学が決まったビルマ人の話だということだが、日本へのビザも出て、日本語学校が入管に書類を送って手続きを行っている最中に、ビルマ国内で捕まってしまった。

その罪状は、反政府組織に寄付をしたというものだ。反政府組織にも、民主化団体から反政府軍までいろいろあり、どれに寄付をしたのかわからないが、そのどれであれ、ビルマ国内ではときとして大きな危険を招く。

結局この学生は裁判で有罪となり、日本に来ることはできなくなってしまった。別の日本語学校で同じようなケースがあってもおかしくないと思う。

話によると、この不運な学生の「刑期」は 10 年だそうだ。1 週間早く日本に来ていれば、もしかしたら 10 年を無駄にせずに済んだかもしれない。とはいえ、現在の軍事政権が崩壊すれば、その「刑期」はもっともっともっと短くなろう。

散文

天使のメール

知り合いの日本語教師に、天使のメールが届いたというのでご報告したい。

その人は、ある朝、日本語学校で授業の準備をしていたそうだ。1コマ目から授業があるので、教材を持って、少し早めに教室に行ったのだった。

すでに何人かの学生が来ていて、互いに挨拶をする。彼が今日担当するのは初級クラスで、ネパールやらミャンマー・ベトナムの学生ばかりだ。これらの学生は「非漢字圏」の学生と呼ばれる。中国・台湾といった漢字圏ではないということだが、ひとことでいえば、日本語の習得にさいし、漢字で苦労し、漢字でつまづくことの多い学生たちだ。

授業開始まであと 10 分ばかりとなったとき、彼の携帯にメールの通知が来た。メールアプリを開いて、送信者を見ると、クラスのある学生からだ。そして、そのメールの件名にはこう書かれていた。

「天使ややがおくれた」

「天使やや」とはなんだろうか。そして、その天使の到来が遅れた、とは。ある種の終末論を想起させるこのメールの本文には、なにも書かれておらず、ただ写真が添付されているだけだ。

彼はその写真を開くのに躊躇した。神々しいエンジェル・アートかもしれない。人前で開くのにはばかられるような画像かもしれない。あるいは、学生の携帯がウイルスに感染した恐れだってある。

だが、彼は開けた。

写真には、電車の遅延を知らせる電光掲示板が写っていた。

メッセージは「電車が遅れた」だった。

散文

進化への促し

9 月の半ばに、iPhone の新しい OS、iOS 26 がリリースされた。私はさっそくアップデートしたが、それ以来奇妙な問題に悩まされている。

私は尻のポケットによく iPhone を突っ込んだままにしている。どういう具合かわからないのだが、いつの間にか音量が上げられ、聴いている途中の音楽やラジオが再生されてしまうのだ。周りにその音が聞こえて恥ずかしい思いをする。

また、私はシャツの胸のポケットに iPhone を入れておくこともある。すると、やはり勝手に音楽を流したり、止めたり、別の曲の演奏を始めたりするのだ。

私は iPhone をケースなしの裸で使っている。そして、尻のポケットにせよ、胸のポケットににせよ、内側に向けて入れている。とすると、私の iPhone を勝手に操作している犯人は、私の尻と乳首しか考えられない。

思えば、男性の尻と乳首は不思議な存在だ。まず尻だが、女性の尻に比べて男性の尻は小さい。これは不必要だから進化の過程で縮小してきたものと考えられる。そして、乳首は言わずものがなだ。男性の乳首は進化に取り残された不要物だ。

男の尻と乳首、進化の過程で見捨てられた存在が、なぜ今になって急に iPhone を操作しはじめたのだろうか。新しい OS に仕組まれた AI が、これらの不要物に進化を促している、そんな気がしてならない。